企画小説|禽籠の子(とりかごのこ) #パケどう
壊れた鳥かごが、ひとつ残されていた。
歪んだ鉄の骨組みは、もう鳥を閉じ込める力を持たない。錆に侵され、鍵は半ばから折れ、床に転がった鉄片は風に震えてかすかに鳴った。その音は、呼吸のようでもあり、遠い昔の記憶の残響のようでもあった。
私は、その鳥かごを目の前にして立ち尽くしていた。
十数年ぶりに訪れた叔父の部屋。壁紙は色を失い、家具は人の気配をなくして埃に沈んでいる。だが、この鳥かごだけが、異様に鮮やかだった。あの夜から、時間の流れを拒んでしまったかのように。
確か、最後に見たのもこんな月夜だった。
子供だった私は、あの鳥かごの中に「何か」がいたことを知っている。声だけを持つ存在。叔父と共に夜を過ごす、不可思議な同居人。
その名はルーシー。ルーシーの語る物語は、いつも悲しい匂いがした。
◇
叔父が十九の頃、彼はひとつの部屋に籠もって暮らしていた。
同じ屋根の下にいながら、まるで別の世界に住んでいるようだった。廊下を隔てただけで、空気は一変する。私が子供のころ、扉の前を通るだけで足を止めてしまったのは、その部屋が「家」の延長線ではなかったからだ。
その部屋の奥には、ひとつの机と、崩れかけた本棚と、そして、ルーシーがいた。
ルーシーは頭部だけのアンドロイドだ。白い顔に透き通った少し茶色い瞳。無機質なはずなのに、どこか人間よりも人間らしく見えた。時々、にっこりと笑ってルーシーはこう語った。
「……眠れぬ夜には、寝物語をあげましょう」
その声は女でも男でもない。柔らかい響きでありながら、ひどく冷ややかでもある。不思議な感覚を持っていて、まるで何人もの人間が、同時にひとつの台詞を囁いているように聞こえた。
叔父は、夜ごとその声に耳を傾けていた。机に頬杖をつき、煙草を吸いながら、あるいは黙って目を閉じて。
彼の暮らしは、昼には影がなく、夜にだけ色を差す。周囲の者には「病弱で外に出られない」と説明されていたが、実際には夜の語りを手放せなくなっていただけだった。私は幼いながらに、それ理解していた。
あの部屋には、二人だけの世界がある。
扉の外で立ち止まると、時折、ルーシーの声が漏れてくる。昔話でも寓話でもない、不思議な寝物語。そこには、名も知らぬ少年の笑い声が交じることがあった。だが翌日になると、その声はまるで最初から存在しなかったように消える。
部屋の隅には、鳥かごがあった。
鳥の姿はない。ただ鉄の骨組みだけが毎夜、二人を見守っていた。
◇
その夏、私はひと晩だけ叔父の部屋に泊まることになった。いつもなら近づくことさえ許されないのに。
母は「病弱な叔父を励まして欲しい」と言ったが、私は胸の奥に小さな棘のような不安を抱えていた。あの部屋には、他とは違う冷たい空気が漂っていたからだ。
ランプの灯りの下、叔父は机に肘をつき、煙草を指の間で転がしていた。部屋の隅には例の鳥かごが、影を引きずるように置かれている。
やがて、ルーシーの瞼がわずかに震え、声が流れた。
「今宵は、どんな寝物語をしましょうか」
叔父は少しだけ振り返り、私に目配せをした。
「そうだね……この子ももう年頃だから、恋の話でもどう?」
「了解しました。では、ひとつの恋の話をしましょう」
ルーシーの声は柔らかく、しかし冷ややかだった。まるで機械仕掛けの祈りのように、抑揚は少なく、それでいて耳の奥に残響を落としていく。
「その人には、愛する人がいました。けれど、愛されることが怖かった。だから拒んでしまいました。愛していたのに、愛されることを恐れてしまったのです。その結果、彼は、失いました」
私は瞬きを忘れていた。
叔父の背中が小さく、しかしはっきりと震えているのが見えたからだ。
「愛を拒まれた男は、絶望の果てに命を絶ちました。それでも魂は残りました。愛する者の傍に在りたいと願ったから。その男は、いまも彼の隣に在り、夜ごと物語を語り続けています。わたしのように」
部屋の空気が一気に重くなる。
叔父は俯いたまま、煙草の火を乱暴に揉み消した。
「嘘だ」
ようやく絞り出された声は、私の耳を震わせた。
その否定の言葉こそが、何よりも真実を語っているように思えたから。
叔父はふいに立ち上がった。椅子が床を擦り、甲高い音を立てる。
彼は机の上に置かれていたルーシーの頭部を掴み上げると、よろめく足取りのまま部屋の隅に進んだ。
そこにあったのは、壊れかけた鳥かご。
叔父は、まるで現実を檻に閉じ込めようとするかのように、ルーシーをその中に押し込んだ。鉄の枠がきしむ。
「黙れ……黙れ……!」
声はかすれ、震えていた。
だが、ルーシーは従順に沈黙することなく、ただ静かにこう告げた。
「わたしは、ここにいます」
その囁きが鳥かごの隙間から漏れ、夜の部屋全体に広がる。
叔父は鍵を掛けようとしたが、壊れた留め金は空しく外れ落ち、床に転がった。
「黙ってくれ……!」
閉じ込めることも、否定することも、何ひとつ叶わない。そんな叫び声に聞こえた。私は幼いながらに悟った。叔父は、決して救われないのだと。
◇
翌朝、部屋の空気は異様に静まり返っていた。
鳥かごには、相変わらずルーシーが収まっていた。叔父が押し込んだままの姿で。だが昨晩の余韻はまだ部屋に漂っていおり、私は一晩中眠れなかった。
「……昨夜の話、忘れろ」
叔父は短くそう告げた。けれどその声には、疲れと焦燥が滲んでいた。忘れろと言われるほど、頭から離れなかった。
私は思い切って聞いた。
「ねえ叔父さん。あの話、本当なんでしょう?」
叔父は一瞬、言葉を失った。目を逸らし、煙草に火を点けようとしたが、震える指先で何度も火打石を空回りさせるばかりだった。
やがて彼は立ち上がり、私を連れて外に出た。
向かったのは町外れの古い図書館だった。叔父はそこで黙々と古新聞を繰り、私は横で退屈をこらえながら眺めていた。
やがて彼の手が止まった。
二年前の記事。若い男性が自死したことを告げる小さな欄。名前を見て、叔父は小さく息を呑んだ。
「……知ってる人?」と私が尋ねると、叔父は答えなかった。ただ新聞を折り畳み、懐に押し込んだ。
その後も叔父はあちこちを歩き回った。古びた喫茶店。廃墟になりかけた下宿屋。そこには彼を知る者がわずかに残っていて、誰もが同じことを語った。
――彼は、ある日を境に壊れてしまったのだと。
――理由は誰も知らない。だが「愛した人に拒まれたらしい」と、ひそひそと噂されていた。
私は、昨夜ルーシーが語った話を思い出していた。
日が落ちて、二人で部屋に戻ったとき、鳥かごの中のルーシーは静かに言った。
「ご覧になったでしょう。すべては真実です」
叔父は激しく首を振った。
「違う……」
だがその声は、否定というよりも懇願に近かった。幼い私には、それが本当に真実なのか確かめようもなかった。ただ、叔父の沈黙が物語の全てを語っている。そう、思わざるを得なかった。
◇
本当は一晩だけのはずだった。けれど私はどうしても離れたくなくて、母に懇願した。もう一晩だけ、叔父の部屋に泊まりたい、と。
母は少し困った顔をしたが、しばらく考えてから「……いいわ」と頷いてくれた。
私は胸をなで下ろしながら、再びあの扉をくぐった。
夜が更けると、ランプの灯りの下で叔父が黙り込み、部屋の隅の鳥かごが影を落とした。
やがて、あの声が再び囁く。
「今宵も、ひとつ寝物語をいたしましょうか」
叔父は何も言わなかった。ただ俯き、沈黙していた。その隙間を縫うように、ルーシーの声が響いた。
「拒まれても愛は消えず、夜ごとあなたの傍らで語り続けているのです」
叔父の肩がぴくりと動いた。昼間、真実を突きつけられたばかりの彼には、もはや逃げ場がなかった。
「やめろ……」
叔父は低く唸った。
「ああ、そうだ。そうだとも!俺は……あいつを、愛していた。けれど……」
言葉が続かない。煙草の火がぽとりと落ち、暗い部屋で赤い点が完全に消えた。
「愛することも、愛されることも、怖かった」
やっと絞り出したその告白は、呻きのようだった。ルーシーは穏やかに応じる。
「だから、失ったのです」
その一言で、叔父は立ち上がり、机をひっくり返した。本が散乱し、灰皿が砕け、硝子片が床に散らばる。
「黙れ! おまえなんか知らない! おまえは、あいつじゃない!」
叔父は鳥かごに近づき声を荒げた。壊れかけた鉄の骨組みは、彼の狂気を受け止めきれず、鈍い音を立てている。
ルーシーの声は、それでも途切れなかった。
「わたしは、ここにいます。ずっと、ずっと……ここに、 ここ、に……」
叔父は震える手で鳥かごごとルーシーを叩きつけた。大きな音と共に床に散らばった鉄片が、まるで血のように暗闇に広がる。
月明かりに照らされた叔父の顔は、アンドロイドと同じように白く、血の気を失っていた。
私は、ただ呆然と立ち尽くしかなかった。怖かったのだ。叔父が壊れていく姿が。不気味で、禍々しくて、不可解で。背筋を冷たいものが這い回る。
けれど、それでも目を逸らせなかった。あんなにも脆く、あんなにも醜いはずなのに、その姿に心を奪われてしまった。
胸の奥が震えた。恐怖で息が詰まりそうなのに、同時に甘い痺れが広がっていく。壊れていく叔父の顔は、生者が落ちていく証でありながら、どんなものよりも鮮烈で、どんな祈りよりも清らかに映った。
惹かれてはいけない。見てはいけない。そうわかっているのに、目は離せなかった。心は勝手に彼を追い、愚かさを知りながらも、もっと深くその姿を刻みつけたいと願ってしまった。壊れていく人間の姿が、美にすり替わる瞬間を。永遠に見届けたいとさえ思った。
なのに。
翌朝、目を覚ますと叔父の姿は消えていた。残されたのは、壊れた鳥かごと、沈黙だけであった。
◇
壊れた鳥かごが、ひとつ残されている。
叔父が姿を消してから、どれほどの年月が経ったのだろう。誰も彼を見た者はいない。
行方を尋ねる声も、やがて途絶えた。
部屋の隅に打ち捨てられた鳥かごは、かつて何かを閉じ込めていた気配だけを漂わせている。鉄片は歪み、錆び、指先に触れると崩れ落ちそうだ。だが、私にはまだ、あの夜の光景が鮮やかに蘇る。
ルーシーの声。
叔父の震える背中。
そして、檻に押し込められながらも告げられたあの囁き。
『わたしは、ここにいます』
今はもう、声はしない。鳥かごとルーシーはただの鉄の屑と化し、残された部屋には虚無だけが広がっている。
叔父は愛を拒み、永遠に失った。残された私にも、何ひとつ託すことなく。その空白だけが、呪いのように押し付けられた。
私は壊れた鳥かごを、静かに見つめた。その空虚の中で、かすにあの残響を聞いた気がした。
そして胸の奥に、ひとつの問いが沈んだ。もしも私が愛を手にしたとき、拒まずに受けとめられるだろうか。それとも、叔父のように恐れに飲まれ、同じ檻を築いてしまうのだろうか。答えはまだない。ただ、壊れた鳥かごの沈黙だけが、私に向き合えと迫っている。
気づけば、私はあの夜の叔父と同じ年齢になっていた。そのことに胸を締めつけられた。追いかけてはいけないと知りながら、私は今もなお、彼に惹かれている。
もし叶うなら、もう一度だけでいい。あの壊れていく姿を、この目で見つめていたいとさえ思ってしまう。
そんな愚かで切ない願いだけが、いまも鳥かごの中に残されている。
コチラの企画に参加させて頂きました。雰囲気被ってしまったかな?いや、引っ張られました!早時期さんの作風がドストライクなのです。
私のキーアイテムは『鳥かご』です。捕らわれてるんです。捉えて離さないのです、ルーシーだったものが。
結果、私好みのお話になりました。ああ、好き。叔父好き。どうしよう、愛が溢れて止まらない(笑)スピンオフ書きたくて、構想練り始めました(笑)
素敵な企画をありがとうございました。
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