39.余命幾ばくも無いとしたら

知人が余命半年と告げられた。だから、一度で良いから憧れの人に会いたい。その思いをかなえてあげたい。というツイートをみた。

もし自分が余命を宣告されたら、きっと誰かに会いたいと思う。
好きな人の歌をもう一度聴きたい。
声を、笑顔を、空気を、確かめたい。それは痛いほどわかる。

でも同時に、どうしても不公平に感じた。
私は愚かだね。
死にゆく者の前で優しい気持ちになれなかった。

それは、必要以上に我慢しすぎる毎日のせいなんだろうか。
私だって会いたかった。
声が聞きたい、触れたい。

明日も、明後日も生きているから「後でいいでしょう」と。
そんなふうに感情を押しつぶしてきた。
でも、明日がある保証なんて、本当は誰にもない。

死を宣告された人の「会いたい」は、奇跡みたいに人の胸を打つ。
けれど、生きている人の「会いたい」だって、
本当は同じ重さを持っている。

我慢することに慣れすぎて、願いを後回しにすることが正しさなってしまう。それが少し、怖いと思った。

だから、会いたいと思ったら、言っていい。
弱さやわがままに見えたって構わない。
この声が、届かない日もあるけれど、届く日だってちゃんとある。
生きている人の願いだって、軽く扱ってはならない。

胸の奥にしまい込んだ「会いたい」を、
誰かに向かってそっと言ってみる。
それだけで救われる明日があるかもしれない。

そして、その『かもしれない』を信じて生きていけるのは、
余命を告げられていない、今、生きている私たちだけなのだから。

遠慮なく、その声を世界に投げつけてやれ。
生きている私たちには、「言える」時間がまだ残っている。
その奇跡を、どうか無駄にしないでほしい。


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