26.天罰という概念
最近、思う。
ズルしたり、誰かの善意を当たり前のように利用したり、努力もしないのに不満だけは人一倍で、責任が迫ると逃げる人間がいる。
そういう人が、ある日ぽきっと折れたり、仕事で痛い目を見たり、失敗したり、信頼を失ったりすると、つい心の中でこう呟いてしまう。
「ああ、天罰が下ったんだな」と。
私は普段、非科学的なことを信じない。神様だの運命だの、目に見えない概念は論理的でないし、証明できない。だから普段は偶然だ、そういう結果になる理由があっただけ、と割り切るのに。
妙に都合よく世界がバランスを取っている瞬間が訪れるとと、胸の奥にひそかに疼く。
報いは、本当にあるのかもしれない。
私は、努力している人が報われる未来を信じたい。誠実で、真面目で、誰かに優しくできる人が、損ばかりする世界じゃなくてほしい。
でも、現実は不公平だ。ズルい人が先に昇進したり、口だけ達者な人が評価されたり、真面目に頑張ってきた人ほど損をしたりする。
それなのに。
時間がたつと、なぜか帳尻が合うような気がする。逃げ続けた人は、どこかで沈む。嘘を撒いた人は、信頼を失う。楽するために撒いた言葉や態度が、回り回って自分を苦しめる。因果応報なんだろうな。
人間は、自分が積み重ねてきた態度で人生を形づくっている。それが目に見え現れたとき、私たちはそれを天罰と呼ぶのだ。
ならば逆に、人に優しく、真面目に働き、努力し、それでも今報われていない人たちの未来には、何か起こるのだろうか。
天罰の反対。言葉にするなら、そう。祝福。それは派手なものじゃなくていい。宝くじが当たるとか、ドラマみたいな逆転劇じゃなくていい。
たとえば、気の合う友人と出会えること。努力がそっと実を結ぶこと。無視されていた頑張りが、ある日突然評価に変わること。孤独な夜が、気づけば希望に塗り替えられていること。
そんな静かで確かな幸せが、ちゃんと届けばいい。
天罰があるのなら、祝福だってある。
努力してるのに報われないとき、疲れても踏ん張るとき、泣きながら前に進むとき、その誰かの頑張りも、神様が見てくれている。だから私は今日も、信じることにしている。
ズルい人には天罰が、誠実な人には祝福が、世界のどこかで必ず降り注ぐ。それが科学じゃなくてもいい。迷信でもいい。そう信じられる世界のほうが、私は好きなんだな。
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