アラート・サイレント 第1話「静かに、壊れていく」
【あらすじ】
父が死んだ夜、機械は嘘をつかなかった。でも誰も、読まなかった。二十年後。愛知県の大学病院ICU。Clinical Engineer(臨床工学技士)の鳴海佐保は今日も誰も見ないログを読む。アラームが鳴らない異常。記録されない隙間。善意が生む死角。機械は全部、正直に記録している。あの夜と、同じパターンが——今もここで、繰り返されている。今度は——止める。機械は嘘をつかない。でも人間は、無意識に嘘をつく。
「変化なし」と榊原義春は言った。
佐保はその言葉を聞きながら、すでにログを開いていた。
朝のラウンドは8時から始まる。
鳴海佐保がICUに入ると、夜勤の看護師たちがまだ動いていた。申し送りの声、モニターの電子音、人工呼吸器が空気を押し込む低いリズム。消毒液の匂いが、廊下とは違う空気を作っている。生と死の境界線がここにはある。誰もそう言わないけれど、ここで働く人間は皆知っている。
ここはいつもこうだ。昨日も、今日も、明日も。患者が入れ替わっても、看護師が変わっても、機械は止まらない。止まれない。機械だけが、この場所の時間を刻み続けている。
佐保は点検票を手に取った。いつもの順番で回る。1番ベッドから始めて、順に確認していく。これが佐保の朝だ。もう八年、そうしてきた。
1番。七十代の女性。脳梗塞後の管理。人工呼吸器の数値、異常なし。穏やかな顔で眠っている。
2番。五十代の男性。術後管理。輸液ポンプの投与速度、異常なし。家族が置いていったらしい写真が、枕元に一枚ある。
そして3番。
佐保は足を止めた。
五十四歳、男性。消化管穿孔による緊急手術後、敗血症性ショックを併発してICUに入室して六日目。人工呼吸器、CRRT(持続的腎代替療法)、複数のシリンジポンプと輸液ポンプ——それだけの機械に繋がれて、患者は今日も生きている。
機械が、生かしている。
名前は知っている。カルテで確認した。でも佐保はいつも名前で呼ばない。名前で呼ぶと、感情が入る。感情が入ると、見えなくなるものがある。機械のように正確に、数値を読む。それが佐保のやり方だった。
佐保は順に確認した。人工呼吸器の数値、CRRTの数値、各ポンプの投与速度。ひとつひとつ点検票に記録する。異常なし。
問題ない、はずだった。
8時40分、ICUの回診が始まった。
岩瀬誠を先頭に、担当看護師、臨床工学技士が各ベッドを順に回る。白衣の列が廊下を流れるように動いていく。岩瀬は電子カルテの画面を見ながら淡々と進めた。声に感情はない。でもその判断の速さに、長年の経験が滲んでいた。この人は二十年以上この病院にいる。どれだけの患者を見てきたのか、佐保には想像もつかなかった。
3番ベッドの前で列が止まった。
「昨夜のバイタルは安定しています。変化なし」
榊原義春が手元のシートを見ながら言った。ICU歴十五年のベテランだ。大きな体を少し屈めて、落ち着いた迷いのない声で報告する。この人が「変化なし」と言うとき、本当にそう思っている。悪意はない。見落としがあるとしたら、それは意図ではなく——見ているものの違いだ。
「夜中に一度、体位変換しました。その後も安定していました」
岩瀬がうなずいた。「CRRT継続で。次——」
佐保は何も言わなかった。
3番ベッドの患者を見ていた。瞼は閉じている。胸が規則正しく上下している。機械が息をさせている。動いている。でも——
「鳴海さん」
隣で豊川凪が小声で言った。白衣の下に淡いグレーのシャツ。いつも少し首を傾けて話す。佐保より三年後輩だが、この人の観察眼は侮れないと思っている。人を見る目が、佐保とは違う種類の鋭さを持っている。
「行くよ」
回診は続いた。
回診が終わった後、佐保はナースステーションの端末に向かった。
ログを開く。いつもそうする。数値は正直だと、彼女はずっと思っている。人間が見落としても、機械は覚えている。
まず目についたのは、CRRTのダイアライザー前後の圧差だった。じわじわと上がっている。アラームの範囲内だ。でも昨日より確実に上がっていた。
次に人工呼吸器の換気量。わずかに落ちていた。こちらもアラームの範囲内。単体では見落とす。
心拍数も、わずかに上がっている。
三つを重ねると——患者の体の中で何かが変わっている。静かに、気づかれないように。
佐保の頭の中で、ピースが繋がった。
敗血症が悪化している。サイトカインが放出され、凝固系に異常が起きている。その影響が機械のログに、静かに現れていた。アラームは鳴っていない。榊原は「変化なし」と言った。でも機械は、ずっと前から語っていた。
「何見てるんですか」
凪が隣に立っていた。
「3番のログ」
凪は画面を覗き込んだ。しばらく沈黙が続いた。眉を少し寄せて、画面を見つめている。
「アラーム、鳴ってないですよね」
「鳴ってない」
「じゃあ——」
「でも、おかしい」
凪は黙った。
佐保は立ち上がって、3番ベッドに向かった。
ベッドサイドに立った佐保は、まずダイアライザーを見た。
色が、少し違う。
昨日、回路を交換したばかりだ。まだ安定しているはずの時期だった。なのに——
回路に耳を近づけた。
音が、少し違う。
これは機械の問題じゃない。患者の体の中で、何かが変わっている。
佐保はふと、患者の顔を見た。
五十四歳。父と、同じくらいの年齢だ。
瞼は閉じている。機械が息をさせている。機械が心臓を助けている。機械が血液を濾している。この人がここに来るまで、どんな人生があったのか、佐保には知る術がない。でも機械はこの人の体の変化を、正直に記録し続けている。
この人が今日も生きているのは、機械が正直だからだ。
——お父さん。
その言葉が頭をよぎった瞬間、佐保は端末に視線を戻した。
だから私はここにいる。今はそれじゃない。
「何かありましたか」
榊原義春が近づいてきた。
「回路の確認です」
「昨日換えたばかりですけどね」榊原は少し首を傾げた。「夜間は私がついてましたから。何かあれば言ってください」
夜間は私がついてました。
あなたはいた。確かにいた。でも見ていたものが違った。
「わかりました」
点検票に記録する。異常なし、と。
佐保は落合玄を探した。
集中治療部のカンファレンス室に、落合はいた。他院から三年前に赴任してきた上級医だ。データを見るときだけ表情が変わる——この病院で、佐保がそれを知っている数少ない医師の一人だった。
「3番の回路のログと血液データ、見てもらえますか」
落合は端末を受け取った。画面を見た。しばらく沈黙した。窓の外で、病院の駐車場に朝の光が差し込んでいた。
「いつ気づいた」
「今朝のログです」
「岩瀬には?」
「まだです」
落合は佐保を見た。何かを測るような目だった。それからゆっくりうなずいた。
「わかった」
それだけ言って、立ち上がった。
この人はいつも多くを聞かない。でも動く。それが佐保には、何より信頼できることだった。
退勤前、廊下で豊川凪が待っていた。
白衣を脱いで、淡いグレーのシャツ姿だった。退勤後もここにいるのは、佐保を待っていたからだろう。凪はそういう人間だ。人の気持ちを察して、でも押しつけない。
「3番の患者さん、さっき治療方針が変わりましたね」
佐保は立ち止まらなかった。
「そう」
「鳴海さんが気づいたんですよね」
今度は答えなかった。
凪は並んで歩きながら続けた。
「榊原さんは嘘をついてないと思います。変化なしって、本当にそう思ってたんじゃないですか。あの人、患者さんのこと誰より気にかけてる人ですよね」
「そうだね」
「アラームも鳴ってなかった。記録も正常だった。なのになぜ——」
佐保は前を向いたまま言った。
「機械が動いていることと、正しく動いていることは違う」
凪は黙った。
廊下の先に、ICUの自動ドアが見えた。ガラス越しに、モニターの光が揺れている。夜間照明に切り替わった病棟は、昼間より静かで、でも機械の音だけが変わらなかった。
「鳴海さん」
凪が呼んだ。
「どうしてそこまで、ログを読むんですか」
自動ドアが開いた。
佐保は少し立ち止まった。
「機械は、嘘をつかないから」
それだけ言って、ICUに戻っていった。
凪は廊下に一人残された。
機械は、嘘をつかない。
その言葉が、廊下に静かに残った。
【用語解説】
CRRT(持続的腎代替療法)
腎機能が低下した重症患者に対して、24時間持続的に血液を浄化する治療法。ICUで広く使用される。
ダイアライザー
CRRTで使用する血液浄化器。血液中の老廃物や余分な水分を除去する膜。色の変化や音の変化が異常のサインになることがある。
敗血症性ショック
細菌などの感染が原因で起きる全身性の炎症反応が重篤化した状態。血圧低下、臓器不全を引き起こす。
サイトカイン
免疫細胞が産生するタンパク質。炎症反応を調節する役割を持つが、敗血症では過剰に産生され凝固系異常などを引き起こす。
ノルアドレナリン
血圧を上げるために使用する昇圧剤。敗血症性ショックの第一選択薬。
ナファモスタット
CRRTの回路内凝固を防ぐ抗凝固剤。出血リスクの高い術後患者に適している。
【参考文献】
日機装株式会社「CRRTとは?」https://www.nikkiso.co.jp/products/medical/crrt.html
AKI診療ガイドライン作成委員会「AKI診療ガイドライン2016」日本腎臓学会・日本集中治療医学会ほか https://cdn.jsn.or.jp/guideline/pdf/419-533.pdf
巽博臣「敗血症の病態と急性血液浄化」Clinical Engineering 33巻10号,2022 https://doi.org/10.15105/CE.0000001365
EARL「敗血症とサイトカインのかかわり」https://drmagician.exblog.jp/16157583/
Garzia F, et al. "Prescription of CRRT: a pathway to optimize therapy." Critical Care 2020;24:10. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7060300/
