短編小説|水没エレベーター
窓ガラスを打つ音が、静かなフロアの空気を砕いた。
夜十時を過ぎたフロアには、点々とデスクスタンドの灯りが残っていた。それは明かりというより、暗闇に取り残された疲労のかけらみたいである。
佐伯遥は、最後のメールを送ってからノートPCを閉じ、書類をトートに収めた。肩を回すと、筋肉にずっしりと食い込む。
ふと窓の外を見ると、街はまるごと雨の膜に包まれていた。街灯も信号もヘッドライトも、全部が水に溶けてゆっくりと流れていく、そんな感じがした。まるでビルが一本深い水槽に浸されているようで、遥は思わず息を止める。
「……最悪の天気」
独りごとを放ち、バッグを肩にかけたとき「お疲れさまです」と背中から声がした。振り返れば、同じ部署の藤堂直哉。シャツの袖を肘までまくり、PCバッグを片手に下げている。いつも会議室で交わす事務的な言葉より、少し柔らかい顔。
「藤堂さんも今、帰り?」
「ええ。システムが言うことを聞かなくて。佐伯さんも遅くまで、お疲れ様です」
「お互い様ですね」
二人で苦笑する。
その笑みがほんの一瞬だけ、残業明けの重たい空気を軽くした。
――こういう時でも、ちゃんと声を掛けられる人なんだな。
そんな風に思った自分に気づいて、遥は慌てて視線を逸らした。ほんの少し、胸の奥が温かくなる。でもそれは、冗談めかして言えるような軽い気持ちじゃない。
会議で顔を合わせるたびに、エレベーターで偶然並ぶたびに、気づかないふりをしてやり過ごしてきた思いだ。
――口に出す勇気なんて、もちろんない。
ただ心臓の鼓動が、雨音に合わせて少し早くなるのを、ひとりでごまかすしかなかった。
二人は、消灯したフロアを出た。夜のビルは空調が止まって、湿気が肌に貼りついてくる。
薄暗い廊下。いつもなら足早に通り過ぎるのだが、今日は少しだけゆっくりと歩く。
「タクシー、拾えますかね」
「この雨なら……最悪、ここで朝まで仕事しても変わらないかもしれません」
そんな冗談とも投げやりともつかない会話をしながら、エレベーターホールに出た。昼間は人でいっぱいの場所が、今はがらんとしている。その静かさは、世界に取り残されてしまったかのようだ。
藤堂が下りのボタンを押すと、すぐに箱が到着してしまう。白い蛍光灯に、二人の姿が晒され、扉は静かに閉じた。
「外、ひどそうですね」
「傘、役に立つかな」
短い言葉のやりとりが途切れると、箱は下へ動き出した。湿った鉄の匂い。遠くの機械音。ひどく無機質な空気の中なのに、藤堂の存在だけがやけに生々しく近かった。
静けさに混じる機械音が一定のリズムを刻むたびに、自分の心臓の音まで重なって聞こえる気がして、遥は胸の奥を押さえた。
――こんな狭い空間で、鼓動まで聞かれていたらどうしよう。
そう思えば思うほど、呼吸が浅くなる。
そして、それは突然のこと。三階から二階に差しかかるあたり。膝の裏をぐっと引っ張られるような衝撃がきて、金属が軋む大きなは音を立て、箱は止まった。照明が一度消え、非常灯だけが白く点る。
「……え?」
遥の口から、勝手に声が漏れた。エレベーターが止まったのだ。直哉がすぐに非常ボタンを押す。数秒のノイズのあと、無機質な音声が返ってきた。
「停電により一時停止しています。ただいま復旧作業を行っておりますので、そのままお待ちください」
待てばいい。分かっている。けれど、胸の奥で小さな魚群が方向を失って暴れ始めたみたいに、ざわざわが広がる。喉の管が細くなる。吸っても吸っても、肺の奥まで届かない。
「佐伯さん?」
直哉が覗き込むが、遥はうまく答えられない。喉が硬く塞がれて、声が形にならない。胸の奥で心臓が暴れて、息をするたびに肺がきしむ。
手のひらには冷たい汗が滲んできて、バッグの持ち手を握っても、滑って落としてしまいそうだった。
――閉じ込められた?
頭の中でその言葉が何度も反響して、出口を塞ぐ。きっとすぐに助けがくる。もしかしたら、非常時の電力か何かでエレベーターはすぐに動き出すかもしれない。
大丈夫だ、大丈夫。
そう自分に言い聞かせているのに、なぜか胸の奥はざわめきを増していく。理屈では「助かる」と分かっているのに、想像だけは勝手に走り出す。
――もし電気が戻らなかったら?
――もし誰にも気づかれなかったら?
――このまま酸素がなくなって、息が吸えなくなったら?
考えまいとするほどに、最悪の映像ばかりが鮮明になっていく。水に沈むニュース映像、暗闇の中で手を伸ばす人の影。そんな断片が頭の奥から勝手に浮かび上がり、目の裏に焼きつく。
呼吸が荒くなる。肺に入った空気はすぐに抜け落ちて、いくら吸っても足りない。息苦しさが本物なのか、ただの想像なのか、もう区別がつかない。
「……やだ」
唇が勝手に震えて、小さな声が漏れる。
声に出した瞬間、心臓の音がさらに速まった。大丈夫と言い聞かせれば言い聞かせるほど、反対の言葉が胸の内で膨張していく。
――大丈夫じゃない。
そして、その思いに気づいてしまった瞬間、視界がぐらりと揺れた。
視界が揺れて、足もとが一瞬ふらついた。
「佐伯さん!」
直哉の声がすぐ近くで響く。肩をしっかりと支えられ、遥はかろうじてその場に踏みとどまった。
「……はぁ、はぁ……」
喉から漏れる呼吸は荒く、浅い。肺は吸い込むことを拒み、胸の奥がぎゅっと縮まっている。
「大丈夫、大丈夫ですから」
直哉はそう繰り返しながら、彼女の目線を捉えようと身をかがめた。
「俺の声を聞いてください。四つ吸って、八つ吐く。ゆっくり、合わせて」
彼の声は低くて落ち着いていて、狭い箱の壁に跳ね返りながらも、不思議と耳に届く。遥は震える唇を噛み、必死に頷いた。
吸って、吐く。数を数えるたびに、直哉の口元がわずかに動いて、リズムを示してくれる。
「……そう、大丈夫ですよ」
彼の言葉に縋るように、呼吸の流れをなぞっていく。
――落ち着ける。
そう頭で思おうとしても、胸の奥の恐怖は消えない。けれど彼の存在が「ここにいる」と告げてくれるだけで、底なしの闇に沈みきらずに済む。冷えた手のひらに、じんわりと血が戻る感覚がした。遥は気づけば、直哉の袖口をぎゅっと掴んでいた。
「……すみません」
「いえ」
笑った彼の眼鏡に非常灯が小さく宿る。ほんの少し、箱の白がただの白に戻る。
携帯のアンテナは一本立っては消え、消えては立つ。その頼りなさが夢の記号みたいで、現実感を削っていった。
「助けは来ますよ」
直哉は落ち着いた声で言う。だが言葉の端にごく薄い震えがあるのを、遥は聞き逃さなかった。
ぽたり、と音がした。最初は雨の滴りがどこかで反響したのだと思った。だが、狭い箱の中でその音は必要以上に大きく響く。遥ははっと足もとを見る。扉の下の隙間から、糸のように細い水の筋が顔を出している。非常灯の白を鈍く返しながら、じわりと広がっていく。
「……これ」
直哉がしゃがみ込み、隙間に手をかざした。指先が冷たさに濡れる。
「下から逆流してますね。浸水してる」
言葉が現実を引き寄せた。遥は反射的に後ずさって、背中を壁にぶつける。心臓が荒く打ち、喉が固まる。
「やだ……いやだ」
声にならない声が口の中でほどけ、消える。
床を走る水はじわじわと広がり、靴底をぬめらせた。くるぶしのあたりに冷たい感触がまとわりつく。瞬間、全身がすくむ。肺がきしむみたいに痛い。吸いたいのに吸えない。頭の奥で、ニュースで見た映像が勝手に再生を始める。地下の駐車場が水で満ちて、車の屋根が見え隠れする。ビルの一階が茶色い水で埋まって、誰かが窓ガラスを叩く。ここで、私も。
「佐伯さん!」
直哉の声が水音を割った。彼はすぐ目の前まで来て、額に汗を滲ませながら真剣な瞳で遥を見つめる。
「目を見て。四つ吸って、八つ吐く。俺と」
掌が空気を掬うように上下する。
「ここで死なせたりしませんから」
息が震え、喉が拒絶する。それでも、その言葉に縋る以外に術がなかった。遥は必死で彼の動きに合わせる。吸って、吐く。数字を心の中で刻む。肺に入った空気が冷たくて痛い。でも、ほんの僅かずつ息が繋がる。
水はふくらはぎへ届き、スカートの裾を貼り付けた。体温が奪われ、震えが止まらない。
「怖い」
漏れた声は、自分のものではないみたいに遠い。直哉は何も言わず、遥の手首を掴んだ。強くも弱くもない、ただ「ここにいる」と伝える力。遥はその手にしがみつく。そこだけが温かい。
非常ボタンを押すと、今度はノイズ混じりの声が返った。
「周辺地域の停電および浸水により、救助に時間を要しています。係員到着まで、その場でお待ちください」
時間を要する。その一文が喉に棘みたいに刺さった。水は膝を越えて、ゆっくりだが確実に上がってくる。
「……ほんとに助かるんですか」
遥の声は震え、歯も震えてカチカチ鳴る。直哉は眼鏡を額にずらし、濡れたまつ毛を瞬いた。
「助けは来ます。時間はかかっても、必ず」
言葉は静かだが、その手の震えは止まらない。彼だって怖いのだ。遥はそれをやっと理解して、掴んだ手を握り返した。互いの脈が皮膚を隔てて合図する。四つ吸って、八つ吐く。数を合わせれば、呼吸も合う。
非常灯が一度だけ明るくなり、すぐ落ちた。暗闇が箱を覆い、二人の呼吸音だけが残る。雷の音が遠くして、足もとの水が小さく揺れた。
遥は喉を押さえた。空気が薄い。いや、あるはずなのに吸えない。肺が拒む。
「……苦しい」
その言葉は、胸の奥で反響して形を変え、別の意味にまで滲んでいった。彼の手を握るときの、心臓の痛み。近すぎる声。額に触れそうな距離。
ぐらりと視界が傾いて、体が前に落ちる。濡れた肩を、強い腕が支えた。
「佐伯さん」
直哉は額と額をそっと合わせる。闇の中で唯一確かなのは、彼の体温と、近くで規則正しく繰り返される呼吸のリズム。
「聞こえますか!」
彼の声は震えているのに、そこに掴まれば沈まないと、体が先に理解した。
ほんの少しずつ、肺に空気が入る。額の皮膚の薄さ越しに、彼の熱が伝わる。こんな距離で彼を見たことはない。闇は視力を奪ったが、距離は逆にくっきりした。
遥は震える声でつぶやいていた。
「……怖いんです。死ぬのが、じゃなくて……まだ、言ってないことがあるのが」
直哉が息をのむ気配。
「ずっと、見てました。藤堂さんのこと。会議のときも、エレベーターでも。ほんとに、こんなときに言うなんて……最低ですけど」
闇がさらに濃くなった気がした。だが、そこから低く確かな声が返る。
「俺も……同じです」
指を握る力が、ほんの少し強くなる。鼓動が水音に混じって合唱する。冷たい水に沈んでいくはずなのに、胸の奥は熱くて、熱くて、呼吸が苦しい。
胸まで達した水は、動くたびに服を引きずり、体力を削いだ。遥は壁の手すりに足をかけ、体を持ち上げる。直哉も同じ姿勢をとる。肩が触れ合う。触れたところが灼けるように熱い。
「生きて戻れたら、朝ごはん」
気づけば遥は言っていた。言い終えて、恥ずかしさに喉が詰まりそうになる。直哉は短く笑って、うなずいた。
「はい。一緒に食べましょう。温かいやつ」
外で、金属を叩くような音がした。息を殺して耳を澄ます。
「おーい! 聞こえるか!」
低く太い男の声。遥は反射的に叫んだ。
「はい! ここです!」
水音にかき消されそうな声。それでも返事があった。
「救助隊だ! 今、扉を開ける!」
扉が軋み、わずかな隙間ができる。だがすぐに水圧に押し戻された。
「くそっ、圧が……!」
外から舌打ち混じりの声。直哉は迷わず肩まで水に沈み、扉の隙間に自分の体を楔のように差し込んだ。
「佐伯さん、救助隊が扉を少しでも上げたら俺が押し広げる。そのときにあなたは――」
「無理!そんなの――」
「いいけら、行け!」
水音に負けない声が胸に響く。頼りない非常灯の白が、彼の背中の筋肉の線を濡れて光らせる。遥は咄嗟にその背中に肩を入れた。
「一人で背負わないでください。私も」
二人の力が重なって、隙間がほんの少し広がる。そこへ外から腕が伸びてきて、救助隊員が遥の手首をがしりと掴んだ。
「先に行け!」
直哉が叫ぶ。
「でも――」
「大丈夫。約束したでしょう、朝ごはん一緒に食べようって」
その一言で、胸の奥で何かがほどける。
次の瞬間、強い力に引かれて視界がぱっと白く開けた。冷たい水が足もとから噴き出し、外の光と人の声が一気に流れ込む。空気が肺に刺さるみたいに痛い。遥は外へ押し出され、そのまま意識が途切れた。
◇
目を開けると、見慣れた天井があった。自分の部屋。薄いカーテン越しに青白い朝が見える。雨はまだ降っているらしく、窓ガラスが小さく震えていた。
「……夢?」
遥は身を起こして、胸に手を当てる。鼓動が速い。喉は渇き、肺の奥がひりつく。まるで本当に水の中でもがいていたみたいに。机の上には昨夜のままのファイル。バッグは椅子にかかったまま。携帯は充電ケーブルにつながれて、何事もなかった顔で時刻を示している。
ベッドの端に引っかかったスカートの裾が、わずかに湿っていた。指で摘むと、冷たさが指先に移る。
――どういうこと。
胸の中の魚群は、再びひと回りして、今度は静かに散っていった。
◇
エントランスホールのエレベーターの前で、思わず足が止まった。上りのボタンの丸いランプが、昨夜と同じ色で灯る。扉が開く音。反射的に身を引くと、後ろから声をかけられた。藤堂直哉だ。一瞬、目を見開いたように見えたが、すぐにいつもの少し照れたような笑みを作る。
「おはようございます」
「おはよう、ございます……」
言葉を交わすあいだ、彼の袖口に目が吸い寄せられた。白いシャツのカフスのところに、乾ききらない濡れ跡が一本、細く走っている。見間違いかもしれない。昨夜の雨のせいかもしれない。あるいは――。
言葉にはしない。心臓の音がうるさくて、口にしたら零れてしまいそうだったから。代わりに心の中でだけ、ゆっくりと数える。
――夢でも、現実でも。あなたに会うと、私は息が出来なくなる。
外では雨がまだ止まない。けれどその音は、昨夜よりも少しだけ優しく聞こえた。
二人で入口へ向かう。自動ドアが開いて、冷たい空気が肺に入る。その冷たさすら、今は悪くない。
広がっていたのは、いつも通りの朝だった。
廊下の床はまだ雨を引きずった靴の跡で濡れていて、コピー機が小さく唸り、電話がどこかで鳴っている。デスクには書類の山。モニターの光。昨日と何も変わらない仕事の風景。
直哉は軽く会釈をして、隣のフロアへ歩いていった。その背中を目で追いかけながら、遥は胸の奥の鼓動を必死に押さえつけた。
――ただの夢、だったのかな。
けれど、この手にまだ残る温度は、幻じゃない気がする。バッグを抱え直し、深呼吸をひとつした。
外の雨は相変わらず降り続いている。けれど音だけは、不思議と昨日より優しく響いていた。
ふいに、背後から声がした。
「……そういえば、朝ごはん」
顔を上げると、直哉がこちらを振り返っていた。照れたような笑みを浮かべながら、片手で眼鏡の位置を直す。
「いつか、ほんとに行きましょう。温かいやつ」
それだけ言って、彼はすぐにまた人の流れに紛れていった。
遥はしばらく立ち尽くしていた。耳の奥に、昨夜の水音と彼の声が重なった。
あれは、きっと夢だった。けれど、今たしかに聞いた言葉もまた、夢の続きのようで。エレベーターの扉に映る白い光が、雨に揺れる水面みたいにちらついた。
――でも、それでいい。
息をひとつ吸い込む。四つ吸って、八つ吐く。彼と合わせたリズムをなぞるたびに、世界が少しだけ優しくなる。
外では、雨がまだ止まない。けれどその音はもう、遥にとって昨日の恐怖ではなく、静かな約束の証のように聞こえていた。
境界線は、まだ曖昧なままでいい。
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