何が好きと語源化できなくても
好きなものを尋ねられると、戸惑う時がある。
本や音楽、食べ物、映画……それなりに答えられるはずなのに、どこか嘘っぽくなってしまう。まるで「これが私の最適解です」と用意されたカードを取り出すみたいで、胸の奥で温まっているはずの「好き」とは少しずれている気がするのだ。
誰にでもそういうことはあるだろう。言葉にしてしまうと薄っぺらくなる「好き」が。説明できないからこそ、大切に持っていたい気持ちが。
たとえば、夜道を歩いているとき。ポケットの奥に、小さな鈴のキーホルダーが入っていることに気づく。子どものころにどっかで買ってもらったまま、なんとなく外せずにいるものだ。音は鳴らない。時代遅れでおしゃれでもない。役にも立たない。それでも指先がそれに触れるだけで、不思議と心が落ち着く。
あるいは、机の引き出しに放り込まれたままの古いポストカード。友人からの旅先の便り。色あせているのに、取り出すとその場所の空気がふわっとよみがえる。見るたびに嬉しくなるのではなく、ただ「ここにある」という事実だけで安心する。
こういう「好き」はお守りのようなものなのだろう。特別な意味を持たなくても、ただそこにあることで、歩いていける。
私たちはつい理由を探したがる。なぜそれが好きなのか、と。けれど、好きには理由がなくてもいいのではないだろうか。
犬がしっぽを振るときに理由があるだろうか。子どもが空を見上げて「きれい」と言うときに説明が必要だろうか。大人になると、どうしても言葉で証明したくなる。でも好きは証明してしまった瞬間に逃げていくものかもしれない。
言葉にできない好きを持っている人ほど、強く生きられる気がする。それは答え合わせをしなくてもいい安心感だからだろう。
私は今日もかばんの中に、なんとなく選んだものを入れて歩く。本、しおれかけたメモ、使いかけのリップクリーム、壊れかかったボールペン。
必要だから持ち歩いて居る。でも、全部が説明できない好き、だ。
道を歩いていて、ふと立ち止まる。かばんの重みを感じながら思う。この小さな「好き」たちが、今日の私を支えてくれているのだと。人に見せられるものじゃない。誰かに理解されなくてもかまわない。ただ、自分が持っていたいと思ったからそこにある。
そう気づいたとき、胸の奥にぽっと灯りがともる。
人生は、誰にも見せない「好き」をいくつ持てるかで変わるのかもしれない。大げさに飾らなくても、SNSに書き残さなくても。
かばんの奥で眠らせているだけ、何か変わるかもしれない。変わらないかもしれない。
それでも、そういう「好き」は、退屈な毎日を少しだけ愛せる気がする。仕事に追われ、理不尽に傷つけられる日でも、そっと支えてくれる。
説明できなくてもいい。ただ持ち歩きたいソレ。私はきっと、その「好き」によって、生かされている。
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