言葉にできないものに価値あり ─ 荘子に学ぶ体験主義
学校の勉強で唯一の自慢は、高校2年生の時、旺文社全国模試(日本史)で4位になったことです。
当時は、
「日本史だけなら余裕で東大に行けるじゃん!」
などと気分は高揚しました。
これ、必死で暗記した賜物でしたが、今、直接的には役立っていないように感じます。
せいぜい、学習塾講師としての社会の授業で少し知識を活用できた程度。
しかも!
昔と今では教える中身(歴史解釈)がかなり変わっているようで、例えば、
昔:いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府
今:いい箱(1185年)作ろう鎌倉幕府
あの必死の暗記は何だったのか?
と思ってしまいます。
私の歴史の学習は、とても薄っぺらいものでした。
『荘子』にこんな話があります。
読書する王への「不敬」な一言
斉の国の君主、桓公が広間で熱心に本を読んでいました。
その庭下で、車輪を削っていた職人の輪扁が、ふと手を止めて問いかけました。
「失礼ですが、公がお読みになっているのは、どなたの言葉ですか?」
「聖人の言葉だ」と桓公は答えます。
「その聖人は、まだ生きておられるのですか?」
「いや、とうの昔に亡くなっている」
すると輪扁は、鼻で笑うようにこう言いました。
「では、公が読んでおられるのは、古人の『糟粕(そうはく/酒かす・残りカス)』にすぎませんな」
怒る王、語る職人
当然、桓公は激怒します。
「職人の分際で、私の読書をカス呼ばわりするとは。納得のいく説明ができなければ、命はないぞ」
輪扁は落ち着いて、自分の仕事を例に挙げて語り始めました。
「私は車輪を削って生きています。車輪の軸を通す穴を削るとき、削りすぎるとゆるくなってガタつきますし、削り足りないとキツくて入りません。『ゆるからず、きつからず』。その絶妙な加減は、手で覚え、心で感じるしかありません。」
「コツ」は言葉の網をすり抜ける
輪扁は続けます。
「この絶妙な力加減、いわゆる『コツ』というやつは、口で説明することができません。だから私は自分の息子にさえ、その極意を教えることができず、70歳になった今もこうして自分で車輪を削っています。
ましてや、大昔に亡くなった聖人が、本当に大切にしていた『魂』のような部分は、言葉に書き残せるはずがありません。だからこそ、今残っている文字は、彼らが伝えきれなかった『カス』にすぎないと言ったのです」
桓公は黙り込んでしまいました。
言語には限界がある
このエピソードは、決して「読書は無意味だ」と言っているわけではありません。
言語化の限界を知る: マニュアルや教本(言葉)は、あくまで地図の断片にすぎません。
「身体知」の重要性: 実際に手を動かし、試行錯誤する中でしか得られない感覚こそが、仕事の核心である。
答えは外ではなく内にある: 誰かの成功法則をなぞるだけでは、その人の「残りカス」をなぞっているだけかもしれない。
体験に価値あり
今の時代、情報は溢れています。
しかし、輪扁が言う「手で覚え、心で感じる」プロセスを飛ばしては、本当の意味でのスキルは身につきません。
文字で学んだことは、実際に応用してみることがとても大切ですよね。
そして、体験したことを言葉で振り返ることで、はじめて理解は深まるのだと思います。
私の日本史の知識も、現地に足を運んだり直筆の文献に触れたりすれば、血肉となって人生にもっと役立てられたかも。
noteにはいろんなnoterさんの知識や知恵が詰め込まれているので、なるべく実際に試してみたいと思っています。
なかなか追いつきませんが……
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