第1話 辺境の剣士
剣先を返した瞬間、生ぬるい血の匂いが鼻先をかすめた。
「はい、これで四匹目っと」
セレスティアは足元に転がる黒毛の獣――牙狼(がろう)の死骸を一瞥もせずに剣を鞘へ収めると、ポニーテールにまとめた赤茶けた髪を軽く払った。日に焼けた頬に、汗がひと筋。二十歳にも満たない娘とは思えぬ身のこなしで、彼女はひらりと荷馬車の荷台に飛び乗る。
「相変わらず涼しい顔だな」
荷台の御者台からそう声をかけたのは、白髪交じりの髭を蓄えた偉丈夫――ダリウス・グレイブだった。腰に佩いた長剣の柄には、幾多の戦場をくぐり抜けた者だけが持つ独特の光沢がある。
「涼しい顔もなにも、依頼書には『三匹前後』って書いてあったのに、四匹目ですよ四匹目。追加料金、ちゃんと請求してくださいね師匠」
「お前がそれを言うと、いつも金額が二割増しになるのは知っているか」
「あら、バレました?」
セレスティアは悪びれもせず笑ってみせる。屈託のない、それでいてどこか人懐っこい笑みだった。辺境の村々を渡り歩く傭兵として五年――この明るさと軽口は、もはや彼女の看板のようなものだ。誰と組んでも、誰の前でも、セレスは崩れない。
崩れないように、笑っている。
その理由を、彼女は誰にも――目の前のダリウスにさえ、詳しくは語ったことがない。前髪の下、右目を横切るように刻まれた紋様のことも。
「次の依頼だが」
ダリウスが手綱を握ったまま、懐から一枚の羊皮紙を差し出した。セレスはひょいとそれを受け取り、目を通す。
「――ケイダの村? ここから二日か。魔物の被害相談、緊急……随分と物々しい書き方ですね」
「近頃、辺境全体で魔物の動きがおかしいという噂は聞いているだろう」
「まあ、噂程度には」
軽く言ってのけたが、セレスの指先が、羊皮紙の端を強く握りしめていた。ここ数ヶ月、討伐依頼の数も、魔物の凶暴さも、明らかに以前とは違う。まるで、何かに急かされているかのように。
馬車は土埃を上げながら、辺境の荒野を進んでいく。
ケイダの村に着いたのは、翌々日の夕刻だった。
村の入口に立った瞬間、セレスは違和感に眉をひそめた。静かすぎる。夕餉の支度をする煙も、子供たちのはしゃぐ声もない。あるのは、押し殺したようなすすり泣きと、遠くから響く――地鳴りのような、低い唸り声だけ。
「ダリウス」
「ああ」
二人が同時に剣を抜いたその時、村の広場を囲む柵が轟音とともに弾け飛んだ。
現れたのは、セレスがこれまで見てきたどの魔物とも違う何かだった。犬型の魔物のようでいて、四肢は不自然なまでに長く伸び、全身を覆う体毛は闇そのものを固めたように黒い。何より異様なのは、その双眸だ。獣の目ではない。まるで――こちらの心の奥底を覗き込むような、昏い光。
「なにあれ……」
思わず漏れた呟きに、答える者はいない。
化け物は咆哮し、逃げ遅れた老婆に向かって跳んだ。
「っ――!」
考えるより先に、身体が動いていた。セレスは地を蹴り、老婆と化け物の間に割り込む。剣を横薙ぎに払い、化け物の爪を弾く――はずだった。
だが、刃に伝わった感触は、これまでのどんな魔物とも違った。まるで、実体のない靄を斬ったような、頼りない手応え。化け物はひるむどころか、そのままセレスに体当たりを見舞ってきた。
「く……っ!」
吹き飛ばされ、地面を転がる。口の中に鉄の味が広がった。
立ち上がろうとした視界の端で、化け物がゆっくりと嗤ったように見えた――そんな錯覚を覚えるほど、その気配は禍々しい。
(まずい……このままじゃ)
ダリウスが加勢に入ろうと駆け出すのが見える。だが、間に合わない。化け物の爪が、再び老婆に向かって振り上げられる。
その瞬間。
右目の奥で、焼けるような熱が弾けた。
「ぁ……!?」
視界が赤く染まる。いや、違う――世界の色が変わったのではない。自分の右目が、燃えているのだ。前髪の下に隠していた紋様が、初めて自らの意思とは無関係に、脈打つように輝きを放っていた。
気づけば、セレスの手は自然と剣を握り直していた。身体の奥から、これまで感じたことのない力が迸る。まるで、剣が意思を持って彼女を導いているかのように。
化け物の爪が振り下ろされるより早く、セレスは踏み込んでいた。
交差する一閃。
化け物の絶叫が夜気を裂き、その巨躯が黒い靄となって崩れ落ちていく――まるで最初から実体などなかったかのように。
静寂が戻った広場で、セレスは荒い息をつきながら剣を杖代わりに立っていた。右目の熱はすでに引いている。何が起きたのか、彼女自身にもよくわからない。
「セレス、無事か!」
駆け寄るダリウスの声に、セレスはいつもの調子で軽く手を振ろうとして――ふと、気づいた。
化け物が消えた地面に、うっすらと黒い染みが残っている。血ではない。まるで、何かに”罅(ひび)“が入ったような、不自然な染み。
「……ダリウス。あれ、見えます?」
ダリウスもまた、その染みを見つめて表情を険しくしていた。
「これは……」
言いかけたダリウスの言葉は、しかし最後まで紡がれることはなかった。
村の外れ、闇の中に立つ何者かの気配に、二人同時に気づいたからだ。
人影は、じっとこちらを――いや、正確には、セレスの右目を見つめているようだった。声をかける間もなく、その姿は闇に溶けるように消えていく。
「今の、は……」
セレスは震える指先で、そっと前髪を撫でつけた。
いつもの明るい軽口は、今だけは出てこなかった。
(つづく)
