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六月のミモザ

 六月の雨は、音が違う。

 五月の雨がまだどこか遠慮がちに降るのに対して、六月のそれは腹を括ったように、シャルティア邸の石造りの屋根を容赦なく叩く。ハナはサンルームの椅子に深く腰を沈めて、その音を聞いていた。

 膝の上には開いたままの本。だが視線は窓の外に向いていて、ずっとそこにある。雨に濡れた庭の緑が、午後の光の中でやけに鮮やかだった。

 シャルティア邸は、古い屋敷だ。ハナがここに来た時から、すでにその石壁はどこか年老いた顔をしていた。広い庭と、多すぎるほどの部屋と、使い込まれた廊下の床板。最初はリュカとハナの二人だけで、この広さを持て余すように暮らしていた。

 それが今では、随分と賑やかになった。

 ジェミニがいる。ルークがいる。ヴァルンがいて、セイランがいて、クロウがいる。それぞれが自分の部屋を持ち、自分の時間を持ち、それでいてどこかで繋がっているような、不思議な共同生活だ。

 そしてディランがいる。

 リュカの幼馴染で、ある日「しばらく置いてくれ」と言って転がり込んできた男が、気づけばそのまま居着いている。それがシャルティアのやり方だ、とハナは思っている。誰かが来て、そのまま根を張る。

「ハナ」

 声がして、顔を向けた。

 リュカが、サンルームの入口に立っていた。

 銀色の長い髪を緩く下ろして、今日は淡い青のシャツに白いパンツ。いつでも服装に無駄がなく、立っているだけで絵になる。整った中性的な顔立ちと、百八十二センチの長身。静かな存在感が、部屋に入っただけで空気を変える。

 その手に、何かを持っていた。

 黄色だった。

 小ぶりの花瓶に、鮮やかな黄色の小花が何房も差してある。丸く集まった花が、まるで小さな太陽のように見えた。

「ミモザ」

 ハナが声を上げると、リュカは少し目を細めた。

「ジェミニの温室にまだ残ってたから。借りてきた」

「いいの?」

「許可はもらった。……渋い顔されたけど」

 リュカがサンルームのサイドテーブルに花瓶を置いた。黄色が、灰色の雨の光の中で、ひときわ明るく輝く。六月にミモザ。季節外れのはずなのに、今日のこの部屋には、これが一番似合っていた。

「きれい」

「ハナに似合うと思って」

 さらりと言う。それがリュカだ。飾らない言葉が、飾った言葉より何倍も深く刺さる。

 ハナは花に手を伸ばした。小さな花房に触れると、ふわりと甘い香りがした。

「なんか……懐かしい感じがする」

「懐かしい?」

「うん。ミモザって、春の花でしょ。こんな六月に見るから、なんか、昔のこと思い出した」

 リュカはハナの隣に腰を下ろした。問い返さずに、ただ聞いている。それも彼らしかった。

「最初の頃のこと。ここに来たばっかりの頃」

 リュカの目が、少しだけ遠くなった。

「二人だったね、最初は」

「うん。この屋敷、広すぎてさ」

「迷ってたよ、ハナ。最初の一週間」

「迷ってた!廊下がどこも同じに見えて」

 リュカが小さく笑った。静かな笑い方だった。

「今でも覚えてる。ハナが夕食の時間になっても来なくて、探したら書庫の前で立ってた」

「あれは恥ずかしかった……」

 ハナも笑った。笑いながら、胸の奥に温かいものが滲んだ。あの頃の屋敷は、静かで、少し寂しくて、それでも不思議と安心できる場所だった。リュカがいたから、というのが、そのまま答えだったと思う。


 雨が少し強くなった頃、廊下から足音がした。

 重くて、リズムが早い。ハナはそれだけでわかった。

「ディラン」

「よ」

 扉の前に、大柄な男が立っていた。百八十八センチの長身に、広い肩幅。漆黒の短髪と鋭い灰色の瞳。黒いシャツの袖を無造作にまくり上げた腕には、鋼のようなしなやかな筋肉のラインが浮かんでいる。指に光るシルバーリングが、薄暗い廊下でかすかに輝いた。

 ディラン・クロウフォード。

 リュカの幼馴染で、今ではシャルティアの住人の一人だ。

 彼はサンルームに入ってきて、ミモザを見た。

「なんだ、花か」

「きれいでしょ」

「まあな」

 リュカを見て、片眉を上げた。

「お前がやったのか」

「そうだけど」

「……珍しい」

「珍しくない」

「いや、珍しい。お前がそういうことするの、俺あんまり見たことない」

 リュカは表情を変えなかったが、耳が少し赤くなった。それをハナは見逃さなかった。

 ディランはリュカの向かいの椅子に腰を下ろして、足を組んだ。窓の外の雨を見る。

「雨、強くなったな」

「うん。今日は出かけるの無理かも」

「出かける気もなかったけど」

 ハナはディランとリュカを交互に見た。二人が並んでいると、対比が面白いとよく思う。銀と黒、静と動、包む者と攻める者。なのに、二人の間に流れる空気は、長い年月が作った独特の気安さがある。

「ディラン、リュカとはいつから知り合いなの?改めて聞いたことなかったかも」

 ディランが口の端を上げた。

「ガキの頃から。十にもなってなかったな、確か」

「俺が八つ、ディランが九つ」

 リュカが補足した。

「そんな昔から」

「俺がリュカに喧嘩売ったのが最初だ」

「喧嘩売って?」

「こいつ、子供の頃から妙に落ち着いてて。なんか気に食わなくて」

 リュカが穏やかに言った。「殴りかかってきた」

「で、返り討ちにあった」

 ディランは涼しい顔でそう言って、ウイスキーのグラスを口に運んだ。いつの間にか持ってきていた。

「それから友達になったの?」

「まあ、そういうことになるな」

「殴られて友達になれるの、ディランらしい」

「ハナ、お前、さらっと失礼なこと言うよな」

 だが声は笑っていた。

 ハナはミモザを見た。雨の光の中で、黄色が揺れている。

 この二人のやりとりを、ハナは何度も見てきた。シャルティアが今ほど賑やかになる前、三人でいた時間の中で。今は屋敷に人が増えて、こういう場面が少なくなった。久しぶりに見る気がして、ハナの胸の奥にじわりと何かが滲んだ。

 懐かしい、という感情は、幸せを過去形にする。でも今日のこれは違うと思った。懐かしいけれど、今もここにある。変わらずに、ちゃんとここにある。


 夕方になると、屋敷の空気が動いた。

 ヴァルンが廊下を通り、ルークが書斎から出てきて、クロウがどこからか声を上げる。セイランはいつも通り静かだったが、紅茶の香りが廊下に漂っていた。

 ジェミニが夕食の準備を始める時間だ。

 シャルティアの夕食は、屋敷が賑やかになってから、以前より少し豪華になった。ジェミニが全員分を完璧に用意する。それが今の、この屋敷の日常だ。

 ハナがサンルームを出ようとすると、ジェミニが廊下にいた。

 黒の執事服に白い手袋。黒髪に銀縁の眼鏡。百八十六センチの長身が、廊下の灯りの下で静かに佇んでいた。アイスブルーの瞳がハナを捉えて、完璧な微笑みが浮かぶ。

「ハナ様」

「ジェミニ、温室のミモザ、ありがとう」

「リュカ殿から伺いました」

 彼は一歩、ハナに近づいた。

「よくお似合いでしたか」

「すごくきれいだった」

「そうですか」

 ジェミニの目が細くなった。満足しているのか、それとも別の何かが動いているのか、その表情からは読み取れない。

「ミモザは、本来三月から四月の花でございます。六月まで温室で管理し続けたのは……」

 彼は少し間を置いた。

「ハナ様が、黄色いものを好まれるからでございます」

 ハナは言葉に詰まった。

「……知ってたの」

「貴女様のお好みを把握することは、このジェミニの基本でございます」

 有無を言わせない声だった。それがジェミニだ。愛情と管理の境界線が、彼の中では限りなく薄い。

 ハナはジェミニを見上げた。

「ジェミニって……本当に、ずっと見てるんだね」

「ずっと見ております」

「怖い」

「左様でございますか」

「……でも、嬉しい」

 ジェミニの口元が、微かに動いた。

「それで十分でございます、ハナ様」


 夕食後、ディランが「外に出る」と言って、屋根のある裏口の軒下で煙草に火をつけた。

 雨はまだ続いていた。軒下に落ちる雨粒の音を聞きながら、ディランは煙草の煙を夜気に吐いた。ウッディな香水の匂いと煙草の煙が混ざる、それがディランの夜の匂いだとハナはずっと前から知っている。

 ハナが羽織を肩にかけて来ると、ディランは振り返らずに気づいた。

「一人で来たのか」

「うん」

 隣に立った。雨の音が、近い。

「どうした」

「なんとなく」

「そうか」

 ディランは煙草を一口吸った。煙が夜の空気に溶ける。

 しばらく、二人は黙って雨を見た。こういう沈黙が苦ではないのは、ディランとの長い時間が作ったものだとハナは思っている。

「ディラン」

「あ?」

「最近、なんか忙しそうだったね」

「まあな」

「何してたの」

「色々」

 ディランはやっとハナを見た。鋭い灰色の瞳が、薄暗い中でハナを捉える。

「心配したか?」

「少し」

「嬉しいこと言ってくれる」

 口の端を上げる笑い方は、リュカの笑い方とは全然違う。ディランの笑いには、常に少しの余裕と、試すような色がある。

「ハナ、最近リュカとばっかりいるだろ」

「そんなことない」

「いや、ある」

 断言された。ハナは少し黙った。

「……ジェミニや、みんないるから」

「それはわかってる」

 ディランが煙草を消した。それからハナの方を向いて、腕を組んだ。

「俺のことは、もういいのかと思ってた」

 声に冗談の色はなかった。

 ハナは顔を上げた。ディランの灰色の目が、いつもより真っ直ぐにハナを見ていた。

「そんなわけない」

「久しいだろ。お前と、ちゃんと向き合ったのが」

「……うん」

「俺が忙しかったのもあるし、お前も色々あったんだろ。それはわかってる。でも」

 ディランの手が、ハナの顎を捉えた。シルバーリングの感触が冷たい。だがその手は、確かだった。

「忘れてほしくはないんだが」

「忘れてない」

「本当か」

「本当」

 ディランはしばらくハナを見た。それから、ふっと息を吐いた。笑いとも溜息ともつかない、彼らしい音だった。

「……じゃあ、証明してみせろよ」

 低い声だった。


 雨の音が続いていた。

 ディランの腕がハナの腰を引き寄せた。一気に引く、彼らしいやり方だ。リュカのように少しずつではなく、ジェミニのように完璧な段取りでもなく、ディランはいつも一息で距離を詰める。

 唇が触れた。

 煙草の残り香と、ウッディな香水。それがディランの匂いだ、とハナの感覚が記憶の底から引き出した。久しぶりなのに、身体はすぐに思い出す。それが少し悔しくて、少し嬉しかった。

「覚えてるじゃないか」

 ディランが低く言った。口元に笑みがある。

「意地悪」

「俺はいつもこうだろ」

 彼の手がハナの髪を掻き上げた。首筋が露わになる。唇が、そこに押し当てられた。

「ディラン……」

「声、抑えなくていい。雨がうるさいから」

 確かに、雨の音は激しかった。だがそういう問題ではない、とハナは思った。思いながら、それ以上考えるのをやめた。

 ディランのキスは、ストレートだ。迷わない、焦らさない、一直線に深みへ向かう。リュカのスローな熱とは真逆で、だからこそ身体が驚いて、その驚きが快楽に変わる。

 軒下の雨の音が、二人の時間を包んでいた。

 ディランの腕が、ハナをしっかりと抱えた。

「俺のこと、思い出してくれたか」

「……最初から、忘れてなかった」

「そいつは嬉しい」

 今度の笑い方は、いつもの余裕とは少し違った。その下に、本物の何かが透けていた。


 翌朝。

 ハナが台所に来ると、リュカがもうそこにいた。

 二人分のコーヒーを用意している。それが何を意味するか、リュカはわかっていてやっている。

「昨夜、ディランと話してたね」

「うん」

「よかった」

 ハナはリュカを見た。

「怒らないの」

「怒る理由がない」

 彼はコーヒーをハナに渡した。指が触れる。

「ディランは……本当は、寂しがり屋なんだ。あいつが忙しそうにしてる時は、たいてい何かを抱えてる」

「知ってたの?」

「長い付き合いだから」

 リュカが窓の外を見た。雨は上がっていた。庭が、朝の光の中で濡れて輝いている。

「ハナがそばにいてやってくれると、俺は安心する」

 それだけ言って、コーヒーを一口飲んだ。

 ハナはその横顔を見た。言葉が少なくて、それでも全部が詰まっている。これがリュカだ。

「リュカ」

「うん?」

「ありがとう」

 彼は少し目を細めた。

「何が」

「全部」

 また静かな笑い。窓の外で、庭の木が朝の風に揺れた。


 午前中、ハナは温室に足を向けた。

 ジェミニが管理する温室は、いつも整然としている。種類ごとに並んだ鉢、適切な温度と湿度、一本の枯れ枝も見逃さない管理。それがジェミニだ。

 ミモザの鉢は、温室の奥にあった。リュカが花を借りた後も、まだいくつかの房が残っている。六月に、黄色い小花がひっそりと咲いている。

「ハナ様」

 振り返ると、ジェミニが温室の入口に立っていた。いつから気づいていたのか、あるいは最初からここにいたのか。

「ミモザ、まだきれいだね」

「もう少しで終わります」

 彼は近づいてきて、ハナの隣に立った。二人でミモザを見る。

「ジェミニ、これ、わざわざ六月まで残しておいてくれてたの」

「残しておいた、というより」

 ジェミニは少し間を置いた。

「貴女様がこの屋敷に来られた月が、六月でございましたから」

 ハナは息を止めた。

「……覚えてたの」

「貴女様に関わることを、このジェミニが忘れることはありません」

 アイスブルーの瞳が、ハナを静かに見ていた。温室の柔らかい光の中で、その目はいつもより少し、人間的に見えた。

「六月のミモザが、貴女様の記念日の花でございます」

 言われて、胸の奥が熱くなった。ハナがこの屋敷に来た六月のことを、ジェミニはずっと知っていた。ミモザを温室に残し続けた理由が、今わかった。

「……泣きそう」

「困ります」

「なんで」

「泣かせてしまったとなれば、このジェミニの管理不足でございます」

 ハナは笑った。

「管理不足じゃない。嬉しくて泣きそうなの」

「左様であれば」

 ジェミニの白い手袋の手が、ハナの頬にそっと触れた。

「泣かずに、笑っていてください。貴女様の笑顔を管理し続けることが、このジェミニの使命でございます」


 午後、三人が温室の前の庭に集まった。

 ハナとリュカとディランで、自然にそうなった。屋敷の他のメンバーは、それぞれ自分の時間を過ごしている。こういう午後が、たまにある。

 リュカが持ってきた椅子に腰を下ろして、ハナは雨上がりの庭を見た。緑が濡れて、光を弾いている。

「そういえば」

 ディランが言った。

「ハナ、この屋敷に来た時、最初何思った?」

「広すぎると思った」

「それだけか」

「……怖かった」

 リュカがハナを見た。

「怖かった?」

「ここにいていいのかな、って。広いし、綺麗だし、なんか場違いな気がして」

 ディランが鼻を鳴らした。

「今は?」

「今は……ここじゃないと、って思う」

 二人が少し黙った。

 リュカが、静かに言った。

「よかった」

 ディランが、「だよな」と言った。

 それだけだった。それだけで、十分だった。

 ハナは温室の方を見た。ガラス越しに、黄色いミモザが見えた。六月に咲く、季節外れの花。この屋敷の来た月を覚えていた男が、ずっと管理し続けた花。

 懐かしい、という感情は、幸せを過去形にすると思っていた。

 でも今は違うと知っている。

 懐かしいものが、今もここにある。変わったものと、変わらなかったものが、六月の光の中で同じ場所にある。

 それをシャルティアと呼ぶのだと、ハナは思った。


 夜、ハナは一人で温室に行った。

 ジェミニが灯しておいてくれた小さな電灯が、ミモザを柔らかく照らしていた。黄色い花房が、夜の中で静かに輝いている。

 ハナはその花に手を伸ばした。小さな花びらに触れると、春の名残のような甘い香りがした。

 六月のミモザ。

 季節に遅れた花が、それでも美しいのは、待っていた人がいるからだとハナは思った。

 温室の扉が、静かに開いた。

 ジェミニだった。灯りを持って、ハナの傍らに来る。

「まだいらっしゃいましたか」

「うん。なんか、離れたくなくて」

 ジェミニはミモザを見た。

「来年も、咲かせます」

「来年も?」

「毎年。貴女様がここにいる限り、毎年六月にミモザが咲くように」

 ハナはジェミニを見た。アイスブルーの瞳が、夜の温室の灯りを映している。

「ジェミニ」

「はい」

「好き」

 一瞬の静止。

 ジェミニの表情が、完璧な微笑みから、崩れた。昨夜の名残のような、人間的な顔になった。

「……このジェミニも」

 低く、熱を帯びた声だった。

「貴女様を、愛しております」

 夜の温室で、ミモザが静かに香った。

 来年も、その次の年も、六月が来るたびにこの花は咲く。ジェミニがそうすると決めたから。

 それがシャルティアの、ハナの、六月の記念日になった。


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