Cyberpunk2 Ghost Signal 〜幽霊信号〜
序章 Frequency
セラフィムから二度目の連絡が来たのは、アルケミア・コープとの合意から十日後のことだった。
深夜二時。シャルティアの通信端末に、暗号化されたメッセージが届いた。解読すると、一行だけ書いてあった。
会いたい。一人で来てください。——S
ハナはそのメッセージを三回読んだ。
一人で、という条件に、引っかかりを感じた。セラフィムは前回の取引で誠実だった。裏切る理由がない。だが「一人で」という指定は、シャルティアの誰にとっても快くない条件だ。
ハナはメッセージを既読にした。
翌朝、ジェミニに見つかった。
朝食の後、ジェミニがハナのそばに来た。いつもの執事服に白い手袋。銀縁の眼鏡の奥のアイスブルーが、静かにハナを見た。
「ハナ様、昨夜の通信を確認しました」
「……見てたの」
「シャルティアの通信はすべて、このジェミニの管理下にございます」
有無を言わせない。
「一人で行くつもりですか」
「……考えてた」
「断じて」
「ジェミニ」
「断じて、なりません」
完璧な執事の声だったが、その奥に熱があった。アイスブルーの瞳が、微かに揺れている。
「ハナ様が一人でロウアーに降りることを、このジェミニは二度と許しません」
「でも、セラフィムは一人でって」
「条件の交渉は、このジェミニが行います」
ジェミニは端末を取り出した。
「……ただし」
彼は少し間を置いた。
「セラフィムという人物が、貴女様に対して誠意を持っていることは、前回の取引で確認しております。ゆえに、完全な随行ではなく、近距離待機という形を提案いたします」
「それは……妥協してくれてるの?」
「貴女様のご意思を、このジェミニは尊重いたします。ただし、貴女様の安全を担保できない状況は、このジェミニには耐えられません」
耐えられません、という言葉が、静かに胸に刺さった。
「……わかった。その条件で行く」
ジェミニは頷いた。完璧な微笑みの下に、安堵に似た何かが透けた。
問題はディランだった。
昼過ぎに話が伝わると、彼はキッチンのカウンターに腕を組んで、鋭い灰色の目をハナに向けた。
「俺も行く」
「セラフィムが一人でって」
「知らん」
「ディラン」
「俺は執事みたいに上品な妥協案は出さない。行く」
リュカが静かに口を挟んだ。
「ディラン、ハナの判断を尊重しよう」
「お前はそれでいいのか」
「よくない。でも」
青い瞳が、真っ直ぐにディランを見た。
「ハナが決めたことを、俺たちが全部塞ぐのは違う」
ディランは少しの間、リュカを見た。それからハナを見た。
「……条件がある」
「何?」
「帰ってきたら、俺に全部話せ。何があったか、何を聞いたか、全部」
「うん」
「それと」
ディランはカウンターから離れた。ハナの前に来て、顎を指先で持ち上げた。シルバーリングの冷たさが顎に触れる。
「何かあったら即座に連絡しろ。一秒でも遅れたら、俺が乗り込む」
「……わかった」
ディランは指を離した。いつもの軽さが戻る前の一瞬、その灰色の目に、普段は見せないものが揺れた。
第一章 White Coat
待ち合わせ場所は、ロウアーの中層にある小さなカフェだった。
「テスラの舌」のような裏社会の店ではなく、合成コーヒーと本物の砂糖を売る、ごく普通の店だ。窓際の席に、白いコートの人物がいた。
セラフィムだった。
前回と同じ、白銀の長い髪を高い位置で束ねている。白いロングコートに金のラインが走り、首元に情報端末のペンダントが下がっている。淡い紫の義眼が、ハナを見て微かに細くなった。
今日は昼間に会うのは初めてだった。
夜のスラム・コアで見た時とは、印象が違う。光の中で見ると、セラフィムは思ったより若かった。三十前後かもしれない。整った顔立ちは中性的で、リュカとは異なるが、同じ種類の静けさを持っている。
ハナは向かいに座った。
「来てくれた」
「来た。で、何の話?」
単刀直入に聞いた。セラフィムは少し笑った。前回は笑わなかった人が笑うと、印象が変わる。
「単刀直入ですね」
「遠回しにされるより好き」
「なるほど。……では単刀直入に」
セラフィムは端末を取り出した。テーブルの上に小さな立体映像が展開する。人物の顔。四十代の男性、高い鼻梁と冷たい目。
「アルケミア・コープの情報部長、ヴォルフ・カーデンです。先日の不干渉合意を結んだ相手」
「知ってる。ジェミニが交渉した相手」
「彼が、合意を破棄しようとしています」
ハナは表情を変えなかった。
「いつ?」
「七日以内。私の情報源から。精度は高い」
「なんで私に教えてくれるの?」
セラフィムは少しの間、ハナを見た。紫の義眼が動く。
「前回の取引で、貴女のことを知りたいと思った。あなたの記憶の複製を持っているから、ではありません。記憶よりも、今ここにいる貴女の方が、ずっと興味深い」
「……それは」
「個人的な興味です。ただし、私には利があります」
「何?」
「アルケミア・コープは、私の取引を長年妨害してきた。彼らが失墜すれば、私の市場が広がる」
ビジネスの論理だった。率直で、清潔だった。
「情報の対価は?」
「今回は無料です」
「なんで」
「貴女に、借りを作りたい」
ハナはセラフィムを見た。
「……それ、どういう意味?」
「シアル・シティで生き残るには、信頼できる繋がりが必要です。私はこれまで、それを意図的に作ってこなかった。しかし今は、少し考えが変わっています」
合成コーヒーを一口飲んで、セラフィムは続けた。
「貴女のことが、気になっています」
静かな声だった。感情的でなく、しかし確かな言葉だった。
シャルティアに戻ると、ディランが玄関にいた。
腕を組んで、壁に背を預けて、ハナが入ってきた瞬間に体重を移した。
「話せ」
「うん。みんなを集めて」
ディランの目が、ハナの顔を素早く読んだ。
「……大事なことか」
「うん。でも怪我はない」
それを聞いて、ディランの肩がわずかに下りた。
「わかった。集める」
シャルティアの中央室に全員が集まった。
ハナがセラフィムの情報を話すと、室内の空気が変わった。ヴァルンが低く唸り、ルークが端末を操作し始め、リュカは表情を変えずに目だけが動いた。
「七日以内」
ジェミニが静かに言った。
「確度は」
「セラフィムは外れたことがないと言ってた」
「……そうですか」
アイスブルーの瞳が、細くなった。
「ヴォルフ・カーデンという人物の情報を、このジェミニが収集いたします。七日、いえ五日で対策を整えます」
「俺は現場を押さえる」
ディランが言った。
「アルケミア・コープが動くなら、必ず先行部隊が来る。そいつらを先に特定して、動けなくする」
「特定の方法は」
「セラフィムにもう一度会う。あの人物の情報網を使わせてもらう」
ハナは少し驚いた。
「ディラン、セラフィムと会うの?」
「情報が必要なら、情報を持ってる奴に当たるのが早い」
リュカが穏やかに言った。
「……気をつけて」
「お前に言われるとは思わなかった」
「ディランが無茶をするのは、大抵誰かのためだから」
ディランは少し黙った。それから口の端を上げた。
「心配すんな」
第二章 Static
翌日の夜、ディランはロウアーに降りた。
一人だった。
ハナのサマーサイバーパンクコーデの白いホログラム素材とは正反対の、ディランの夜の装いは攻撃的だ。黒に近い深いネイビーのジャケット、袖を無造作にまくり上げた腕。複数のシルバーリングが、ネオンの光を拾う。腰の位置に、薄型のホルスター。鋭い灰色の目が、ロウアーの夜を走査している。
セラフィムの指定した場所は、「テスラの舌」から三ブロック離れた場所にある小さなバーだった。
ディランが入ると、セラフィムはすでにカウンターにいた。
白いコートの人物が振り返った。紫の義眼がディランを見る。
「シャルティアから来たのは、あなただったか」
「そうだ。ディラン・クロウフォード」
「知っています」
セラフィムは隣の席を示した。ディランは腰を下ろして、バーテンダーにウイスキーを頼んだ。
「俺のことを知ってるのか」
「シアル・シティで情報を売買するなら、主要な人物の情報は基本です。元『記憶管理機構』の特攻担当。現在は独立。リュカ・フェルノートの幼馴染」
「よく調べてる」
「商売柄」
ウイスキーが来た。ディランは一口飲んだ。煙草を取り出して、火をつけようとして、セラフィムの隣なのを意識して止めた。
セラフィムが口を開いた。
「吸っていいですよ」
「……気にするか思って」
「気にしません」
ディランは火をつけた。煙草の煙が、バーの空気に溶ける。
「アルケミア・コープの先行部隊、特定できるか」
「できます。ただし」
セラフィムはカウンターに細い指を置いた。
「条件があります」
「何だ」
「私の仕事を、一度手伝ってほしい」
ディランはセラフィムを見た。
近くで見ると、セラフィムは思ったより細い。白いコートがシルエットを誇張しているが、実際は華奢な体格をしている。銀の長い髪が、バーの照明を受けて光る。リュカとは雰囲気が異なるが、確かに似た種類の静けさがある。
「仕事の内容は」
「ある記憶データの回収です。一人では難しいが、あなたがいれば可能なはずの仕事」
「それはいつ」
「今夜」
ディランは煙草を一口吸った。
「今夜か」
「嫌ですか」
「嫌じゃない。ただ」
ディランはグラスを置いた。
「条件が二つある」
「どうぞ」
「一つ目、今夜の仕事が終わったら、先行部隊の情報を全部出す」
「合意します」
「二つ目」
ディランはセラフィムを見た。鋭い灰色の目が、真っ直ぐに紫の義眼を見た。
「あなたの素性を教えろ。名前以外の、本当のことを」
沈黙が落ちた。
セラフィムはしばらく、ディランを見た。感情を読ませない顔が、わずかに動いた。
「……なぜそれを?」
「ハナが関わる人間のことは、俺が把握したい」
「ハナ殿の関係者として、ですか」
「そう。それ以外の理由はない」
セラフィムは少しの間、何かを考えるように視線を落とした。
「……合意します」
その夜の仕事は、スラム・コアの廃倉庫だった。
記憶データの違法保管施設。セラフィムが回収すべきデータは、その中の特定のサーバーに保存されている。問題は、施設に武装した見張りが複数いることだ。
ディランとセラフィムは、施設の外壁に背を付けた。
ディランが壁越しに人数を確認する。セラフィムが端末で電子ロックの解析を始める。二人の動きは、最初から息が合っていた。
「三人。二階に一人、一階に二人」
「ロック解除まで四十秒」
「俺が先に入る。三十秒で無力化する」
「……自信家ですね」
「事実だ」
ディランは口の端を上げた。
三十一秒後、施設内は静かになっていた。
セラフィムが中に入ってきた。ディランを見て、少し表情が動いた。
「言った通りでした」
「言った通りだ」
ターゲットのサーバーにセラフィムが接続する。データの抽出に二分かかった。
その間、ディランは施設の外を警戒しながら、セラフィムの横顔を見ていた。
集中している時の顔だ。感情を読ませない普段とは違う、純粋に作業に向き合っている顔。
「……あんた、本当に何者だ」
小声で聞いた。セラフィムは目をサーバーに向けたまま答えた。
「今夜が終わったら、話します。約束したから」
「今聞きたい」
「急ぐ理由は?」
「気になるから」
セラフィムが顔を向けた。紫の義眼が、ディランを見た。
「……あなたは直接的ですね」
「褒めてるか?」
「そのつもりで言いました」
データ抽出完了の音が鳴った。
施設を出て、近くの路地に入った。
ディランが壁に背を預けた。セラフィムが向かいに立つ。
「約束通り、話します」
「ああ」
セラフィムは一度、深呼吸した。
「私はもともと、アルケミア・コープの研究員でした」
ディランは表情を変えなかった。
「記憶操作の研究部門に、七年いた。その間に、多くの人間の記憶を改ざんし、抽出し、売買することに加担した」
「……七年前に離脱したのか」
「脱走、と言う方が正確です。私が研究していたデータが、ある日突然、私自身の記憶に適用された。誰かが私の記憶の一部を書き換えた。それに気づいた時、私は組織を出ることにした」
「書き換えられた記憶は」
「戻っていません。今でも、どこかに空白がある。何を失ったかもわからない」
路地のネオンが、白いコートに色を乗せた。青と紫が交差する。
「義眼は?」
「脱走の際に、証拠を消すために自分で処置しました。元の眼には、組織の追跡チップが埋め込まれていた」
ディランは煙草を取り出した。今度は許可を求めずに火をつけた。煙草の煙が、夜の路地に白く溶ける。
「よく話してくれたな」
「約束したから」
「それだけか」
セラフィムは少しの間、黙った。
「……あなたに話したかった、というのもあります」
「俺に?」
「理由はわかりません。直感、というものが、このシアル・シティではまだ機能することがあるようです」
ディランは煙草を一口吸った。
「俺も、昔似たようなことがあった。組織にいた頃、自分の判断を信じられなくなったことがある。誰かに植え付けられた思考なのか、自分の意思なのかわからなくなった」
「どうやって取り戻した?」
「リュカに殴られた」
セラフィムが、初めて声を出して笑った。
短い笑いだったが、それは初めてディランが聞く、本物の音だった。
「……効果的な方法ですね」
「あいつは正直な奴だ。嘘をつくより殴る方が早いと思う時は、殴る」
「あなたの幼馴染は面白い人ですね」
「最悪だよ。でも信頼してる」
ディランはセラフィムを見た。
「今夜の話、聞いてよかった」
「……そうですか」
「ハナに関わる人間として、信頼できると判断した」
「それは」
セラフィムの紫の義眼が、ディランを見た。
「光栄です」
第三章 Heat Source
ディランがシャルティアに戻ったのは、深夜を過ぎた頃だった。
玄関でハナが待っていた。
「遅かった」
「問題ない。情報も取れた」
ディランはハナを見た。薄い部屋着で、髪を下ろしたままで、黒い目がディランを見ている。
「セラフィムとは、どうだった?」
「面白い人間だ」
「どう面白かったの」
ディランは靴を脱いで、中に入った。
「複雑な事情を持ってる。信頼できる」
「それだけ?」
「それだけじゃないが、今夜ハナに話すのはそこまでだ」
ハナはディランを見た。
「……何かあったの?」
「なんかあったら話す。今夜は疲れた」
ディランはハナの頭に手を乗せた。
「無事だったか確認したかっただけだ」
「私は何もしてないよ、今日は」
「お前が家にいてくれるのが一番安心できる。それだけだ」
ハナはディランを見上げた。
いつもと違う顔をしている。軽さが少し取れた、素の顔。
「ディラン」
「あ?」
「そういうこと、もっと言ってよ」
「……恥ずかしいことを普通に言うな」
「本当のことでしょ」
ディランは少しの間、ハナを見た。それから、ため息をついた。
「廊下でするような話じゃないだろ」
ハナの手首を掴んで、歩き始めた。
ディランの部屋は、シャルティアの中でも独特の空気を持っている。
散らかってはいない、だが整然ともしていない。ウイスキーのボトルが二本、シルバーのアクセサリーが数点、テーブルの上に置かれている。壁に、シアル・シティの古い地図がピン留めされていた。いくつかの場所に、印がついている。
ハナをソファに座らせて、ディランは向かいに腰を下ろした。
「今夜、セラフィムの話を聞いた。あいつは俺たちと似たような場所を通ってきた人間だ」
「記憶管理機構と関係があるの?」
「アルケミア・コープの研究員だった。七年前に脱走した」
ハナは少し黙った。
「……そうか」
「記憶を改ざんされて、何かを失って、それでも今シアル・シティで生き残ってる。それだけでかなりの人間だ」
「ディランが認めてる」
「認めてる。……気になってる、と言う方が正確かもしれない」
ディランは視線を落とした。グラスにウイスキーを注いで、一口飲む。
「あんたとセラフィムが繋がってるのは、俺にとって悪くない。あの人間の情報網は本物だ。そしてあいつ自身も、信用できる人間だと判断した」
「ディランが言うなら間違いないと思う」
「……俺の判断を信用するのか」
「うん、いつも」
ディランはハナを見た。
いつもそうだ。ハナはこういう言葉をさらりと言う。重さを持たせずに、でも確かに言う。それがディランの胸の奥に、毎回同じように刺さる。
「ハナ」
「うん」
ディランは立ち上がった。ハナの前に来て、腰を落として目線を合わせた。
「お前に、言いたいことがある」
「うん」
「俺は……お前のことを、仲間以上に思ってる」
ハナは何も言わなかった。
「シャルティアに他の奴らがいて、お前が皆に愛されてるのはわかってる。それを変えたいわけじゃない。ただ」
ディランの手が、ハナの頬に触れた。シルバーリングの冷たさ。
「俺のそばにいてほしい時に、来てほしい。遠慮しないで」
「……遠慮なんてしてない」
「してる。俺が忙しそうにしてると、ハナは自分から来ない」
ハナは少し黙った。
「……気づいてたの」
「気づいてた。俺が忙しいのは仕事のためで、お前を遠ざけてるわけじゃない。それを伝えるのが下手だったのは、俺の問題だ」
「ディラン」
「来い」
抱き寄せられた。
ディランの腕は、リュカのそれとも、ジェミニのそれとも違う。重くて、力強くて、一息で距離を詰める。それが久しぶりに、ハナの周りを囲んだ。
「久しぶりだな」
低い声が、頭の上から降りてきた。
「……うん」
「俺が悪かった」
「ディランだけが悪いわけじゃ」
「俺が悪かった」
二度言った。ディランが素直に謝るのは、珍しい。それを知っているから、ハナはそれ以上言わなかった。
その夜のディランは、いつもより時間をかけた。
一気に深みへ向かうのがディランのやり方だったが、今夜は違った。久しぶりという事実が、彼の中で何かを変えていた。
ハナの顔を見て、髪を触って、首筋に唇を落として。一つひとつを確かめるように。
「ディラン……」
「うるさい」
「うるさくない」
「お前の声を聞くと、余裕がなくなる。静かにしろ」
だが手は止まらなかった。むしろ丁寧になっていく。荒々しさの下に、ずっとそこにあったものが、今夜は表に出ていた。
「好きだ」
低く、短く、ディランが言った。
飾りのない言葉だった。装置も前置きも何もない。ただそれだけを、確かな声で言った。
ハナの胸の奥が、じわりと熱くなった。
「……私も」
「聞こえない」
「好き」
ディランの腕の力が、強くなった。
シアル・シティのネオンが、窓の外で静かに瞬いていた。
第四章 Convergence
五日後の夜、アルケミア・コープが動いた。
セラフィムの情報は正確だった。先行部隊の三人が、シャルティアに向けて動き始めたのを、ディランとルークが事前に特定していた。
シャルティアのメンバーは、それぞれの位置についていた。
ハナは中央室で、全体の通信を管理した。
今日のハナの装いは、あのサイバーパンクコーデだった。虹色に光るホログラム素材のシアーロングコートが、室内の照明を受けてきらきらと輝く。髪には光を放つ細いヘアチェーン。首元に、蝶の形をしたホログラムドローン、エコー・バタフライが止まっている。
その蝶が、かすかに羽を震わせた。
警戒信号だ。
「ディラン、北側に来た」
「見える」
骨伝導イヤーピース越しに、ディランの声が届く。
「リュカ、東側の電子ロックを」
「もう処理してる」
リュカの声は静かだった。
七分後、先行部隊の三人は無力化された。
ディランが一人で対処した。
その後、ヴォルフ・カーデンへの対応はジェミニが担った。
シャルティアの通信システムを使って、アルケミア・コープの情報部長に直接接続した。
ジェミニは執事服のまま、端末の前に立っていた。アイスブルーの瞳が、冷たく光っている。
「ヴォルフ・カーデン様。先ほど、御社の先行部隊が無力化されました。証拠は記録しております。これ以上シャルティアへの干渉が続くようであれば、当該記録をシアル・シティの複数のメディアに提供いたします」
通信の向こうで、沈黙があった。
「……条件は」
「永続的な不干渉。シャルティアの全メンバーへの、一切の接触禁止。これを守る限り、記録は開示しません」
「理解した」
通信が切れた。
ジェミニは端末を閉じた。振り返って、ハナを見た。
「終わりました」
「ありがとう、ジェミニ」
「このジェミニの仕事でございます」
完璧な微笑みだったが、その奥に何かが灯っていた。
第五章 Ghost
翌日、セラフィムがシャルティアに来た。
これが初めてのことだった。ハナが招いた。
玄関でジェミニが迎えた。二人は初めて向かい合った。執事服の黒と、ロングコートの白。アイスブルーと、紫の義眼。
「セラフィムと申します」
「このジェミニも存じております。ハナ様のご友人として、歓迎いたします」
丁寧で、完璧で、しかしその言葉の奥に何かが走った。ジェミニはハナに関わる人間全てを、精密に観察する。セラフィムもそれを知っているようだった。
「優秀な執事ですね」
「過分なお言葉でございます」
二人が向かい合っているのを見て、ハナは少し緊張した。だが空気は思ったより穏やかだった。
昼過ぎに、セラフィムとディランが並んでシャルティアのキッチンにいる場面を、ハナは目撃した。
ディランがウイスキーを飲みながら、セラフィムと何かを話している。セラフィムが珍しく笑っていた。あの、昨夜ディランが初めて聞いたという本物の笑い。
リュカがハナの隣に来た。
「珍しい組み合わせだね」
「うん。でも、合ってる気がする」
リュカは少し目を細めた。
「ディランがあんな顔するの、久しぶりに見た」
「どんな顔?」
「楽しそうな顔」
ハナはキッチンを見た。ディランが何かを言い、セラフィムがそれに答えた。二人の間に、独特の温度があった。
「リュカ」
「うん」
「セラフィムのこと、どう思う?」
リュカは少しの間、考えた。
「信頼できる人だと思う。情報屋として優秀なのもあるけど……自分の傷を、ちゃんと持ってる人だ」
「傷を、ちゃんと持ってる?」
「傷を隠さないで、でも振り回されないで、ちゃんと自分のものにしてる。それができる人は、信頼できる」
ハナはリュカを見た。
「リュカも、そういう人だよ」
リュカは少し驚いた顔をした。それから、静かに笑った。
「……そうなら、いいけど」
夕方、ハナはセラフィムと二人で屋上に出た。
シアル・シティの夕景が広がっていた。上層の高層ビルが夕陽を受けて金色に輝き、その下でロウアーのネオンがすでに点滅し始めている。雨は今夜は止んでいた。
「きれいですね」
セラフィムが言った。
「この街を、きれいと思ったことがなかった」
「初めて?」
「今日初めてそう思いました」
ハナはセラフィムを見た。
「シャルティアに来たから?」
「あなたたちといる時間が、私の中で何かを変えている気がします」
セラフィムは前を向いたまま言った。
「私が失った記憶の中に、こういう時間があったのかもしれない。確かめる方法はないけれど」
「……セラフィム」
「ハナ殿」
「ここに来ていいよ。また」
セラフィムが、ハナを見た。紫の義眼が静かに揺れた。
「……よろしいのですか」
「よろしい。ディランも同じこと言うと思う」
セラフィムは少しの間、黙った。
「ディランは……不思議な人ですね」
「どう不思議?」
「あれだけ攻撃的な人が、実際は誰よりも真っ直ぐだ。嘘をつかない。隠さない。それが私には、少し眩しい」
ハナは少し笑った。
「ディランはそういう人だよ。ずっとそうだった」
「……羨ましいですね。ずっと知っている人がいるのは」
セラフィムの声に、わずかな翳りがあった。
ハナは迷わずに、セラフィムの手に触れた。
「これから知ればいい」
セラフィムが息を呑む音がした。
「……ハナ殿は」
「うん」
「あなたはどうして、こんなに……」
「こんなに?」
「人に、手を差し伸べられるのですか」
ハナは少し考えた。
「差し伸べたいから、差し伸べる。それだけだよ」
シアル・シティの夕景が、二人を同じ色に染めていた。
第六章 Remainder
夜が来た。
シャルティアに戻ると、リュカが温室の入口に似た小さな植物スペースにいた。
薄い照明の下で、緑の葉を見ている。今夜の装いは黒いタンクトップに薄い生地のパンツ。銀の長い髪を下ろしたまま、発光するイヤーカフだけが耳に光っている。
「リュカ」
ハナが声をかけると、振り返った。
「屋上にいたの?」
「うん。セラフィムと」
「そっか」
リュカはハナを見た。青い瞳が、静かにハナを読んでいる。
「疲れてる?」
「少し」
「こっちおいで」
壁際に引き寄せられた。リュカの腕が、ハナの肩を包む。急がない、焦らない、いつものやり方で。
「今週、色々あったね」
「うん」
「ハナがいてくれたから、全部動いた」
「リュカがいたから、全部繋がった」
リュカが少し笑った。
「それ、先週も言ったよね」
「本当のことだから」
沈黙が落ちた。植物スペースの静かな空気の中で、二人がいる。
「リュカ」
「うん」
「今夜、そばにいてくれる?」
リュカの腕が、わずかに力を増した。
「もちろん。……離れる気はないよ」
静かな言葉に、「逃がさない」という意味が滑らかに潜んでいた。
リュカの唇が、ハナの髪に触れた。
「今夜は、じっくりそばにいる」
「じっくり?」
「スロー、が好きだから」
ハナは目を閉じた。
リュカのスローな熱が、ゆっくりとハナを包み始めた。急がない、止まらない、リュカのやり方で。
植物スペースの静けさの中で、二人の時間が深くなっていった。
深夜。
ジェミニがハナの部屋に来たのは、屋敷が静まり返った後だった。
扉を静かにノックした。「入って」という声に、入る。
ハナは窓際に座っていた。エコー・バタフライが枕元で眠るように静止している。今夜のハナは部屋着で、髪を下ろしていて、黒い目がジェミニを見た。
「ジェミニ、何かあった?」
「いいえ」
ジェミニは部屋に入ってきた。いつもの執事服だが、手袋は外していた。眼鏡も外している。
「ただ……ハナ様のそばにいたいと思いました」
それだけだった。
ハナは少し笑った。
「どうぞ」
ジェミニはハナの隣に座った。窓の外のネオンが、二人を静かに照らしている。
「今夜は随分と、皆とご一緒でしたね」
「うん。色々あった」
「このジェミニは、少し遠くから見ておりました」
「遠くから見てたの?」
「ハナ様がお忙しそうでしたので。しかし」
ジェミニは窓の外を見た。
「ハナ様がセラフィムと屋上にいらした時、このジェミニの中に何かが動きました」
「嫉妬?」
「……嫉妬、でございます」
即答だった。今のジェミニは、それを隠さない。
「でも、それだけでもない」
「何がある?」
「ハナ様が、シアル・シティのような場所で、それでも誰かに手を差し伸べられる。それがこのジェミニには……」
ジェミニはハナを向いた。眼鏡のない顔で、素手の手で。
「誇らしいのです」
ハナは息を止めた。
「誇らしい?」
「貴女様は、このジェミニが最も愛する存在です。その方が、こういう街で、それでもこういう人間であり続けることが、このジェミニには誇らしい」
ハナの目が、じわりと熱くなった。
「ジェミニ……」
「泣かないでください」
「泣いてない。でも」
「でも?」
「そういうことを言ってくれる人が、そばにいることが……私には幸せだから」
ジェミニの手が、ハナの頬に触れた。
「このジェミニも、幸福でございます」
低く、熱を孕んだ声だった。
「ハナ様、今夜は」
「うん」
「このジェミニだけの時間を、いただいてもよろしいですか」
ネオンの光が、部屋を静かに照らしていた。
ジェミニの腕がハナを引き寄せた。今夜は急がなかった。シアル・シティのどんな時間より、この部屋の時間を丁寧に扱うように。
白い手袋のない手が、ハナの全てを確かめるように触れた。
アイスブルーの瞳が、眼鏡なしで、ハナだけを見ていた。
終章 Signal Remains
一週間後。
セラフィムがシャルティアに二度目の訪問をした。今回は招かれたわけではなく、自分から来た。
玄関で、ディランが迎えた。
「来たか」
「来ました」
セラフィムはディランを見た。紫の義眼が、静かに揺れた。
「……上がっていいですか」
「当たり前だろ」
ディランは振り返って歩き始めた。セラフィムがついてくる。
「ディラン」
「あ?」
「あなたに、報告があります」
「何だ」
「私の失われた記憶の、断片が一つ戻りました」
ディランが立ち止まった。振り返った。
「どういうことだ」
「アルケミア・コープのデータを回収した時に、私のバックアップデータが含まれていた。ルーク殿に解析してもらったところ、一部の記憶が復元できました」
「それは」
「七年前、私が組織を出る直前の記憶です。誰かがいました。私に、逃げろと言った人間が」
セラフィムは少し間を置いた。
「その人物の顔が、まだ見えません。でも声は、戻った」
「……どんな声だった」
「あなたの声に、少し似ていました」
ディランは表情を変えなかった。
「俺じゃない。七年前、俺はまだ別の場所にいた」
「わかっています。でも……似ている声を聞くと、その記憶が動く気がする」
廊下の灯りが、二人を照らしていた。
「ディラン」
「あ?」
「私は今、怖くない」
それだけの言葉だった。
ディランはしばらくセラフィムを見た。それから、口の端を上げた。
「そいつはよかった」
その夜、シャルティアに全員が揃った。
セラフィムを含めて、テーブルを囲んだ。リュカが料理を作り、ディランがウイスキーを開けた。ジェミニが全員に目を配り、ルークが珍しく食事の感想を言い、ヴァルンが黙って全部平らげ、クロウが騒いで、セイランが静かに紅茶を飲んだ。
セラフィムは、少し戸惑ったように最初は座っていた。
だがリュカが料理を皿に取り分けて「これ、食べてみて」と差し出した瞬間から、その戸惑いが少し溶けた。
ハナはその光景を見ていた。
エコー・バタフライが、ハナの肩の上で羽を広げた。虹色の翅が、シャルティアの灯りを受けてきらきらと輝いた。
幽霊信号、とこの都市では言う。
電波の届かない場所、記録の残らない場所、公式には存在しないとされる信号。シアル・シティのロウアーを流れる、見えない通信。
ハナは思った。
シャルティアも、そういう場所かもしれない。
企業の管理下にない、公式な記録のない、それでも確かに存在する場所。ここに集まった人間たちも、それぞれに幽霊みたいなものだ。失った記憶を持ち、消された過去を持ち、それでも今夜ここにいる。
でも幽霊信号は、確かに届く。
届く相手にだけ、確かに。
夜が深くなった頃、ディランとセラフィムが屋上にいた。
ハナが窓から見ると、二人が並んでシアル・シティの夜景を見ていた。ディランが煙草に火をつけて、セラフィムが何かを言って、ディランが短く笑った。
リュカがハナの隣に来た。
「見てたの?」
「うん」
「ディランが笑ってる」
「うん」
リュカは少し目を細めた。
「よかったね」
「うん。よかった」
ハナは窓の外を見た。シアル・シティのネオンが、夜の空に滲んでいる。
この街は眠らない。問題は尽きない。また何かが起きる。それはわかっている。
でもシャルティアには、戻ってくる場所がある。
信号は届く。
幽霊みたいな信号でも、届く相手には確かに届く。
Ghost Signal——完
幽霊信号——消えたはずの信号が、届く相手には届く。この街のどんなシステムも管理できない、その事実だけが、全てだった。
