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【短編ホラー】奥座敷の残骸

 

今から二十年ほど前、私が19歳で、まだこれといった将来の展望もなくフラフラとしていた頃の体験した話である。

当時、私は高校時代の先輩の紹介で、山陰地方の山奥にある、創業100年を越えるという古びた老舗温泉旅館に、住み込みの板場見習いとして働くことになった。

その旅館には、本館から迷路のような渡り廊下を進んだ先に、かつて使われていた古い木造の「旧館」があり、そこが私たち従業員の寮としてあてがわれていた。私は、同じ時期に入った同い年の同僚の「M君」と二人で、その二階の奥にある八畳の一室に入居した。今思えば、あの薄暗い旧館の敷居を跨いだ瞬間から、すべての怪異は私たちを品定めしていたのだろう。

初日の過酷なシフトを終えた、深夜のこと。

厨房の片付けを終えて全身汗だくになっていた私は、一階の奥にある従業員用の内風呂で湯を浴び、着替えて階段を上ろうとした瞬間、ゾクッと首筋に冷たい刃物を押し当てられたような悪寒を覚えた。

階段の裏の暗がりから、誰かが私をじっと見つめている。

その建物は、増改築を繰り返したせいで非常に歪な構造をしており、一階の浴室の手前にある「リネン室の入り口」は、夜になると街灯の光も届かない完全な漆黒に沈んでいた。私は足を止め、恐る恐る振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、網膜に焼き付くような濃厚な「人間の気配」だけがそこに凝固していた。

気味が悪くなった私は急いで階段を駆け上がり、部屋へ戻ってM君にそのことを話したが、彼は「古い建物だから、すきま風のせいだろ」と、鼻で笑って取り合わなかった。

しかし、その数日後、私たちの部屋に最初の決定的な怪異が襲いかかる。

その週末、私の実の兄が、近くまでドライブに来たついでに、私の様子を見にその旅館へ立ち寄った。

本来、厳格な大女将の方針で、従業員寮に部外者を泊めることなど絶対に許されないはずだったが、その日はたまたま現場を仕切る番頭の男性が「一晩だけなら」と、大女将に内緒で特別に宿泊を許可してくれた。

こうして、その夜は私と兄、そしてM君の三人で、部屋に布団を並べて眠ることになった。

異変が起きたのは、翌朝の午前4時半頃だった。

「……おい、起きろ。何の音だ、これ」

兄に肩を激しく揺さぶられ、私は目を覚ました。まだ夜明け前の、静まり返った山奥の静寂の中、どこからともなく、低く地を這うような不気味な声が聞こえ始めていた。

それは、お経を唱える、お坊さんの念仏の声だった。

朝の4時半である。近くに寺があるわけでもない。最初は「誰かが朝早くから、部屋でラジオでもつけているのか」と、M君も起きてきて、三人で「おいおい、誰の部屋だよ、大迷惑だな」と、まだ少し余裕を持って苦笑いしていた。

しかし、その声がただ事ではないことは、数秒後に全員が理解した。

なぜなら、その地を這うような念仏の声が、一階の浴室の方から、ギチ……ギチ……と軋む階段を一段ずつ上って、私たちのいる二階へと確実に近づいてきたからだ。

それだけではない。

最初は一人だったはずの男の声が、廊下を進んでくるにつれて「二人」「三人」「五人」と、恐ろしい勢いで増殖していったのだ。まるでおびただしい数の目に見えない僧侶たちが、肩を寄せ合い、狂ったように読経しながら、私たちの部屋のドアの前へと押し寄せてくるような、すさまじい音圧だった。

「うわっ、なんだこれ!?」

三人が恐怖で硬直したその直後、窓際に寝ていた私の耳元で、はっきりと、それらの念仏をかき消すような「女の人の、息も絶え絶えな、か細い啜り泣き」が響き渡った。

「ひっ……!」

あまりの恐ろしさに、私は頭がどうにかなりそうになり、気がつくと自分の布団を飛び出して、兄とM君が縮こまっている部屋の中央へと狂ったように転がり込んでいた。私たちは互いの服を掴み合い、朝の太陽が完全に旧館を照らすまで、一言も発せられないままガタガタと震え続けるしかなかった。

翌朝、私はたまらなくなって、調理場で長年働いている最年長のパートの「おばさん」に、昨夜起きたことをすべて話した。しかし、おばさんは一瞬だけ強張った顔を見せたものの、「古い山寺から響いた風の音だよ」と、それ以上は頑なに口を閉ざしてしまった。

それから数日もしないうちに、あんなに平然としていた同僚のM君が、「実家の家業を手伝うことになった」と、突如として荷物をまとめて夜逃げ同然に寮を出て行ってしまった。あの朝、増殖する念仏と女の泣き声を聞いた瞬間に、彼の精神もまた、とっくに限界を迎えていたのだろう。

部屋には、私一人が残された。

一人きりになってからの生活は、まさに地獄だった。

夜が来るのが恐ろしく、私は部屋に置いてあった古い小型のラジカセ(当時はBGM代わりに使っていたもの)の存在すら不気味に思え、夜寝る前には、必ず「ラジカセのコンセントを壁から完全に引き抜いた状態」にして、布団に潜り込んでいた。

しかし、怪異は私をあざ笑うかのように加速していく。

一人になってからというもの、毎夜、午前零時を回ると、決まって「それ」が始まるのだ。

ペタ……ペタ……ペタ……。

廊下の奥から、湿った足音がゆっくりと近づいてくる。そして、私の部屋のドアの真前で、ピタッと音が止まる。

ドアの鍵は確実に閉めてある。それなのに、次の瞬間。

ガタアンッ!!

と、部屋の内側から、鍵を開けてドアを激しく閉めたような大音が響き渡るのだ。

最初は「隣の部屋の先輩が、夜勤明けで戻ってきただけだ」と、布団を頭から被って自分を騙していた。けれど、毎日、毎日、午前零時一分の狂いもなく、足音は私の部屋の前で止まり、ドアの怪音が響く。

(これは絶対に、生きている人間の仕業じゃない……)

そう確信し、恐怖で胃液を吐きそうになっていた、ある夜のことだった。

真夜中、いつものようにドアの音が響いた直後、コンセントを抜いて完全に沈黙していたはずのラジカセのスピーカーから、突如としてバリバリという激しい雑音と共に、鼓膜を震わせるほどの「大音量」で、民謡のような不気味な音楽が流れ始めたのだ。

大音量の狂気が、深夜の旧館に鳴り響く。

「うわあああああああッ!!」

私は狂ったように絶叫しながら部屋を飛び出し、隣の部屋に住む板前の先輩のドアを激しく叩き、助けを求めた。

先輩も、私の部屋から響いてくる尋常ではない重低音の爆音に驚いて飛び起きてきた。

「おい、何なんだこの音は! 嫌がらせか!?」

先輩が憤怒の表情で私の部屋に踏み込み、音の発生源であるラジカセを見た瞬間、その顔からサーッと血の気が引いていくのが分かった。

ラジカセの電源コードは、壁から抜けたまま、床の上を蛇のように虚しくのたうち回っていたからだ。コンセントが抜けた機械が、部屋が震えるほどの大音量を奏でている。先輩は声にならない恐怖で、その場に釘付けになっていた。

騒ぎを聞きつけた番頭が、一階からものすごい剣幕で階段を駆け上がってきた。

「お前たち、何時だと思っているんだ! 他のお客さまに聞こえたらどうする!」

私は半狂乱になりながら、番頭の腕を掴み、壁際でだらりと垂れ下がったコンセントのプラグと、爆音を鳴らし続けるラジカセを見せた。

さっきまで怒り狂っていた番頭は、その異常な光景を目にした瞬間、幽霊でも見たかのように顔を白くさせ、唖然として言葉を失ってしまった。

翌日、私は荷物をまとめて辞める覚悟で、あの調理場のおばさんの元へと詰め寄った。

「おばさん、お願いです、本当のことを教えてください。あの部屋、過去に何かありましたよね!?」

私のただならぬ様子に、おばさんは周囲に人がいないことを確認すると、ひどく声を潜め、震える声で語り始めた。

おばさんは、その旅館の旧館の歪な構造を指差しながら、忌まわしい過去を吐き出した。

二階の階段を上がって右に続く廊下。その突き当たりには、かつて従業員たちの娯楽室として使われ、今は固く閉ざされた「古い雀荘(じゃんそう)の跡」があること。

そして、その手前にある、私が今使っているあの部屋の歴史を。

「……あんたが来る、ちょうど10年ほど前のことだよ。当時、住み込みで働いていた若い従業員同士がね、夜中にその部屋で酒を飲んでいて、些細なことから激しい殺し合いの喧嘩になったんだ」

おばさんは、怯えた目で私の肩を掴んで囁いた。

「片方の男が完全に逆上してね、調理場から持ち出した大きな包丁で、もう一人の男の腹部を何度も、何度もメッタ刺しにしたんだよ。刺された男は、助けを求めようと廊下へ這い出そうとしたけれど、ドアの手前で大量に血を吐いて、そのまま死んだ。……そう、今あんたが一人で寝起きしている、まさにあの部屋のドアの前でね」

総毛立つような衝撃が、私の全身を駆け巡った。

毎夜零時に聞こえる足音、閉まるはずのないドアの怪音、大音量で鳴り響くラジカセ。あれはすべて、10年前にあの部屋で腹を刺され、無念の死を遂げた元従業員の、死の瞬間の記憶の再生だったのだ。

その日の夕方、すべてを察した番頭が、神妙な面持ちで私の部屋にやってきた。

「お前に不誠実なことをしていた。謝らなければならない。ついてきてくれ」

番頭に連れられ、私は部屋を出てすぐ左側にある、普段は錆びついた南京錠で閉ざされている「中庭への勝手口」を開けられた。

一歩外へ出ると、そこは本館からは絶対に見えない、崖の陰になった日の当たらない湿った中庭だった。草むらをかき分けたその最奥に、ひっそりと、苔むした一つの小さな石碑が佇んでいた。

それは、10年前にあの部屋で刺殺された元従業員の「慰霊碑」だった。

私は番頭から手渡されたお線香に火をつけ、その場に膝をついて手を合わせた。煙が静かに立ち上る中、「今まで知らずにいて申し訳ありませんでした。どうか安らかに眠ってください」と、心からその魂の冥福を祈った。

(ああ、これでようやく、すべての点と線が繋がった。私が彼の無念を知り、こうして供養をしたのだから、あの恐ろしい怪奇現象も、今夜からは一安心できるだろう……)

夕暮れの冷たい空気の中、私はどこか救われたような、穏やかな安堵感を覚えていた。

しかし。

過去の惨劇によって生み出された怨念というものは、生者の生半可な同情や供養で消えるほど、甘いものではなかったのだ。

その日の夜、午前零時を迎えた瞬間、私の部屋のドアの向こうから、これまでよりも遥かに激しい、何かが床をのたうち回るような、ズルズルとした不気味な足音が、再び私の耳元へと近づき始めるのだった。


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