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日本ステレオ伝【外伝2】:吉川速男少年がステレオ写真伝道師になるまで ─ 1890〜1923年の軌跡

明治の銀座に生まれ、父の暗室で写真の魔法に魅入られた少年・吉川速男。彼は自らシャッターを切るだけでなく、生涯に及ぶ著作を通じて写真技術を大衆に翻訳し続けた伝道師でした。ボール箱の自作カメラから始まる、日本視覚メディア史を牽引した記録者の1890年から1923年までの軌跡を追う。


明治の銀座と新しい視覚の芽生え

1890年(明治23年)8月、吉川速男は東京府東京市京橋区銀座一丁目という、日本の近代化が最も早く進行する街に生を受けました[1]。当時の銀座は、明治5年に完成した煉瓦造りの瀟洒な街並みが続き、車道の中央には二頭立ての鉄道馬車がのどかに走る風景が広がっていました[2]。夜の帳が下りれば石油ランプや種油の行灯が商店の屋号を照らし出し、やがてガス灯やマントル式の白熱灯、そして炭素線の電灯へと次々に街の光彩が移り変わっていく、まさに文明開化の息吹が肌で感じられる過渡期の時代でした[2]。速男が幼少期を過ごした明治30年代には、前輪が巨大な自転車が音を立てて走り、やがて箱型の車体を乗せた蒸気自動車が黒煙を吐き出しながら街路に登場し、人々の好奇の的となっていました[2]。
視覚文化の領域においても、旧来の伝統と最新の技術が激しく交差していました。街角の絵草子屋には色鮮やかな木版の錦絵が吊るされ、各家庭に幻灯機が普及し始める一方で、縁日の露店には台紙に貼られた名刺判の写真が並ぶようになっていました[2]。そこには当時の名優であった九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎、あるいは新橋の名妓たち、さらには東京の名所や帝国軍艦など、ありとあらゆる事象が手のひらサイズの画像として売られていました[2]。幼い速男は、限られた二銭五厘の小遣いを握りしめては、新橋停車場を発車する汽車の写真を血眼になって買い集め、その画像の背後にある未知の科学技術に対して強い憧憬を抱いていきました[2]。

厳格な写真館への反発と、父の秘密の小宇宙

速男が自ら写真術の仕組みを知りたいと強く願うようになった背景には、当時の写真館に対する強烈な違和感がありました。お宮参りや誕生日の折、速男は窮屈な紋付き羽織と袴を着せられ、厳格な空気が漂う写真館へと連れ出されました[2]。そこは見慣れない機材が鎮座し、換気が悪く薬品の独特な匂いが立ち込める閉鎖的な空間でした[2]。不自然な長椅子に座らされ、頭部を金属製の器具で固定されて動かないように指示されるという息苦しい経験は、速男の心に深い抵抗感を植え付けました[2]。速男は、このような仰々しい手続きを経ずに、走る汽車のような動的な被写体をどのようにして紙の上に定着させることができるのかという技術的な疑問を深めていきました[2]。
速男のもっとも身近にいた写真の先駆者は、他ならぬ父・吉川兼吉でした。兼吉は銀座で洋食店を経営する傍ら、当時としては非常に珍しかった熱心なアマチュア写真家として活動していました[2]。兼吉は四ツ切サイズの巨大な組み立て式暗箱(大型カメラ)を所有し、専用の人力車と車夫を雇い入れて東京の名所撮影に出かけるほどの情熱を持っていました[2]。自宅の縁側には、三尺の戸棚を改造した簡素な暗室が設けられていました[2]。赤いガラス窓と石油ランプの微かな光だけが頼りのその狭小な空間には、現像皿やバケツ、そして外国製の乾板(ガラス乾板)の箱が所狭しと積み上げられており、速男にとってはまさに魔法の小宇宙でした[2]。
父の不在を見計らっては暗室に忍び込んだ速男は、感光度が低い当時の乾板であっても光に当てれば使い物にならなくなるという理屈を知らず、興味本位で次々と箱を開けて中身を確かめていました[2]。後日、いざ撮影に出かけた兼吉が真っ黒になった乾板を現像し、速男がまた開けたのだなと嘆くという出来事が繰り返されたといいます[2]。また、父の現像液の調合を手伝わされた際、天秤で量った薬品が水に溶けて色を変える化学変化の美しさに魅了されたことも、速男を写真術の深い探求へと駆り立てる重要な原体験となりました[2]。

ボール箱の豆カメラと暗室での試行錯誤

自らの大切な機材を子供の好奇心から守るためか、あるいは息子の内なる熱意を認めたためか、兼吉はある日、速男を築地の外国人居留地にあったイー・クラウス商会へと連れ出しました[3]。そこで速男に買い与えられたのは、アメリカのロチェスター・オプチカル・カンパニー製「スナッパ」という手札判の折りたたみ式カメラでした[3]。十二枚の乾板を収容する精巧な交換箱を備えた、当時としては最新鋭の最高級機です[3]。舶来品特有の高貴な香りが漂うこのカメラは、関東大震災で灰燼に帰すまで速男の最も信頼する相棒となりました[3]。
しかし、既製品を与えられただけでは速男の溢れる製作欲は満たされませんでした。速男は高価な輸入乾板を節約するため、手札サイズの乾板をガラス切りで四等分や十六等分に細かく分割し、それを利用するための超小型カメラを何十台も自作し始めます[2]。化粧品の空き箱やボール紙の箱に小さな穴を開け、眼鏡店で安価に入手した一円前後の虫眼鏡の凸レンズを取り付けただけの簡素な装置です[2]。ゴムバンドを動力とした手製のシャッターを備え、一度に一枚しか撮影できない不便な代物でしたが、黒い布で作った自作の交換袋を携帯することで、速男はどこでも自由に豆写真を撮り続けることができました[2]。
暗室作業においても、独学ゆえの壮絶な試行錯誤が展開されました。自室の二階に設けた手作りの暗室では、光の調整に苦心惨憺しました[2]。赤いガラス窓からの採光が強すぎて乾板が感光してしまったり、逆に石油ランプの火筒の手入れが悪く、密室に油煙が充満して部屋中が真っ黒になり、速男自身の顔も煤だらけになって逃げ出したりした経験もあります[2]。さらに、排水用に設置したトタン管が現像薬品によって腐食し、真下にあった階下の押し入れを水浸しにしてしまうという大失敗も引き起こしました[2]。誰も教えてくれる指導者がいない中、速男は自らの多大な犠牲と失敗を通じて、写真術が高度な物理学と化学の知識の上に成り立つ精密な技術であることを、身をもって学んでいったのです[2]。

時代の激動を記録する少年のファインダー

明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると、速男の関心は日常の静かなスケッチから、時代のうねりを捉える報道的な記録へと急速にシフトしていきました[2]。慶應義塾普通部に通う速男の学生服のポケットには常に手製の豆カメラが忍ばされており、通学の途上で都市の変容を克明に切り取っていきました[2]。
戦況の推移とともに東京の街は熱狂に包まれました。ポーツマス講和条約の締結に対する民衆の不満が爆発し、日比谷焼打事件などの大規模な騒乱が起きると、速男は危険を顧みずカメラを手に現場へと向かいました[2]。桂太郎首相の官邸が怒れる群衆に襲撃される様子を記録しようとカメラを地面に据えた瞬間、抜刀した警官が狂気のような形相で迫ってきて、命からがら路地裏へと逃げ帰ったという生々しい体験も手記に残されています[2]。また、新富座で行われていた国民大会の騒ぎを撮影した際、手製の単玉カメラが意図せず背後の芝居の看板の文字まで克明に記録していたことに気づき、写真というメディアが持つ、人間の意図を超えた無慈悲なまでの記録力に深い感銘を受けました[2]。
ある日、新橋駅前で凱旋将軍の晴れ姿を捉えようとした速男は、幾重にも重なる人垣に阻まれて撮影場所を見つけられずにいました[2]。思い切って警備の警官に尋ねたところ、広場の中央にある新聞社や通信社の報道写真班が陣取る専用エリアを案内されます[2]。高い梯子の上から俯瞰撮影を行うプロの大人たちに混じり、速男は一人地面に這いつくばり、手作りの単玉カメラを見上げて構えました[2]。たった一枚しか装填されていない乾板にすべてを懸け、速男は決定的な瞬間を記録しました[2]。激動の時代を自らの手で視覚化しようとするこの純粋な衝動は、後に速男が写真の持つ歴史的価値を大衆に向けて説く際の強靭な思想的基盤となっていきました。

語学力と異文化交流が育んだ知性

吉川速男の経歴を語る上で欠かすことのできないもう一つの要素が、高度な語学力と国際感覚です。明治42年(1909年)、慶應義塾普通部を卒業した速男は、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)のドイツ語本科へと進学しました[1]。ここで修めたドイツ語の知識は、当時世界最高峰を誇っていたドイツの光学技術や最新の写真理論を、速男が原書で直接吸収するための強力な武器となりました[1]。
卒業後の大正時代初期、速男は陸軍に入隊し、第一次世界大戦の勃発に伴って大阪や広島県の似島に設置されたドイツ人捕虜収容所へと赴任します[1]。ここで速男は、文書検閲や通訳の業務に従事しながら、収容されていたドイツ兵たちと写真を通じて深い交流を持つようになりました[1]。速男は日本の田舎の風景を捉えた自身のアルバムを彼らに見せ、焼き芋やざる蕎麦といった日本の日常的な食べ物を振る舞うなど、国境を越えた文化交流を行いました[1]。
この捕虜たちの中には、戦後に東京カールツァイス社の支配人となるヘルムート・シュルツエも含まれていました[1]。最先端のカメラ技術を持つ国の若者たちとの対等な交流は、速男の技術的視野を飛躍的に広げるとともに、写真というメディアが言語の壁を越えて人間同士を理解させる普遍的なコミュニケーションツールであることを、速男に強く確信させたのです[1]。

撮影者から伝道師へ ─ ペンとカメラが紡ぐ使命

吉川速男の本領は、自らが優れた写真を撮影すること以上に、その膨大な知識と経験を一般読者に向けて体系化し、言語化する「著述家」「伝道師」としての活動にありました。速男が残した著作は生涯で160冊近くにのぼり、その内容は写真技術の基礎、最新カメラの解説、小型映画の撮影法、さらには鉄道趣味の指南まで多岐にわたります[4]。
速男が著述活動を本格化させた契機の一つに、1923年(大正12年)の関東大震災があります。銀座の自宅や貴重な機材のすべてを火災で失った直後、焼け出された着の身着のままでありながらも、速男は残されたカメラを手に廃墟と化した東京の街を記録して歩きました。さらに、震災当時に着ていた服のポケットに残されていた一本の万年筆を用いて原稿を執筆し続け、焼け跡からの復興と、記録としての写真の重要性を世に訴えかけました。この一本の万年筆から、後に数多くの技術書や写真術の指南書が生み出されることになります。
また、速男の深い鉄道趣味は単なる余暇の楽しみを超え、洗練された写真撮影と著述活動に昇華されました。機関車や鉄道施設を克明に捉えた記録は歴史的資料としての価値を持ち、同時にそれらを題材とした出版物は、後進の写真愛好家たちに撮影技術や心構えを伝える指南書として大きな影響を与えました[5]。速男の著作の特徴は、難解な光学理論や化学的プロセスを、読者の目線に立って論理的かつ実践的に解説している点にあります。輸入カメラが高嶺の花であった時代から、国産の普及機が一般家庭に浸透していく過程において、速男は「どのようなカメラであっても、仕組みを理解すれば確実に記録を残せる」という信念のもと、数え切れないほどのアマチュア写真家たちを導きました。速男にとって写真は単なる芸術的表現の手段ではなく、大衆が自らの歴史と日常を記録し、後世に伝えるための「知的な民主化の道具」だったのです[4]。

父から受け継いだステレオ写真という終着点

技術の解説者として幅広いメディアを扱った吉川速男ですが、速男自身が「私の写真の中心はいつもステレオ写真である」と公言してはばからなかった通り、その情熱の最深部には常に三次元の立体写真が存在していました[2]。
その源流は、やはり父・兼吉の背中にありました。かつて四ツ切の巨大な暗箱で風景撮影に熱中していた父は、晩年になるとイギリス製の大型ステレオカメラに持ち替え、空間の奥行きを正確に捉える立体写真に深い興味を示すようになりました[2]。日光や松島、京都などへの撮影旅行に同行したこのカメラは、速男の手元で関東大震災の運命の日まで機能し続けました[2]。
速男は、ステレオ写真が単なる珍しい視覚玩具ではなく、人間の両眼視差という生理的メカニズムを応用した科学的な記録媒体であることを深く理解していました。日本におけるステレオ写真の歴史を語る上で、彼が1923年に関東大震災という時代の転換点を経て本格的な伝道師として歩み始めた足跡は、欠かすことのできない重要な指標となっています[6]。
銀座の片隅にあった暗室でのいたずらから始まり、語学力と異文化交流を経て、日本の視覚メディアの黎明期をペンとカメラで牽引した吉川速男。速男は自らの才能を個人の表現にとどめることなく、大衆への写真術の伝道と技術の翻訳に捧げました。その軌跡は、写真という魔法がどのようにして人々の手に渡り、社会の記録装置として定着していったのかを示す、日本メディア史における重要な証言として今も輝きを放っています。


脚注

[1] Draft: 吉川 速男(よしかわ はやお)プロフィール
吉川速男の生い立ちから東京外国語学校でのドイツ語習得、第一次大戦中のドイツ人捕虜収容所での勤務経験など、彼の知的な背景と生涯の軌跡を時系列でまとめた草稿資料。
[2] 1947 『写真随筆●カメラと五十年』
吉川速男が自身の半生と日本の写真技術の変遷を振り返った随筆。本稿の記述は主に同書の「3. 私の昔話」「4. 明治の銀座」「5. 新文化と交通機關の發達」「6. 少年時代の手製カメラ」「7. 明治の芝居見物」「9. 父のグループ」「25. 私とステレオ」の各章を参照して構成されています。明治期の銀座の風俗、手作りカメラによる試行錯誤、日露戦争時の撮影体験などが客観的かつ詳細に記録されています。
[3] 1933『私のカメラから見た時代の変遷』
吉川が所有したカメラの履歴を記したテキスト。少年時代のボール箱の自作カメラから、父に買ってもらった当時の最高級機「スナッパ」までの機材の変遷が詳述されています。
[4] 写真人とその本 6 /吉川速男 - 日本カメラ財団
未公開原稿において参照された、吉川速男の生涯で160点近くにのぼる膨大な著作とその多岐にわたる活動内容を証明する日本カメラ財団の学術的な調査研究資料。
[5] カメラと機関車 - Wikipedia
未公開原稿において参照された、吉川速男の鉄道趣味と執筆活動の結びつきを示す資料。写真技術の指南書としての性格を帯びた彼の代表的著作の背景が記されています。
[6] STEREO Japan Chronology: ISU2023JAPAN
未公開原稿において参照された、日本におけるステレオ写真の歴史的変遷をまとめた国際ステレオ写真連合世界大会の公式年表。吉川速男のステレオ分野での位置づけを裏付けています。


甲州御獄昇仙峡にて
43年前の写真
5台のカメラを持って甲信地方を巡った時の記念撮影です。そのために特別に山篭りを一つ用意しました。すべてのカメラは重い乾板用で、カビネ判、手札判、大型ステレオ判などがあったため、運ぶのがとても大変でした。
明治38年8月、手札2枚を並べてイギリス製のステレオカメラで撮影しました(前面の一部分を拡大しています)。

1947『カメラと五十年の口繪』吉川速男[現代語訳書き起こし] #日本ステレオ伝 番外 より


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