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日本ステレオ伝【第6話】:吉川速男『双眼寫眞の第一歩』とステレオ伝道師の誕生 ─ 焼け跡の万年筆が紡いだ情熱

関東大震災による拠点の喪失を乗り越え、吉川速男はいかにしてステレオ写真の技術を体系化し、ステレオ伝道師になったのか。幻のクラブ崩壊の新事実から『双眼寫眞の第一歩』出版、そして小型カメラによる新たな視覚の開拓まで、日本ステレオ写真史の転換点を事実に基づいて解説します。



幻のステレオクラブ「日本双眼寫眞會」の設立と震災による打撃

1920年代初頭の日本において、空間の奥行きを正確に記録し再現するステレオ写真技術は、一部の知識層や愛好家たちの個人的な探求にとどまっていました。この状況を打破し、技術の共有と発展を目指す動きが具現化したのが、1923年(大正12年)春の出来事です。
写真家であり著述家でもあった吉川速男は、神田猿楽町に店舗を構えていた日本唯一のステレオ機器専門店「佐藤サンエス堂」の店主である佐藤周輔とともに、日本初となるステレオクラブ「日本双眼寫眞會」を設立しました[1]。佐藤サンエス堂は1921年(大正10年)11月15日に開業し、当初はエルネマン・リリプトなどの小型カメラを中心に取り扱っていましたが、やがて仏ジュール・リシャール社や独イカ社などの本格的な高級ステレオカメラを扱う専門店へと発展していました。
「日本双眼寫眞會」の目的は、単なる愛好家同士の親睦にとどまるものではありませんでした。写真術の学術的な研究をはじめ、展覧会や競技会の開催、特殊な機材や感光材料の厳選と安定供給など、極めて実践的かつ意欲的な活動目標が掲げられていました。神田の専門店を物理的な拠点とし、同志が集うサロンとして機能し始めたこのクラブは、日本のステレオ写真史において自律的なネットワークが形成された最初の事例となるはずでした。
しかし、その設立からわずか数ヶ月後、未曾有の災害がこの拠点を直撃します。1923年9月1日に発生した関東大震災です。この震災により、吉川速男は東京市京橋区銀座1丁目にあった自宅を焼失し、所有していた16台ものカメラ機材のうち15台を失いました[3]。長らく日本のステレオ写真史においては、この震災によって神田の佐藤サンエス堂も完全に崩壊し、店主との連絡も途絶え、クラブは文字通り雲散霧消したと語られてきました。
ところが、当時の写真雑誌の記録を紐解くと、定説を覆す驚くべき事実が浮かび上がってきます。震災によって広告の出稿は一時途絶えたものの、翌1924年(大正13年)6月には、佐藤サンエス堂が仏独の高級ステレオカメラのリストを掲げて雑誌広告を再開させているのです。同店はその後も、少なくとも1925年(大正14年)にかけて営業を継続していたことが当時の広告資料から確認できます[2]。
つまり、佐藤サンエス堂という店舗そのものは、震災の廃墟から力強く再起を果たしていました。吉川が後に「恐らく此店以外に以前にも以後にも日本にはステレオの専門店はないであろう」と回顧した通り[4]、同店は日本唯一の専門店としての矜持を保ち続けていたのです。しかし、吉川自身が生活の基盤と機材を失って焼け跡から「活字メディア」での啓蒙へと活動の軸足を移したことや、震災後の社会的混乱もあり、最先端の愛好家たちが神田の店舗に集う「サロン」としての日本双眼寫眞會の熱気は、かつての勢いを取り戻すことなく、幻のクラブとして歴史の波間に姿を消していったと考えられます。

佐藤サンエス堂の広告。左から1922–07 写真芸術 写真芸術社、1923–09 写真芸術 写真芸術社(関東大震災直前)、1925–07 カメラ アルス

震災の廃墟からの再起と活字メディアへの転換

[左]九月二日發行震災第一報の號外と私の焼失カメラの残骸ヴェスト單玉カメラのシャターと 組立カメラ用レンズ、ユリナーレンズ、其の他双眼カメラ用乾板交換函。 [右] 夕闇迫る頃、火災は周圍四五丁のりをぐるりと取圍んでしまった。 當時の避難所たる銀座大通に停電中の市電174號の中の記念撮影。 此の撮影中俄然危險が迫つたので各自思ひ思ひの方角に逃出す。九月一日午後五時頃1938『私の大震災アルバム』 吉川速男 より

家屋を失い、機材の大半を焼失し、さらには同志が集うサロンまでも失った吉川速男ですが、写真技術に対する探求心と啓蒙の意志が途切れることはありませんでした。震災発生からわずか1ヶ月にも満たない9月29日、吉川は焼け残った庭先で周囲の反対を押し切り、蜜柑箱を机代わりにし、胸ポケットに入っていて偶然焼け残った1本の万年筆を用いて執筆活動を再開しました[5]。
物理的な店舗や組織という拠点を失った彼は、特定の場所に依存するサロン形式での活動の限界を悟ります。そして、知識を保存し伝達するための最も確実な手段として、出版というメディアの力に注目したのです[6]。なお、ステレオ写真に対する彼のこの強靭な情熱は、後年の第二次世界大戦の戦災を経た後にも「私のすべての写真の中で中心的な存在であり、戦災後はさらにこれに力を入れる」と語られるほど、生涯にわたって揺らぐことはありませんでした[7]。

【左上】私の避難所であった電車は偶然にも焼野原に焦げたまであつた。恐らく全市内唯一のものであつたらう。(約一週間後、ロールテナッルテナックス)【左下】同じ銀座大通浦道に天幕張の假店が出来た。復興材料も来た。青バスも運転し始めた。(約一月後、ロールテナッルテナックス)【右】或る日江の島へ長男を連れて行った。片瀬の町は殆ど家が潰れたままであった。江の島は隆起し、隆子ヶ淵の岩は一メートル以上も整起を示してるのがよく判る。(十一月、ロールテナックス) 1938『私の大震災アルバム』 吉川速男 より

技術の体系化と『双眼寫眞の第一歩』の出版

震災後の継続的な雑誌連載や啓蒙活動を経て、1930年(昭和5年)に古今書院から出版されたのが、ステレオ写真の網羅的な技術書である『双眼寫眞の第一歩』です。この書籍の刊行は、日本のステレオ写真史において、個人の経験則や暗室での口伝に頼っていた技術が、初めて完全に体系化され、標準化された知識として一般読者に提供されたという点で、極めて高い歴史的意義を持っています。
吉川はこれまでも各種の雑誌でステレオ写真に関する解説記事を執筆していましたが、雑誌という媒体にはページ数の厳しい制約がありました。そのため、基礎的な原理の説明や、現像から焼き付けに至るまでの連続したプロセスの解説において、重要な部分を省略せざるを得ないというジレンマを抱えていました。高度な技術を正確に伝達するためには、断片的な記事の集合ではなく、順序立てて全工程を網羅した単行本が不可欠でした。本書は、その不備を補い、何の制約もなくステレオ写真の全貌を明らかにした吉川の集大成と言えるものでした[8]。

煩雑なプロセスの標準化とトランスポーズ技法の解明

『双眼写真の第一歩』吉川速男 古今書院 1930年 昭和5年 [陽畫編] より

『双眼寫眞の第一歩』において特筆すべきは、当時の日本国内の経済事情や流通機構を考慮した現実的な標準化の提唱と、ステレオ写真特有の直感に反する光学現象の論理的な解説です。
機材サイズの標準化については、欧米で主流であった様々な規格の中から、日本人の体格(両眼の間隔)や感光材料の入手のしやすさを基準に選定を行いました。吉川は、欧米標準の4.5×10.7センチの小型判と、日本国内で広く流通していた手札サイズの乾板を縦に半裁して使用する「日本ステレオ判」の2種類を、日本の標準サイズとして強く推奨しました。これにより、高価な輸入乾板に依存せずとも、国内で容易に入手できる材料を用いてステレオ写真を楽しむ環境が定義されたのです[9]。
さらに、本書の技術解説の核心とも言えるのが「トランスポーズ(左右の入れ替え)」と呼ばれるプロセスの図解化です。ステレオカメラのレンズを通して乾板に記録される画像は、上下左右が反転しています。これをそのまま印画紙やガラス板に焼き付けて正像に戻すと、左のレンズが捉えた画像が右側に、右のレンズが捉えた画像が左側に配置されてしまいます。この状態の写真をステレオスコープで覗き込むと、遠景が手前に飛び出し、近景が奥にへこんで見える「擬立体視(シュードスコープ現象)」という生理的・光学的な矛盾を引き起こします。吉川は、この擬立体視現象の原理を一般読者に向けて極めて論理的に解説し、これを回避するために左右の画像を物理的に切り離して入れ替えるプロセスを標準化しました[10]。
また、ステレオ写真の圧倒的な立体感と階調の豊かさを引き出すためには、紙の印画紙ではなく「ガラス陽画(トランスパレンシー)」の作成が必須であると説きました。暗室において、専用の焼き枠を用いて左右の画像を正確な間隔で配置し、2回に分けて露光を行うという複雑な作業手順を、綿密な図解とともに詳述したのです。この解説により、ステレオ写真の制作における最大の障壁が取り除かれました[11]。

『双眼写真の第一歩』吉川速男 古今書院 1930年 昭和5年 [陽畫編] より
『双眼写真の第一歩』吉川速男 古今書院 1930年 昭和5年 [陽畫編] より

小型カメラの台頭と「Cha-Cha撮影法」の提唱

ステレオ撮影杆[Fiate]

1930年代に入ると、写真機材の技術革新により、35mm映画用フィルムを使用する小型カメラが台頭し始めます。その代表格がドイツのライツ社が製造したライカでした。吉川速男は1933年に著書『私のライカ』を出版し、この新しい機材を用いたステレオ写真の可能性を提示しました。専用のステレオカメラは依然として高価であり、レンズが2つあることによる構造上の制約も存在しました。そこで吉川が提唱したのが、単眼の小型カメラを用いてステレオ写真を撮影するステレオ撮影杆[Fiate]による「Cha-Cha撮影法」です。
この手法は、同一の被写体に対して1回目の撮影を行った後、カメラを水平方向に少し移動させて2回目の撮影を行うというものです。吉川はこの撮影法を成功させるための厳密な条件として、カメラを必ず同じ目標に向けること、水平移動を徹底すること、絞りやシャッター速度などの撮影条件を2回とも完全に一致させること、そして移動幅を人間の両眼の間隔に近い62ミリから65ミリに設定することの4点を明記しました。
ただし、1回目と2回目の撮影の間に時間が空くという原理上、この手法は動く被写体には適用できません。風に揺れる草木、流れる雲、水面の反射、歩く人物などはすべて被写体から除外されます。吉川は、静止した風景や建築物、机上の静物などに被写体を限定することで、単眼カメラのユーザーであっても、高価な専用機材なしに高度な立体表現を獲得できる道を開拓したのです[12]。

ステレオリー(Stereoly) 吉川速男著『私のライカ』(1933年)収録の「ライカのステレオ撮影」より ステレオリー(Stereoly)は、1934年にライカ(Leica)から発売された、ライカカメラ用のステレオ撮影補助装置(Beam splitter)です。具体的には、ライカのレンズの前に取り付けることで、被写体の姿を左右の2つに分解し、フィルム上に左右並んだ2つの像を映し出す仕組みになっています。これにより、単眼のライカカメラでも動体のステレオ撮影が可能になります。

「大バシス撮影法」による新たな視覚の探求とフィルム時代への予見

「大島の想ひ出」に掲載されているされている、Cha-Chaで撮影された視差2メートルのステレオ写真。吉川速男著『私のライカ』(1933年)収録の「ライカのステレオ撮影」

吉川速男の技術探求は、人間の視覚を模倣するだけにとどまりませんでした。人間の両眼の間隔(約63ミリ)では、数十メートル以上離れた遠景の立体感を認識することはできません。そこで彼は、Cha-Cha撮影法の応用として、1回目と2回目の撮影位置を数メートルから数十メートル離す「大バシス撮影法」を提唱しました。
この手法を用いると、カメラのレンズ間隔が人為的に拡大されるため、通常の肉眼では平板にしか見えない遠くの山並みや渓谷が、まるで精巧なミニチュア模型のように圧倒的な立体感を持って浮かび上がります。吉川はこれを、人間の視覚限界を超える「超自然的な珍しい風景」の獲得であると位置づけ、写真技術を用いた新たな視覚体験として愛好家たちに啓蒙しました[13]。
さらに吉川は、機材の進化とその先の未来を的確に見据えていました。1950年代に向けて、彼は「私の過去のステレオは既に時代遅れとなり、新たに24×24ミリのフィルムを用いて四角に撮影するものが一般的になっていく」と語り、重厚で取り扱いの難しいガラス乾板を用いたステレオ写真の時代が終わりを告げることを予見しました。アメリカの「ステレオ・リアリスト」に代表されるような、35mmフィルムを使用する軽量で扱いやすいステレオカメラの規格が世界の主流となっていくことを、彼は技術の変遷の中から正確に読み取っていたのです[14]。
関東大震災による拠点の崩壊という決定的な断絶から始まった吉川速男の活動は、活字メディアを駆使した技術の体系化と標準化へと結実し、日本のステレオ写真文化を一部の密室から広大な公共空間へと引き出しました。彼の冷静な技術分析と絶え間ない啓蒙活動は、日本における写真技術の普及と視覚メディアの進化において、確固たる基盤を構築したと言えるでしょう。

吉川速男著『写真随筆●カメラと五十年』(1947年)収録の「私とステレオ」より。1947年はステレオリアリストの発売年である。この時、すでに米国の写真雑誌をチェックしていたことがうかがえる。
1950『誰でもどんなカメラでも簡単に出来る楽しいステレオ写真の作り方』吉川速男より

脚注

【付録】吉川速男(よしかわ はやお) 年表 (未完成)

1890年(明治23年)

  • 8月: 東京府東京市京橋区銀座1丁目(現:東京都中央区銀座1丁目)に生まれる。父・兼吉は洋食店を営む傍ら、大型暗箱カメラを操る熱心なアマチュア写真家であった。

1902年頃(明治35年頃)

  • 12歳頃: 父の暗室に忍び込み写真の魅力に取り憑かれる。化粧品のボール箱などに虫眼鏡のレンズを付けた「手製カメラ」を何十台も自作し、豆写真の撮影と暗室での試行錯誤を始める。

1904年(明治37年)

  • 14歳: 中学(慶應義塾普通部)時代。父よりアメリカ製手札判カメラ「スナッパ」を買い与えられる。日露戦争が勃発し、出征や凱旋、講和条約反対の国民大会(日比谷焼打事件など)で沸き立つ東京の銃後の様子を、手製カメラ等で危険を顧みず記録する。

1909年(明治42年)

  • 3月: 慶應義塾普通部を卒業。この春、父・兼吉と共に「スナッパ」を携え、関西、九州、東北などを巡る撮影旅行を行う。

  • 東京外国語学校(現:東京外国語大学)ドイツ語本科に入学。

1912年(明治45年/大正元年)

  • 22歳: 東京外国語学校を卒業。

  • 卒業後、ドイツの機械輸入商館に就職するが、海図の購入を命じられたことにスパイ行為の疑念(第一次世界大戦前夜の緊張下)を抱き、約5ヶ月で辞職。

  • 陸軍省に勤務するため大阪へ赴任。四ツ橋の写真店でイーストマン社の「ベスト単玉付きカメラ」を購入し、近畿地方の古跡や浄瑠璃の名所などを体系的に撮影する。

1914年(大正3年)

  • 24歳: 第一次世界大戦勃発。陸軍に入隊(または勤務継続)し、大阪(木津川口)のドイツ人捕虜収容所にて、文書検閲や通訳の業務に従事(~1917年)。

  • 収容所で捕虜のドイツ人たち(後の東京カールツァイス社支配人ヘルムート・シュルツェ氏らを含む)に自身の写真アルバムを見せ、焼き芋やざる蕎麦を振る舞うなど、写真を介した異文化交流を行う。

1915年(大正4年)

  • 10月: 日本橋三越の屋上で開催された日本初の「9.5ミリ(パテーベビー)撮影競技会」の審査員を、牛原虚彦や伴野文三郎と共に務める。日本の小型映画黎明期に深く関与する。

1917年(大正6年)

  • 27歳: 広島県似島のドイツ人捕虜収容所に赴任(~1920年)。この宿直の余暇を利用し、処女作となる『鉄道物語』の執筆を始める。

1919年(大正8年)

  • 29歳: 第一次世界大戦終戦を期に陸軍を退役(要確認)し、東京に戻る。

1920年(大正9年)

  • 30歳: 似島で執筆した『鉄道物語』を極東書院より刊行(初めての著書)。

1921年(大正10年)

  • 31歳: 少年時代の友人2人(印刷屋と製本屋)と協力し、『写真物語』を自費出版。本格的な写真関連の著述活動を開始する。

1923年(大正12年)

  • 33歳:

  • 5月: アルス社より『写真術の新研究』を出版し、写真技術の著述家として本格デビュー。

  • 春: 神田猿楽町のステレオ機器専門店「佐藤サンエス堂」店主・佐藤周輔と共に、日本初のステレオクラブ「日本双眼寫眞會」を設立。

  • 9月1日: 関東大震災発生。大森の父母の家で被災後、銀座の自宅へ向かうが全焼。16台のカメラ機材を失うが、ステレオカメラ(イカ・ポリスコープ)1台と乾板1枚だけを持ち出し、炎に囲まれる中で家族の記念撮影を敢行。佐藤サンエス堂も被災し、「日本双眼寫眞會」は崩壊。

  • 9月末: 震災の絶望の中、大森の避難先で蜜柑箱を机にし、胸ポケットに残った1本の万年筆で執筆活動を再開。物理的なサロン活動から、出版を通じた全国への知識普及(伝道師としての活動)へと本格的に舵を切る。

1926年(大正15年)

  • 36歳: 『活動写真のうつし方』(アルス)を刊行。小型映画の啓蒙も本格化。

1927年〜1928年(昭和2〜3年)

  • 37〜38歳: 『アルス写真大講座』にて「双眼寫真法」を連載。

1930年(昭和5年)

  • 40歳: 震災後の集大成として、古今書院よりステレオ写真入門書『双眼寫眞の第一歩』を刊行。輸入資材に頼る日本の事情に合わせ「日本ステレオ判」(トキオスコープ判)などの機材サイズの標準化や、トランスポーズ工程の図解化を提唱。

1933年(昭和8年)

  • 43歳: 『私のライカ』『図解写真術初歩』(玄光社)などを刊行。35mm小型カメラの台頭を受け、単眼カメラを用いたステレオ撮影「Cha-Cha撮影法」や、人間の限界を超える「大バシス撮影法」を提唱。

1938年(昭和13年)

  • 48歳: 『アルバムの纒め方』(玄光社)を刊行し、「私の大震災アルバム」として震災当時の壮絶な体験と写真の記録的価値を記す。また、『カメラと機関車』『ライカの旅』など多数を刊行。

1941年(昭和16年)

  • 51歳: 『我等何を写すべきか』(玄光社)を刊行14。戦時下の厳しい情報統制の中、「スパイの手に乗るな」と題し、写真家が不用意な撮影で国家の機密を漏洩しないための科学的・論理的な注意を喚起する。

1945年(昭和20年)

  • 55歳:

  • 3月〜5月: 東京大空襲により、銀座の実家や大森の自宅、約5000冊の写真蔵書や自作カメラ設備をすべて焼失。ただし、震災の教訓から銀行の鋼鉄製貸金庫に預けていた家族の原板(ネガ)だけは無事に守り抜く。

  • 6月: 命からがら三重県桑名郡朝日村へ疎開。空襲下を逃れながら、四日市や桑名の大火災を目撃。終戦を同地で迎える。

1947年(昭和22年)

  • 57歳: 終戦後初の著書として、自伝的写真随筆『カメラと五十年』を光画荘より刊行。過去のガラス乾板ステレオがいずれ時代遅れになり、35mm映画用フィルムを用いた新しいステレオ時代(ステレオ・リアリストなど)が到来することを予見し、明言する。

1950年(昭和25年)

  • 60歳: 『撮影初歩の初歩』(アミコ出版社)などを刊行。雑誌等で「普通カメラでステレオ(Cha-Chaステレオ)」や「大バシス撮影法」の実践的テクニックを図解入りで詳細に再解説。

1957年(昭和32年)

  • 67歳: 『初歩のカメラハンドブック 新版』(山海堂)にて「日本のステレオ」を執筆。念願であったステレオロッカやステレオアウラといった「国産ステレオカメラ」が次々と誕生した時代を喜びとともに記録する。また『8mm映画の撮り方』など小型映画の技術書も精力的に執筆し続ける。

1959年(昭和34年)

  • 1月31日: 逝去(享年68歳)。

  • 生涯を通じて160冊近くの著作を残し、カメラ機材の激しい進化(手製箱型→大型乾板→小型ロールフィルム→35mm)に適応しながら、日本のアマチュア写真・ステレオ写真・小型映画の普及に多大な貢献を果たした。


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