タル・ベーラ、宇宙的に広がり続ける映画空間へ旅立つ
タル・ベーラが亡くなったそうだ。文字に書いてみてもあまり現実感がない。それはハンガリーと日本を隔てる距離からだろうか、タル・ベーラがあまりにも現実離れした存在だったからだろうか。
タル・ベーラをサタンタンゴの衝撃だなんて簡単に書いてしまうと、有象無象に一般化するようで癪に思うのだが、タル・ベーラの映画を初めて観た時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。未だかつて、あれほどの長回しで劇映画を撮った監督などいただろうか?固定されたショット、手前にいた人物はゆっくりとした足取りで画面の向こうまで歩いていき点のように小さくなる。家から出た人物が街の広場に着くまでをワンショットで追い続ける。自分が浅薄でもあるのだが、こんなことをした監督など今まで存在したのだろうか?
映画を撮るということは、カメラを回すということだ。カメラを回している間、そこには映画の空間が広がっている。映画を撮影する際に、カットをかけるということが、その都度宇宙的に広がった世界を一瞬のうちに現実に引き戻すことを意味するのであれば、タル・ベーラの映画ではそれが無限に広がり続けるということになる。地平線の先までもが映画の空間なのだということを、まるで動かぬ証拠だとでも言うようにフィルムには焼き付けられているのだ。
タル・ベーラの描く人物には躍動感があるとは思わない。彼らはむしろ耐えているように思える。向かい風に歩いていく姿は、果敢に挑むというよりは、そうするしか他ないというようである。一見してスペクタルに欠けるそうした姿は、劇映画的ではなく、ドキュメンタリーを見ているようだと、そう思われるのも無理はないように思う。ただ、自分にはそんな姿がより一層劇映画的であるように思うのだ。それは、そこに映画的広がりの中に生きる人間をみるからである。ありえないほどに長回しで耐え続ける人々が生々しく映されることが、そうであるが故に劇映画的なのだ。そこにタル・ベーラをはじめ、俳優やスタッフなど、映画を作り上げた人々の息遣いを見てしまうからだ。
実を言うと、タル・ベーラの映画に感じる違和感はこの部分なのだ。彼の劇映画は紛れもなく劇映画であるのだが、それはその息遣いが漏れているからである。だから、一概に手放しで彼の作品が優れていると評価するのは難しいように思うのだが、一方で、その息遣いに耳を澄ませた時に、映画的広がりとカメラの向こうで固唾を飲んで見守るタル・ベーラらの姿が朧げに浮かび上がってくる。その時の彼らの心情を考えた時に、不思議と感動してこないだろうか?彼らは一丸となって劇映画を作っている。無限に膨張して広がる映画的空間を静かに、しかし、興奮して我が子が育つ姿を見守るようにしてじっと耐えているタル・ベーラらの姿を思った時に、やはり、どうにも彼の映画を嫌いになることができないのである。ああ、タル・ベーラは本当に映画が好きなんだな、とそう思うのだ。解き放たれて、映画的な広がりに無限に膨張していくタル・ベーラをふと想像したりもするのだが、野暮だろうか。タル・ベーラが亡くなったことの非現実感はそんなところにもあるのだろうか?
