痛みの値段——敏腕弁護士と悪徳弁護士を分けるもの——
あらすじ
痛みは、いくらですか。
神奈川県相武野市。一日四百人を診る整形外科クリニックの院長・真柴拓馬は、診察室に入ってくる患者を三十秒で読む男だった。歩き方、荷物の持ち方、椅子への腰の下ろし方——座る前に、たいていの診断はついている。
その日、二十三歳の女性患者が鞄から出したのは、折りたたまれた一枚のコピー用紙だった。上部に法律事務所の名前。表題は「後遺障害診断書の記載例」。
自覚症状欄の文例が、三つ。そして欄外に、一行。
「十二級の認定には他覚的所見の記載が不可欠です」
これは記載例ではない。答案の模範解答だ。
交通事故の後遺障害等級には、十四級と十二級のあいだに深い断層がある。二十代の被害者なら、その差は二千万円を超える。そして二つを分けるのは、医師の診断書に「他覚的所見」の一行があるかどうか、それだけだ。
痛みを金額に翻訳する装置。翻訳者は、医師しかいない。
真柴は、書かなかった。——それだけのことだった。
数週間後、彼の前に現れた男は、名刺を二枚置く。株式会社リンクアシスト代表取締役。そして、一般社団法人交通事故被害者支援ネットワーク理事。襟から一センチだけ覗く、消し忘れた入れ墨の輪郭。
男は脅さない。誘惑もしない。ただ、医者が最も弱い場所を正確に知っていた。
「痛いって言ってる人が、痛くないことになるのは、かわいそうじゃないですか」
やがて届く内容証明。差出人は、この地域で誰より多くの依頼者を救ってきた男——来年の弁護士会会長選、最有力候補。
同時に口コミが荒れ、保険者の監査が入り、娘の帰宅が遅れる。すべてが別々の主体から来ているように見える。証明できない。それが設計だからだ。
彼を助ける弁護士は言う。
「敏腕と悪徳は、対義語じゃないんです。同じ技術の、裏と表です。どこを切れば血が止まるか知っている人間は、どこを切れば死ぬかも知っている」
なぜ「交通事故専門」を名乗る弁護士が、ある時期から一斉に増えたのか。弁護士費用特約、ネット広告、整骨院、後遺障害等級、そして紹介業者。誰も違法なことをしていないはずの部品が、一本の線でつながったとき、金はどこへ流れ着くのか。
そして——弁護士を裁けるのは、弁護士会だけである。
国家権力から独立するために与えられた弁護士自治。綱紀委員会、会派の座敷、臨時会員集会。その密室で何が起きているのか。
現役整形外科医の視点で描く、医療・司法・警察・損保・反社会的勢力が一本の管でつながる構造。三十章+間章二篇、五万六千字。巻末に、作中で扱った法制度の解説を収録。
この物語には、悪人が一人もいない。全員が、自分の合理性に従って動いている。それだけで、痛みは債権になる。
目 次
第一部 診断書という名の通貨
プロローグ 証人席の椅子は硬い
第一章 四百人の午前
第二章 敏腕の定義
第三章 七十二条と二十七条
第四章 男は名刺を二枚出した
第五章 沼田直人という若い弁護士
第二部 工場
第六章 柏木整形外科の午後
間章 生態系
第七章 五月十五日の階段
第八章 特別刑事部の男
第九章 訴状
第十章 夜の街の生理学
第三部 自治という密室
第十一章 何人も、という言葉
第十二章 綱紀委員会という部屋
第十三章 娘の自転車
第十四章 平出悟
第十五章 名前
第四部 交差点
第十六章 無効という武器
第十七章 相良篤
第十八章 九月十八日
第十九章 柏木徹雄の選択
第二十章 戸倉良和
間章 会派の夜
第五部 議決
第二十一章 十一月十二日
第二十二章 三対〇
第二十三章 会員集会
第二十四章 消えた
第六部 症状固定
第二十五章 京町
第二十六章 証人席の椅子は硬い(承前)
第二十七章 三月三日
第二十八章 残ったもの
終章
第二十九章 一年後の研修室
第三十章 午前八時四十分
巻末解説 この小説で扱った法と制度
一 非弁行為と非弁提携――弁護士法七十二条と二十七条
二 弁護士自治と懲戒制度
三 後遺障害等級という「翻訳」
四 なぜ「交通事故専門」弁護士が大量に生まれたのか
五 医師が問われうる責任
六 事件屋、ヤミ金、反社会的勢力
七 情報はどこから漏れるか
八 敏腕と悪徳を分けるもの
第一部 診断書という名の通貨
プロローグ 証人席の椅子は硬い
弁護士会館の五階、第二審査室。窓のない部屋というのは、時間の感覚をきれいに殺す。
真柴拓馬は、証人席と呼ばれるパイプ椅子に座っていた。整形外科医として二十三年、他人の骨と神経の話ばかりしてきた男が、いま自分の署名の意味を問われている。
正面の長机には七人。弁護士会の懲戒委員会の委員たちだ。中央に座る白髪の男が、老眼鏡越しに一枚の紙を持ち上げた。
「真柴先生。この後遺障害診断書、自覚症状の欄に『頸部から右上肢にかけての持続性疼痛、右手指のしびれ、握力低下』とあります。作成日は令和七年三月十四日。ご記憶は」
「あります」
「では伺います。この患者を、あなたは診察していませんね」
部屋の空気が、わずかに凝った。
真柴は、自分の右手を見た。関節鏡を握り、脊椎の椎弓を削り、無数の膝を切ってきた手だ。その手が三ミリのボールペンで書いた十七文字が、人ひとりを死なせ、二人を刑務所へ送り、そして一つの弁護士会をまっぷたつに割った。
医者は、痛みを診る。
弁護士は、痛みを売る。
その二つの職業が交わる場所に、市場がある。
真柴は口を開いた。
「診察は、していません」
速記のキーボードが、乾いた音を立てた。
◇ ◇ ◇
――八か月前。すべては、一枚の紙を書けと言われたところから始まった。
第一章 四百人の午前
午前八時四十分、真柴整形外科リハビリテーションクリニックの待合は、すでに座る場所がない。
神奈川県相武野市。人口二十七万、駅前に大型商業施設が一つ、幹線道路が二本交差し、その交差点で年間に約六十件の人身事故が起きる。真柴が十一年前にここを選んだのは、その数字を見たからではない。土地が安く、整形外科が足りていなかったからだ。だが結果として、彼は事故の街のまんなかに診療所を建てたことになる。
一日の外来は、多い日で四百二十人。
診察室に入ってくる患者を、真柴は三十秒で分類する。歩き方、荷物の持ち方、椅子への腰の下ろし方。座る前に、たいていの診断はついている。あとはそれを、画像と徒手検査で潰していく作業だ。
「おはようございます、三番の方」
ドアが開いた。二十代半ばの女。左肩をかばうように上体をわずかに捻っている。だが、その捻り方が不自然だった。痛い側をかばう人間は、痛い側を体幹に近づける。彼女は逆に、外へ開いていた。
「有村沙那さん。事故から――今日で、四十六日目ですね」
「はい」
カルテを開く。二月二日、丁字路で右方から出てきた軽自動車に側面から追突された。相手方保険会社は東邦海上。頸椎捻挫、腰椎捻挫。初診時のレントゲンでは骨傷なし。MRIでも椎間板の突出はごく軽度で、年齢相応の範囲を出ない。
「首の痛みは、どのあたりですか」
「……このへんです」
彼女は右手で左の僧帽筋を撫でた。撫でる、という動作を真柴は見逃さない。本当に痛い場所を人は撫でない。押さえるか、避けるか、そのどちらかだ。
徒手検査に入る。スパーリングテスト陰性。ジャクソンテスト陰性。腱反射左右差なし。握力は右三十四キロ、左三十一キロ。利き手を考えれば正常範囲だ。しびれの訴えは第五、第六頸髄領域とされているのに、指す場所は毎回少しずつずれる。
典型的な、あるいはあまりにも典型的な、他覚的所見のない頸椎捻挫。
「有村さん。まだ痛みがあるのは、嘘ではないと思います。むち打ちの痛みは、画像に映らないところで起きていることが多い」
「じゃあ――」
「ただ、」真柴はモニターを彼女のほうへ回した。「僕がここで書ける診断書は、映っているものと、僕が触って確かめられたものだけです」
彼女はしばらく黙り、それから、鞄から折りたたんだ紙を出した。
「あの、これ……弁護士の先生から」
A4のコピー用紙。上部に「相良綜合法律事務所」。その下に、後遺障害診断書の記載例、と印字されている。
自覚症状欄の文例が、三つ並んでいた。
――頸部より右上肢にかけて持続する疼痛及びしびれを認め、就労・家事に著しい支障を来している。
――寒冷時、天候不良時に増悪する頑固な神経症状を残す。
――理学療法を継続するも症状固定に至り、改善の見込みは乏しい。
真柴は、紙の下段に目を落とした。他覚的所見の欄には、こう書かれている。
「※十二級十三号の認定には他覚的所見の記載が不可欠です。神経学的テストの陽性所見、MRI所見等を必ずご記載ください(記載がない場合、十四級九号にとどまる可能性が高くなります)」
なるほど、と思った。
これは、記載例ではない。答案の模範解答だ。
「有村さん。この紙、誰にもらいました」
「事務の……あ、いえ、紹介してくれた会社の人が」
「会社」
「リンクアシスト、っていう。事故の翌日に電話がきて、無料で全部やってくれるって。整骨院も紹介してもらって、弁護士さんも」
真柴は、その社名を頭のなかの引き出しに入れた。この半年で、四度目だ。
「わかりました。書ける範囲で書きます」
「書ける範囲、って」
「本当のことです」
彼女の目が、ほんの一瞬、怯えたように揺れた。怒りではなかった。真柴は後になって、その表情を何度も思い返すことになる。あれは、怯えだった。書かれないことを恐れているのではなく、書かれなかったと報告することを恐れている目だった。
◇ ◇ ◇
昼休み、事務長の沖田響子が院長室に入ってきた。五十歳、開業初日からいる。真柴が唯一、数字で嘘をつかれたことがない人間だ。
「先生。リンクアシスト経由の患者、今月で十九人です」
「多いな」
「多いです。しかも全員、あすなろ接骨院との併用。うちには週一回、接骨院には週五回」
真柴は箸を止めた。
交通事故の慰謝料は、通院の実日数と期間で決まる。自賠責の基準では、一日あたり四千三百円。接骨院に週五回、六か月通えば、それだけで百三十万近い。しかも整骨院の施術費は一回五千円前後が相手方保険会社に請求される。半年で六十万。
「先生、これ――」
「わかってる」
交通事故の患者は、通貨になる。
被害者が一人生まれると、そこから治療費、慰謝料、休業損害、後遺障害の逸失利益という四本の管が伸びる。管の先には、整形外科、整骨院、弁護士、そして紹介した誰かがいる。
管を太くする方法は、二つしかない。
通院を長くすること。そして、等級を上げること。
十四級九号――局部に神経症状を残すもの。自賠責の限度額は七十五万円。
十二級十三号――局部に頑固な神経症状を残すもの。限度額は二百二十四万円。
そして裁判基準では、後遺障害慰謝料が百十万と二百九十万。逸失利益の労働能力喪失率は五パーセントと十四パーセント。喪失期間も、十四級は五年程度に制限されるのが実務だが、十二級なら十年、時に就労可能年数いっぱいまで認められる。
二十三歳の女性で計算すれば、その差は、軽く二千万を超える。
二千万の差を分けるのは、たった一枚の紙。
そして、その紙を書けるのは、日本にただ一つの職業しかない。
「沖田さん」
「はい」
「うちを通ったリンクアシストの患者で、後遺障害診断書を書いた人。何級で認定されてる」
沖田は、しばらくして戻ってきた。顔色が変わっていた。
「うち経由の八人は、全員十四級です。……でも、先生」
「なんだ」
「そのうち五人が、途中でうちを転院してます。転院先、柏木整形外科」
真柴は、天井を見上げた。
柏木徹雄。同じ市内、駅の反対側。学会でも顔を合わせる。悪い医者ではなかった、はずだ。
「柏木先生のところで、何級に」
「四人が十二級です」
第二章 敏腕の定義
その週の金曜、真柴は横浜へ出た。
みなとみらいの外れ、古い雑居ビルの六階。すりガラスのドアに、白い明朝体で「氷室法律事務所」とだけある。事務員はいない。電話も鳴っていない。
「お待たせしました」
現れた女は、四十三歳。氷室玲。黒いパンツスーツ、化粧はほとんどない。握手はしなかった。
「先生のクリニック、月に何通、後遺障害診断書を書かれますか」
挨拶より先に、それが第一声だった。
「十五から二十」
「そのうち、患者さんが弁護士を立てているのは」
「たぶん、七割」
「その七割の弁護士のうち、先生に直接、電話をかけてきた人は何人います」
真柴は考えた。
「ゼロだ」
「でしょうね」氷室は初めて、わずかに口の端を上げた。「それが今の交通事故業界です。弁護士は医者に会わない。医者は弁護士を知らない。あいだに立っているのは、資格を持たない人間です」
真柴が持ってきた資料を、氷室は十五分かけて読んだ。速いのではない。すべて読んでいるのに速いのだ。ページをめくる指が、一度も戻らない。
「先生。この『記載例』の紙、これ一枚で弁護士は懲戒され得ます」
「そんなに?」
「内容の問題じゃありません。この紙が、患者を通じて医師に渡っていること自体が問題なんです」氷室はボールペンの尻で紙を指した。「弁護士が医師に意見を求めるのは正当な業務です。診断書の記載事項について照会するのも当然。でも、それは弁護士が自分の名前で、自分の責任で行う。患者に紙を持たせて、事実上の答案を医師の机に置かせるのは、医証の作出です」
「医証」
「医学的証拠。交通事故の損害賠償は、事実上、医証の争いです。裁判官は患者の顔を見ていません。診断書と画像とカルテしか見ていない。だから、医証を作れる人間が勝つ」
真柴は喉の奥が渇くのを感じた。
「あなたは、作るのか」
「私は、探します」氷室は真柴を正面から見た。「これは詭弁じゃありません。決定的な違いです。作る人間は、存在しない所見を書かせる。探す人間は、見落とされている所見を医師に見つけてもらう」
彼女は鞄からファイルを出した。「例をお見せします。三年前の依頼者。二十九歳、男性。追突事故。他院では十四級でした。私は先生方に三つお願いしました。一つ、腱反射を左右で三回ずつ、時間を変えて記録してほしい。二つ、初診時のMRIをもう一度、頸椎の斜位で撮ってほしい。三つ、症状の経過を患者本人に毎日書かせ、それをカルテに添付してほしい」
「結果は」
「C5/6の右外側にヘルニアがありました。最初のMRIでは体位の関係で写りが甘かった。腱反射は、朝は左右差がなく、夕方に右上腕二頭筋反射が明らかに減弱していた。異議申立てで十二級十三号。増額は約二千三百万円です」
真柴は、その手順を医師の頭で追った。
どれも、医学的に正しい。どれも、嘘がない。ただ、面倒くさい。
「あなたはそれを、何件やってる」
「年に、二十件が限界です。相良さんの事務所は、年に千二百件やります」
初めて出た名前だった。
「相良篤」氷室は言った。「相良綜合法律事務所代表。弁護士五十四期。所属は湘南第二弁護士会。来年の会長選の、最有力候補」
「敏腕、なのか」
「ええ」氷室はためらわなかった。「間違いなく、敏腕です。あの人は交通事故案件の処理を工程に分解した最初の弁護士です。受任、資料収集、症状固定の時期判断、異議申立て、訴訟移行。全部にマニュアルがあって、全部にチェックリストがある。若い弁護士は三か月で一人前になる。依頼者の平均獲得額は、業界平均の一・八倍です」
「なら、悪徳ではない」
「敏腕と悪徳は、」氷室はコーヒーに手をつけないまま言った。「対義語じゃないんです、先生。同じ技術の、裏と表です。医療と同じでしょう。どこを切れば血が止まるか知っている人間は、どこを切れば死ぬかも知っている」
窓の外で、船が汽笛を鳴らした。
「相良篤は、依頼者のために全力を尽くします。同時に、依頼者を仕入れる方法を、資格を持たない人間に外注しています。前者を敏腕と呼び、後者を非弁提携と呼ぶ」
第三章 七十二条と二十七条
「先生、法律の話を五分だけしていいですか」
氷室はホワイトボードの前に立った。医学部の講義室のような身のこなしだった。
「弁護士法七十二条。弁護士でない者が、報酬を得る目的で、法律事件に関して法律事務を取り扱ってはならない。これが非弁行為です。事故の被害者に『示談交渉を代行します』と言った瞬間、その人が弁護士でなければ犯罪になります。二年以下の懲役または三百万円以下の罰金」
「リンクアシストは、示談交渉はしていないと言うだろうな。紹介しているだけだと」
「そこです」氷室は太い線を引いた。「そこで七十二条は止まる。だから彼らは絶対に『交渉』と言わない。『無料相談』『病院の紹介』『整骨院の手配』『書類のサポート』。この言葉遣いは全国で統一されています。誰かが教えている」
彼女は隣に、もう一つ書いた。
「弁護士法二十七条。弁護士は、非弁行為をする者から事件の周旋を受け、これらの者に自己の名義を利用させてはならない。これが非弁提携です。そして――」
「そっちは、弁護士が主語だ」
「そのとおり。七十二条は非弁護士を縛り、二十七条は弁護士を縛る。事件屋を捕まえるのは検察と警察の仕事ですが、提携した弁護士を裁くのは、弁護士会です」
真柴は身を乗り出した。
「弁護士会が、自分の会員を裁くのか」
「日本の弁護士自治です」氷室は淡々と言った。「弁護士法五十六条、弁護士に懲戒事由――職務上の義務違反、非行があったとき、所属弁護士会が懲戒できる。五十八条、懲戒の請求は『何人も』できます。あなたでも、私でも、通りすがりの人でもいい」
「誰でも?」
「誰でも。ただし、そこからが長い。まず綱紀委員会が調査します。ここで『懲戒審査相当』と議決されて初めて、懲戒委員会に事案が回る。綱紀で止まれば、それで終わりです」
「割合は」
「懲戒請求は全国で年に二千件を超えることもあります。実際に処分に至るのは、百件前後」
「五パーセント」
「そう。そして処分の内訳は、大半が戒告です。戒告は、要するに叱られておしまい。次が業務停止。二年以内。それから退会命令、除名。除名になれば弁護士資格を失いますが、これは年に数人です」
真柴は、医師の懲戒制度を思い浮かべた。医道審議会。厚生労働大臣の処分。あちらは行政がやる。
「なぜ、身内が身内を裁く仕組みになってる」
「弁護士は、国家権力と戦う職業だからです」氷室は初めて、声にわずかな熱を込めた。「検察官を訴え、警察を訴え、国を訴える。その弁護士の懲戒権を行政が握っていたら、政権に不都合な弁護士から順に消えていく。だから、この国は弁護士会に自治を与えた。誰にも懲戒されない代わりに、自分たちで自分たちを罰しろ、と」
「うまく機能してるのか」
氷室は、ペンを置いた。
「機能させようとする人間と、機能させたくない人間が、同じ建物のなかにいます」
◇ ◇ ◇
その夜、真柴は自宅で妻の紗織に、その話をした。
紗織は元手術室看護師だ。真柴が大学病院にいたころ、三百件近い脊椎手術で器械出しについていた。今は娘の灯の弁当を作り、週に二回、クリニックの経理を見ている。
「つまり、あなたは首を突っ込むのね」
「まだ何も」
「拓馬さん」紗織は食器を拭く手を止めなかった。「十六年前も、そう言ってた」
言い返せなかった。
十六年前、真柴は大学病院で、教授の術中操作ミスを記録に残した。硬膜損傷を「なし」と書けと言われて、書かなかった。半年後、彼は関連病院に出され、二年後に大学を辞めた。医局の誰も、彼を庇わなかった。
「あのときは、正しかったと思ってる。今でも」紗織は続けた。「でも、あなたは正しさに勝てるほど、強くない」
「強くなくてもいい。書かなければいいだけだ」
「書かないことが、いちばん怒らせるのよ」
二階から、灯がおりてきた。高校二年、十六歳。父に似て骨が細く、母に似て気が強い。
「お父さん、今日また四百人?」
「三百八十九」
「死ぬよ、そのうち」
「死ぬ前に、金を貯めておく」
灯は笑った。真柴も笑った。
この夜のことを、真柴は八か月後、取調室の椅子で思い出す。娘の笑い声の、正確な高さまで。
第四章 男は名刺を二枚出した
四月の第二週、その男はアポイントなしで来た。
午後七時二十分。最終受付が終わり、待合の椅子を職員が拭いていた時間だ。
「先生。ちょっとだけ、いいですかね」
背は高くない。百七十あるかどうか。だが、肩の位置が異様に低く、後ろに落ちている。喧嘩慣れした人間の立ち方だ、と真柴は思った。柔道整復師の講習で見たことがある。首の付け根の左に、消し忘れた入れ墨の輪郭が、シャツの襟から一センチだけ覗いていた。
「黒須と申します」
名刺が二枚、机に置かれた。
一枚目。株式会社リンクアシスト 代表取締役 黒須稔。
二枚目。一般社団法人 交通事故被害者支援ネットワーク 理事。
「一般社団法人を作ると、」黒須は笑った。「なんか、いいでしょう。役所っぽくて」
真柴は座らせなかった。黒須は勝手に座った。
「有村沙那さんのことで」
「患者の話は、できません」
「知ってます。守秘義務ね。だから僕は、僕の話をします」黒須は膝の上で手を組んだ。「うちは事故の被害者さんを、月に八十人くらいご案内してるんです。整形外科、接骨院、弁護士。ワンストップってやつ。先生のところにも、今月十九人」
「紹介料は取っていないな」
「取ったら犯罪ですからね」黒須は即答した。あまりに滑らかだった。「うちは、被害者さんから一円ももらいません。弁護士さんからも一円ももらいません。うちが収入を得てるのは、業務委託です。書類の作成代行、事務のサポート。ぜんぶ、法律事務じゃない部分」
その線引きの正確さが、なにより不気味だった。この男は、七十二条を条文で読んでいる。
「先生。柏木先生とはお話しされました?」
真柴は動かなかった。
「向こうはね、患者さんの通院管理まで一緒にやってくれてます。うちのアプリで通院日を管理して、リハビリの実施記録を電子で共有して。だから中断がない。中断がないと、症状の一貫性が担保されるでしょ。一貫性は、認定の要件だ」
正しい。医学的に正しくはないが、認定実務としては完全に正しい。
「先生のところは、正直、歩留まりが悪い」
歩留まり。工場の言葉だ。
「うちからご案内した患者さんで、十二級が取れたのは、先生のところではゼロ。柏木先生のところでは四十一パーセント。同じ市内の、同じような事故で、なんでこんなに差が出るんですかね」
「診断が違うからだ」
「診断が違うんじゃなくて、」黒須は初めて、笑うのをやめた。「書き方が違うんですよ、先生」
部屋が静かになった。廊下でモップの音がしていた。
「先生、誤解しないでほしいんですけどね。僕は嘘を書けとは、一度も言ってません。今も言ってない。録音してても、僕はそう言ってない」
「録音してる、と思ってるのか」
「先生ならしてますよ。頭のいい人だ」黒須は立ち上がった。「僕が言いたいのはひとつだけです。痛いって言ってる人が、痛くないことになるのは、かわいそうじゃないですか」
その一言は、驚くほどまっすぐ、真柴の一番柔らかいところに刺さった。
それが、この男の恐ろしさだった。黒須稔は脅していない。誘惑もしていない。ただ、医者が一番弱い場所を知っていた。
「先生は、痛みを診る人でしょう」
黒須は帰り際、振り向いた。
「あ、そうだ。有村さん、もう先生のところには行きません。柏木先生にお願いすることになりました」
ドアが閉まった。
真柴はしばらく動かず、それから机の引き出しを開けた。ICレコーダーは、確かに回っていた。
だがそこには、犯罪は一秒も録音されていなかった。
第五章 沼田直人という若い弁護士
四月二十六日、氷室から真柴に電話が入った。
「先生。相良事務所のイソ弁が、会いたいと言っています」
「イソ弁」
「居候弁護士。事務所に雇われている勤務弁護士のことです。ボス弁――経営者に対して、そう呼びます」
待ち合わせは、桜木町のチェーンのカフェだった。氷室が場所を指定したのは、そこに防犯カメラが四台あるからだ、と後で知った。
沼田直人は、三十一歳に見えなかった。二十代の後半か、あるいは睡眠不足で老けた大学院生か。スーツは高い。靴は磨かれていない。
「氷室先生、お久しぶりです。修習の講義、聞きました。七十二期です」
「よく覚えてます。質問した人は少なかったので」
沼田はアイスコーヒーを一口飲み、それから手が震えているのに気づいて、両手で持ち直した。
「僕、辞めようと思ってます」
「理由を」氷室は聞いた。
「うちの事務所は、去年、交通事故を千三百八十件受任しました。弁護士は僕を入れて十四人。単純計算で、一人あたり九十八件です」
「多いですね」
「多くないんです」沼田は首を振った。「僕が担当してるのは、二百四十件です」
真柴は思わず口を挟んだ。「一人で二百四十?」
「はい」
「回るのか」
「回りません。回らないから、」沼田は言葉を切り、それから、はっきりと言った。「回してるのが、弁護士じゃないんです」
カフェの空調の音が、大きく聞こえた。
「依頼者と最初に話すのは、リンクアシストの担当者です。委任契約書は、担当者が持って行きます。僕のハンコを押した委任状を、彼らが持ってる。医療機関への同意書もです。治療費の打ち切り交渉も、彼らが保険会社と電話でやってます」
「それは」氷室の声が低くなった。「示談交渉です」
「はい」
「あなたは、それを知っていた」
「知っていました」沼田は目を伏せなかった。そこだけは立派だった。「知っていて、二年やりました。だから僕も、同罪です」
氷室はしばらく黙り、それから聞いた。
「報酬の分配は」
「業務委託費、という名目です。一件あたり四万八千円。書類作成代行、通院サポート、事故状況の聴取。月に百件超えるので、リンクアシストへの支払いは月五百万前後。年間六千万」
「弁護士職務基本規程十二条」氷室は言った。「弁護士は、依頼者の紹介を受けたことに対する謝礼その他の対価を支払ってはならない。同十一条、非弁護士との提携の禁止。そして弁護士法二十七条」
「わかってます。だから辞めます」
「辞めるだけじゃ、だめです」
沼田が顔を上げた。
「あなたが辞めれば、二百四十件は他のイソ弁に回ります。依頼者は誰も救われません。あなたはただ、手を洗って現場を出るだけです」
「じゃあ、どうしろと」
「懲戒請求をしてください」氷室は言った。「あなた自身の名前で、湘南第二弁護士会に。相良篤に対して」
沼田の顔が、白くなった。
「無理です。……僕、あそこにいるあいだに、いろんなものを見てるんです。事務所の金の流れだけじゃない。相良先生が、どこの誰と食事してるかも」
「誰と」
沼田はカフェを見回した。誰も見ていなかった。
「東成組の、平出という人です」
真柴には、その名前がわからなかった。氷室には、わかった。彼女の指が、テーブルの上で一度だけ止まった。
「湊誠会の二次団体ですね」
「相良先生は、顧問契約を切ったことになってます。書類上は。でも去年の九月、僕は関内の店で、二人がカラオケのマイクを回してるのを見ました。相良先生が歌ってたのは、」沼田は笑おうとして失敗した。「『兄弟仁義』でした」
その日、沼田直人は帰り際に、USBメモリを一つ、テーブルの下から氷室に渡した。
「委任状のスキャン、二百四十件分です。よく見てください。日付の筆跡が、全部同じです」
彼が生きて誰かと話したのは、その十九日後が最後になる。
第二部 工場
第六章 柏木整形外科の午後
五月八日、真柴は柏木整形外科を訪ねた。学会の地方会の打ち合わせ、という口実を使った。柏木徹雄は疑わなかった。あるいは、疑ったうえで見せたのかもしれない。
駅の南口から徒歩三分、七階建てのビルが丸ごと診療所だった。一階が受付、二階が診察室、三階から五階がリハビリ、六階が事務、七階が院長室。
真柴が驚いたのは、三階だった。
リハビリ室に、理学療法士がほとんどいない。いるのは、若い、無資格に見えるスタッフたちだ。患者はベッドに並んで寝かされ、腰に電極を貼られ、二十分後にタイマーが鳴ると起き上がる。
「マイクロ波と干渉波、あとは牽引な」柏木は誇らしげだった。「一人二十分で回せる。運動器リハは点数が高いが、時間を食うだろう。うちは物療で数を取る」
「PTは」
「四人いる。三階に一人、四階に一人。実施記録の名義はPTだ」
真柴は何も言わなかった。それが違法か合法かは、監査の仕事だ。だが、その言い方は明らかに、線を知っている人間の言い方だった。
七階の院長室で、柏木はコーヒーを出した。
「真柴。お前、リンクアシストと揉めてるらしいな」
「揉めてはいない」
「黒須が言ってたよ。歩留まりが悪いって」
同じ単語だった。
「柏木。お前んとこ、去年、後遺障害診断書を何通書いた」
「二百三十くらいかな」
「認定は」
柏木はマグカップを置いた。少し、迷う間があった。
「十二級が九十四」
四十一パーセント。黒須の言った数字と、完全に一致した。
「柏木。全国平均は、非該当を除いても十二級は五パーセント前後だ」
「うちは検査が丁寧だからだ」
「じゃあ聞くが」真柴は身を乗り出した。「お前、患者一人に何分かけてる」
沈黙が長かった。
「……四分」
「四分で、神経学的所見をフルセット取れるのか。ジャクソン、スパーリング、腱反射四か所、筋力MMT六筋、知覚検査を皮膚分節ごとに」
「取れるわけないだろう」
柏木は、急に十歳老けた顔をした。
「テンプレートだ」
彼はパソコンを操作した。電子カルテの後遺障害診断書作成画面。プルダウンメニューがあり、「頸椎捻挫・十二級申請パターン」という選択肢がある。選ぶと、自覚症状欄、他覚的所見欄、神経学的所見欄が、一瞬で埋まった。
真柴は画面を凝視した。
――スパーリングテスト右陽性。上腕二頭筋腱反射右減弱。C6領域に知覚鈍麻。MRIにてC5/6椎間板の軽度膨隆を認め、右神経根への圧迫所見と整合。
「これが」真柴の声はかすれた。「毎回、出るのか」
「患者の所見を見て、いらないところは消してる」
「消してるのか。それとも、消し忘れてるのか」
柏木は答えなかった。
「柏木。お前、これで捕まらないと思ってるだろう」
「刑法百六十条は、公務所に提出すべき診断書だ」柏木は即座に言った。用意されていた答えだった。「虚偽診断書等作成罪は、公文書に準じる場面にしか適用されない。自賠責の後遺障害診断書は、損害保険料率算出機構に出す。あそこは公務所じゃない」
「じゃあ何なんだ、これは」
「民間の書類だよ。書き方に幅があるだけだ」
真柴は立ち上がった。
「柏木。それを民間の書類だと思ってるのは、お前と、お前に教えた奴だけだ」
彼は静かに続けた。
「刑法二百四十六条。詐欺。保険会社を欺いて金を交付させれば、それだ。書いた医者は、共同正犯か、少なくとも幇助になる。診断書が公文書かどうかなんて、検察は一秒も悩まない。悩むのは、お前が知っていたかどうかだけだ」
柏木の唇が、白かった。
「そして」真柴は言った。「テンプレートが存在する時点で、知っていたことになる」
ドアに手をかけたとき、柏木が言った。
「真柴。俺は、去年、十四億の借金を背負ってこのビルを建てた」
真柴は振り返らなかった。
「息子が二人いる。上は医学部の六年、下は三年だ」
「柏木」
「なんだ」
「その診断書のせいで、本当に十二級の人間が、疑われるようになった」
柏木徹雄が真柴に言葉を返さなかったのは、それが正しかったからだ。
医証のインフレーションは、通貨の価値を下げる。損害保険会社は防衛的になり、審査は厳しくなり、本当に頸髄症で苦しむ人間が、十四級に落とされる。真柴の外来には、そういう患者が確実に増えていた。
嘘つきが儲かる市場では、正直者ではなく、正直に痛い人間が損をする。
間章 生態系
柏木整形外科を訪ねた四日後、真柴のクリニックに、一人の男が予約を入れて来た。
東邦海上火災保険株式会社 保険金サービス統括部 特別調査グループ 鵜飼律。
三十九歳。細い体に、量販店のスーツ。名刺の肩書きが長いわりに、態度は驚くほど低かった。
「先生。今日は、苦情を言いに来たんじゃありません。むしろ逆です」
「逆」
「教えてほしいんです。医者の側から見て、この街で何が起きてるのか」
彼は、ノートパソコンを開いた。折れ線グラフが一本。
「相武野署管内の人身事故における、弁護士介入率です。令和元年、十四パーセント。今年、六十八パーセント」
真柴は、その傾きを見た。医師の目には、それは検査値の異常な上昇曲線に見えた。
「全国平均は」
「三十パーセント前後です。それでも十年前の四倍ですが」
鵜飼は、画面を閉じた。
「先生。うちの会社は、こういうとき、こう言うんです。『弁護士が増えたせいで、支払いが増えた』と。でも、それは順序が逆なんですよ」
「逆?」
「弁護士が増えたから、事故が金になったんじゃない。事故を金に換える仕組みが完成したから、そこに弁護士が流れ込んだんです」
◇ ◇ ◇
鵜飼は、コーヒーに口をつけずに話し始めた。
「先生。弁護士費用特約って、ご存じですか」
「聞いたことはある。患者が、費用は保険から出ると言っていた」
「自動車保険の特約です。事故の被害者になったとき、弁護士に依頼する費用を、自分が入っている保険会社が払う。上限はだいたい三百万円。相談料は別枠で十万円くらい」
「なぜ、そんなものがある」
「うちが、払わなさすぎたからです」
鵜飼は、あっさり言った。
「昔は、被害者が弁護士に頼むと、赤字になったんですよ。慰謝料が八十万で、弁護士費用が五十万。だったら、うちの提示額で我慢したほうがまし。だから被害者は、泣き寝入りした」
「それを、是正するための制度か」
「そうです。制度としては、正しい。私は今でもそう思ってます」鵜飼は言った。「ただ、この特約には、一つだけ副作用があります」
「なんだ」
「依頼者が、費用を気にしなくなる」
真柴は、その意味を数秒かけて理解した。
「弁護士にとっては、どうなります?」鵜飼は続けた。「依頼者から取りっぱぐれない。分割払いの相談もない。着手金の値切り交渉もない。請求書を出す相手は、保険会社です。書式は決まってるし、期日どおりに振り込まれる」
「取立てが、ない」
「そのとおりです。先生、弁護士業の最大のコストって、何だと思います?」
「わからん」
「回収です」鵜飼は言った。「勝っても、依頼者が払えない。刑事事件も、離婚も、労働事件も、みんなそうです。ところが交通事故だけは、財布が保険会社なんですよ」
◇ ◇ ◇
「じゃあ次に、なぜ『交通事故専門』を名乗る事務所が、二〇一〇年代の後半から一斉に増えたか」
鵜飼は、指を三本立てた。
「一つ目。弁護士が増えました」
司法制度改革。法科大学院。合格者数の増加。二〇〇〇年に一万七千人だった弁護士は、二十年で四万人を超えた。地方の裁判所支部の管内でも、事務所が飽和した。
「二つ目。広告が解禁されました」
かつて、弁護士の広告は原則禁止だった。それが二〇〇〇年に原則自由化された。事件は「待つ」ものから「取りに行く」ものになった。
「三つ目が、いちばん重要です」鵜飼は言った。「前の商売が、終わったんです」
「前の商売」
「過払金です」
真柴は、テレビでその広告を何百回も見た記憶があった。
「グレーゾーン金利が違法だと確定して、消費者金融に払いすぎた利息を取り戻す。これが十年、続きました。定型処理で、大量受任で、広告依存で、依頼者にほとんど会わない」鵜飼は言った。「今の交通事故案件の処理モデルは、あそこで完成したんです。人も、ノウハウも、広告代理店も、全部そのまま」
「だが、過払金は」
「請求権が、時効で消えていきました。二〇一〇年代の後半には、もう案件がない」鵜飼は言った。「数千人の弁護士が、同じ日に、次の獲物を探し始めたんです」
そして、そこに、財布が保険会社である市場が、口を開けて待っていた。
◇ ◇ ◇
「先生。『交通事故 弁護士』で検索したこと、あります?」
「ない」
「一クリックで、事務所が広告代理店に払う金額は、数千円です」鵜飼は言った。「クリックですよ。相談じゃない。百人がクリックして、一人が電話をかけて、その半分が契約する。一件取るのに、広告費で十万から二十万かかる計算です」
「元は取れるのか」
「特約の上限が三百万ですから、取れます。ただし――大量に処理できれば」
真柴は、柏木の電子カルテのプルダウンメニューを思い出した。
「テンプレートが、要るのか」
「要ります。全部の工程に」
鵜飼は、机の上に指で図を描いた。
「そして、この広告費が、次の穴を開けるんです」
「穴」
「一件二十万の広告費を払うより、一件五万で紹介してくれる業者がいたら、どうします?」
部屋が、静かになった。
「合理的だ」真柴は言った。
「はい。経済的には、完全に合理的です。そして、違法です」
◇ ◇ ◇
「もう一本、別の管があります」
鵜飼は、二本目の線を引いた。
「整骨院です。柔道整復師の施術は、条件を満たせば自賠責から支払われる。しかも、健康保険と違って、単価の縛りが緩い」
「数は」
「柔整師は、この二十数年で二倍以上に増えました。養成校の規制が緩和されたからです」鵜飼は言った。「そして、増えた分だけ、patient――失礼、患者の奪い合いになった」
真柴は、その言い間違いを聞き流した。この男は、たぶん英語の資料を読みすぎている。
「一般の腰痛の患者さんは、健康保険で、一回数百円です。ところが交通事故の患者さんは、一回五千円前後が保険会社に請求できる。しかも、来る回数が多い」
「十倍だ」
「だから、交通事故患者は、業界で最も価値の高い患者なんです。整形外科より、整骨院のほうが必死になる理由がこれです」
鵜飼は、指を止めた。
「先生。ここまでで、部品が全部そろってるのがわかりますか」
彼は、順に指さした。
事故が起きる。警察が当事者の名前と電話番号を持つ。
事故直後の被害者は、法律も相場も知らない。
弁護士費用特約があるので、被害者は費用を気にしない。
弁護士は、依頼者を大量に必要としている。
整骨院は、交通事故患者を大量に必要としている。
整形外科は、診断書という唯一の翻訳権を持っている。
後遺障害等級には、二千万円の断層がある。
「あとは、この六つを一本の線でつなぐ人間がいれば、完成です」
真柴は、二枚の名刺を思い出した。
「そいつは、何もしていないように見えるだろうな」
「そうです。紹介するだけ。手配するだけ。サポートするだけ」鵜飼は言った。「この生態系には、悪人が一人もいないんですよ。全員が、自分の立場での合理性に従って動いている。それだけで、金は反社会的勢力の口座まで流れていく」
◇ ◇ ◇
真柴は、しばらく黙っていた。それから言った。
「鵜飼さん。俺からも、一つ言っていいか」
「どうぞ」
「あんたの会社は、頸椎捻挫の治療費を、三か月で打ち切る」
鵜飼の表情が、初めて動いた。
「うちのリハビリに、こういう患者が来る。まだ痛いのに、保険屋に打ち切ると言われた。自費なら続けられるが、金がない。だから通院をやめる」真柴は言った。「そして通院をやめた患者は、症状の一貫性がないと言われて、非該当になる」
「……はい」
「あんたたちが早く切るから、被害者は弁護士を探す。弁護士を探すから、広告に引っかかる。広告に引っかかるから、業者に捕まる」真柴は言った。「入口を作ったのは、あんたたちだ」
鵜飼律は、しばらく答えなかった。
それから、彼は初めてコーヒーに手をつけた。
「先生。私の部署の評価指標を、教えましょうか」
「なんだ」
「支払削減額です」
彼は、カップを置いた。
「私が去年、いくら削ったと思います。四億二千万です。そのうち、いくつが不正請求で、いくつが本当に痛い人だったか。私は、知らない」
彼は、初めて真柴の目を見た。
「知らないまま、四億二千万削って、ボーナスをもらいました」
真柴は、何も言えなかった。
「だから、来たんです」鵜飼は立ち上がった。「先生のところは、この三年、うちに対する請求が減っている。同じ市内で、他は増えているのに」
「それで」
「社内では、それを『優良医療機関』と呼んでます」鵜飼は、口の端を歪めた。「でも私は、たぶん違うと思っています」
「なんだと思う」
「先生が、一人で立ってるんだと思います」
彼は、ドアの前で振り返った。
「先生。生態系というのは、一本の木を切っても壊れません。壊れるのは、その木に依存していた種が、次の木を見つけられなかったときだけです」
第七章 五月十五日の階段
沼田直人の遺体が見つかったのは、五月十五日の午前六時十分だった。
場所は横浜市中区の、築四十年の雑居ビル。彼が一人で借りていたワンルームは五階で、遺体は外階段の下、コンクリートの上にあった。頭部と頸部に致命傷。
県警は、その日のうちに「事件性なし」の方向で処理を始めた。
深夜三時、飲酒後。血中アルコール濃度は〇・一八パーセント。外階段の手すりは基準を満たしておらず、高さ八十センチしかない。防犯カメラは二台あったが、一台は三年前から故障、もう一台は角度の外だった。
真柴がそれを知ったのは、氷室からの電話だった。夕方の外来のさなかで、真柴は診察室を出て、階段の踊り場で聞いた。
「先生。沼田さんが亡くなりました」
真柴は、返事ができなかった。
「昨夜、私と会う予定でした。夜の八時に事務所で。来ませんでした」
「事故なのか」
「そう処理されようとしています」
「あなたは、どう思ってる」
氷室の声は、一切揺れなかった。それが逆に、恐ろしかった。
「先生。彼は、酒が飲めません」
「え」
「アルコール脱水素酵素の欠損です。修習の打ち上げで一口飲んで、救急車を呼ぶ騒ぎになった。私はその場にいました」
真柴は、医師の頭で計算した。
体重六十キロの男性で血中濃度〇・一八パーセントに達するには、日本酒換算で四合から五合。ALDH2欠損型なら、その半分でも意識障害を起こす。フラッシング反応で顔面紅潮、頻脈、嘔吐。
「飲まされたか、あるいは」
「胃に入れられたか」氷室が言った。「司法解剖に回るかどうかで、決まります」
回らなかった。
行政解剖のみ。死因は頭蓋骨骨折による脳挫傷。事件性なしとして、五月十九日に処理が終わった。
その決裁に関わった一人が、県警交通部交通捜査課の戸倉良和警部補であることを、真柴たちが知るのは、四か月後だった。
◇ ◇ ◇
沼田の葬儀は、川崎の実家で行われた。
参列者は少なかった。相良綜合法律事務所からは、代理で若い事務員が一人来た。所長は来なかった。
母親は六十代で、小学校の教員を退職したばかりだと言った。
「直人は、司法試験に三回落ちて、四回目で受かったんです」
真柴と氷室に、彼女はぽつりぽつりと話した。
「合格した日に、電話で泣いてました。これで、困ってる人を助けられるって。……でも去年の正月に帰ってきたとき、あの子、一言も仕事の話をしなかったんです」
氷室は、深く頭を下げた。真柴は、その背中を見ていた。
帰り道、駅までの坂で、氷室が初めて口を開いた。
「先生。私に兄がいたことは、話しましたか」
「いや」
「医師でした。麻酔科です。十一年前に、亡くなりました」
真柴は足を止めた。
「術中に、患者さんが亡くなりました。抜管後の再挿管が遅れた。兄のミスかどうかは、正直、今も私にはわかりません。ただ、病院は兄一人の責任にしました。遺族が訴え、記者会見が開かれ、兄の名前と顔が出ました」
「氷室さん」
「弁護士がついたんです。遺族側にも、病院側にも。病院側の弁護士は、兄に『先生、記録はもう直せませんか』と聞きました」
彼女はまっすぐ前を見て歩いていた。
「兄は断りました。それで、病院は兄を切りました。裁判は三年続いて、その途中で兄は死にました」
「……自死か」
「はい」
坂の上で、風が吹いた。
「私は、その病院側の弁護士を憎んだんです。ずっと。名前も覚えています」
「誰だ」
氷室は答えなかった。答えなかったことが、答えだった。
「先生。私が交通事故をやるのは、金になるからです。医療過誤は、勝てない。十年かかって、負ける。だから交通事故で稼いで、医療過誤をやるんです。年に二件だけ」
彼女は初めて、真柴のほうを向いた。
「私は、聖人じゃありません。私が相良篤を憎んでいるのは、彼が悪いからじゃない。彼が、私がやらなかったことを全部やって、私より成功しているからです」
「それは」真柴は言った。「たぶん、正直すぎる」
「正直じゃないと、負けます」
第八章 特別刑事部の男
六月三日、真柴のクリニックに、二人の男が来た。
診察が終わった午後八時。院長室に通すと、年上のほうが名刺を出した。
横浜地方検察庁 特別刑事部 検事 白河敦。
もう一人は、県警本部刑事部捜査第二課の藪内剛警部補。五十一歳、白髪、疲れた目。二課は知能犯を扱う。詐欺、横領、贈収賄。
「先生。お時間、いただけますか」
白河は四十六歳。眼鏡の奥の目が、動かない。医師でいえば病理医の目だ、と真柴は思った。標本を見る目。
「捜査ですか」
「まだ捜査ではありません。だからこうして、勤務時間外に伺っています」
白河は、ファイルを開いた。
「相武野市周辺で、自賠責の後遺障害十二級十三号の認定率が、三年前から異常に上がっています。全国平均のおよそ七倍。認定申請の九割弱が、特定の三つの医療機関から出ている」
「三つ」
「柏木整形外科、県央中央整形外科、そして――」白河は真柴を見た。「三年前まで、あなたのところが三番目でした」
真柴は椅子の背に体重を預けた。
「うちは、書いてない」
「はい。二年前を境に、あなたのところからの申請は激減しています。件数は増えているのに、十二級はゼロ。私が今日ここへ来たのは、そのグラフを見たからです」
藪内が初めて口を開いた。声が低く、擦り切れていた。
「先生。俺たちは、医者を挙げに来たんじゃない」
「では」
「本丸は、弁護士です」
真柴は黙った。
「保険金詐欺は、単独ではできません」藪内が続けた。「必要なものが四つある。事故、被害者、医証、そして請求する人間。事故は起こる。被害者はいる。医証は医者が書く。請求は――弁護士がやれば、保険会社は疑わない」
「疑わない?」
「疑えないんです」白河が引き取った。「弁護士が代理人についた案件は、保険会社の担当者レベルでは止められない。訴訟リスクがあるからです。弁護士名で内容証明が来れば、社内の稟議が一段上がる。そして上に上がるほど、和解して払え、という判断になる」
真柴は、氷室の言葉を思い出した。医証を作れる人間が勝つ。
「弁護士の名前は、」白河は言った。「損害保険業界における、最も強い通貨です」
部屋の外で、掃除機の音がした。
「先生」白河は身を乗り出した。「私は五年前、大阪でこの種の事件を一つ潰しました。事件屋の会社と、提携弁護士三名、医師二名。起訴して、有罪を取りました」
「ではここでも」
「あのときは、内部から資料が出たんです」
真柴は、沼田直人の顔を思い出した。
「今回は、出そうな人が、死にました」
白河は、それを聞いても表情を変えなかった。
「沼田直人さんですね」
「知ってるのか」
「知っています。四月に、彼から私の部屋に電話がありました。名乗らずに」白河は初めて、わずかに視線を落とした。「二回目にかけると言って、かかってきませんでした」
沈黙が長かった。
「先生」藪内が言った。「あなたは書かなかった。それはもう、十分に危ないことです」
「どういう意味だ」
「この構造では」藪内は目を上げた。「書かない医者は、書けない医者にされる」
第九章 訴状
六月十七日、内容証明が届いた。差出人は相良綜合法律事務所。
通知書、と題されたその文書は、こう始まっていた。
――当職は、依頼者・有村沙那氏の代理人として、貴殿に対し、以下のとおり通知いたします。
依頼者は、令和七年二月二日に発生した交通事故により受傷し、貴院にて治療を受けました。しかしながら貴殿は、依頼者の症状に対し、必要な検査を実施せず、また症状固定時期の判断を誤り、後遺障害診断書に事実と異なる記載をなしました。その結果、依頼者は本来認定されるべき等級を得られず、多大な損害を被りました。
真柴は、二度読んだ。三度目で、手が震えた。
彼が書いた診断書は、十四級相当の内容だった。そして自賠責の判断は――非該当。等級なし。
有村沙那は、何も得ていない。
そして今、彼女の代理人は、その責任を医師に求めている。
「先生」沖田響子が、青い顔で立っていた。「ネットに」
パソコンには、口コミサイトが開かれていた。
――「痛みを訴えても取り合ってくれません。事故の患者は儲からないから適当に扱われます」
――「診察三十秒。触りもしない」
――「後遺障害の診断書を書いてくれず、泣き寝入りになりました」
三日で十七件。すべて星一つ。すべて、この一週間の投稿。
「消せますか」
「消えない」真柴は言った。「これは、消すためにやってるんじゃない」
消すために動けば、動いた証拠が残る。IP開示請求をすれば、費用と時間が消える。そして何より――医師が口コミと戦っているという事実そのものが、次の材料になる。
その日の午後、追い打ちが来た。
神奈川県国民健康保険団体連合会からの照会。過去二年分の、運動器リハビリテーション料の算定根拠の提出を求める。実施者、実施時間、実施計画書の写し。
そして、匿名の通報があったことが、通知の末尾に一行だけ書かれていた。
真柴は、その紙を机に置いた。
黒須稔は、彼のところに二度と来なかった。来る必要がなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、氷室が来た。彼女はクリニックの院長室で、三時間かけてすべての書類を読んだ。
「先生。これは、うまい」
「褒めるのか」
「褒めています」氷室は顔を上げなかった。「彼は、三つのことを同時にやっています。一つ、あなたを民事の被告にする。二つ、あなたの評判を落とす。三つ、あなたを保険者の監査下に置く。この三つは、それぞれ別の主体が動いているように見える。依頼者、匿名の口コミ、匿名の通報者」
「全部、同じ人間だ」
「証明できません。それが設計です」
氷室は書類を揃えた。
「そして、いちばんうまいのはここです」彼女は通知書の一行を指した。「後遺障害診断書に事実と異なる記載をなした――つまり、あなたが嘘を書いたと言っている」
「逆だ。俺は本当のことを書いた」
「そう。でも、法廷でそれを証明するには、有村沙那さんの症状が本当に軽かったことを立証しないといけません」
真柴は、その意味が飲み込めるまで数秒かかった。
「俺が……患者を、嘘つきだと主張する側に回る」
「そうです」氷室は静かに言った。「医者に、患者を攻撃させる。これが、この訴訟の本当の目的です」
真柴は、目を閉じた。
「先生が黙って和解に応じれば、あなたは『不適切な診断書を書いた医師』として記録に残ります。争えば、あなたは『患者の痛みを否定する医師』になる。どちらを選んでも、あなたの名前は汚れる」
「勝ち筋は」
「あります。一つだけ」
「なんだ」
「有村沙那さん本人を、こちら側に連れてくることです」
第十章 夜の街の生理学
有村沙那を見つけるのに、九日かかった。
彼女は、事故の前は保育士だった。事故のあと、頸部痛と不眠を理由に退職している。今は、横浜駅西口の裏の、雑居ビルの三階にいた。
氷室は真柴を連れて行かなかった。真柴は近くの喫茶店で三時間待ち、彼女は一人で入っていった。
戻ってきたとき、氷室の口紅は落ちていた。
「話せました」
「どこで働いてる」
「先生。それは、この件の本質じゃありません」
「本質だろう」
氷室は、しばらく黙った。それから座った。
「事故のあと、彼女は仕事を失いました。傷病手当も出ない。実家は青森で、母親が要介護です。仕送りが月に六万」
「弁護士費用は」
「弁護士費用特約が使えます。だから彼女は、弁護士に一円も払っていません」
真柴は眉をひそめた。「じゃあ、金には困らないはずだ」
「先に、貸しがついたんです」
氷室は説明した。
リンクアシストは、事故被害者に「生活支援」を提供する。治療中で働けない被害者に、示談金を担保にして金を貸す。月に十万、十五万。金利は、書面上は年十五パーセント。だが実際には、手数料、事務費、遅延損害金という名目で、実効三割を超える。
「示談金が入ったら、そこから回収する。回収する側は、示談金の額を知っている。なぜなら――」
「自分たちで作ったからだ」
「そうです。だから、彼らは絶対に取りっぱぐれない。世界一安全な高利貸しです」
「有村さんは、いくら借りてる」
「二百三十万」
真柴は、目を閉じた。彼女の非該当。等級なし。示談金は、治療費と、わずかな慰謝料だけ。
「返せない」
「返せません」氷室は言った。「だから、身体で返している」
その言葉は、部屋の温度を三度下げた。
「彼女が今いる店は、リンクアシストの関連です。名義は別会社ですが、実質は同じ。事故で働けなくなった女性を、そこに入れる。これは、彼らのビジネスの二本目の柱です」
「二本目」
「一本目は、示談金。二本目は、返せなかった人間そのもの」
真柴は、机に肘をつき、両手で顔を覆った。
あの日の診察室が、蘇った。左肩をかばう不自然な捻り。撫でる指。そして、あの怯えた目。
書かれなかったと報告することを恐れている目。
彼女は、真柴が診断書を書けば助かると思っていたのではない。書けなかったときに、自分が何を差し出すことになるかを、知っていたのだ。
「氷室さん」真柴の声はかすれていた。「俺が十二級を書いていたら、彼女は」
「先生」
「答えてくれ」
氷室は、真柴の目を見て、言った。
「借金は消えたでしょう。そして次の年、彼らは同じことを、別の二十人にやったでしょう」
真柴は動けなかった。
「先生。この仕事をしていると、必ず一度は考えます。目の前の一人を救うために、制度に嘘をつくべきかどうか」
「答えは」
「私は、二十代のころ、一度だけ嘘をつきました」氷室は言った。「陳述書の日付を、一日ずらしたんです。時効の関係で。依頼者は救われました」
「それで」
「五年後、同じ手を使えと、事務所の先輩に言われました。断れませんでした。一度やった人間は、断る資格を失うからです」
彼女は立ち上がった。
「敏腕と悪徳を分けるのは、能力じゃありません。技術でもない。最初の一回を、やったかどうかだけです」
第三部 自治という密室
第十一章 何人も、という言葉
七月四日、真柴拓馬は湘南第二弁護士会に、懲戒請求書を提出した。
書式は簡単だった。A4で三枚。対象弁護士の氏名、登録番号、懲戒を求める事由、そして請求者の署名。添付書類として、有村沙那に渡された「記載例」のコピー、リンクアシストの二枚の名刺、そして沼田直人から預かった委任状二百四十通のうち、筆跡の同一性が明らかな三十七通。
受付の職員は、事務的に受け取った。控えに受領印を押し、それで終わりだった。
「これで、どうなる」
弁護士会館の一階ロビーで、真柴は氷室に聞いた。
「まず、綱紀委員会に係属します。委員は弁護士だけじゃありません。学識経験者と、裁判官・検察官経験者も入ります。この会だと十五人、うち弁護士が九人」
「調査は」
「三人の主査が担当します。相良さんに弁明書の提出を求め、双方から資料を取り、必要なら審尋する。半年から一年」
「一年」
「早いほうです」氷室は言った。「二年かかる案件もあります。そして――」
「そして?」
「先生。覚悟しておいてほしいことが、二つあります」
彼女はロビーの椅子に座らなかった。立ったまま、視線をエレベーターホールに向けていた。
「一つ。懲戒請求をした人間の氏名は、対象弁護士に通知されます。匿名では出せません」
「知ってる」
「二つ。相良篤は、あなたに対して、名誉毀損の損害賠償請求をしてくる可能性があります。不当な懲戒請求は、それ自体が不法行為になり得るからです。最高裁の判例があります。事実的、法律的根拠を欠くことを知りながら、または通常人であれば容易に知り得たのに請求した場合、違法になる」
「つまり、負けたら」
「負けたら、あなたが払います。相良さんは、それを大々的にやるでしょう。医師が根拠なく弁護士を攻撃した、という物語にするために」
真柴は、受領印の押された控えを見た。紙一枚。それだけのことが、この先の一年を決める。
「氷室さん。一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「なぜ、あなたが請求しない。あなたのほうが証拠を持ってる」
氷室は、初めて答えるまでに時間をかけた。
「弁護士が弁護士を懲戒請求すると、政治になるからです」
「政治」
「あの人は来年の会長選の本命です。私が請求すれば、これは選挙妨害になる。綱紀の委員も、そう受け取る。九人の弁護士委員のうち、何人が相良派か、私は知らない」
「あなたは、それを知ってて、俺に出させた」
「はい」
氷室は真柴の目を見た。逃げなかった。
「先生。私は、あなたを使いました。それは事実です。怒っていいです」
真柴は笑わなかった。だが、怒りもしなかった。
「使われるのは慣れてる」彼は言った。「医者は、いつも誰かの証拠を作る側だ」
第十二章 綱紀委員会という部屋
湘南第二弁護士会綱紀委員会、第三部会。
主査に指名されたのは、三人だった。委員長の和久井律子、五十七歳。四十一期。専門は労働事件。もう一人は、元裁判官の外部委員。三人目が、四十九期の企業法務系弁護士――名を、日置という。
「相良先生からの弁明書、届いてます」
和久井は、机の上の分厚いファイルを叩いた。二百八十ページあった。
「早いですね」外部委員が言った。「請求から三週間で」
「用意してあったんでしょう」和久井は眼鏡を外した。「読みましたか」
「読みました。……率直に申し上げて、隙がない」
弁明書の構成は、こうだった。
第一、株式会社リンクアシストとは、業務委託契約を締結している。委託の内容は、書類作成の補助、依頼者との連絡調整、通院状況の記録である。いずれも法律事務に該当しない。
第二、同社に支払っている業務委託費は、作業量に応じた実費相当額であり、事件の周旋の対価ではない。単価表を添付する。
第三、委任契約の締結は、必ず当職または当事務所所属弁護士が、依頼者と面談のうえ行っている。面談記録を添付する。
第四、請求者の指摘する「記載例」は、当事務所が依頼者向けに作成した一般的な説明資料であり、医師に対する働きかけではない。同種の資料は、多くの法律事務所が使用している。
第五、請求者・真柴拓馬は、当職の依頼者から損害賠償請求を受けている当事者であり、本件懲戒請求は、当該紛争における報復目的でなされたものである。
和久井は、最後の一行を指でなぞった。
「これが本命ですね」
「ええ」外部委員は頷いた。「報復目的、という一言で、この請求全体を色付けしている」
「面談記録は、本物ですか」
「二百四十件分あります。すべて署名捺印つき」
日置が、そこで初めて口を開いた。
「委員長。これ、そもそも綱紀にかける事案ですか」
和久井は顔を上げた。
「どういう意味です」
「非弁提携という主張は、要するに事件の入口の話でしょう。実際に依頼者に損害が出たわけじゃない。相良事務所の依頼者満足度は高いし、獲得額も高い。誰も困っていない」
「請求者は、依頼者側の医師です」
「その医師が、自分の書いた診断書で依頼者に損害を与えたと訴えられている」日置は淡々と続けた。「私は、これは医師と弁護士のトラブルだと思います。綱紀が入る話じゃない」
部屋が、静かになった。
和久井律子は、四十一期。この会で二十四年、綱紀と懲戒に関わってきた。彼女には、この空気の名前がわかっていた。
弁護士自治というのは、原理としては美しい。国家権力から独立し、自らを律する。だがその実体は、同じ地域で、同じ裁判所に出入りし、同じ会合で酒を飲み、互いに事件を紹介し合う、二千人足らずの共同体である。
そこで誰かを罰するとき、罰する側は、罰したあとも同じ廊下を歩かなければならない。
「日置先生」和久井は言った。「あなた、相良先生の推薦で、今年、日弁連の委員会に入られましたね」
日置の表情は動かなかった。
「入りました。それが何か」
「何も」和久井は書類を閉じた。「主査は三人です。多数決になったら、私は負けますね」
◇ ◇ ◇
その夜、和久井は自分の事務所で、一人残っていた。
二十四年前、彼女が新人だったころ、この会は年に一件しか懲戒を出さなかった。ある年、明らかな預り金横領の事案が、綱紀で止まった。理由は、対象弁護士が末期の癌だったからだ。人道的配慮だと、当時の委員長は言った。
その弁護士は、それから四年生きて、さらに三人の依頼者から金を取った。
和久井は、そのときに決めた。自分は、廊下で嫌われる側になる、と。
スマートフォンが鳴った。番号は非通知。
「和久井先生。夜分に失礼します」
その声を、彼女は知っていた。二十年以上、会館の廊下で聞いてきた声だ。
「相良先生」
「明日、飯でもどうです。うなぎでも」
「主査が対象弁護士と会食するのは、まずいでしょう」
「そうですか。いや、私はね、先生と会長選の話をしたかっただけなんですよ」相良の声には、笑いが含まれていた。「先生、副会長をやりませんか。私の体制で」
和久井は、窓の外を見た。ビルの明かりが、いくつか消えた。
「相良先生。私、あなたのこと、ずっとすごいと思ってました」
「光栄ですね」
「本気です。あなたは、この二十年で、この会でいちばん多く事件をやった。いちばん多く人を助けた。誰も否定できません」
「じゃあ」
「だからこそ、あなたが誰と手を組んだかを、確かめないといけないんです」
電話の向こうで、しばらく音がしなかった。
「先生」相良の声は、まだ穏やかだった。「懲戒っていうのは、面白い制度でしてね。誰でも請求できる。だから、誰でも壊せる」
「脅していますか」
「まさか。弁護士が弁護士を脅すわけがない」相良は言った。「ただね、先生の事務所のイソ弁さん――去年、預り金の記帳を三か月怠っていましたよね。会計帳簿の備付義務違反です。規程第三十条」
和久井の指先が、冷たくなった。
「どうして、それを」
「先生、私は敏腕なんですよ」
電話は、そこで切れた。
第十三章 娘の自転車
七月二十九日、真柴灯は帰宅しなかった。
部活の帰り、午後七時に駅前で友人と別れたところまでは確認できた。八時、紗織が電話をかけた。出なかった。九時、真柴が警察に連絡した。県警は、家出の可能性を検討すると言った。
十時四十分、灯は自分で帰ってきた。
制服のスカートに泥がつき、右の膝と肘に擦過傷。自転車はなかった。
「灯」
「大丈夫。転んだだけ」
真柴は、娘の腕を取った。医師の指が、勝手に動いた。擦過傷の分布。右膝外側、右肘外側、右手掌。すべて右側。そして左の前腕内側に、四つの点状の圧痕。
指の痕だ。
誰かが左腕を掴んで、右へ倒した。
「灯。何があった」
娘は答えなかった。母親が抱きしめると、そこで初めて泣いた。
話を聞き出すのに、四十分かかった。
男が二人、車から声をかけてきた。若い。二十代。「真柴灯ちゃんだよね」と名前を呼ばれた。自転車を押さえられ、腕を掴まれた。抵抗して転んだ。そのときに一人が、彼女の顔の前で、スマートフォンを構えた。
「写真、撮られたのか」
「動画。……たぶん」
「何か言われたか」
灯は、しばらく黙り、それから言った。
「お父さんに、『書けばいいだけだよ』って伝えて、って」
真柴は、その場に膝をついた。
紗織が、彼を見ていた。責める目ではなかった。それがいっそう、堪えた。
◇ ◇ ◇
その夜、真柴は氷室に電話し、氷室は三十分後に藪内警部補を連れてきた。
藪内は、灯の話を聞き、写真を撮り、擦過傷の位置を記録した。それから、真柴を廊下に呼んだ。
「先生。正直に言います」
「言ってくれ」
「これは、立件が難しい」
「娘が掴まれてるんだぞ」
「暴行罪は成立します。ですが、犯人が特定できない。ナンバーも見ていない。防犯カメラは駅前を離れると急に減る」藪内は言った。「そして、いちばんの問題は――彼らが、そこで止めたことです」
「止めた?」
「怪我をさせていない。連れ去ってもいない。写真を撮って、伝言を残して、帰した」藪内は目を上げた。「これは、素人の犯行じゃありません。訓練されてる」
真柴の背中が冷えた。
「先生。彼らの本当のメッセージは、伝言じゃない。『これができる』ということです」
「次は」
「次はない、というのが彼らのやり方です。次があると思わせておいて、やらない。そのほうが長く効く」
藪内は、煙草を出しかけて、やめた。
「先生。俺は二課で十九年やってます。反社が絡む知能犯で、いちばん厄介なのは、暴力を使う奴じゃない。使わずに済ませる奴です」
「守る方法は」
「三つあります」藪内は指を折った。「一つ、娘さんを一時的に県外へ。二つ、あなたが降りる。三つ――」
「三つ目は」
「早く、終わらせることです」
第十四章 平出悟
八月十一日、真柴は呼ばれた。
電話は黒須からではなかった。クリニックの代表番号にかかってきて、受付が取り次いだ。名乗ったのは「一般社団法人交通事故被害者支援ネットワークの理事」だった。場所は、相武野市の隣、厚木の産業道路沿いにある寿司屋の二階。
氷室は反対した。藪内も反対した。真柴は行った。
六畳の座敷に、男が一人で座っていた。
六十近い。紺のポロシャツ。左手の小指が第二関節から先がない。だが真柴が目を留めたのは、そこではなかった。首だ。胸鎖乳突筋の隆起の仕方が、常人と違う。この男は、若いころに首を鍛えている。
「先生、お座りください。平出です」
東成組若頭、平出悟。
「うちの若いのが、先生の娘さんに、失礼をしました」
真柴は、座らなかった。
「あんたの指示か」
「いえ」
「じゃあ誰だ」
「先生。この世界にはね、指示ってものがないんですよ」平出は湯呑みを回した。「あるのは、空気だけです。誰かが困ってると聞く。困らせてる奴がいると聞く。それで若いのが動く。誰も命令してない。だから誰も罪にならない。これを組織的犯罪処罰法で立件するのは、無理なんです」
真柴は座った。座らないと、膝が笑い始めていたからだ。
「先生。俺は謝りに来ました。ほんとに。娘さんに手を出すのは、うちの筋じゃない」
「じゃあ、なぜ止めなかった」
「止められる立場じゃなくなったからです」
平出は、初めて真柴の目を見た。その目には、意外なものがあった。疲労だ。
「うちは、平成のころは、みかじめとノミ屋で食ってました。二十年前に排除条例が出て、口座が作れなくなった。事務所も借りられない。子どもが学校で名前を呼ばれる。今、うちの構成員は、二十年前の五分の一です」
「同情はしない」
「求めてません。事実を言ってるだけです」平出は続けた。「そこへ、若いのが新しい商売を持ってきた。事故の被害者を集めて、病院と弁護士に配る。金は保険から出る。誰も殴らない。誰も泣かない。表向きはね」
「黒須稔か」
「あいつは、うちの盃を返してます。書類上は、堅気です」
「実態は」
「実態は――」平出は湯呑みを置いた。「あいつが、うちの上になった」
真柴は、その意味を理解するのに数秒かかった。
「金を持ってきたのは、あいつです。今、うちの若いのの給料は、リンクアシストの関連会社から出てる。人材派遣、警備、飲食、それから――女の店」
平出は、そこで初めて、目をそらした。
「先生。俺は五十八です。刑務所に三回行きました。人も刺してます。俺は、自分がろくでもないことをやってきた自覚がある」
「それで」
「あいつには、自覚がないんです」
外を、大型トラックが通った。窓ガラスが震えた。
「俺たちの時代は、悪いことをして、悪いと言われて、捕まってました。あいつは、いいことをして、褒められて、儲けてる。被害者を助けてる、弱者の味方だ、って。ホームページに載ってるんですよ、感謝の手紙が」
平出は、腹の底から吐き出すように言った。
「俺は、あれが怖い」
真柴は、湯呑みに手をつけないまま聞いた。
「なぜ、俺にそれを話す」
「先生」平出は言った。「うちの若いのに、去年、事故に遭った奴がいます。追突されて、頸椎捻挫。あいつが柏木先生のところに行けって言った。二か月通って、十二級が取れた。八百万入りました」
「よかったな」
「そいつ、まだ首が痛いって言ってるんです」
真柴は顔を上げた。
「本当に痛いんですよ。俺にはわかる。あいつは嘘をつかない馬鹿だ。でも、あいつがどれだけ痛いって言っても、もう誰も信じない。八百万取ったからです」
平出は、ゆっくりと頭を下げた。
「先生。あんたが書かなかったって聞いて、俺は、たぶん――安心したんです」
第十五章 名前
八月二十日、氷室法律事務所。
白河検事は、私服で来ていた。藪内も一緒だった。ここは事務所ではなく、氷室の自宅マンションだった。
「相良綜合法律事務所の口座は、五つあります」白河はプロジェクターを使わず、紙で説明した。「そのうち一つ、預り金口座から、月に一度、リンクアシストの関連会社へ振込がある。名目は業務委託費」
「そこは弁明済みです」氷室が言った。
「はい。ですが、その関連会社――株式会社ケイアイサポートから、さらに三社へ流れています。人材派遣一社、飲食二社。そして飲食二社の役員に、東成組の準構成員が二名」
「金融機関の届出は」
「疑わしい取引の届出は、去年三件出ています。すべて、動いていません」
藪内が引き取った。
「理由は、こちらです」
彼が机に置いたのは、一枚のコピーだった。県警交通部の内部文書。事故証明の照会記録。
「令和五年から今年まで、相武野署管内の人身事故について、事故当事者の氏名・連絡先の照会が、異常に多い。照会者は、県警交通捜査課の戸倉良和警部補」
「なぜ警官が」
「事故が起きる。当事者の名前と電話番号が、警察の中にはある。それが外に出れば――」
「その日のうちに、電話がかかる」真柴が言った。「有村沙那さんは、事故の翌日に電話が来たと言っていた」
部屋が静かになった。
「戸倉は、」藪内は苦い顔をした。「俺の後輩です。十二年前、一緒に組んでました」
「金か」
「娘さんが、白血病でした。四年前に亡くなってます。移植のために、六百万借りてる」
誰も、何も言わなかった。
「沼田直人の件の決裁に、彼が関わっていました」白河が言った。「司法解剖の要否を判断する段階で、事件性なしの意見を出している」
「立件は」
「地方公務員法の守秘義務違反は、時効が三年です。古い分は落ちる。ですが、それでいい」白河は言った。「私が欲しいのは、彼の刑ではありません。彼の供述です」
白河は、初めて真柴のほうを向いた。
「先生。この事件の構造を、もう一度確認させてください。事故情報が警察から漏れる。事件屋が被害者を確保する。医療機関に振り分ける。医証を作る。弁護士名義で請求する。保険金が下りる。金は、弁護士報酬、医療費、施術費、業務委託費に分かれ、最後に反社会的勢力の運転資金になる」
「そのとおりだ」
「これは、単なる保険金詐欺ではありません」白河は言った。「制度そのものを、パイプラインとして使っている」
彼は、ファイルを閉じた。
「私は、この起訴で、被疑者を六人立てるつもりです。黒須稔、柏木徹雄、戸倉良和、リンクアシストの実務担当二名。そして――」
「相良篤」
「そこが、いちばん遠い」
白河は、まっすぐ言った。
「相良は、一度も自分の口で違法な指示をしていません。書面にも残さない。彼の周りには常に、弁護士としての正当業務という説明が用意されている。彼を落とすには、彼が『知っていた』ことを示す証拠が要ります」
「沼田さんが持っていた」氷室が言った。
「持っていて、死にました」
その夜、白河と藪内が帰ったあと、氷室は真柴に一杯だけ酒を出した。
「先生。さっき、聞きたそうな顔をしていましたね」
「していたか」
「兄の件の、病院側の弁護士の名前です」
真柴は、グラスを置いた。
「言わなくていい」
「言います」氷室は言った。「言わないと、私は、あなたに嘘をついたことになる」
彼女は、ゆっくりと言った。
「相良篤です」
真柴は、目を閉じた。
「先生。私は、公正な人間じゃありません。この件を追っているのは、正義感じゃない。復讐です」
「知ってた」
「え」
「最初の日に、あなたは言った。彼を憎んでいるのは、彼が私より成功しているからだ、と」真柴は言った。「あれは、嘘だな」
氷室は、答えなかった。
「氷室さん。俺は、動機がどうであろうと構わない。医者もそうだ。名誉のために手術する奴も、金のためにする奴もいる。患者が治れば、それでいい」
「それは、」氷室は、初めて笑った。ひどく歪んだ笑いだった。「甘いです、先生」
「そうかもしれん」
「動機は、必ず、最後に手術の質を変えます」
第四部 交差点
第十六章 無効という武器
九月二日、氷室玲は有村沙那を、事務所の応接室に座らせた。
三か月ぶりに見る彼女は、七キロは痩せていた。爪は短く割れ、前腕の内側に、注射痕ではない古い傷が並んでいた。真柴の目は、その傷の形と方向を読んだ。自分でつけたものだ。利き手で、左に。
「有村さん」氷室は、書類を一枚だけ出した。「これ、あなたが署名した金銭消費貸借契約書です」
「はい」
「貸主は、株式会社ケイアイサポート。この会社は、貸金業の登録をしていません」
沙那は、意味がわからないという顔をした。
「金を貸す商売をするには、国か都道府県に登録がいります。無登録で貸せば、それだけで犯罪です。貸金業法十一条違反、五条の登録拒否事由。十年以下の懲役または三千万円以下の罰金。法人なら一億円」
「……じゃあ」
「そして、金利です」氷室は指を置いた。「契約書は年十五パーセントですが、あなたが実際に受け取った額と返した額を計算すると、実質年利は三百八十パーセントを超えます」
真柴は思わず息を呑んだ。
「出資法五条、上限は年二十パーセント。年百九パーセントを超える契約は、そもそも無効です。そして最高裁は、平成二十年に、いわゆるヤミ金の貸付について、こう言っています」
氷室は、判決文を諳んじた。
「――著しく高利の貸付けという形をとって、被害者から元利金等の名目で違法に金員を取得することを目的とした反社会的行為であり、貸主は、交付した元本相当額についても、不法原因給付として返還を請求することができない」
「つまり」真柴が言った。
「一円も返さなくていいということです」
沙那の口が、半分開いた。
「そんな、」彼女の声は震えていた。「そんなの、通るわけない」
「通ります」
「だって、あの人たち、弁護士がついてるって」
「ええ」氷室は言った。「だから、私が必要なんです」
彼女は、身を乗り出した。
「有村さん。あなたに三つ、選択肢があります」
一つ。何もしない。今の店で働き続け、二百三十万を返し続ける。返し終わることは、おそらく、ない。
二つ。逃げる。青森へ帰る。ただし、母親の住所は彼らが知っている。
三つ。刑事告訴する。そして、真柴に対する損害賠償請求訴訟を、取り下げる。
「三つ目をやったら」沙那は言った。「私、どうなりますか」
氷室は、嘘をつかなかった。
「怖い思いをします」
沙那は笑った。乾いた、二十三歳の笑いではない笑い方だった。
「もう、してます」
彼女はしばらく黙り、それから、真柴を見た。
「先生」
「はい」
「あのとき、私、先生に嘘つきました。首、そんなに痛くなかった。ほんとは、腰のほうが痛かった。でも腰じゃ十二級は無理だって言われてて」
「知ってました」
「知ってた?」
「あなたは、痛い場所を撫でていた」真柴は言った。「人は、本当に痛いところは撫でません」
沙那の目から、涙が落ちた。それは、この日、初めての人間らしい反応だった。
「じゃあ先生、なんで怒らなかったんですか」
真柴は答えた。
「あなたが嘘をついた理由のほうが、あなたの嘘より、ずっと重かったからです」
第十七章 相良篤
九月十日、真柴と相良篤は、初めて向き合った。
場所は、民事訴訟の第一回口頭弁論――ではなかった。その前日、相良が真柴のクリニックに、一人で来た。
午後八時、予告なし。スーツは仕立てがよく、しかし派手ではなかった。五十四歳。髪はきれいに白く、姿勢がいい。声は、驚くほど柔らかかった。
「先生。いい建物だ。リハ室の窓、大きいですね」
「用件を」
「リハビリって、明るいところでやると、成績が変わるでしょう」相良は、真柴の返事を待たずに続けた。「うつ病の人と一緒です。日光を浴びると、痛みの閾値が上がる。先生の設計は正しい」
真柴は、この男が本当に読んでいることを悟った。
「相良さん。何をしに来た」
「和解の話です」相良は座った。「うちの依頼者――有村沙那さんの訴訟は、取り下げます」
「条件は」
「懲戒請求の、取り下げ」
「断る」
「即答ですね」相良は笑った。「先生、私は、あなたが嫌いじゃない」
「それは光栄だ」
「本気です」相良は身を乗り出した。「私は年に千三百件、事故の被害者を見ています。九割は、痛くありません。正確に言えば、痛いことになりたいだけです。事故に遭った、大変な思いをした、だから何かもらって当然だと思っている。私は彼らを軽蔑しません。人間はそういうものだから」
「残りの一割は」
「本当に痛い」相良の目が、そこで初めて鋭くなった。「そして、その一割は、絶対に自分で戦えない。痛い人間には、体力がないからです。書類が書けない。電話に出られない。病院に通えない。放っておけば、その一割は、必ず切り捨てられる」
真柴は黙っていた。
「だから、システムを作りました」相良は言った。「入口を広く取る。事故に遭った人間を、全員拾う。九割は嘘でもいい。そのなかに、一割の本物が混ざっている。全員を同じ工程で処理すれば、本物も一緒に救われる」
「そのために、事件屋を使うのか」
「先生。私が黒須を使っているのではありません」相良は言った。「黒須が、私を使っているんです」
真柴は、その言葉が本心か演技か、判別できなかった。それが、この男の最大の武器だった。
「私は二十六期です。修習を出たとき、この地域には弁護士が百四十人しかいなかった。事件は待っていれば来ました。今、二千人です。若い連中は、月に二十万で、二百件を回してる」
「沼田直人か」
相良の表情は、一瞬も揺れなかった。
「彼のことは、残念でした」
「彼は酒が飲めなかった」
「そうでしたか」
この男は、驚かなかった。驚くふりもしなかった。
「先生」相良は、椅子の肘掛けを撫でた。「弁護士会の懲戒って、ご存じですか。処分の九割は戒告です。戒告というのは、会報に名前が載って、それで終わり。私はね、それでも構わないと思ってるんです」
「なぜ」
「私が戒告になれば、この地域の交通事故案件は、月に百件、行き先を失います。誰が受けると思います?」相良は言った。「東京の、もっとひどい事務所です。着手金二十万取って、放置して、時効で終わらせるところ」
「それは脅しか」
「予測です」
相良は立ち上がった。ドアの前で、振り返った。
「先生。ひとつだけ、教えてください」
「なんだ」
「あなたは、なぜ書かなかった」
真柴は、その質問を待っていた気がした。
「書けば、患者が救われた。書かなければ、患者は苦しんだ。あなたは、それを知っていて書かなかった。なぜです」
「書いたら、」真柴は言った。「次の患者の言葉が、信じられなくなるからだ」
相良の目が、初めて、はっきりと変わった。
「医者の仕事は、痛みを診ることじゃない。痛みを信じることだ」真柴は続けた。「俺が一度でも嘘の痛みを書いたら、俺は次から、全員を疑う。疑いながら診察する医者は、もう医者じゃない」
長い沈黙があった。
相良篤は、深く、静かに頷いた。
「なるほど。あなたは、負けます」
「かもしれん」
「いえ。必ず負けます」相良は言った。「その理由がわかりますか。あなたは、自分を守るために書かないと言っている。それは、正しい。だが、正しさで人は動かない。動くのは、金と、恐怖だけです」
ドアが閉まった。
真柴は、机の上のICレコーダーを止めた。
そこには、犯罪は、やはり一秒も録音されていなかった。
第十八章 九月十八日
その夜のことを、真柴は生涯忘れない。
午後十一時二十分。クリニックの警備会社から、自宅へ電話が入った。三階のリハビリ室で、火災報知器が作動している。
真柴が駆けつけたとき、消防車は二台来ていた。火は、三階の物置と、二階の医事課の一部を焼いて、消し止められていた。
燃えたのは、紙だった。
カルテの原本保管庫。電子カルテ化する前の、開業から五年分の紙カルテ。そして――医事課に保管されていた、後遺障害診断書の控えの綴り。
「先生」沖田響子は、パジャマの上にコートを着て立っていた。「バックアップは、サーバーに」
「ある。だが、紙の原本がない」
電子データは、改竄が疑われれば争いになる。裁判で決定的なのは、常に原本だ。
出火原因は、三階の給湯器周りの配線と発表された。真柴は信じなかった。藪内も信じなかった。だが、放火の物証は出なかった。
そして、その夜、もう一つ起きた。
紗織が、消防隊員と話しているあいだに、駐車場で転倒した。左手をついた。
真柴が見たとき、左手関節は明らかに変形していた。フォーク状変形。橈骨遠位端骨折。
彼は、その場で手を診た。触った瞬間に、わかった。
元手術室看護師の、器械出しの手だ。三百件の脊椎手術で、一度もミスをしなかった手だ。
「紗織」
「大丈夫。折れただけ」
「折れてる」
「わかってる。私、看護師よ」
救急車のなかで、紗織は言った。
「拓馬さん」
「なんだ」
「これ、事故よね」
真柴は、答えなかった。
紗織は、そのまま天井を見て、言った。
「私、あなたが十六年前に大学を辞めたとき、実は少しだけ、嬉しかったの」
「なぜだ」
「あなたが、あのまま教授になってたら、私はあなたを尊敬できなかったと思うから」
彼女は、痛みで顔を歪めながら、笑った。
「今度も、辞めなくていい。逃げなくていい。でも、一つだけ約束して」
「なんだ」
「灯を、置いていかないで」
◇ ◇ ◇
九月二十四日、真柴に、一通のメールが届いた。
差出人は不明。添付は動画ファイルが一つ。
再生すると、ホテルのバーが映っていた。九月六日、木曜日。真柴は、医師会の会合の帰りに、そこにいた。
彼の隣に、女が座っている。二十代後半。真柴は、その女を覚えていた。学会関係者だと名乗り、脊椎の話をした。真柴は一時間ほど話し、それから帰った。
だが動画は、そこで切られていなかった。
エレベーターホール。女が真柴の腕を取る。真柴が振りほどく。だが、角度によっては、振りほどいているようには見えない。次のカットは、廊下。女が部屋に入る。ドアが閉まる。その直前に、真柴らしき後ろ姿が、廊下の端に映っている。
真柴は、その日、部屋になど入っていない。エレベーターで一階に降り、タクシーに乗った。
だが動画には、その部分がない。
メールの本文は、一行だった。
――奥様のお怪我、お大事に。
真柴は、パソコンの前で、五分間、動かなかった。
それから、彼はその動画を、氷室に転送した。そして、白河検事に転送した。そして、紗織に転送した。
紗織からの返信は、三分後だった。ギプスの手で、片手で打ったのだろう。誤字があった。
――このホテル、あなたが一人で泊まる訳ないでしょ。あなた、ホテルの枕きらいだもん。
真柴は、そこで初めて、泣いた。
第十九章 柏木徹雄の選択
十月三日、柏木整形外科に、県警の家宅捜索が入った。
容疑は、診療報酬の不正請求。運動器リハビリテーション料を、実際には無資格者が実施していたにもかかわらず、理学療法士の名義で算定していた。三年分で、約一億八千万円。
白河はこれを「入口」と呼んだ。
保険金詐欺で医師を落とすのは難しい。診断書の記載が「誤り」なのか「虚偽」なのかは、医学的評価の問題であり、無罪主張の余地が大きい。だが診療報酬の不正請求は、名義と実施記録の突合で機械的に立証できる。
「柏木先生は、必ず落ちます」白河は言った。「そして落ちたとき、彼が守ろうとするのは、自分の刑ではありません。息子さん二人の医学部の学費です」
その予測は、当たった。
十月十一日、柏木徹雄は、任意で二度目の取調べに応じた。そして、供述した。
――後遺障害診断書のテンプレートは、私が作ったものではありません。
――令和四年の秋に、リンクアシストの黒須さんから、USBメモリで受け取りました。
――そのファイルの作成者情報には、「S.Sagara」と入っていました。
白河は、そのUSBメモリの押収に成功した。プロパティは、消されていなかった。
作成者、S.Sagara。最終更新者、K.Kurosu。作成日時、令和四年八月十九日。
それだけでは、足りない。プロパティは偽装できる。だが、白河にはもう一つあった。
同じ日付、同じ時刻に、相良綜合法律事務所の会議室で行われた「交通事故案件処理研修会」の議事録。参加者名簿に、黒須稔と柏木徹雄の名前がある。
弁護士会館ではない。法律事務所の会議室で、弁護士でない者と医師を集めて、後遺障害等級の取り方を教えていた。
「これは、」氷室は資料を見て、言った。「非弁提携どころじゃない。指揮命令です」
◇ ◇ ◇
十月十四日の夜、真柴のスマートフォンが鳴った。柏木からだった。
「真柴」
声が、ひどかった。
「柏木。どこにいる」
「病院だ。……六階の、屋上」
真柴は、車のキーを掴んだ。
「柏木、聞け。俺は今から行く。四十分だ。それまで、そこで座ってろ」
「真柴。俺は、あのとき、お前に何を言われたか覚えてる」
「柏木」
「『本当に十二級の人間が、疑われるようになった』って」柏木は泣いていた。「俺、去年な。一人だけ、本当に頸髄症の患者がいたんだ。七十二歳の女性。手の巧緻運動障害があって、深部腱反射が亢進してて。俺は、ちゃんと診断書を書いた。本当のことを書いた」
「それで」
「非該当だった」
真柴は、ハンドルを握る手に力を込めた。
「俺の名前で出した診断書は、もう、信用されてなかったんだ」
柏木徹雄は、屋上から飛び降りなかった。真柴が着いたとき、彼は給水塔の下に座り込んで、震えていた。
真柴は、隣に座った。何も言わなかった。
一時間後、柏木が言った。
「真柴。息子に、なんて言えばいい」
「本当のことを言え」真柴は言った。「お前が今日、飛ばなかったことも含めて、全部」
第二十章 戸倉良和
十月二十八日、県警交通部の戸倉良和警部補は、監察の聴取を受けた。
彼は、三回目の聴取で、認めた。
事故証明の情報を、リンクアシストに流していた。一件あたり、三万円。三年間で、およそ四百件。総額千二百万円。
娘の白血病の治療費として借りた六百万は、四年前に完済していた。それ以降も、彼は流し続けた。
藪内が、その理由を聞いた。
「なぜ、やめなかった」
戸倉は、長いあいだ黙っていた。
「藪内さん」
「なんだ」
「娘が死んだあと、俺、事故の現場に行くのが、平気になったんです」
藪内は、何も言わなかった。
「前は、若い子が死んでる現場に行くと、家に帰って眠れなかった。今は、平気なんです。名前と電話番号をメモして、帰ってくる」戸倉は言った。「金が欲しかったんじゃない。俺は、あそこで死んでる人が、ただの情報になってくれると、楽だったんです」
その供述は、事件の性質を変えた。
だが、白河が本当に必要としていたのは、次の質問への答えだった。
「戸倉さん」白河は、静かに聞いた。「今年の五月十五日、あなたはどこで、何をしていましたか」
戸倉は、机を見たまま答えた。
「五月十四日の午後十一時、黒須から電話がありました」
「内容は」
「『相良のところのイソ弁が、明日、地検に行く。どうにかしてくれ』」
「あなたは、どうしましたか」
「俺は、何もしていません」戸倉は言った。「ただ、一つだけ答えました。『あの部屋は、外階段しかない』と」
取調室の空気が、止まった。
「その情報を、どこで得ましたか」
「四月に、沼田さんの身辺を調べろと言われて、行きました。一度だけ、部屋の前まで」
「あなたは、それが何に使われるか、わかっていましたね」
戸倉良和は、初めて顔を上げた。四十九歳の男の顔が、五十九歳に見えた。
「わかっていました」
白河は、ペンを置いた。
「戸倉さん。あなたの供述は、殺人の共犯に近づいています。弁護人を呼びますか」
「呼びません」
「なぜ」
「弁護士は、」戸倉は言った。「もう、信じられないんです」
間章 会派の夜
弁護士会には、政党がある。表向きは、ない。
湘南第二弁護士会には、三つの「会派」がある。最大が「湘友会」、およそ八百人。次が「新法曹の会」、四百人。残る六百人は、どこにも属していないか、名前だけ入っている。
会長選挙は、この三つの綱引きで決まる。実際には、湘友会が推した候補が二十年間、負けたことがない。
十一月の夜、横浜・野毛の座敷で、湘友会の幹事会が開かれていた。参加者は十一人。全員が五十代以上、全員が男性だった。
「相良さんは、もう無理でしょう」
言ったのは、七十代の元会長だった。
「綱紀が審査相当を出した。これで会長選に出したら、会が笑われる」
「しかし、代わりがいませんよ」四十代の幹事が言った。「今、会長を引き受けられる人が何人います。任期一年、報酬は月に十五万。自分の事務所は回らなくなる。日弁連の会議で東京に月四回。それで、会員からは文句だけ来る」
「だから相良さんに頼んだんだ」
「そうです。あの人は、事務所が回るからです」
誰も、その意味を口に出さなかった。事務所が回るというのは、本人が一件も担当しなくても収益が出る、ということだ。そういう事務所は、この会に三つしかない。
「和久井さんは、どうです」
その名前が出たとき、座敷が静かになった。
「綱紀の委員長が会長になったら、報復人事に見える」
「本人は出ませんよ。あの人、選挙が嫌いだ」
「嫌いなんじゃない」元会長は、盃を置いた。「あの人は、票が読めないだけだ」
その言葉に、笑いが起きた。
その席にいた一人が、後に氷室にこう漏らしている。
「あの夜、誰も、相良さんが何をやったかの話をしなかったんです。三時間、一度も。話したのは、誰が出るか、誰が票を持ってるか、それだけでした」
◇ ◇ ◇
同じ夜、別の場所で、もう一つの会合があった。
参加者は四人。全員が三十代の若手弁護士だった。場所は、居酒屋のチェーン店の二階だった。
「僕、来月で辞めます」一人が言った。「実家の会社に入ります」
「もったいない」
「もったいなくないですよ。去年の所得、四百二十万です。奨学金の返済が月に四万三千。事務所の売上ノルマが月百二十万」
「うち、そのノルマないですけど、代わりに国選と法テラスばっかりです」別の一人が言った。「法テラスの民事扶助、着手金が五万とかですよ。事件終わるまで一年半かかって五万」
「だから交通事故に行くんですよ、みんな」
三人目が、そう言った。
「交通事故は、弁護士費用特約がある。依頼者は一円も払わないのに、こっちには保険から三十万、四十万入る。しかも定型処理で回る。あれがなかったら、うちの世代は食えてません」
「でも、その入口を作ってるのが」
「そう。だから、誰も言えないんです」
四人目――彼は、その年に沼田直人の担当していた案件を八十件引き継いだ弁護士だった――は、ずっと黙っていた。
彼は、最後にこう言った。
「僕、沼田さんの事件記録を読んだんです。八十件全部」
「どうでした」
「メモが、すごく丁寧なんですよ。依頼者の子どもの名前まで書いてある。会えてないはずなのに」
彼は、ジョッキを持ったまま、しばらく動かなかった。
「あの人、たぶん、電話だけで会おうとしてたんだと思います」
◇ ◇ ◇
弁護士自治は、密室ではない。
議事録は残る。会報は配られる。総会は公開されている。
だが、実質を決めるのは、いつも、記録の残らない座敷と、記録の残らない居酒屋の二階である。
そして、そこにいる人間の顔ぶれが、決定的に違う。
片方には、事務所が回る五十代がいる。
もう片方には、来月で辞める三十代がいる。
和久井律子が二十四年かけて学んだのは、制度の欠陥ではなかった。制度は、よくできていた。壊れていたのは、その制度を動かす人間の配置のほうだった。
第五部 議決
第二十一章 十一月十二日
逮捕は、朝六時に始まった。
株式会社リンクアシスト本社――相武野駅前の、七階建てビルの四階。県警捜査二課と組織犯罪対策課の合同で、四十人が入った。
黒須稔は、抵抗しなかった。パジャマではなく、スーツを着ていた。三時間前から起きていたのだ。
「令状です」
「はい」黒須は読んだ。丁寧に、二度読んだ。「詐欺、貸金業法違反、組織的犯罪処罰法の三条ですか。ずいぶん盛りましたね」
同日、柏木徹雄、戸倉良和、リンクアシストの実務担当二名が逮捕された。
相良篤は、逮捕されなかった。任意の事情聴取が、その日の午後に一回、行われただけだった。
夕方のニュースは、こう報じた。
――交通事故の被害者を集め、うその後遺障害診断書で保険金をだまし取ったとして、会社役員ら五人が逮捕されました。捜査関係者によりますと、グループは、警察官から漏れた事故情報をもとに被害者に接触し、提携する医療機関に通院させていたということです。
弁護士の「べ」の字も、出なかった。
白河敦は、その夜、氷室の事務所に来た。
「悔しいですか」氷室が聞いた。
「悔しいですよ」白河はコートを脱がずに答えた。「ですが、これでいいんです。相良を今日逮捕すれば、彼は完黙します。あの人は、黙秘の練習をしている」
「練習?」
「大阪の事件のとき、被疑者になった弁護士が三人いました。二人は喋りました。一人は、二十日間、一言も喋らなかった。その一人が、後に相良の事務所に、勾留中の接見の仕方を教えに来ています」
氷室の眉が動いた。
「彼は、備えている。だから、私は彼を刑事で落としません」白河は言った。「彼を落とすのは、弁護士会です」
「綱紀ですか」
「刑事裁判は、合理的な疑いを超える証明が要ります。相良が黒須の犯罪を『知っていた』ことを、私は九割の確からしさでは示せる。だが、それでは足りない」白河は言った。「懲戒は違います。要件は『非行』です。犯罪である必要すらない」
「立証の程度も、緩い」
「ええ。弁護士会が、弁護士に求める水準です。国家がではなく」
白河は、そこで初めてコートを脱いだ。
「氷室先生。私は検事です。弁護士自治というものが、正直、ずっと嫌いでした。身内で庇い合う仕組みだと思っていた」
「今は」
「今は、これが最後の砦だと思っています」白河は言った。「なぜなら、私は相良を起訴できない。できないものを、あなた方は罰せる。それは、国家より弁護士会のほうが厳しくあり得るということです」
彼は、真柴のほうを向いた。
「先生。ですから、綱紀委員会は、負けてはいけないんです」
第二十二章 三対〇
十一月二十七日、湘南第二弁護士会綱紀委員会第三部会、第九回審査。
和久井律子は、朝から胃が痛かった。
この日の議題は、議決だった。懲戒審査を相当とするか、しないか。三人の主査の意見が一致しなければ、部会全体、そして委員会全体の議論に上がる。
だが、実務上、主査の意見は極めて重い。
「では、まず日置先生から」
和久井は、あえて先に振った。
日置は、資料を開かずに言った。
「懲戒審査相当、で結構です」
和久井は、顔を上げた。外部委員も、驚いていた。
「日置先生。前回は」
「前回は、これは医師と弁護士のトラブルだと申し上げました。訂正します」日置は言った。「柏木医師の供述と、USBメモリのプロパティ、そして令和四年八月十九日の議事録。あれを読んで、意見を変えました」
「理由を、記録に残る形で」
「弁護士でない者に対して、後遺障害等級の獲得方法を教える研修を、自らの事務所で開催した。これは、非弁行為を教唆したのと同じです」日置は淡々と言った。「弁護士職務基本規程十一条。弁護士は、非弁護士との提携をしてはならない。この『提携』の中身は、報酬の分配だけではありません。業務の一体化です」
外部委員が、頷いた。
「私も、審査相当です」
和久井は、三人分の署名欄を見た。
「日置先生」彼女は聞いた。「立ち入ったことを伺います。あなたは、相良先生の推薦で日弁連の委員会に入られた」
「はい」
「それでも」
日置は、そこで初めて、ためらった。
「委員長。私の父も、弁護士でした」
「存じています」
「父は、平成十年に、業務停止一年の処分を受けています。預り金の流用でした。事務所が潰れて、母がパートに出ました」日置は、机の一点を見ていた。「私は、父を軽蔑していました。ずっと。……ですが最近、思うんです。父は、処分されたから、そこで止まった」
彼は顔を上げた。
「処分されなかった人は、止まらないんです」
和久井律子は、二十四年で初めて、綱紀委員会の部屋で泣きそうになった。
議決は、三対〇。懲戒審査相当。
◇ ◇ ◇
だが、事はそこで終わらなかった。
議決の三日後、湘南第二弁護士会の会員向けメーリングリストに、匿名の投稿があった。
――綱紀委員会第三部会の主査構成について。
――委員長・和久井律子会員は、対象会員と会長選挙において対立する立場にあり、公正性に疑義がある。
――また、同会員の事務所においては、令和六年、預り金の会計帳簿の備付けに関する規程違反があったと聞く。
和久井は、その文面を三度読んだ。
情報の出所は、一つしかなかった。彼女自身が、一年前に、日弁連の研修で「うちも一度ヒヤリとした」と雑談で話した相手。
その相手は、当時の会の副会長だった。相良篤ではない。相良の派閥の人間だった。
「これが」和久井は、氷室に電話で言った。「弁護士自治です」
「委員長」
「氷室先生。あなたに一つ、忠告しておきます」
「はい」
「この件が終わったら、あなたはこの会で、十年、仕事がやりにくくなります」
氷室は、間を置かずに答えた。
「もう、やりにくいです」
和久井は、笑った。この二か月で初めて笑った。
第二十三章 会員集会
十二月十二日、臨時会員集会が招集された。
議題は「綱紀・懲戒手続の公正性に関する件」。招集したのは、相良派の会員二十七名。会則上、会員の五分の一の請求で集会は開ける。実際には、招集自体が目的だった。
会場は、弁護士会館の大講堂。三百人が入った。会員数千八百、出席率は二割に満たないが、それでも異例だった。
最初に立ったのは、六十代の会員だった。
「私は、相良会員を擁護するために来たのではありません。私が問題にしたいのは、手続です。今回、綱紀委員会に係属した段階で、その事実が報道機関に漏れています。これは重大な問題だ」
拍手が起きた。
次の会員が立った。
「そもそも、懲戒請求者は医師です。しかも、対象会員の依頼者から訴えられている当事者だ。私は、当事者による懲戒請求を制限すべきだと思う」
これにも拍手があった。
三番目に立ったのは、四十代の女性会員だった。
「制限、というのは、どういう意味でしょうか」
「濫用的な請求を防ぐという意味です」
「弁護士法五十八条は、『何人も』と定めています」彼女は言った。「この『何人も』を制限するというのは、法改正です。この会に、その権限はありません」
場内が、ざわついた。
「それに、」彼女は続けた。「私たちは、依頼者に対して、こう言っていませんか。『泣き寝入りしないでください』『おかしいと思ったら声を上げてください』と。その私たちが、自分たちに向けられた声だけは制限したい、というのは、通らないと思います」
拍手は、まばらだった。だが、あった。
最後に、相良篤が立った。
彼は、マイクの前で、二十秒沈黙した。会場が静まり返るのを、正確に待った。
「私は、来年の会長選挙に立候補しません」
どよめきが起きた。
「理由は二つあります。一つ、私は現在、綱紀委員会の審査を受けている身であり、この状態で会の代表を目指すのは、会に対する礼を失します」
彼は、間を置いた。
「二つ目は、より個人的な理由です」
相良は、会場を見渡した。真柴と氷室は、傍聴席の最後列にいた。相良は、そこを正確に見た。
「私は、二十六期です。四十六年、弁護士をやってきました。そのあいだ、私が受任した事件は、およそ二万一千件です」
彼は、数字を諳んじた。
「そのうち、私が個人的に会って、話を聞いた依頼者は、おそらく三千人に満たない」
会場が、静かになった。
「残りの一万八千人を、私は知りません。書面でしか知らない。名前と、事故の日付と、頸椎捻挫という四文字でしか知らない」相良は言った。「私はそれを、効率と呼んできました。この四十六年、私はこの地域で、誰よりも多くの人を救ったと思っています。それは、今も本気でそう思っている」
彼は、マイクを握り直した。
「ですが、最近、こう考えるんです。一万八千人を知らないまま救うことと、一万八千人を知らないまま売ることのあいだに、私はどれだけの距離を置いてきたのか」
誰も、動かなかった。
「私は、その距離を測るのを、途中でやめました」
相良篤は、頭を下げた。
「それが、私の非行です」
彼は席に戻った。会場は、拍手をしなかった。誰も、どうしていいかわからなかった。
真柴は、隣の氷室を見た。
彼女は、両手を膝の上で固く握り、まっすぐ壇上を見ていた。その目は、赤かった。
「氷室さん」
「言わないでください」
「なんだ」
「あの人が、本気で言っている可能性を、考えてしまいました」氷室は言った。「それが、いちばん腹が立つ」
第二十四章 消えた
十二月十九日、有村沙那が消えた。
氷室が用意したウィークリーマンションに、彼女は八日間いた。九日目の朝、部屋は空だった。荷物は残っていた。携帯電話は、テーブルの上にあった。
真柴は、その部屋に立って、既視感に襲われた。
沼田直人の部屋も、こうだったのだろう。
「先生」氷室の声は、初めて、明確に震えていた。「私のミスです」
「今は、それはいい」
二時間後、藪内が来た。行動確認の要請はしていたが、二十四時間の張り付きはついていなかった。人員がない。
「防犯カメラは」
「エントランスに一台。……朝六時二十分、女性が一人で出ています。誰にも連れられていない」
「自分で出た、ということか」
「自分で出た形にしてある、ということです」藪内は言った。「呼び出されたんでしょう」
「どうやって。携帯は置いてある」
藪内は、テーブルの上のスマートフォンを見て、それから、部屋の隅の固定電話を見た。
「ここ、内線がありますね」
「フロントからの」
「フロントは、二十四時間無人です。外部から代表番号にかけて、部屋番号を押せば繋がる」
真柴は、目を閉じた。
完璧だった。この男たちは、いつも完璧だった。
◇ ◇ ◇
その夜、真柴のスマートフォンに、非通知の電話がかかってきた。
平出悟だった。
「先生。悪いね、夜中に」
「有村沙那を知ってるか」
「知ってます」
真柴は、立ち上がった。
「先生。落ち着いて聞いてください。俺は今、あんたに電話してること自体で、命を張ってる」
「……すまん」
「二十三の女の子でしょう。青森の。今、川崎にいます」
「無事か」
「無事です。今のところは」平出は言った。「先生。これは取引じゃない。俺は、あんたに何も求めない」
「なぜだ」
平出は、しばらく黙った。
「俺の女房が、四年前に死にました」
「……」
「膵臓です。見つかったときには、もう手遅れだった。最後の三か月、痛がってました。モルヒネ入れても、痛いって言うんです」
真柴は、受話器を握り直した。
「先生。痛いって言ってる人間を疑わない仕事があるって、俺は初めて知ったんです。あんたを見て」
「平出さん」
「うちのシマで、痛いって言う奴は、たいてい嘘です。金が欲しいか、逃げたいか。俺は四十年、そういう世界にいた」平出は言った。「だから、女房が痛いって言ったとき、俺は最初の二週間、疑ってたんですよ」
電話の向こうで、息を吸う音がした。
「それが、俺の一生の恥です」
真柴は、何も言えなかった。
「川崎区の、京町の倉庫です。屋号は『第二鶴巻商会』。名義は関係ない会社になってます」平出は言った。「先生。警察に言ってください。俺の名前は出さないで、でもなく――出してもらって構わない」
「平出さん」
「俺はもう、あの商売の外にいるんです。若頭ってのは、名前だけになった」
彼は、最後に言った。
「先生。黒須は、勾留中です。それでも動くんですよ、あの商売は。だから、あんたたちが本当に潰さないといけないのは、黒須じゃない」
「誰だ」
「仕組みです」
第六部 症状固定
第二十五章 京町
十二月二十日、午前四時十分。
川崎区京町の運河沿い、廃業した製函工場の跡地。「第二鶴巻商会」の看板は、錆びて半分読めなかった。
県警は、組織犯罪対策課と機動隊で四十六人。捜索差押許可状は、貸金業法違反と監禁の被疑事実で取った。真柴は、二百メートル離れた消防の指揮車の脇にいた。医師として立ち会うことを、藪内が押し切った。
「先生。中には絶対に入らないでください」
「わかってる」
午前四時十七分、突入。
最初の三分間、無線は静かだった。四分目に、怒号が入った。五分目に、「一名負傷」。
真柴が動いたのは、そのときだった。藪内が止めなかったのは、彼が階段で足を滑らせて、自分も倒れていたからだ。
工場の内部は、寒かった。天井が高く、蛍光灯が三本だけ生きていた。奥にプレハブの事務所があり、その手前の床に、男が倒れていた。
二十代前半。作業着。左の側腹部から、ナイフの柄が突き出ていた。
「先生!」
真柴は膝をついた。医師の頭が、勝手に回り始めた。
刺入部位、左第十肋骨下縁、腋窩中線やや前方。深さは不明。抜くな。抜けば圧迫が解けて、出血が一気に来る。
「意識、あるか。名前は」
「……ハラダ」
橈骨動脈、触れる。速い。百三十前後。呼吸、浅く速い。左の呼吸音――減弱している。
「気胸だ。緊張性になる前に運べ」真柴は叫んだ。「刃は抜くな! 固定して、左を下にするな! 頭低位にしない!」
救急隊が入ってきた。真柴は、隊員の一人の腕を掴んだ。
「川崎の三次に。開胸できるところに直で行ってくれ。脾臓か下行結腸だ。腹部エコーは車内でやれ、モリソン窩から見ろ」
「先生は」
「整形外科医だ」真柴は言った。「だが外傷は診てきた」
プレハブの奥から、藪内が出てきた。額から血を流していた。
「先生。いました」
有村沙那は、事務所の奥のスチール棚の陰で、膝を抱えて座っていた。
殴られてはいなかった。服も乱れていなかった。ただ、彼女は、真柴の顔を見ても、しばらく誰かわからなかった。
「有村さん」
「……先生」
「帰りましょう」
彼女は、立ち上がろうとして、できなかった。真柴は、彼女の脇に手を入れて支えた。二十三歳の女性の体重は、四十キロを切っていた。
外に出たとき、東の空が白み始めていた。運河の水面が、鉛色に光っていた。
「先生」沙那は言った。「私、あの人たちに、何も言ってません」
「わかってます」
「先生の名前も、氷室先生の名前も、言ってません」
「有村さん」
「私、たぶん、生まれて初めて、まともなことをしました」
真柴は、彼女の背中に手を当てた。
医師として、彼はその背中の筋緊張を読んだ。僧帽筋も、脊柱起立筋も、石のように固かった。三か月間、この体は一度も緩んでいない。
彼女の首は、たぶん、本当に痛かった。
ただ、それは事故のせいではなかった。
◇ ◇ ◇
刺されたハラダという男は、三時間の手術のあと、生きた。脾臓摘出と、下行結腸の部分切除。
刺したのは、同じ組の、四つ上の男だった。押収されそうになった帳簿を燃やそうとして揉めた、というのが表向きの理由だった。
だが、そのハラダは、意識が戻った五日後に、自分から警察を呼んだ。
「五月十四日の夜、俺、横浜にいました」
彼は、二十二歳だった。高校を中退して、十九のときに黒須の会社に入った。飲食の店で働いていて、時々、こういう仕事を回された。
「男の部屋に行けって言われました。話をつけろって」
「殺せと言われましたか」
「言われてません。絶対に言われてない」ハラダは言った。「『階段から落ちたら死ぬ部屋だな』って、黒須さんが言っただけです」
白河敦は、その供述調書を読んで、目を閉じた。
これが、彼らのやり方だった。指示はしない。空気だけを作る。だが今回は、その空気に、証人がついた。
殺人での立件は、それでも難しかった。最終的に、黒須稔と実行者二名は、傷害致死で起訴された。
白河は、記者会見でこう言った。
「私たちは、この事件を保険金詐欺として捜査を始めました。ですが、実際に起きていたのは、人の痛みを担保にした金融です。痛みは、担保にできません。担保にした瞬間に、その人は人間ではなく、債権になります」
第二十六章 証人席の椅子は硬い(承前)
二月十九日、湘南第二弁護士会館、第二審査室。
懲戒委員会の第五回審査。相良篤に対する懲戒手続の、事実上の最終回だった。
真柴拓馬は、参考人として呼ばれていた。
そして、相良の代理人――かつての部下である、四十代の弁護士――が、一枚の紙を持ち上げた。
「真柴先生。この後遺障害診断書、作成日は令和七年三月十四日。ご記憶は」
「あります」
「では伺います。この患者を、あなたは診察していませんね」
部屋の空気が、凝った。
真柴は、答えた。
「診察は、していません」
「作成者名義は、真柴拓馬先生です」
「そうです」
「実際に診察したのは」
「非常勤の、早瀬医師です」
「あなたは、自分が診ていない患者の診断書に、自分の名前で署名した」
「しました」
代理人は、委員たちを見渡した。
「委員の皆さま。本件の懲戒請求者は、この方です。名義貸しを非難する人物が、自らも名義で書類を作成している。私は、これを二重基準と申し上げたい」
和久井律子は、委員席の端にいた。彼女は、真柴を見ていた。
真柴は、しばらく黙っていた。
「発言してよろしいですか」
「どうぞ」委員長が言った。
真柴は、背筋を伸ばした。
「その診断書には、こう書いてあります。『頸部痛および右肩挙上時痛。神経学的異常所見なし。可動域制限なし。他覚的所見に乏しく、後遺障害には該当しないと判断する』」
彼は、記憶で言った。一字一句、間違えなかった。
「私は、この患者を診ていません。ですが、この記載の全部について、私は責任を負えます。なぜなら、早瀬医師のカルテ、レントゲン、MRI、リハビリの実施記録を、私が全部見たからです。そして、そこに書かれていないことは、一つも書かなかった」
代理人が、口を開きかけた。真柴は続けた。
「私が言いたいのは、名義そのものが悪いということではありません。医療は、必ず誰かの名義を借ります。看護師の記録、技師の撮影、他院の紹介状。医師の署名というのは、それらを自分の責任で束ねるという意味です」
彼は、初めて相良のほうを見た。
相良篤は、被審査人席で、静かに座っていた。表情は、変わらなかった。
「問題は、名義を貸したかどうかではありません。名義に、責任がついてきたかどうかです」
真柴は、言葉を選んだ。
「私は、この一枚で、金を作っていません。むしろ、この一枚で、患者は一円ももらえなかった。私は、この患者に恨まれています。それでも私は、この紙に自分の名前を書きました」
部屋が、静かだった。
「名義を貸すというのは、」真柴は言った。「自分の名前に、他人の利益を運ばせることです。私は運ばせなかった。相良先生は、運ばせた。違いは、そこだけです」
代理人は、質問を続けなかった。
委員長が、静かに聞いた。
「真柴先生。最後に、一つだけ。あなたは医師として、後遺障害診断書とは何だとお考えですか」
真柴は、少し考えた。
「翻訳です」
「翻訳」
「患者の痛みは、言葉になりません。しびれる、だるい、重い。それだけです。それを、等級という数字に変える。数字になると、金額になる」真柴は言った。「翻訳者は、原文を書き換えてはいけない。読めない部分を、勝手に埋めてもいけない。読めないところは、読めないと書く。それだけが、翻訳者の倫理です」
和久井律子は、その言葉を、議事録の余白に書き写した。
◇ ◇ ◇
その日、もう一人、参考人が呼ばれていた。
東邦海上火災保険株式会社 保険金サービス統括部 特別調査グループ 鵜飼律。
彼が証人席に座ったとき、被審査人席の相良篤が、初めて姿勢を変えた。
保険会社の社員が、弁護士の懲戒手続で証言する。前例は、ほとんどない。会社の意向を離れて出てきたことは、その場の全員に伝わっていた。
「鵜飼さん。あなたは、どのような立場で本日お越しですか」
「私個人としてです」鵜飼は言った。「会社の見解ではありません。上司には、昨日、辞表を預けてあります」
部屋が、ざわついた。
「では伺います。相良綜合法律事務所からの請求について、貴社は、何か問題を認識していましたか」
「認識していました」
彼は、A4の紙を一枚だけ持っていた。
「令和四年十一月、私は社内向けに報告書を出しています。相武野市周辺の案件について、後遺障害十二級の認定率が全国平均の七倍であること、申請が三つの医療機関に集中していること、そして代理人事務所が実質的に一つであること。統計上、自然発生ではありえない、と書きました」
「その報告は、どうなりましたか」
鵜飼は、少し間を置いた。
「共有はされました。対応は、されませんでした」
「理由を、ご存じですか」
「はい」
彼は、顔を上げた。
「争うほうが、高くつくからです」
委員たちが、書く手を止めた。
「弁護士がついた案件で、うちが支払を拒否すると、訴訟になります。訴訟になれば、うちの支払は裁判基準になる。裁判基準は、うちの提示額のおおむね二倍から三倍です。加えて、弁護士費用相当額と遅延損害金がつく」
「つまり」
「疑わしくても、和解して払ったほうが、安いんです」鵜飼は言った。「一件あたりで見れば、確実に安い。私の報告書は、間違っていたわけではなく、採算が合わなかったんです」
和久井律子が、初めて口を開いた。
「鵜飼さん。今のお話は、貴社にとって不利な内容です。なぜ、証言なさるのですか」
鵜飼は、しばらく答えなかった。
「私の部署の評価指標は、支払削減額といいます」
彼は、静かに言った。
「昨年度、私は四億二千万円を削りました。そのうち、どれだけが不正な請求で、どれだけが本当に痛い人だったか、私は知りません。私は、内訳を知らなくても評価される仕事をしていました」
彼は、被審査人席のほうを、まっすぐ見た。
「相良先生の事務所の評価指標は、獲得額だと聞いています。私の指標は、削減額です」
相良篤は、目をそらさなかった。
「私は長いあいだ、自分は相良先生の反対側にいると思っていました。違いました」鵜飼は言った。「私たちは、同じ機械の、逆向きの歯車でした」
彼は、一度だけ息を吸った。
「歯車には、内訳が見えません。回っているあいだは」
審査室は、静まり返っていた。
委員長が、最後に聞いた。
「鵜飼さん。貴社は、この構造を止められたと思いますか」
「三年前なら、止められました」鵜飼は言った。「止めなかったのは、相良先生の責任ではありません。うちの責任です」
彼は、頭を下げた。
「ですから、これは告発ではありません。自白です」
◇ ◇ ◇
その日の審査が終わったあと、廊下で、相良篤が鵜飼を呼び止めた。
真柴は、少し離れたところから、それを見ていた。声は聞こえなかった。
相良が、何かを言った。鵜飼が、短く答えた。
二人は、握手をしなかった。
だが、別れ際、相良篤は、深く一礼した。
後に真柴が鵜飼に聞くと、彼はこう答えた。
「『あなたの報告書を、読んでみたかった』と言われました」
「あなたは、なんと」
「『先生が読んでいたら、私は書かなかったと思います』と」
第二十七章 三月三日
議決は、三月三日に出た。
湘南第二弁護士会は、相良篤に対し、業務停止二年の懲戒処分を行った。弁護士法五十七条一項二号の、上限である。
懲戒事由は、三つ。
一、弁護士法二十七条違反。非弁護士との提携。
二、弁護士職務基本規程十二条違反。依頼者の紹介に対する対価の支払い。
三、同規程五条および非行。事件処理を実質的に非弁護士に委ね、依頼者との直接の意思疎通を欠いた状態を、組織的かつ継続的に作出したこと。
弁護士会の会報に、氏名と処分内容が掲載された。日弁連の官報公告にも載った。
相良は、日弁連への審査請求をしなかった。
三月中旬、相良綜合法律事務所は解散した。十三人の弁護士のうち、九人が他の事務所へ移籍し、四人が独立した。千件を超える継続案件は、県弁護士会が設けた特別委員会が引き継ぎ先を調整した。
その調整会議の座長を務めたのは、氷室玲だった。
「なぜ引き受けた」真柴は聞いた。
「誰かがやらないと、依頼者が路頭に迷うからです」
「あなたが憎んだ男の、後始末を」
「先生」氷室は書類の山を見ながら言った。「私、この二か月で、相良事務所の記録を八百件読みました」
「それで」
「七割は、丁寧でした」
彼女は、顔を上げなかった。
「時効の管理は完璧です。医療照会も細かい。訴訟移行の判断も的確。……私より、うまい」
「氷室さん」
「私は、あの人を潰しました。そして、あの人の仕事を引き継いで、あの人よりうまくできていない」氷室は言った。「これが、正義の代償なんだと思います」
◇ ◇ ◇
三月二十六日、氷室玲は、相良篤に会った。
場所は、相良の自宅ではなく、彼の父が眠る寺の駐車場だった。相良が指定した。
彼は、私服だった。カーディガンを着た五十四歳の男は、ただの近所の人のように見えた。
「氷室先生。お兄さんのことですね」
「ええ」
「お名前は、氷室徹先生。麻酔科。平成二十六年の、東部医療センターの事案」
「覚えているんですね」
「全部、覚えていますよ」相良は言った。「二万一千件のうち、三千件は覚えていると言ったでしょう。あれは、その三千件のうちの一つです」
氷室は、正面から聞いた。
「あなたは、兄に、記録を直せと言いましたか」
「言いました」
あまりに簡単に、彼は認めた。
「なぜ」
「病院の代理人だったからです。私の依頼者は病院で、病院の利益は、記録に矛盾がないことでした」相良は言った。「そして、私は当時、その矛盾が、お兄さんのミスによるものだと思っていました」
「今は」
「今も、たぶんミスだったと思います」相良は言った。「抜管の判断は早すぎた。再挿管まで七分かかっている。ただ――」
彼は、そこで初めて、言葉を探した。
「ただ、あの七分に、看護師が二人足りなかった。麻酔科医は当直明けで、二十九時間起きていた。それを書いた記録は、どこにもなかった」
「あなたは、それを知っていた」
「知っていました」
「なぜ、書かせなかった」
「私の依頼者が、病院だったからです」
風が吹いた。梅の花が、まだ少し残っていた。
「氷室先生。私は、あのとき、お兄さんに断られて、ほっとしたんです」
彼女の指が、動いた。
「断られたから、私は、それ以上頼まずに済んだ。私は、自分が悪いことを頼んでいる自覚があった。断ってくれれば、私は依頼者に『医師が拒否しました』と報告できる。私の手は汚れない」
「それは」氷室の声は、低かった。「卑怯です」
「はい」
「兄は、断ったせいで、病院に切られました」
「はい」
「あなたは、それを予見していましたか」
相良篤は、長い間、答えなかった。
「していました」
氷室玲は、そこで、初めて泣いた。四十三歳の弁護士が、寺の駐車場で、声を出さずに泣いた。
「先生」相良は言った。「私は、あなたに謝りません」
「……なぜ」
「謝れば、あなたが許さなければならなくなるからです」
彼は、深く頭を下げた。
「私は、あなたに、許さないでいてほしいんです。それが、私にできる唯一のことです」
彼は、そのまま歩いていった。
氷室は、その背中を見送った。そして、後になって真柴にこう言った。
「先生。あの人は、最後まで敏腕でした」
第二十八章 残ったもの
黒須稔の一審判決は、翌年の一月に出た。
傷害致死、詐欺、貸金業法違反、組織的犯罪処罰法違反。求刑十八年、判決十四年。
柏木徹雄は、詐欺の共同正犯と詐欺幇助で、懲役三年・執行猶予五年。医師免許は、医道審議会の答申を経て、医業停止三年の行政処分を受けた。彼は、クリニックを売却した。ビルは、調剤薬局チェーンが買った。長男は、医学部を卒業して、研修医になった。
戸倉良和は、地方公務員法違反と収賄、そして傷害致死幇助で起訴され、懲役五年。彼は、控訴しなかった。
平出悟は、起訴されなかった。東成組は、翌年の三月に解散を届け出た。
有村沙那は、青森に帰った。
母親の介護をしながら、パートで働いている。彼女がケイアイサポートに払った金は、不当利得として全額の返還を求め、一審で認容された。相手は控訴しなかった。会社は、そのときにはもう、存在していなかった。
彼女から、真柴のクリニックに、一度だけハガキが来た。
――先生、首はまだ痛いです。でも、痛いって言っても、誰も得しないので、なんだか楽です。
真柴は、それを診察室の引き出しに入れた。
◇ ◇ ◇
鵜飼律の辞表は、受理されなかった。
代わりに彼は、損害保険会社の業界団体が設けた「不正請求対策に関する検討部会」に、出向という形で移った。左遷とも栄転ともつかない人事だった。
翌年、その部会が出した報告書には、こういう一文がある。
――不正請求の抑止と、正当な請求に対する適時適切な支払は、対立するものではなく、同一の課題の表裏である。前者のみを指標とする運用は、後者を毀損する。
鵜飼は、真柴に一度だけ手紙を寄越した。ハガキではなく、封書だった。
――先生。私の評価指標が、来年度から変わります。支払削減額ではなく、支払までの日数になりました。
――削った額ではなく、待たせた日数で評価される。それだけのことですが、四億二千万よりは、まともな数字だと思っています。
真柴は、その手紙を、有村沙那のハガキと同じ引き出しに入れた。
◇ ◇ ◇
真柴整形外科リハビリテーションクリニックは、続いた。
国保連の照会は、九か月かかって、算定の一部に不備あり、として二百四十万円の返還を求められた。真柴は、争わずに返した。実際に、リハビリの実施計画書の署名が、三か月分、抜けていた。
「先生、争えば勝てましたよ」沖田響子は言った。
「勝てただろうな」
「じゃあ、なぜ」
「抜けてたのは事実だからだ」真柴は言った。「事実を認めない人間の書く診断書は、信用されない」
紗織の左手関節は、保存治療で癒合した。ギプスを外したあと、可動域は健側の八割まで戻った。彼女は、それ以上は求めなかった。
「もう、器械出しはしないから」
「いい手だった」
「今も、いい手よ」紗織は、右手で左手を撫でた。「あなた、この手をカルテに書くとき、なんて書く?」
真柴は考えた。
「橈骨遠位端骨折後、可動域軽度制限。日常生活動作に支障なし」
「後遺障害は」
「非該当だ」
紗織は笑った。
「じゃあ、私の痛みは、ゼロ円ね」
「そうだ」
「安いわね」
「安くない」真柴は言った。「値段がつかないだけだ」
終章
第二十九章 一年後の研修室
翌々年の六月、真柴拓馬は、弁護士会館の五階にいた。
同じ建物、同じ階。だが部屋は違った。第二審査室ではなく、その隣の大研修室だった。
湘南第二弁護士会の継続研修「交通事故案件における医証の読み方」。講師は二人。整形外科医・真柴拓馬と、弁護士・氷室玲。
受講者は、百二十人いた。想定の三倍だった。
「まず、医師の側から、率直なことを申し上げます」
真柴はマイクを持った。壇上は、慣れなかった。
「先生方は、私たちに嫌われています」
笑いが起きた。乾いた笑いだった。
「理由は簡単です。先生方から来る書類は、たいてい期限が短く、質問が抽象的で、そして無料だからです。『症状固定時期についてご教示ください』と書いてある文書が、返信用封筒もなしに届く」
メモを取る音がした。
「私からの提案は、三つです」
真柴は、スライドを出さなかった。持ってこなかった。
「一つ。医師に質問するときは、必ずカルテの該当日を指定してください。『三月十四日のカルテに、右上腕二頭筋反射の記載がありますが、左との比較所見をご教示いただけますか』。これなら、私は三分で答えられます」
「二つ。医師に、結論を書かせないでください。『十二級に該当しますか』と聞かれると、医師は答えられません。等級認定は医学的判断ではなく、制度上の判断だからです。聞くべきは、『他覚的所見の有無』であり、『その所見が症状と整合するか』です」
「三つ」
彼は、少し間を置いた。
「医師に、患者の嘘を見抜かせようとしないでください。それは、私たちの仕事ではありません」
場内が、静かになった。
「医師は、痛いと言われたら、痛いという前提で診察を始めます。それをやめた瞬間に、医療は終わります。私たちは、患者の言葉を疑うのではなく、患者の言葉と、体と、画像が、整合するかどうかだけを見ています。整合しないとき、私たちは『わからない』と書きます」
真柴は、会場を見た。
「その『わからない』を、そのまま使ってください。埋めないでください」
◇ ◇ ◇
氷室の講義は、九十分あった。
彼女は、非弁提携の構造を、図で説明した。そして最後の十五分を、こう締めくくった。
「私たちの業界には、『敏腕』という言葉があります」
彼女は、ホワイトボードに二文字を書いた。
「私は、この言葉が、ずっと嫌いでした。褒め言葉のようで、実は逃げ道だからです。『あの人は敏腕だから』と言えば、その人が何をしているかを見なくて済む」
ペンの音が、静かな部屋に響いた。
「敏腕と悪徳を分ける線は、能力ではありません。事件処理の速さでもない。獲得額でもない」
彼女は、線を一本引いた。
「依頼者の顔を、自分が知っているかどうかです」
彼女は、ペンを置いた。
「知らない人間の代理はできません。代理というのは、その人の代わりに意思を表示することです。会ったこともない人間の意思を、私たちは、どうやって知るんでしょうか」
質疑応答で、最後に手を挙げたのは、二十代の男性会員だった。
「氷室先生。理想はわかります。でも、うちの事務所は、月に六十件回さないと、僕の給料が出ません」
会場が、少しざわついた。
氷室は、その質問を、正面から受けた。
「わかります」
「じゃあ、どうすれば」
「私にも、答えはありません」彼女は言った。「ただ、一つだけ言えるのは――今日、あなたがその質問を、この会場で、自分の名前を出して聞いたということです」
彼女は、真柴のほうを見た。
「それは、記録に残ります。記録に残ることを、人はやり続けにくい。私が信じているのは、それだけです」
第三十章 午前八時四十分
その年の七月、真柴は五十歳になった。
クリニックの一日の外来は、四百人を切った。三百六十人前後で落ち着いた。交通事故の患者は、三分の一になった。リンクアシストがなくなり、そのぶんの患者が来なくなった。
売上は、年で四千万近く落ちた。
沖田響子は、経営会議でその数字を出したあと、言った。
「先生。うちは、これでよかったんですよね」
「よくはない」真柴は言った。「四千万は、四千万だ」
「先生」
「ただ、」彼は続けた。「今の三百六十人は、全員、俺の患者だ」
◇ ◇ ◇
八月の月曜、午前八時四十分。
待合には、いつものように座る場所がない。真柴は診察室のドアを開けた。
「おはようございます、三番の方」
入ってきたのは、五十代の男性だった。作業服。右手を、左手で支えている。歩き方に、体幹の代償が入っている。
「三週間前に、脚立から落ちまして。近所の接骨院に通ってたんですが、よくならなくて」
「どこが痛みますか」
男は、右の肩を指した。指した場所は、押さえていた。
真柴は、その指の位置を見た。大結節。烏口突起ではない。
彼は、椅子を回し、患者の正面に膝を向けた。
「上げてみてください。痛くないところまででいいです」
男の右腕は、六十度で止まった。
「そこまでで結構です。今度は、私が上げます。力を抜いてください」
他動では、百四十度まで上がった。
腱板断裂。おそらく棘上筋。三週間、接骨院で温められていた。MRIを撮る。断裂の範囲によっては、手術がいる。五十代の作業職なら、なるべく早いほうがいい。
「痛かったでしょう」
男は、少し驚いた顔をした。
「……はい。夜、寝返りで起きます」
「三週間、よく我慢しましたね」
男は、そこで初めて、肩の力を抜いた。
真柴拓馬は、カルテに向かった。書くことは、たくさんあった。書けないことは、書かない。書けることだけを、正確に書く。
医師は、痛みを診る。
弁護士は、痛みを訳す。
その二つのあいだに市場を作った者は、去った。だが市場は、いつでもまた、同じ場所に立つ。事故が起き、痛みが生まれ、金が動くかぎり。
だから、翻訳者は、原文を読み続けなければならない。
真柴は、次の患者を呼んだ。
「おはようございます、四番の方」
巻末解説 この小説で扱った法と制度
一 非弁行為と非弁提携――弁護士法七十二条と二十七条
本作の骨格をなすのは、弁護士法の二つの条文である。
弁護士法七十二条は、弁護士でない者が、報酬を得る目的で、訴訟事件・非訟事件その他一般の法律事件に関して、鑑定・代理・仲裁・和解その他の法律事務を取り扱うことを禁じる。これを一般に「非弁行為」と呼ぶ。違反すると、二年以下の拘禁刑または三百万円以下の罰金である。
なぜ禁止されるのか。理由は依頼者保護にある。弁護士には、資格試験、研修、守秘義務、利益相反の規律、懲戒制度、そして賠償責任保険がある。これらを持たない者が法律事務を扱うと、依頼者はトラブルが起きても救済されない。
一方、弁護士法二十七条は、弁護士の側を縛る。弁護士は、非弁行為を業とする者から事件の周旋を受け、またはこれらの者に自己の名義を利用させてはならない。これが「非弁提携」である。
実務上、この二つはセットで現れる。非弁業者は単独では動けない。最後に「弁護士の名義」が必要だからだ。逆に、大量処理を志向する事務所にとって、集客だけを外注できる非弁業者は魅力的である。両者の利害は完全に一致する。
なお、弁護士職務基本規程は、より細かく規律している。第十一条は非弁護士との提携の禁止、第十二条は依頼者の紹介に対する対価の支払いの禁止、第十三条は依頼者紹介の対価の受領の禁止である。「紹介料」という名目でなくとも、実質的に紹介の対価であれば違反となる。本作で描いた「業務委託費」という迂回は、実際の懲戒事例でも頻出する類型である。
二 弁護士自治と懲戒制度
日本の弁護士は、国家機関の監督を受けない。懲戒権を持つのは、所属弁護士会と日本弁護士連合会だけである。これを弁護士自治という。
なぜこうなっているのか。弁護士は、国家権力と対峙する職業だからである。国を訴え、検察を批判し、警察の違法捜査を追及する。その懲戒権を行政が握れば、権力に不都合な弁護士から順に排除されうる。弁護士自治は、弁護士の特権ではなく、依頼者と市民の側の防御装置として設計されている。
手続はこうである。
まず、懲戒請求。弁護士法五十八条一項は、「何人も」懲戒請求ができると定める。依頼者でなくてもよい。利害関係も不要である。書面で、対象弁護士と懲戒事由を特定して所属弁護士会に提出する。
次に、綱紀委員会の調査。ここで「懲戒審査を相当と認める」議決が出なければ、手続はそこで終わる。統計上、懲戒請求の大半はこの段階で終結する。
綱紀を通過した事案だけが、懲戒委員会の審査に付される。ここで初めて、懲戒するかどうか、するとしてどの処分かが決まる。
処分は四種類。軽い順に、戒告、二年以内の業務停止、退会命令、除名である。除名されると三年間は弁護士となる資格を失う。退会命令は資格自体は失わないが、その会を退会させられる。
全国の懲戒請求は年間おおむね二千件から三千件前後で推移し、実際に処分に至るのは百件前後、その多くが戒告である。本作で相良に科された「業務停止二年」は、業務停止としては上限であり、実際の非弁提携事案でもこの水準、あるいは退会命令が科された例がある。
注意すべきは、懲戒請求が濫用された場合の責任である。最高裁平成十九年四月二十四日判決は、事実上・法律上の根拠を欠くことを知りながら、または通常人であれば容易にそのことを知り得たのにあえて請求した場合、その懲戒請求は違法となり、対象弁護士に対する不法行為が成立するとした。近年、大量の集団的懲戒請求について、請求者に賠償を命じる判決が相次いでいる。懲戒請求は誰でもできるが、無料でも無責任でもない。
三 後遺障害等級という「翻訳」
交通事故の損害賠償において、後遺障害等級は決定的である。
むち打ち(外傷性頸部症候群、頸椎捻挫)で問題になるのは、主に二つの等級である。
十四級九号「局部に神経症状を残すもの」。自賠責保険金の限度額は七十五万円。裁判基準(いわゆる赤い本基準)の後遺障害慰謝料は、おおむね百十万円。労働能力喪失率は五パーセント、喪失期間は実務上、五年程度に制限されることが多い。
十二級十三号「局部に頑固な神経症状を残すもの」。自賠責の限度額は二百二十四万円。裁判基準の慰謝料は、おおむね二百九十万円。労働能力喪失率は十四パーセント、喪失期間も十年前後、事案によってはそれ以上が認められる。
この二つを分けるものは何か。実務上は、「他覚的所見の有無」である。
十四級は、症状の一貫性・連続性と、通院実績があれば認定されうる。医学的に証明されなくとも、「説明できる」程度でよい、と説明されることが多い。
これに対し十二級は、症状の存在が医学的に証明できることを要する。具体的には、画像所見(MRIでの神経根圧迫、椎間板ヘルニアなど)と、神経学的検査所見(腱反射の左右差、筋力低下、皮膚分節に一致した知覚障害)と、患者の訴えが、すべて同一の神経学的レベルで整合していることが求められる。
つまり、両者の差は、医師の診断書に「他覚的所見」が書かれているかどうかに、事実上、大きく依存する。若年者であれば、この一行の有無が、生涯の賠償額で二千万円以上の差を生むこともある。
ここに、本作が描いた市場が発生する。診断書は、痛みを金額に翻訳する装置である。そして翻訳者は、医師しかいない。
四 なぜ「交通事故専門」弁護士が大量に生まれたのか
本作の間章「生態系」で損害保険会社の調査員が語った内容は、その骨格において、現実に確認できる事実に基づいている。ここでは、どこまでが事実で、どこからが創作かを明示しておきたい。
まず、事実として確認できる流れである。
第一に、弁護士人口が急増した。司法制度改革により法科大学院制度が発足し、司法試験合格者数の目標が大幅に引き上げられた。二〇〇〇年におよそ一万七千人だった弁護士は、二十年余りで四万人台にまで増えている。増加率としては、二倍を大きく超える。
第二に、広告が解禁された。かつて弁護士の業務広告は原則として禁止されていたが、二〇〇〇年に規程が改められ、原則自由となった。事件は「待つもの」から「取りに行くもの」へと変わった。
第三に、過払金返還請求という巨大な市場が生まれ、そして縮小した。いわゆるグレーゾーン金利をめぐる二〇〇六年の最高裁判決と、二〇一〇年の改正貸金業法の完全施行により、消費者金融に対する過払金返還請求が大量に発生した。この分野で確立されたのが、テレビ・ウェブ広告による大量集客、定型化された処理、依頼者と直接会わない運用という業務モデルである。しかし請求権は時効により順次消滅し、二〇一〇年代後半には案件が細っていった。ここで、大量処理型のノウハウと人員と広告網が、行き先を失った。
第四に、その行き先となったのが交通事故分野である。理由は、報酬の回収構造にある。弁護士費用特約——自動車保険に付帯され、被害者が弁護士に依頼する費用を自身の保険会社が負担する特約——が広く普及したためである。上限はおおむね三百万円程度、法律相談料は別枠で十万円程度とされる商品が多い。
この特約は、本来、被害者保護のために作られたものである。それ以前は、慰謝料の増額分より弁護士費用のほうが高くつく事案が多く、被害者は保険会社の提示額を受け入れるほかなかった。特約は、その泣き寝入りを解消するために設計された。制度としての正しさを、本作は否定しない。
ただし副作用がある。依頼者が費用を意識しなくなり、弁護士の側は報酬の回収リスクをほぼ負わなくなる。請求先が保険会社である以上、支払は確実で、期日も安定している。弁護士業において最大のコストの一つである「回収」が、この分野にだけ存在しない。
第五に、柔道整復師の増加がある。養成施設の設置をめぐる一九九〇年代末の司法判断を契機に養成校が急増し、就業柔道整復師の数はこの二十数年でおよそ二倍以上となった。交通事故の施術費は、健康保険による通常の施術に比べて一回あたりの単価が高く、通院頻度も多い。結果として、交通事故患者は、この業界において最も収益性の高い患者となった。
以上を並べると、部品はすべてそろう。事故は毎日起きる。事故直後の被害者は法律も相場も知らない。費用は保険から出る。弁護士は依頼者を求めている。整骨院は患者を求めている。そして後遺障害等級には、二千万円を超える断層がある。
あとは、これらを一本の線でつなぐ者がいればよい。その者は、法律事務を取り扱っていると言わないかぎり、表面上は何もしていないように見える。
ここまでが、現実の構造である。
一方、本作の創作部分は次のとおりである。株式会社リンクアシスト、相良綜合法律事務所、湘南第二弁護士会、東邦海上火災保険、真柴整形外科リハビリテーションクリニック、柏木整形外科、東成組、相武野市——これらはすべて架空である。作中で示した「弁護士介入率六十八パーセント」「十二級認定率四十一パーセント」といった数値も、構造を際立たせるために設定した架空の数字であり、特定地域の実態を示すものではない。警察情報の流出、傷害致死に至る経緯、法律事務所による診断書テンプレートの配布も、すべて小説上の設定である。
強調しておきたいのは、この生態系のどの段階にも、それ自体としては違法でない行為が並んでいるという点である。弁護士が広告を出すことは適法であり、被害者が弁護士費用特約を使うことも当然の権利であり、整骨院に通うことも自由であり、医師が丁寧に所見を記載することは職務そのものである。
違法性が生じるのは、ただ一点、資格を持たない者が法律事務に踏み込み、弁護士がそれと一体化したときだけである。
合理的な行動の集積が、誰も意図しない結果を生む。本作が描こうとしたのは、悪人ではなく、その集積のほうである。
五 医師が問われうる責任
虚偽の診断書を書いた医師は、どうなるのか。
まず、刑法百六十条「虚偽診断書等作成罪」がある。医師が、公務所に提出すべき診断書・検案書・死亡証書に虚偽の記載をしたとき、三年以下の拘禁刑または三十万円以下の罰金である。
しかし、この条文の適用範囲は狭い。「公務所に提出すべき」ものに限られるからである。自賠責の後遺障害診断書は、損害保険会社や損害保険料率算出機構に提出されるものであり、公務所提出文書には当たらないと解されるのが通常である。本作で柏木医師が口にした理屈は、その意味では正しい。
だが、話はそこで終わらない。
保険会社を欺いて保険金を交付させれば、刑法二百四十六条の詐欺罪である。医師が、内容が虚偽であることを認識しながら診断書を作成し、それが請求に用いられた場合、詐欺の共同正犯または幇助犯となりうる。実際、保険金詐欺事件で医師が起訴・有罪となった例は複数存在する。
さらに、行政上の責任がある。医師法第四条・第七条により、罰金以上の刑に処せられた者、医事に関し犯罪または不正の行為のあった者は、医道審議会の答申を経て、戒告・三年以内の医業停止・免許取消の処分を受ける。
加えて、本作で描いた診療報酬の不正請求がある。実際には無資格者が実施したリハビリテーションを、理学療法士等の名義で算定する行為は、療養担当規則違反であり、保険医療機関の指定取消および保険医登録の取消に直結する。不正請求分は、最大五年分について、四割加算で返還を求められる。刑事的にも詐欺罪の構成要件を満たす。
医療機関の立場からすれば、この「診療報酬の不正請求」というルートは、保険金詐欺よりはるかに立証が容易であり、捜査機関にとっての入口となりやすい。本作で白河検事がこれを「入口」と呼んだのは、そのためである。
六 事件屋、ヤミ金、反社会的勢力
交通事故被害者に接触し、医療機関と法律事務所に「配る」業者は、現実に存在する。多くは、示談交渉そのものは行わないという建前をとる。「無料相談」「病院のご紹介」「書類作成のサポート」といった用語法が、この建前を支えている。
しかし、治療費の打ち切りについて保険会社と交渉すれば、それは示談交渉であり、弁護士法七十二条違反である。
本作で描いた「生活支援」名目の貸付は、より悪質な類型である。示談金を事実上の担保として、被害者に生活費を貸し付ける。
貸金業を無登録で営めば、貸金業法違反である。また、出資法五条は、業として金銭の貸付けを行う者の上限金利を年二十パーセントと定め、これを超えれば刑事罰の対象となる。年百九・五パーセントを超える利息の契約は、そもそも無効である。
そして、最高裁平成二十年六月十日判決は重要である。著しく高利の貸付けの形をとって、元利金の名目で違法に金員を取得することを目的とした反社会的行為による貸付けについて、貸主は、交付した元本相当額の返還すら請求できない(民法七〇八条の不法原因給付)とした。すなわち、被害者は一円も返す必要がない。この判例を知っているかどうかで、被害者の人生が変わる。
さらに、こうした収益が暴力団の資金源となっている場合、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律(組織的犯罪処罰法)による加重処罰、および犯罪収益の没収・追徴の対象となりうる。各都道府県の暴力団排除条例は、暴力団への利益供与を禁じており、事業者が違反すれば勧告・公表の対象となる。
七 情報はどこから漏れるか
事故の当事者の氏名と連絡先は、事故直後の時点で、警察が保有している。
地方公務員法三十四条は、職員に守秘義務を課し、違反には一年以下の拘禁刑または五十万円以下の罰金を定める。実際に、交通事故情報を業者に流していた警察職員が摘発された事例は、複数報道されている。
被害者側から見た防御は単純である。事故の直後に、こちらから連絡していない相手から電話がかかってきたら、それ自体が異常である。正規の弁護士事務所は、事故情報を入手する正当な手段を持たない。
八 敏腕と悪徳を分けるもの
最後に、本作の主題に戻る。
敏腕弁護士とは何か。
それは、事件の見通しを早く立て、必要な証拠を特定し、期限を落とさず、依頼者に不利な事実を含めて説明し、結果として依頼者に最も多くのものを残す弁護士である。手続を熟知していること、相手の弱点を正確に突くこと、そして必要なら和解を選べること。これらはすべて、技術である。
悪徳弁護士とは何か。
それは、同じ技術を、依頼者以外の誰かのために使う弁護士である。自分のため、紹介者のため、あるいは組織のため。依頼者は、そのとき、目的から手段に変わる。
重要なのは、この二つが、能力によっては区別できないという事実である。悪徳弁護士は無能ではない。むしろ、有能でなければ悪徳になれない。無能な弁護士は、ただ不十分なだけである。
では、何が両者を分けるのか。本作が提示した答えは、三つある。
第一に、依頼者の顔を知っているか。代理とは、他人の意思を表示することである。会ったことのない人間の意思は、知りようがない。
第二に、報酬がどこから来ているか。依頼者から来る報酬は、依頼者の利益と一致する。紹介者から来る報酬は、紹介者の利益と一致する。金の出所は、必ず忠誠の向きを決める。
第三に、記録が残る場所で仕事をしているか。委任状、面談記録、通信記録、会計帳簿。これらが残る形で行われる仕事は、時間をかけて検証されうる。検証されうる仕事は、暴走しにくい。
そして、医師の側にも同じ問いがある。
診断書は、患者のために書くのか。紹介者のために書くのか。自分の収益のために書くのか。
医師が一度でも、存在しない所見を書けば、その医師の書くすべての診断書の価値が下がる。本当に苦しんでいる患者が、そのぶんだけ疑われる。医証のインフレーションは、必ず、最も声の小さい患者から犠牲にする。
痛みは、担保にできない。担保にした瞬間、その人は債権になる。
本作を通じて描きたかったのは、その一点である。
◇ ◇ ◇
※本作は完全なフィクションであり、登場する人物・団体・弁護士会・医療機関・企業は、すべて架空のものです。実在の個人・団体とは一切関係がありません。
※法制度の解説は、執筆時点の一般的な理解に基づくものであり、個別の事案に対する法的助言ではありません。実際の問題については、必ず弁護士等の専門家にご相談ください。
