一音一会 人と音に支えられて
ここに来るまでで、すでに運を使い果たしているようにも思いますが、実はこの先にも、強運を発揮する場面がいくつも待っていました。
ウィーンでは、不思議なご縁を感じる出来事もありました。ある日、レッスンを終えて学校から帰る途中、ケルントナー通りの入り口で、地図を広げて立ち止まっている日本人のカップルが目に入りました。普段の私なら、そのまま通り過ぎていたと思います。しかし、その日は何故か気になって声を掛けると、何と大学時代の同期、藤崎さんだったのです。
お二人は新婚旅行でウィーンに到着したばかりで、これからどこへ行こうかと相談しているところでした。私もその日は特に予定がなかったので、お邪魔にならない程度にウィーン市内をご案内し、一緒に楽しい時間を過ごしました。
異国の街で、しかも数多くの人が行き交うケルントナー通りの入り口で、偶然大学時代の友人と出会う確率を考えると、これもまた私らしい「運」のひとつだったのかもしれません。
ウィーン市立音楽院に入学すると、フルート以外の授業は、すべて日本の音大での成績によって免除されました。入学して最初のレッスンのことは、今でも昨日のことのようによく覚えています。入学試験のために練習したモーツァルトの協奏曲第2番を吹き終えると、ヘヒトゥル先生はこう言われました。「いいよ。よく吹けている。でも“本物”のモーツァルトじゃない。テツが吹いているのは“メイド・イン・ジャパン”だ」
フルートを始めたのが遅かった私は、自分の音楽性や技術に特別な自信があったわけではなく、不安だらけでした。それだけに、その言葉は正直かなりのショックでした。しかし先生は、そんな私にも数多くの学びの機会を与えてくださいました。
私が「オーケストラの授業を受けたい」とお願いすると、すぐに担当の先生に話を通してくださり、受講できることになりました。ところが実際に授業へ出てみると、まず困ったのが言葉の問題でした。授業中の指示はすべてドイツ語です。演奏が止まると「次はここから」と指示されるのですが、当然ながらすぐには理解できません。
楽譜には練習番号が書かれているので、その番号から始まるなら何とかなります。しかし「Bの4小節前」や「Cの8小節後」などと言われると、まず練習番号を探し、次に数字を理解し、さらに「前(vor)」なのか「後(nach)」なのかを聞き取らなければなりません。頭の中で整理し終える前に、オーケストラが再開していることもしばしばありました。
そんなドタバタの毎日でしたが、さらに驚かされたのは、音楽院の定期演奏会がウィーン楽友協会大ホールで開催されることでした。毎年元旦にテレビで観ていたニューイヤーコンサートの会場で、自分がフルートを吹くことになるなど、想像もしていませんでした。
さらに、オーケストラの授業とは別に、オペラ公演のオーケストラにも参加させてもらえることになりました。毎年オーストリア国内を十数か所巡回する公演で、演目は《魔笛》や《後宮からの誘拐》。どちらもフルートソロの多い作品で、私にとってはかけがえのない経験となりました。
オーケストラでの経験は、日本では味わったことのないほど刺激的で充実したものでした。一方で、個人レッスンでは大量のエチュード課題が出され、毎日の譜読みに追われる日々でもありました。
そんな中、思いがけず先生から推薦をいただき、ORF(オーストリア国営放送)のラジオ番組に出演する機会にも恵まれました。演奏したのはフォーレの《幻想曲》です。録音の際、自分の中で気になる部分があり録り直しをお願いしましたが、先生は「録り直しより最初の演奏の方が良かった」とおっしゃり、結局オンエアされたのは最初のテイクでした。
留学中には、ロッケンハウス音楽祭で開催された講習会で、イレーナ・グラフェナウアに師事する機会にも恵まれました。さらに音楽祭では、ギドン・クレーメルやハインツ・ホリガーといった世界的な演奏家たちと共演することまでできたのです。
本当に信じられないような経験でした。しかも休日には、彼らと一緒にサッカーまでしていました。あの頃の私は、自分がそんな場所にいること自体、どこか現実とは思えない気持ちでいたのです。
音楽とは直接関係ありませんが、もうひとつ忘れられない出来事があります。どのような経緯でお引き受けしたのかは定かではありませんが、芥川賞作家の宮本輝さんが朝日新聞連載小説の取材でウィーンを訪れた際、市内をご案内することになりました。
後に出版された『ドナウの旅人』には、私をモデルにしたのではないかと思われる「小泉晴哉」という人物が登場します。そしてテレビ朝日の開局30周年記念ドラマスペシャルとして映像化された際には、尾美としのりさんがその役を演じておられました。また、取材旅行のエッセイがまとめられた『異国の窓から』では、「小泉春哉」ではなく「小坂哲也」で登場していたのには只々驚きました。
留学最後の難関は、修了試験(Reifeprüfung)と卒業試験(Diplomprüfung)でした。修了試験は非公開で行われ、数名の教授を前にエチュードやオーケストラスタディ、各時代・様式の作品を演奏しました。卒業試験は公開リサイタル形式で、時代毎の作品に加え、モーツァルトの協奏曲も演奏しました。
無伴奏の現代曲では途中で危うくなりかけた箇所もありましたが、何とか切り抜けることができました。演奏会終了後、ヘヒトゥル先生が楽屋に来られ、「みんなが知らない曲で良かったな」と笑いながらハグしてくださいました。
約3年間のウィーン生活でしたが、その間に5回も引っ越しをしました。それぞれに思い出がありますが、最後に一年近く暮らした西駅近くのボーヌングが最も印象に残っています。
暖房は石炭ストーブで、エレベーターのない4階まで石炭を運ぶのはなかなかの重労働でした。それでも大家さんはとても親切で、異国で暮らす若い留学生を温かく見守ってくださいました。
華やかな演奏会や音楽祭の思い出も数多くありますが、振り返ってみると、そうした何気ない日常こそが、私にとってのウィーンそのものだったように思います。
