企画小説|どうか縛らないでください #アマノ文筆クラブ (1400文字)
春の風は、汽車の煙と混ざっていた。
桜の花びらが線路の上を流れていく。
その向こうに、あの人の後ろ姿があった。
深いグレーの外套の背が、もうすぐ見えなくなりそうだった。
あの人はこの町で唯一の画家であり、そして、私に絵を教えてくれた人だった。戦の影がまだ遠くに残る頃、私たちは毎日のように、町はずれの古い洋館で絵筆を握っていた。あの人は、光を描くことに人一倍うるさかった。
「影を知らぬ者に、光は描けない」――それが、彼の口癖だった。
その人が今、東京へ行く。帝展への推薦が決まり上京するのだ。喜ばしいはずの出来事なのに、胸の奥は妙に静かで、冷たかった。
「……行ってしまわれるのですね」
やっとの思いで、そう声をかけた。彼はゆっくりと振り返り、薄い笑みを浮かべた。
「ええ。夢が、待っていますから」
そう言うと、帽子のつばを押さえて風を避けた。その仕草が、昔と少しも変わっていなかった。写生の帰り道、スケッチブックを風に飛ばされたときも、同じように帽子を押さえていた。あの頃の私は、まだ少女で、絵の具の匂いを夢の匂いだと思っていた。
「おめでとうございます」
自分の声が、思ったよりも穏やかに響いた。涙を堪えるために、笑っていたのだと思う。彼は、私のその笑顔を見て、小さく目を伏せた。
「君は……強いね」
「そんなことありません。泣くと、あなたが困るでしょう? だから、笑っていたいだけです」
そう言うと、彼の表情がほんの一瞬だけ揺れた。春の光が斜めに差し、彼の横顔を柔らかく照らした。
「僕は、君のそういうところが好きでした」
でした、という言葉が少し痛かった。でも、今だけはその言葉を素直に受け取りたかった。あの人に好きと言われるのは、初めてだったから。
「ねえ」
私は少しだけ歩み寄った。風に押されて、裾が彼の手の甲に触れた。
「あなたがいなくても、私は大丈夫です」
「そう、ですか」
「ええ。ここで、見送ります」
「……笑顔で?」
「はい。笑顔で」
彼はゆっくりと頷いた。まるで、その言葉を胸に刻むように。
「本当は、泣いてくれた方が楽なのに」
「それでは、あなたの背中が重くなるでしょう」
「君は、優しすぎるよ」
その声が、少しだけ震えていた。私が笑顔のままでいることを、彼は知っていた。それがどんなに痛い笑顔かも、きっと。
汽笛が鳴った。
白い煙がゆっくりと立ちのぼり、風に溶けていく。駅のホームがざわめく。出発の時が、来た。彼は手袋を外して、私の手を取った。冷たい指先が、ほんの少し震えている。あの日、初めて私のスケッチを褒めてくれた時と同じ手だった。あの頃からずっと、この手が好きだった。
「ありがとう」
「こちらこそ。……気をつけて」
それだけを交わして、彼は笑った。子どもの頃から変わらない、少し照れた笑い方だった。その笑みの中に、いくつもの言葉が隠れている気がした。
愛しているも、離れたくないも。そして、言えないさよならも。
列車が動き始める。車輪の音が響いて、世界が遠ざかっていく。私は笑った。まっすぐに、彼に向かって。涙をこぼさずに。その笑顔が、彼の心に残るようにと願って。
彼は最後まで私を見ていた。窓の向こうから、小さく唇が動くのが見えた。風の音に消されそうなほど小さな声で、こう言った。
「どうか、どうか縛らないでください」
汽笛が鳴り、彼の姿が煙の向こうに消えた。私は笑顔のまま立ち尽くしていた。春の風が、頬を撫でていく。それはまるで、彼の指先のぬくもりのようだった。
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