盆日記 つたえる言葉・つたわる言葉
(1,775文字)
8月6日(水) 晴れのち曇り 気温37℃
太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり
黄色い菊の献花を背にした総理大臣は、挨拶の締めくくりにこの歌を選び、2度、繰り返した。
あたりを包む蝉の声は、おそらくその日とかわらない。
お世話になった小学生時代の先生を思い出した。
広島市は今年、各国への式典への「招待」を「案内」に変えた。
混迷する世界情勢において、どの国を招待すべきか配慮の末、広く各国に「案内」をすることにした。
主体的に参加を選択した各国の代表は、慕う先生のまわりに集まって亡くなった子供たちの一瞬を、鮮明に想像せざるえを得なかったにちがいない。
8月9日 晴れ 気温35℃
ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ。
右手で天を指し、左手は水平に伸ばして、静かに瞼を閉じた平和祈念像の前で、首相はこの言葉を選んだ。
広島の3日後、人類は、再び同じ行為を犯した。
だからこそ、なのかもしれない。
広島は「記念」式典と通称されるが、長崎は「祈念」式典と呼称される。
長崎は今年も各国を「招待」した。
この願いを聴いてほしいから。
共に願って欲しいからだ。
TVカメラは招待各国の神妙な表情をとらえていた。
また、先生の声を思い出す。
「戦争は、本当にあったことなのです」
「悲惨なことなのです」
「繰り返してはいけないことなのです」
今では、戦争とは複雑な背景をもつ出来事だと知ってもいるけれど、幼いこころに平易にまっすぐそう教えてもらった。
8月12日(火) 曇りときどき雨 気温29.3℃
迎え火には1日早いけれど、義母の通院に合わせて、妻の実家へ帰省した。
午前中、病院に連れ添い、午後、義父の墓を掃除した。
足の弱い義母を自宅において、義姉と妻と菩提寺へいく。
「来年は7回忌だから、またお金がかかるわ」
と後部座席から義姉が妹に小さく嘆いた。
「和尚さんが言うには、ヒトは、死んですぐに仏になれるわけじゃなくて、死んでからも修業を積まなくちゃならないんですって。7年はまだ修行の途中だから応援してあげないとならないんですって」
以前の法事に説法した大柄な和尚を思い出す。
時折、こころの奥を覗くように、大きな目でまじまじとそれぞれをみつめるのが印象的だった。
境内の小砂利を踏む音に混じるようにして小雨が降りだした。
姉妹はそのまま進むことにして、自分はトランクに入れっぱなしにしているはずのビニール傘を取りに戻った。
墓石の並ぶ入口の手前で手桶に水を汲み、柄杓を選んでいるふたりに追いついた。掃除用具に両手のふさがった姉妹の上に、2本の傘を軒のようにさした。
墓石から外したステンレスの花瓶は、花の枯れカスが貼り付いていた。
「結構、汚れてる」
雨にかまわず動き回って墓石を布で拭く。
義父の墓の隣に、戦死したという親族のやや小さめな墓がある。
境内の隅に地域の出兵戦死者の名前を刻んだ碑があって、30名近くの名前が刻まれている。
妻の旧姓は3つあった。
〇〇伍長 享年22歳。
そう記されているのが直接のご先祖だと以前聞いた。
8月15日(金)晴れ 気温33℃
今年は敗戦後80年。あえて敗戦と言う。終戦ではことの本質を間違える。今を逃して戦争の検証はできない
石破首相は以前こう言っていたというが、戦後80年談話は出さないことにした。
一国の首相が発するからには、それなりの調整や合意が必要で、そういう時間をとってこれなかった。そして、支持率の低い首相ではそういう手順を踏まずに国民の声を背負ったメッセージはだせない、ということらしい。
「終戦」には、終わったという安堵や新しい生活への解放感、惨禍に痛んだ国民への労わりのニュアンスがある。
一方で、「敗戦」なら、辛酸な経験を強いることになった原因を直視し、二度と誤るまいとする強い意思が表れると思う。しかし、それは、国境を越えれば、次こそ勝つ、と言いたげに聞こえてしまうかもしれない。
彼は9月2日に個人的なメッセージを出す、という報道がある。
どんな思いをもって、どんな言葉を選ぶのだろう。
明日はもう送り火である。
送り火の煙にのって、声のない言葉が運ばれる。
―了―
