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構図という補助線、採点という罠

写真を始めると、多くの人がまず「構図」を学ぼうとする。

三分割構図、日の丸構図、対角線構図、額縁構図、余白、視線誘導。

それらはたしかに便利な考え方だと思う。

画面の中で何を見せたいのか。
何が邪魔になっているのか。
どこに視線が流れていくのか。
何を中心に置き、何を端に置くのか。

そうしたことを考えるために、構図という考え方は役に立つ。

私は、構図そのものを否定したいわけではない。

むしろ、構図は学んだ方がいいと思っている。

水平が取れているか。
主題がどこにあるか。
背景が強すぎないか。
余白がどう働いているか。
画面の中の線がどこへ向かっているか。

そういうことを考えるだけで、写真はかなり見やすくなる。

ただし、それはあくまで補助線である。

補助線とは、本来、ものを見るために引くものだ。
見えなかった関係を見えるようにするために、一時的に置かれる線である。

ところが、ときどき構図は補助線ではなく、採点表のように扱われる。

私は、そこに違和感がある。

写真を見て、まず「これは三分割になっていない」「ここに余計なものがある」「主役が弱い」「視線誘導ができていない」と減点していく。

もちろん、それが必要な場面もある。

画面が散らかっていて、何を見せたいのか分からない写真はたしかにある。
要素を整理した方がよくなる写真もある。
水平がずれていることで、ただ見づらくなっている写真もある。
主題が弱く、背景に負けてしまっている写真もある。

だから、構図の指摘そのものが悪いわけではない。

問題は、構図が写真を見るための道具ではなく、写真を裁くための基準になってしまうことだ。

構図は、正解を当てるゲームではない。

本来の構図とは、画面の中にある要素同士の関係を整理するための考え方だと思う。

何を中心に置くのか。
何を端に追いやるのか。
何を入れ、何を入れないのか。
どこまで寄るのか。
どこまで引くのか。
どの要素を残し、どの要素を捨てるのか。

そこには常に、撮る人の判断がある。

ところが、構図を採点表として使い始めると、その判断が見えにくくなる。

写真を見るときに、自分が何を感じたかより先に、「これは正解なのか」「これは減点されるのか」を考えるようになる。

それは写真を見る態度というより、添削されることに慣れた態度に近い。

写真を学ぶ過程で本当に必要なのは、難しい概念をたくさん覚えることではないと思う。

まずは、自分の写真を見て、素直に考えることだ。

ここは見づらい。
ここに余計なものが写っている。
主役に目が行かない。
背景が強すぎる。
もう少し寄った方がよかった。
少し引いた方が場所の感じが出た。
この余白は必要だった。
この散らかりは、むしろその場の空気だった。

そういう具体的な反復の中で、写真を見る力は育っていく。

構図論は、その反復を助けるためにある。
それ以上でも、それ以下でもない。

しかし、現実には構図論が過剰に抽象化されることがある。

画面のどこが重く見えるのか。
どの線が視線を遮るのか。
どの要素が主題を弱めているのか。
どこに視線が引っ張られるのか。

そうしたことを言葉にすること自体は悪くない。
むしろ、画面を読み解くためには有効な場合も多い。

問題は、それがあたかも特別な理論や秘伝のように扱われるときである。

本来は「ここが目立ちすぎている」「この線で画面が切れて見える」「背景の方が強く見える」という、かなり具体的な話で済むことも多い。

それを必要以上に抽象的な言葉で包み、知っている人と知らない人の差を作り出してしまう。

すると、写真を見ることよりも、その理論に写真を当てはめることが先に来る。

これは危うい。

写真がうまくなるというより、誰かの採点基準に適応していくだけになるからだ。

写真には、たしかに読みやすい写真と読みにくい写真がある。
主題が明確な写真と、何を見せたいのか分かりにくい写真がある。

その差を考えることは大切だ。

けれど、読みやすさだけが写真の価値ではない。

写真には、少し読みづらいからこそ残るものがある。
整理されすぎていないからこそ、その場の気配が残ることがある。
一瞬で意味が伝わらないからこそ、見る側が画面の中を歩くように読める写真もある。

ただし、ここで勘違いしてはいけないのは、読みづらければ何でもよいわけではない、ということだ。

構図は自由でよい。
ルールに縛られなくてよい。

そう言うだけなら簡単だ。

しかし、それでは構図の話をしているようで、実は何も言っていないに近い。

構図には、確かに効き目がある。

水平には水平の効き目がある。
傾きには傾きの効き目がある。
中心には中心の強さがある。
端に置くことには端に置くことの不安定さがある。
余白には余白の働きがある。
情報量の多さには、情報量の多さによってしか出せない密度がある。

だから、ルールから外れること自体は悪ではない。

ただし、外れたことに意味がなければ、それは自由ではなく雑さになる。

個人的には、水平をわざと斜めにずらした写真があまり得意ではない。

もちろん、斜めにすること自体が悪いわけではない。

不安定さ、速度感、視線の揺れ、都市の圧迫感、酩酊感、違和感。
そうしたものを画面に持ち込むために、水平を崩すことはある。

画面が不安定になることで、写真の中にある不安定さが増幅されているなら、それは成立していると思う。

たとえば、足元が揺らぐような場面。
速度の中で世界が傾いて見えるような場面。
都市の圧力や混乱を、画面の傾きが引き受けているような場面。
見る側の感覚を少しずらすために、水平を崩す必要がある場面。

そういう写真なら、斜めであることに意味がある。

けれど、被写体や場面が何も不安定ではないのに、画面だけが斜めになっていると、私には単なる演出に見えてしまう。

普通に撮ると弱いから斜めにした。
そのままだとつまらないから傾けた。
何となく雰囲気が出る気がするから水平を外した。

そういう斜めは、写真を強くしているのではなく、弱さを隠しているだけかもしれない。

だから、構図は自由でよい、という話でもない。

構図には効く/効かないがある。
ただし、それを採点表のように機械的に判定するのは違う。

見るべきなのは、水平が取れているかどうかだけではない。

なぜ水平なのか。
なぜ傾いているのか。
なぜ中心なのか。
なぜ端なのか。
なぜ余白があるのか。
なぜ余計に見えるものを残したのか。

そこを見るべきなのだと思う。

たとえば、街の写真を考えてみる。

看板、電線、壁の汚れ、植木鉢、自転車、窓、影。
それぞれが強い主役ではなくても、全体としてその場所の感じを立ち上げていることがある。

そういう写真に対して、「主役が弱い」「情報が多い」とだけ言ってしまうのは、少し粗い。

もちろん、情報が多すぎて失敗している写真もある。

ただ、情報が多いことと、写真として成立していないことは同じではない。

構図を採点表として使う見方は、わかりやすい主題を持つ写真には強い。

主役が明確で、余計なものが少なく、視線誘導がはっきりしている写真を評価しやすい。

しかし、それだけでは拾えない写真もある。

画面全体の関係性で成立している写真。
中心を強く作らないことで、その場の空気を残している写真。
散らかりや不均衡を含めて、場所の手触りを写している写真。

そういう写真は、単純な構図の正解には回収できない。

だから、構図を学ぶこと自体は否定しない。
むしろ、学んだ方がいいと思う。

ただし、構図を覚えることと、写真が見えるようになることは同じではない。

三分割を知っていても、写真を見ているとは限らない。
余白を意識していても、その余白が何を生んでいるのかを見ていなければ意味がない。
主役を明確にしても、その結果として場所や時間の気配が失われるなら、それは本当に必要な整理だったのか考えた方がいい。

構図は、写真を自由にするための道具であるべきだ。
写真を狭くするためのルールであってはいけない。

大切なのは、構図に従うことではない。
構図を使って、自分が何を見ていたのかを確かめることだ。

この写真は、何を見せようとしているのか。
そのために、画面の中の要素はどう働いているのか。
邪魔なものは本当に邪魔なのか。
整理すべきものと、残すべきものを取り違えていないか。
構図を整えることで、何か大事なものまで消していないか。
構図を崩すことで、本当に何かが立ち上がっているのか。

そう問い直すために、構図はある。

補助線は、最後には消える。

補助線を引くことで、ものの関係が見えるようになる。
しかし、補助線そのものが主役になってしまったら、本末転倒だ。

写真を見るとき、そこに三分割の線が見える必要はない。
そこに対角線の理論が見える必要もない。
そこに採点項目が並んで見える必要もない。

見えるべきなのは、写真そのものだ。

構図という補助線は、写真を見るためにある。
写真を採点するためにあるのではない。

写真を誰かの正解に預けすぎると、自分の目が弱くなる。
そして、自分の目が弱くなると、写真はつまらなくなる。

だから私は、構図を学ぶことよりも、構図に支配されないことの方が大切だと思っている。

構図は必要だ。
けれど、それはあくまで補助線でいい。

採点表にしてしまった瞬間、写真は見るものではなく、裁かれるものになってしまう。

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