まずは、心を注ぎ出す
気がつくと、人は「あれが出来てから」「これが出来てから」と考えてしまうのかもしれません。
もう少し整理がついてから、落ち着いてから、ちゃんとしてから、と。しかし実際には、本当に弱っているときというのは、祈りすらまともな言葉にならず、「もう無理だ」「助けてほしい」としか言えないものです。
きょうの礼拝では、そのような「死ぬほど苦しい」と言われたイエスの姿と、「どうして生きることができようか」と叫ぶ人間に向かって語られる神の言葉が、妙に重なって聞こえました。弱さを隠せなくなったとき、人は何を支えにして立ち直っていくのか。そんなことを考えさせられたのでした。
「もう死にそう!」というときに
きょうの聖書箇所から。
人の子よ、あなたはイスラエルの家に言いなさい。あなたがたはこう言った。『我々の背きと罪は我々の上にあり、そのため我々は痩せ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。私は生きている――主なる神の仰せ。私は悪しき者の死を決して喜ばない。むしろ、悪しき者がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、悪の道から立ち帰れ。イスラエルの家よ、あなたがたがどうして死んでよいだろうか。
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「私が祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく苦しみ悩み始め、彼らに言われた。「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し先に進んで地にひれ伏し、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」
ここでイエスがひどく苦しみ悩んでいる様子を見た弟子たちが、イエスと共に殉教するはずだった精神状態から一転して、恐れに取り憑かれ、眠りに逃げてしまったのだと、きょうの説教者が語ったときに、「そういうことだったのか!」と思いました。
とはいえ、私たちは、弟子たちが結局イエスを裏切ったことを知っています。分かりやすい裏切り者といえばユダですが、実際には、イエスの弟子たちは全員イエスを裏切ったのです。私たちも、同じように、このような弱いイエスの姿を見て失望することは自由ですが、しかしやはり、その失望は裏切りにつながるものであり、私たちがすべきはイエスと同じように、弱さをさらけ出して、取り乱してでも、祈ることなのです。
そして、交読した詩編は詩編第62編6節〜13節だったのですが、その中にあったのがこれでした。
民よ、どのような時にも神に信頼せよ。
御前に心を注ぎ出せ。
神は我らの逃れ場。
礼拝プログラムを組んだ人が狙ったのかどうか、それは分かりませんが、「どのような時にも神に信頼」するということは「御前に心を注ぎ出」すことであり、それこそが「神は我らの逃れ場」であるということなんだな、とあらためて刺さりました。
率直なところ、このところ、ここには書きづらいもろもろのことで、かなり弱っていました。弱っていると、本当に何もする気がなくなるものだと、この歳になると、よく感じます。
「心を注ぎ出す」というフレーズがある聖書の箇所は他にもあります。中には「水のように」という言葉が付く箇所もありますが、私のイメージでは、まるで心臓を突き破って胸から水が出てくるような感じになります……そうやって祈っているといいますか(で、公開直前にヘッダ画像を「みんなのフォトギャラリー」から拝借したのですが、イメージに近かったのが牛乳を注ぐ写真なのですよね。牛乳かあ……、となっています)。あまり言葉にならないのですが、「つらい、苦しい、もうどう表現すればいいか分からない、助けて!」みたいな感じで祈っています。
祈ったから自分の思い通りになるかというと、決してそんなことはありません。「私の望みではなく、御心のままに」しかなりません。でも、「私(我々)の背きと罪は私(我々)の上にあり、そのため私(我々)は痩せ衰える。どうして生きることができようか」と私が思っているときに、「私(主なる神)は悪しき者(私)の死を決して喜ばない」と返ってくることを私は知っているのです。
今週について
仕事
先週末にリカバリープランを立てました。1on1相手をしてくれた同僚に深く感謝。進めましょう。
個人活動
リポジトリとリポジトリに備えたGnuPG鍵を移行したら、再開です。
片付けいろいろ
スーツは洗濯しましたが、枕をそろそろなんとかせねば。
MacBook Air (13-inch, M5, 2026)のセットアップ
今回はあえて、旧いMacBookから移行アシスタントで移行するのではなく、一からセットアップをしたのですが、それでもApple AccountとHomebrewのbrew bundleのおかげで、非常にスムーズな移行ができました。
きょうから、このMacBook Airでこのnoteを書きます。
さて、今回のステッカーチューンは、あえて表には出さないようにしました。

天板側には、ステッカーチューンを施していません。

m-flo『SUPERLIMINAL』のステッカーを貼りました。
右下にしたのは、熱の影響を受けにくい箇所であるからです。

今週のテーマは「弱さをさらけ出して、祈りながら立て直す」
人は、強くなってからではなく、弱ったところで祈ることからはじまるのだと思わされました。「私は死ぬほど苦しい」と語られたイエスは、取り乱さない完全無欠の姿ではなく、苦しみ悩みながら、それでも父に祈りました。私もまた、弱っているときには、眠りに逃げたり、何もしたくなくなったりします。しかし、そのような状態でも、「助けてください」と心を注ぎ出すことはできるはず。完璧に立ち直ってから前へ進むのではなく、祈りながら立て直していく。そのような一週間にしたいものです。
そういえば、藤木正三師が『祈り』という文章の中で、以下のように語られていました。
祈ったところで現実は少しも変らないではないか、それよりは具体的行動を起こすことこそ祈りではないか、とよく批判されます。しかし、これは祈りに対する誤解であります。祈りは問題解決の手段ではなく、問題の渦中で自分が失われないように自分を守ることなのです。具体的に効果があるか否かという観点だけで現実の諸問題に直線的に対応していると、人は平板に拡散してゆくものです。この拡散に抗して、人間として自分を守る凝縮作用が祈りであります。祈りは問題解決の手段ではなく、実はその前提であるのです。
