本当に申し訳ございません
見間違いが多い。増えている。
あるとき、街中で見かけた看板にでかでかと書かれていた。
「おとうさんのことはお任せを!」
おとうさんのこと……。おとうさんのことって……。何?
いぶかしく思いながら近づくと、「ふどうさん」だった。
スマホでネットサーフしていて、ギクッとなったこともある。
「ご自分の毛をじっくりと眺めてみましょう」
毛を……。自分の毛を……。じっくりと……。なぜ?
スマホに顔を近づけよくよく見たら、「毛」ではなくて「手」。手相鑑定の案内だった。
こんな小ネタのようなことがたびたびで、その都度、苦笑いしたりあきれたりで、ひとり楽しい気持ちにすらなっている。
でも、若い頃はそんな楽しい気持ちになんてなれなかった。
生意気で身の程知らずなわたしは自己愛着が人一倍強く、度量が伴わないながら、「評価されたい」「できる人と思われたい」「注目されたい」という過信やら見栄やらにまみれていた。
当然ながら現実は理想からかけ離れ、うまくいかないことばかりで、人をうらやんだり、無意識のうちにじぶんを責めることもしょっちゅう。
いまだって、年だけは重ねたものの、恥ずかしながら内面は幼稚なままだ。
でも、少しはましになったかなと思えるのは、じぶんのミスや間違いを笑えるようになったことにある。
生意気盛りの頃は、「毛」と「手」程度の見間違いも恥ずかしいことに思えて、誰にも言えなかった。そればかりか他人のミスや間違いにも厳しかった。
仕事をしていて、いわゆる中年の女性がミスをすると、
「おばさんって、どうしてこんなミスをするんだろう。信じらんない」
軽蔑するような気持ちになり、真顔で首をひねっていたのだから、その当時にすっ飛んでいって、ひっぱたいてやりたくなる。
ブッダの教えによれば、人に対して思ったことやおこなったことは、心に記録され、それが“大きく育って”、やがてじぶんの現実として戻ってくるという。
ものすごく単純にいえば、わたしが友達の新しい髪型を「ステキ! すごく似合ってる♪」と心からほめたなら、やがてわたしは「あなたはなんてすばらしいんだろう。この世でもっとも美しい!」とほめちぎられる。
逆もしかり。
わたしが友達の新しい髪型をこてんぱんにけなせば、やがてわたしは地獄のような非難の嵐を経験することになるわけだ。
こうしたことからすれば、おばさんを軽蔑していたわたしはいま、確実にこう思われているだろう。
「ハギーさんって、どうしてこんなミスをするんだろう。信じらんない」
いや、もっと肉がついているはずだ。
「ハギーさんって、どうしてこんな簡単なことも覚えられないんだろう。どうしてこないだ教えたこと、もう忘れてるんだろう。どんだけバカなの? マジ信じらんない。仕事辞めてほしい」
このくらい”大きく育って”いても不思議ではない。
そう思うと、過去の年上のかたがたにも、いまの年下のかたがたにも、四方八方に深々と頭を下げたくなる。
本当に申し訳ございません。
ブッダの教えに従えば、こうしたお詫びも心に記録され、大きく育つことになる。
どんなふうに育つのか。
はてさて。
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