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妹のこと12

母転院にまつわるあれこれ


・書いていて思い出したが、父が無慈悲にも捨てたものがもう一つあった。「七宝焼き」の道具と材料だ。これも母の趣味だった。同好の志が何人もいて、お見舞いに来てくれていた。制作の指導を受けていた先生からも見舞いをいただいていたのに。そんなことはお構いなく、父は「もうできないから」と言って、できるかもしれんのに、回復に役立つかもしれんのに、一切合切捨てていたと思う。こちらは音もしないし何が気に入らないのかわからなかったが、父は毛嫌いしていた。七宝焼きを焼く窯は大型で自宅にはなく、焼くのは先生のところに出かけていた。それが気に入らなかったのだろうか。七宝焼も面白そうだったので私も少し関わっていた。父は絶対に関わろうとはしなかった。こういうことをしていながら、毎日病院に行って母のそばに居たがる。父の考えていることが今になってもわからない。
・母の元同僚の方が尽力してくれたおかげで、母は3つ目の病院に転院できることになり、母はリハビリを頑張り、徐々に回復を見せていた。家に戻りたい。そんな気持ちが母を支えていたのだと思う。なんせ、この時まだ母は60である。的確にリハビリに取り組めば、十分回復できるのではと母は信じていたのだと思う。私もそう思っていた。妹もそうだったと思う。ただ、父はそうではなかった。父が考えていたのは、「母が家に帰ってきては困る。自宅で介護なんかできない。」ということだったんじゃないか。
・転院する病院は家から遠くなるので、妹は車を手に入れていた。中古車だったがアコード・エアロデッキだった。なかなかセンスあるなと思い、一度運転させてもらおうと思っていたが果たせないままいつの間にか妹は車を手放してしまった。転院前に、母は外泊できるようになった。一度外泊して問題がないか確認しておこうというところだったろうと思う。この時はまだM市に転居していなかったので、私が病院まで迎えに行って、自宅の公団住宅の階段を4階までおぶって上った。母はほとんど体に力を入れることができないためか、とても重かった。2日間滞在し、母は病院に戻った。母の様子や自宅に戻った感想はどうだったか知りたかったのだか、父の日記を探してみたがその種の記述は無かった。病院に戻るとき、階段をどうするかという心配ばかりしていた。まあ、次に外出するときは団地の1階になるので心配は無くなるわけなんですが。
・転院する準備も進めていたが、ここでも父の訳の分からない行動が現れる。移動する手段として父は自分の車を使うことを考えていた。そのことを主治医に伝えたところ、慌てて止められたらしい。結局民間救急会社の寝台車を使うことになるのだが、なぜ母の状態をまず主治医に確認しないのか。心配とか気遣いが全くない。すべて自分の判断である。もちろん私と妹に相談はなかった。こんな話ばかりで申し訳ないが、我々が病院との交渉や話し合いに毎回付き合えなかったのだが、今となっては、本当に後悔している。父の日記を読んでいると、これからこんなことがたくさん出てくるのだろうなと思う。私はどうすればよかったのか、何ができたのか、考えていかねばならないと思っている。

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