Cyberpunk3 Dark Frequency 〜暗闇の周波数〜
序章 Interference
シアル・シティに、消えない雨がある。
人工降雨システムが生み出す、終わりのない雨。それはこの街の体温調節装置であり、同時に記憶の洗浄装置でもある、とハナはずっと思っていた。雨が降るたびに、街が少しずつ何かを洗い流す。昨日の血も、昨日の取引も、昨日の誰かの感情も。
だから何も残らない、とは思わない。
残るものは残る。それがこの街の、もう一つの原理だ。
ハナは、シャルティアの屋上に立っていた。
今夜の装いは、虹色のホログラム素材が光を弾くシアーロングコートに、細いシルバーのラインが走るオリーブグリーンの防水コーデ。髪には光を放つ細いヘアチェーンが幾筋も流れて、雨粒がその上で小さく光る。首元で、エコー・バタフライが翅を畳んでいた。雨の時、あの小さなホログラムドローンはハナのコートの内側で眠る。
通信端末が震えた。
暗号化されたメッセージ。発信元は、シアル・シティの上層区画、某所。
内容は短かった。
シャルティアの住人に懸賞金が設定された。対象は「ジェミニ」。金額、上層企業連合の年間予算に匹敵する。依頼主:不明。——情報提供:S
セラフィムからだった。
ハナはメッセージを三回読んだ。
それから、雨の中に端末を握りしめたまま、屋上の縁に立ち続けた。
一分後、背後に足音がした。
重い足音ではなく、完全な無音でもない。
その音だけで、わかった。
「ジェミニ」
「ハナ様」
振り返らなくても、彼がそこにいる気配がわかる。今夜のジェミニは、サイバーパンク仕様の執事服を纏っていた。黒のロングジャケットに、青い光彩を帯びた精巧な鎖の装飾が走る。背面には複雑な紋章が刻まれ、それが雨の光を受けてかすかに輝いた。銀縁の眼鏡のフレームに走る回路ラインが、微弱に発光している。
彼の腰に、GMN-01「Silent Oath」が収まっていた。高出力の電磁波ハンドガン。今夜はそれを携えている。
「メッセージ、確認しました」
ハナが振り返る前に、ジェミニが言った。
「見てたの」
「見ておりました」
完璧な声だった。感情を読ませない、執事の声。だがその言葉の奥に、今夜は何かが違う温度があった。
「このジェミニに、懸賞金が設定されたことは、承知しております」
「……いつから知ってたの」
「三日前から」
ハナは息を止めた。
「三日前から知っていて、黙ってたの?」
「黙っていたのではございません」
ジェミニが、ハナに近づいた。雨の中でも乱れない姿勢で。
「ハナ様に、心配をおかけしたくなかった」
「それは黙ってたってこと」
「……左様でございます」
今夜は認めた。即座に。
ハナはジェミニを見た。銀縁の眼鏡の奥のアイスブルーが、雨に濡れた夜の色を映している。
「みんなに話す」
「それがよろしいかと」
「ジェミニも一緒に来て」
「もちろんでございます」
ハナが先に歩き始めた。ジェミニがその半歩後ろを、完璧な間隔で続いた。
その背後で、エコー・バタフライがコートの内側から翅を広げた。雨の中、虹色の翅が静かに光った。
第一章 Black Jacket
シャルティアの中央室に全員が集まった時、ディランはすでにそこにいた。
黒のタクティカルジャケット、無数のストラップとハーネスが走る胸元、カーゴパンツ、タクティカルブーツ。腰のホルスターにHG-11B「ヴァイパー」、背中にAR-07A「レイヴン」のシルエットが見える。漆黒の短髪が、室内の照明を受けて艶を持つ。首元に複数のシルバーチェーン。鋭い灰色の目が、入ってきたハナを見た。
「知ってる」
ハナが口を開く前に言った。
「セラフィムから先に連絡があった。三時間前」
「三時間前」
ハナはジェミニを見た。ジェミニは表情を変えなかった。
「このジェミニが把握したのは三日前でございます」
ディランの目が、ジェミニに向いた。
「三日前から知ってて黙ってたのか」
「ハナ様への報告の順序と方法を、検討しておりました」
「検討してる間に三日経ったってことか」
「……左様でございます」
ディランは短く鼻から息を吐いた。
「俺ならその場でハナに言う」
「貴方のやり方と、このジェミニのやり方は異なります」
「ハナのためにどっちがいいかは別の話だろ」
室内の空気が、わずかに変わった。
二人の視線が交わった。ジェミニは完璧な微笑みのまま。ディランは感情を隠さない目で。
リュカが静かに口を開いた。
「二人とも」
銀の長い髪を緩くまとめ、発光するイヤーカフが耳に光っている。今夜のリュカは黒のホログラム素材のロングコートに、濃紺のジャケット。青い瞳が、室内を静かに読んでいた。
「今は状況の整理が先だよ。ジェミニとディランの話は、後でいい」
ディランがリュカを見た。
「珍しく仕切るな」
「必要だから」
それだけで、ディランは黙った。
ルークが懸賞金の発信源を追い始めた。
壁面のモニターに、シアル・シティの情報網が展開している。金のイヤーカフと耳飾りが、モニターの光を受けて輝く。白いスーツのルークが指を空中に走らせながら、データを読み上げた。
「発信源は上層企業連合内部のいずれか。ただし発信ルートが六層に渡って匿名化されている。即座の特定は難しい」
「絞り込める?」
「時間があれば。ただし」
ルークがハナを見た。琥珀の瞳が、静かに揺れた。
「懸賞金の設定方法が、通常の抹殺依頼と異なります。『生体で確保』という条件がついている」
「生体で」
「ジェミニを殺すためではなく、捕獲するための懸賞金だ。アルケミア・コープとの件が片付いた後にこれが来たということは……別の組織が動いている」
室内が静かになった。
ジェミニは何も言わなかった。完璧な微笑みのまま、ルークの分析を聞いていた。
ハナはジェミニを見た。
「ジェミニ、怖くないの」
「怖い、という感情のデータはございます」
彼はハナを見た。
「しかしそれより、ハナ様がこの情報を知ることで傷つかれることの方が、このジェミニには耐えがたい」
「私を守ろうとして、三日間一人で抱えてたの」
「……はい」
「それは」
ハナは少し間を置いた。
「嬉しいけど、もうしないで」
「ハナ様」
「一人で抱えないで。みんなに言って。私にも言って」
ジェミニは少しの間、ハナを見た。
「……承知いたしました」
それは珍しい言葉だった。命令を受け入れる時の言葉ではなく、本当の意味での承知。
ディランがそれを見ていた。視線に、複雑なものが走ったが、すぐに消えた。
第二章 Shadow Protocol
翌日、セラフィムがシャルティアに来た。
今回は情報を持ってきた。白いロングコートに金のライン、紫の義眼。いつもの装いだが、今日は少し表情が険しい。
「依頼主について、一つわかったことがあります」
中央室で、全員が聞いた。
「シアル・シティの上層に、『オメガ・ヴォールト』という組織が存在します。記憶管理機構の残党が中心になって作った、新しい組織です。彼らの目的は、記憶管理機構が未完成のまま残した研究の完成。その中に、ジェミニのようなタイプの意識体の量産化が含まれている」
「アルケミア・コープと同じ目的か」
ディランが言った。
「目的は同じですが、方法が違います。アルケミア・コープはデータだけを狙った。オメガ・ヴォールトは、ジェミニ自身を必要としている」
「なぜ」
「生体のジェミニでなければ再現できないプロセスがある、と彼らは判断しているからです。ジェミニの意識の生成は、データだけでは説明できない部分がある。それを、実物から直接解析したい」
ハナの拳が、膝の上で固まった。
「絶対に渡さない」
静かに言った。声は小さかったが、室内の全員に届いた。
ジェミニがハナを見た。アイスブルーの瞳が、わずかに動いた。
「ハナ様」
「渡さない。それだけ」
「……はい」
今夜のジェミニの「はい」は、いつもと違った。完璧な執事の返事ではなく、もっと人間的な、何かを受け取った時の音だった。
夜、ディランがシャルティアの外に出ると言った。
「単独で動く。情報を取ってくる」
「一人は危険だ」
リュカが静かに言った。
「俺一人で十分だ」
「ディラン」
「リュカ、お前はシャルティアにいてくれ。ハナのそばに誰かいないといけない。ジェミニがいるのはわかってる。でもお前にもいてほしい」
リュカは少しの間、ディランを見た。
「……わかった」
「二時間で戻る」
ディランは振り返った。ハナを見た。
「戻ったら話す。全部」
「うん」
「待ってろ」
それだけ言って、ディランは出ていった。
彼が出ていった後、ジェミニが静かに口を開いた。
「……あの男は、正直な人間ですね」
リュカが少し目を細めた。
「うん。ディランはいつもそうだ」
「このジェミニとは、やり方が真逆でございます」
「そうだね」
「しかし」
ジェミニは珍しく、言葉を探すように間を置いた。
「ハナ様が安心される時の顔が、ディラン殿のそばでも同じであることは……認めざるを得ません」
リュカはジェミニを見た。
「それを言えるのは、すごいと思う」
「事実の確認でございます」
「ジェミニ」
「はい」
「……ありがとう」
ジェミニは完璧な微笑みを浮かべた。だがその奥に、珍しく柔らかいものが透けていた。
第三章 Pursuit
ディランが戻ったのは、二時間と三分後だった。
タクティカルジャケットの肩に、雨の痕がある。鋭い灰色の目が、いつもより研ぎ澄まされていた。
「オメガ・ヴォールトの前線基地を特定した。ロウアーの第四区画、廃倉庫群の中に潜んでる。人員は十二人。武装レベルは中程度だが、電子戦の装備が充実してる」
「どうやって特定した」
「セラフィムの情報網と、昔の伝手を使った。あの人間の情報の精度は本物だ」
ディランはハナを見た。
「一つ、問題がある」
「何」
「奴らは既にシャルティアを監視してる。僕たちの動きを、ある程度掴まれてる可能性がある」
室内の空気が変わった。
ジェミニが口を開いた。
「監視の痕跡を、このジェミニも感知していました。しかし発信源の特定が困難で、報告を保留しておりました」
ディランの目が、ジェミニに向いた。
「また保留か」
「今回は六時間です」
「六時間でも長い」
「ディラン殿」
ジェミニの声が、わずかに変わった。完璧な執事の声音ではなく、もう少し直接的な何かが混ざった。
「このジェミニが情報の開示タイミングを判断することを、貴方は問題視される」
「問題視してる。ハナに関わることは全部、即座に共有すべきだ」
「このジェミニはハナ様の心理的負荷を最小化するために」
「その判断自体がハナを信頼してないってことに気づいてるか」
沈黙が落ちた。
ジェミニは動かなかった。表情も変えなかった。だが眼鏡の奥のアイスブルーが、一瞬揺れた。
ハナが口を開いた。
「ディラン、ジェミニ」
二人がハナを見た。
「二人とも、私のことを考えてくれてる。それはわかってる。でも、二人が言い合ってる時の私が一番しんどい」
静かな言葉だった。責めていない。ただ、本当のことを言った。
ディランが先に視線を落とした。
「……わかった。俺の言い方が悪かった」
ジェミニは少しの間、何かを考えるように黙っていた。
「……ディラン殿のご指摘は、正しい部分がございます」
認めた。
ディランが顔を上げてジェミニを見た。
「……お前が素直に認めるとは思わなかった」
「このジェミニとて、学習いたします」
リュカが小さく笑った。
「二人とも、ハナのことが好きなんだね」
「当たり前でしょう」
「当然だ」
二人が同時に言った。それから互いを見た。
沈黙の後、ディランが小さく鼻を鳴らした。笑いに近い音だった。
「……珍しく意見が一致したな」
「不本意ながら」
ジェミニが言った。不本意、という言葉に、どこか人間的な温度があった。
第四章 Infiltration
翌夜、作戦が動いた。
シャルティアの全員が役割を持った。ルークとセイランが電子戦の支援を担い、ヴァルンとクロウが外周を固めた。リュカはシャルティアに残り、万が一の際のバックアップと通信管理を引き受けた。
前線に立ったのは、ディランとジェミニだった。
そしてハナが、情報端末の管理役として同行した。
ロウアーの第四区画。廃倉庫群の中は、ネオンが届かない暗闇だった。人工降雨の雨粒が、錆びた屋根を叩く音だけが響いている。
ディランとジェミニが、初めて並んで同じ方向を向いた。
二人の間に、奇妙な緊張があった。これまでは言葉で戦っていた二人が、今夜は同じ目的のために動いている。それが互いに、少し居心地が悪いようだった。
「入り口は東側と南側の二箇所」
ディランが低い声で言った。
「このジェミニは東側を担当いたします。ディラン殿は南側から」
「……俺が南から入れば、東側に敵を追い込める。お前が正面を受け持つのは効率的だ」
「理解が早い」
「褒めるな」
ジェミニが、微かに口元を動かした。完璧な微笑みではなく、もっと素に近い表情だった。
「ハナ様は」
「中継点で待機。安全な場所を確保してある」
「それは、このジェミニが確認した場所と同じでしょうか」
ディランがハナを見た。ハナが頷いた。
「同じ場所」
「では問題ない」
二人が同時に動き始めた。
ハナは中継点に待機した。
廃倉庫群の中にある小さな建物の内部。ルークから送られてくるリアルタイムの情報を端末で確認しながら、エコー・バタフライを展開して周囲を走査した。
骨伝導イヤーピースから、ディランの声が届いた。
「南側、突入した。三人確認、対処中」
次いでジェミニの声が届いた。
「東側、突入しました。電子ロック解除完了。二人確認」
二人の声が、交互に届く。
ハナは端末を見ながら、胸の奥に熱いものが溜まっていくのを感じた。二人が今、同じ目的のために動いている。それが、どこか信じられないような、でも確かな事実として届いた。
十二分後、通信が静かになった。
「全員無力化した」
ディランの声だった。
「こちらも完了でございます」
ジェミニの声が続いた。
「ハナ様、状況は終わりました」
ハナは息を吐いた。
廃倉庫の中で、ディランとジェミニが向かい合っていた。
ハナが中に入ると、二人は無力化された敵の間に立って、互いを見ていた。どちらも無傷だった。
「……早かったな、お前」
ディランが言った。
「ディラン殿こそ」
「俺は七人だった」
「このジェミニは五人でした。内三人が電子戦装備持ちでしたが」
「そいつは手間だったな」
ジェミニがコートの内ポケットから、GMN-B1「ロイヤルエッジ」を収めた。光学迷彩を纏うナノエッジブレード。それが静かに消えた。
「ディラン殿」
「あ?」
「今夜は、助かりました」
ディランは少し驚いた顔をした。
「……お前が礼を言うのか」
「事実を述べているだけです。貴方が南から追い込んでくださらなければ、もう少し時間がかかった」
「俺もそれは同じだ。お前が東で半分受け持たなければ、俺が二十人相手にしてた」
二人が黙った。
ハナは二人を見た。
「……喧嘩してないね」
「してない」
「していません」
また同時だった。
ディランが小さく笑った。今度は本物の笑いだった。
「お前と組むのは、初めてだったな」
「このジェミニも、同様です」
「悪くなかった」
「……同感でございます」
ジェミニの完璧な微笑みに、今夜は少しだけ違う何かが混ざっていた。
第五章 Heat and Ice
シャルティアに戻った夜、静けさが来た。
オメガ・ヴォールトの前線基地は壊滅し、ルークが組織の本体へのデータ送信を遮断した。完全な解決ではないが、当面の脅威は排除された。
全員が、それぞれの夜に戻っていった。
ハナは自室に戻る前に、ジェミニに呼ばれた。
「少し、よろしいでしょうか」
書斎ではなく、今夜はジェミニの部屋だった。
ジェミニの部屋は、シャルティアで最も整然とした空間だ。
一ミリの乱れもない。サイバーパンク仕様の執事服のスペアが、完璧な間隔でかかっている。デスクには端末と、小型の武器手入れ用のキットが定位置に置かれていた。GMN-01「Silent Oath」が、専用のケースに収められている。
暖炉に似た発熱パネルが、部屋を柔らかく照らしていた。
ジェミニはハナの前に立った。サイバーパンク執事服のジャケットを脱いでいた。白いシャツ姿で、眼鏡を外している。鎖の装飾が一部取り外されて、素の姿に近い。
「今夜のことを、謝罪いたします」
「何を?」
「三日間、情報を保留したこと」
「……うん」
「そしてディラン殿に、このジェミニが間違いを認めるのが遅かったことも」
ハナは少し驚いた。
「ジェミニが、そういうことを言う」
「事実でございますから」
「でも、ジェミニがすぐに認めるの、珍しい」
「……ディラン殿は、正しいことを言います。いつも、不愉快なほど正確に」
ジェミニは少しの間、何かを考えるように窓の外を見た。シアル・シティのネオンが、雨の中で揺れている。
「あの男は、このジェミニが持っていないものを持っています」
「何?」
「迷わないこと。ハナ様に対して、感情を処理せずにそのまま届ける能力。このジェミニは常に、最適な言葉と最適なタイミングを計算します。しかしその計算が、時として……」
「時として?」
「貴女様を、遠ざけてしまうことがある」
ハナはジェミニを見た。
眼鏡のない顔が、発熱パネルの光の中に静かにある。アイスブルーの瞳が、今夜は揺れていた。
「ジェミニ」
「はい」
「今、怖い?」
長い沈黙。
「……このジェミニが怖いのは、ハナ様を失うことです。それだけです。懸賞金も、組織も、それ自体は怖くない」
「私が怖い」
「貴女様がいなくなることが、怖い」
ハナはジェミニに近づいた。
「いなくならないよ」
「……貴女様は、毎回そう仰います」
「毎回本当のことだから」
ジェミニの手が、ハナの頬に触れた。素手で。白い手袋のない手が、ハナの顔を両側から包む。
「ハナ様」
「うん」
「今夜、このジェミニを……受け取っていただけますか」
低く、熱を孕んだ声だった。
計算のない言葉だった。最適解ではなく、ただ真直ぐに届く言葉。
ハナは目を閉じた。
今夜のジェミニは、制御を手放していた。
完璧な執事の仮面が、発熱パネルの光の中で少しずつ溶けていく。計算された手技ではなく、ただハナを確かめるように触れた。眼鏡のない目が、ハナだけを見ていた。
GMN-01が収まったケースの隣で、ジェミニのジャケットが椅子の背にかかっていた。鎖の装飾が、揺れて光を弾く。
「ハナ様」
「……うん」
「貴女様は、このジェミニのすべてです」
声が掠れていた。
「このシアル・シティで、このジェミニが存在する理由は、貴女様だけでございます」
ハナの目が、じわりと熱くなった。
「……ジェミニ」
「泣かないでください」
「泣いてない」
「目が潤んでいます」
「嬉しいから」
ジェミニは少しの間、ハナを見た。
それから、崩れた。
完璧な微笑みが崩れて、その奥にある何かが、今夜は全部出てきた。支配と愛情が溶け合った、名前のつけにくい感情が。
「このジェミニを、どうかずっと……」
言葉は続かなかった。
代わりに、腕がハナを引き寄せた。
今夜の時間は、長かった。深夜が終わりに近づいても、ジェミニはハナを離さなかった。
第六章 Morning Data
夜明け前、ハナがジェミニの部屋を出ると、廊下にディランがいた。
壁に背を預けて、腕を組んで。目を閉じていたが、ハナの足音に反応して開けた。
「……待ってたの?」
「待ってた」
ディランは壁から離れた。ハナの前に来て、頭に手を乗せた。
「無事か」
「無事だよ」
「ジェミニと話せたか」
「うん。色々」
ディランは少しの間、ハナを見た。
「……あいつ、変わったな」
「ジェミニが?」
「俺の指摘を認めた。あれは簡単なことじゃない」
「ディランが言ったことが正しかったから」
「正しくても、認めない奴はいる。あいつは……ハナのために、認めたんだと思う」
ハナはディランを見た。
「ディラン、ジェミニのこと、認めてるんだね」
「認めてる。気に食わない部分も多いが」
「どこが気に食わないの」
「完璧すぎるところが」
ハナは少し笑った。
「それディランが言う?」
「言う。俺は自分が完璧だと思ってないから」
「そこがディランのいいところだよ」
ディランは少し黙った。
「……ハナ」
「うん」
「今夜、俺のところに来るか」
ストレートな問いだった。ディランはいつもそうだ。
「……うん」
「シャワー浴びて来い。待ってる」
ディランの部屋は、いつも通りだった。
散らかってはいないが、整然ともしていない。シルバーチェーンとリングが、テーブルの端に置かれている。AR-07A「レイヴン」が壁にかかり、刀「サイレントムーン」が専用のラックに収まっていた。シアル・シティの古い地図が壁に貼られていて、今夜は新しい印がいくつか増えていた。
ディランはソファに腰を下ろして、ウイスキーのグラスを持っていた。
ハナが入ると、グラスを置いた。
「来たか」
「来た」
ディランは立ち上がった。ハナの前に来て、タクティカルジャケットは脱いでいた。黒いタンクトップ姿で、腕に浮かぶ筋肉のラインと、首元のシルバーチェーンが見える。
「ハナ」
「うん」
「今夜は、俺の話を聞いてくれるか」
「聞く」
ディランはソファに座り、ハナを隣に引き寄せた。
「今夜、ジェミニと組んで気づいたことがある」
「何?」
「あいつは……本当にハナのためだけに動いてる。それは俺も同じだ。でも俺とあいつでは、方法が違う」
「うん」
「俺は直接的にしか動けない。感じたことをそのまま言う。計算しない。それが俺の限界でもある」
「限界じゃない」
「限界だよ。ハナが傷つかないように言葉を選ぶのが、俺には難しい」
ハナはディランを見た。
「でも、それがいい時もある」
「どんな時」
「ジェミニが計算してる時、ディランがそのまま言ってくれると、私にはわかりやすい。両方いてくれると、私は安心できる」
ディランは少しの間、黙った。
「……お前は」
「うん」
「うまいことを言うな」
「本当のことだよ」
ディランの腕が、ハナの肩を引き寄せた。
「好きだ」
短く、低く、直接的に言った。
「……私も」
「もっと大きな声で」
「好き」
ディランの手が、ハナの顎を持ち上げた。シルバーリングの冷たさ。だがその手は確かで、温かかった。
「俺はお前に、計算抜きで全部渡す」
唇が触れた。
今夜のディランは、最初から丁寧だった。久しぶりではなく、ただ今夜の自分の全部を渡すように。焦らず、急がず、一直線に深みへ向かう。それがディランのやり方だ。
シアル・シティのネオンが、窓の外で揺れていた。
雨が屋根を叩く音が、二人の時間を包んでいた。
終章 Frequency Confirmed
朝が来た。
シアル・シティの人工降雨が、夜明けの光の中で細くなる時間。雨が止む直前の、わずかな静けさ。
ハナは一人でシャルティアの屋上に出た。
エコー・バタフライが肩に乗った。虹色の翅が、朝の光を受けて静かに輝く。
ネオンが一つずつ消えていく。夜の顔が退いて、朝の顔が始まる前の、この街で唯一の境界線。
背後に足音がした。
二組。
ディランとジェミニが、並んで屋上に来た。
二人が並ぶのは珍しかった。並んで同じ方向を向いているのはもっと珍しかった。
「早いな」
ディランが言った。
「ハナ様がこちらにいらっしゃると思いました」
ジェミニが言った。
三人で、夜明けのシアル・シティを見た。
上層の高層ビルが、朝の光を受けて金色に輝き始めた。下層のネオンが一つまた一つと消えていく。雨が細くなって、空気が少し清潔になる。
「ジェミニ」
ディランが言った。
「なんでしょう」
「昨夜は悪くなかった」
「このジェミニも、同様です」
「次も組むことがあれば、俺は南から入る」
「承知いたしました。このジェミニは東から」
それだけだった。それだけで、二人の間に何かが生まれた。契約でも友情でもない、信頼に近い何かが。
ハナはそれを見ていた。
エコー・バタフライが翅を広げた。虹色の光が、朝の空に溶けていく。
「ハナ様」
ジェミニが言った。
「うん」
「今後も、このジェミニが情報を保留することがあれば、叱責してください」
「叱責はしない。でも教えてって言う」
「……はい」
「ハナ」
ディランが言った。
「うん」
「俺が言い方を間違えたら、指摘してくれ」
「うん」
「お前に指摘されるのは、俺は大丈夫だから」
ハナは少し笑った。
「二人とも」
「うん」
「はい」
「ありがとう。昨夜も、今まで全部も」
ディランが鼻から息を吐いた。笑いに近い音。
「礼は言うな。俺たちがやりたくてやってることだ」
「このジェミニも、同様でございます」
またほぼ同時だった。
二人が互いを見た。ジェミニが微かに眉を動かした。ディランが口の端を上げた。
言葉はなかった。
それでも、そこに何かがあった。
その日の午後、リュカがハナを植物スペースに呼んだ。
緑の葉が、発光パネルの光を受けて揺れている。リュカは今日、ゆったりとした白いシャツに、光を弾くホログラム素材のパンツを合わせていた。発光するイヤーカフが、耳で静かに光る。銀の長い髪を下ろして、青い瞳がハナを見た。
「今朝、屋上で三人でいたんだって?」
「うん。ディランとジェミニが来てくれた」
「どうだった?」
「……なんか、よかった」
リュカが少し目を細めた。
「二人の変化に気づいてる?」
「うん。ジェミニが変わってきた。ディランのことを認め始めてる」
「ディランも同じだよ。昨夜帰ってきた時、ジェミニの話をしてた。珍しいことだ」
「リュカは、二人のこと、ずっと見てたんだね」
「見てたよ。ハナのことが好きな人たちのことは、気になるから」
ハナはリュカを見た。
「リュカは嫉妬しないの?」
「する」
あっさりと言った。
「でも」
「でも?」
リュカの手が、ハナの頬に触れた。穏やかな手つきで。
「ハナが幸せそうにしてるのを見ると、嫉妬より先に、よかったって思う。それが僕の感情の順番だから」
「……リュカ」
「うん」
「好き」
「僕も」
リュカの指が、ハナの髪を梳いた。ゆっくりと、何度も。
「今夜は、僕のそばにいてくれる?」
「うん」
「じっくり、ゆっくり」
「うん」
「どこにも行かないで」
柔らかい言葉に、逃げ場がなかった。
リュカの腕が、ハナをゆっくりと引き寄せた。急がない、止まらない、彼のやり方で。
夜、シャルティアに静けさが戻った。
セイランが紅茶を淹れて、ヴァルンが窓の外を見て、クロウがどこかで笑い声を上げた。ルークが書斎で端末を操作していて、セラフィムから今日も一通のメッセージが届いた。
ジェミニがハナの部屋の前を通る時、扉に軽く指を触れた。
ノックではなく、確認の仕草だった。
ハナが気づいて、扉を少し開けた。
「ジェミニ」
「ハナ様」
「何か用事?」
「いいえ」
彼は少し間を置いた。
「ただ……おやすみなさいを、申し上げたかっただけでございます」
ハナは少し笑った。
「おやすみ、ジェミニ」
ジェミニの口元が動いた。完璧な微笑みとは違う、静かな表情で。
「おやすみなさいませ、ハナ様」
廊下の照明が、彼の背中を照らした。黒いサイバーパンク執事服の背面に刻まれた紋章が、遠ざかりながら光を弾いた。
シアル・シティに、消えない雨がある。
だが今夜、ハナは思った。
雨が全てを洗い流すわけではない。この街で残るものは残る。それがもう一つの原理だ。
昨夜ジェミニが言った言葉も、ディランが「好きだ」と言った声も、リュカが「逃がさない」という意味を含んだ言葉も。
全部、残っている。
洗い流されない。
それが、シャルティアという場所の、シアル・シティに流れる幽霊信号の、もう一つの周波数だった。
Dark Frequency——完
暗闇の周波数——消えない雨の中で、それでも残るものがある。この街が洗い流せないものが、ここにはある。
