プアオーディオと星野源と「人妻」
ばらばら
職業訓練を受けていた時期がある。
その頃通っていた施設に、あとから異動してきた女性スタッフがいた。
名前は出せないのだけど、僕はこっそり彼女のことを「人妻」と呼んでいた。
最初は別になんとも思ってなかった。でも、話しているうちに「あ、この人、いいな」と思うようになった。
何気ない会話の中で、ちょっとした気づかいや感性の良さが伝わってきた。
彼女がたまに話す内容のセンスも好きだった。
ジブリは「紅の豚」や「耳をすませば」、ドラマだと「いだてん」の話をしてくれて、
音楽の趣味も、眉村ちあきや星野源、きのこ帝国、吉澤嘉代子、カクバリズムの片想いなど、ちょっと変化球寄りだけど芯のあるものばかりだった。
そのセレクトがいちいち僕には刺さった。
流行の真ん中にはいないけど、外し方がうまい。そういう感性に惹かれていた。
当時はちょうど『おげんさんといっしょ』が不定期で放送されていて、その話もよくした。
毎週ある番組じゃなかったけど、放送があると「あれ見ました?」みたいな会話になった。
訓練中にそんな話をしてる場合かって話だけど、楽しかったのは確かだ。
恋
手話ができて、ジブリもエヴァもわかる。星野源が好き。
僕も星野源はすでに聴いていたし、どちらかというとかなり好きだった。
スーパーオーガニズムなんかもよく聴いていた。
でも彼女が話すまで、SAKEROCKはちゃんと聴いたことがなかった。
「星野源ってこういう音楽もやってたんだ」と気づかされたのは、彼女のおかげだった。
思い出すのは、タイピング訓練のとき。
1分間で200回打った僕に「すごいですね!」って言ってくれて、笑顔でハイタッチしてきた。
手のひらの感触より、見ていてくれたことが嬉しかった。
帰り道、コンビニでコーヒーを買って、ちょっと遠回りして帰った記憶がある。
あと、たまに音楽の話の流れで「最近なに聴いてます?」みたいな会話があって、
彼女が「私はSAKEROCKとか」と言っていて、
僕はそのとき「負けた」と思った。好きなものの筋がよすぎる。
その日は訓練に身が入らなかった。
もうひとつ印象に残っているのは、「花束みたいな恋をした」の話をしたこと。
お互いにあの映画を観ていたので、「あのシーンどう思いました?」とか「ふたりって結局どういう関係だったんですかね」なんて会話をした。
僕は劇中に出てくるスケッチブック風のパンフレットを持っていて、それを見せびらかしたら、彼女はちょっと欲しがっていた。
「私、カラオケで『クロノスタシス』を歌い、美術館に『ミイラ展』を見に行っちゃう子でした」って、彼女が言っていた。
『花束みたいな恋をした』の登場人物に、自分を少し重ねていたのかもしれない。そんな言葉だった。
その言い方に照れとか、ちょっとした誇らしさみたいなものが混ざっていて、なんだか忘れられなかった。
映画の世界観を、“あの人の中にもちゃんとあったんだな”って思えた瞬間だった。
彼女がふと聞いてきた。「麦と絹って、あのあとどうなったんでしょうかね」
一緒に観たわけじゃない。でも、僕たちはその映画の感想を何度か話していた。
僕は少し考えてから、こう答えた。「恋人ではなくなったけど、戦友になったんだと思う」
彼女はその言葉に何かを感じていたような顔をした。でも、それ以上は何も言わなかった。
そういえば、あの頃なぜかスタッフのあいだでオニツカタイガーの「DELECITY(デレシティ)」が流行っていた。
何人かが履いていて、「人妻」もその流れでショップまで買いに行ったらしい。別のスタッフさんが教えてくれた。
でも、なぜか彼女がそれを履いているのを、僕は一度も見たことがない。
買ったけど履かない。流行に乗ったのに、見せない。そういうところも、なんだか彼女らしいなと思った。
アイデア
でもまあ、いいことばかりじゃない。
通称「塩顔」ってやつがいた。
こいつがまた癪に障る男で、「人妻」とよく話していた。
背が高くて、若くて、なんか爽やかで——そういうタイプ。
若い女性ならみんな少しは好意を持ちそうな男だった。
そういうとこが、もうほんと気に食わねえんだよ!!って、何度思ったかわからない。
しかもムカつくことに、そいつはフランス帰りだった。
僕もフランスは大好きで、これまでに6〜7回は行っているけど、なんか「フランス帰り」ってだけで妙にスマートな感じが出てるのがまた鼻についた。
なんか気取ってるし、やたらと人当たりがいい感じが余計にムカつく。
ある日、そいつが僕に言った。
「グレッチさんって、恰幅いいじゃないですか」
それ、デブって言ってんだろ、と内心ツッコんだけど、笑って流した。大人だから。たぶん。
でも、しばらくその言葉が頭から離れなかった。
Pop Virus
「人妻」というあだ名に深い意味があるわけじゃないけど、なんとなくその呼び方がしっくりきた。
当時、大森靖子さんの続・実験室(月イチファンクラブ用トークイベント)で出したアンケートにも、その人の話を書いたことがある。
名前は伏せて、「人妻」とだけ記したエピソードだったけど、なぜか大森さんがそれをステージで読んだ。
ロフトプラスワンのトークイベントで、思いがけず爆笑されてしまった。
たぶんゲストだった当時うみのてのキクイさんがツボったせいだ。
真面目に書いたのに笑われた。でも、それはそれで悪くなかった。
彼女との会話を思い出す。
「いだてん、見てます?」
「眉村ちあき、最近ハマったんですよ」
「Lemonって、ちゃんと聴くと本当に良い曲ですね」
あと、「アバウト・タイム」という映画をすすめてくれたことがあった。
過去に戻れる青年の話で、人生の一日一日を大切に生きようって内容だった。
観終わって、なんとなく「人妻」のことをもっと知りたくなった。
桜の森
彼女は、よくラジオを聴いていた。
星野源のオールナイトニッポンはもちろん、ハライチや佐久間宣行さんの番組まで。
音楽だけじゃない、“声”のカルチャーにまでアンテナを張っている感じが、なんだか彼女らしかった。
「好き」の選び方に、その人のセンスって出るんだなと思った。
そういえば、ハライチの岩井さんが八十八ヶ所巡礼の「金土日」をラジオで流してくれたことがある。
一度じゃない。以前にも、そして最近炎上していた時期にも。
あの人も、ちゃんと聴いてるんだなと思った。
なんとなく、「人妻」がそういう人を好きなのも、わかる気がした。
……で、ふと思った。
彼女が好きな顔の系統って、もしかして星野源とか岩井さんあたりなんじゃないか?と。
文化系で、ちょっと皮肉っぽくて、でも根が優しそうな“塩顔”。
僕は……残念ながら、まったくこの系統ではない。
鏡を見ながら、何度かため息をついた記憶がある。
そんな日々を過ごしながら、僕は相変わらず音楽を聴いていた。
当時使っていたスピーカーはKEFのiQ3かiQ30だったと思う。
それなりに奮発して買ったけど、今思えば“プアーオーディオ”の範疇だった。
DACはTOPPINGのD10sで、アンプはFX AUDIOのものだった。
中華DACに中華デジアン(FX AUDIOは日本の会社ですけどデジアンの中身は中華のそのもの)、まさにプア。
音楽に包まれる感じが欲しかっただけだったけど、ハイレゾの音は素晴らしかった。
この値段でこの価格は嘘でしょ!?って言う感じです。
くだらないの中に
ある日、彼女が異動になると聞いた。
正直、思ったよりこたえた。
でも何も言えなかった。だから、便箋を買って、筆ペンで宛名を書いた。
「またどこかでお会いしましょう」
手紙には、それだけを書いた。
もちろん、それだけじゃない。もっといろいろ書いたけど、それは僕と彼女の内緒にしておく。
今、星野源を聴いている。
「ばらばら」が流れて、あの頃の空気がふっと蘇った。
あのあとDACは一旦TOPPING E50にした。めちゃくちゃいい音だった。
だけどそのE50はお金がなくて手放した。
今はYAMAHAのAG06を使って、PA3sとPolk AudioのES20で聴いている。
プアだけど、ちゃんと鳴る。音楽は生きている。
スピーカーの向こうに、彼女の笑い声が聞こえる気がするときがある。
「くだらないの中に、確かにあったんだよな」
あの小さな会話も、目が合った瞬間も。
そんなふうに思いながら、今日もなんとかやり過ごしている。
Hello Song
ちょうど今、宮内優里の「読書(feat. 星野源)」が流れている。
この曲、なんだか泣けるんだよな。静かに思い出を揺らしてくる。
あの頃と今とが、少しだけつながっている気がした。
そういえば、もうすぐ星野源のニューアルバムが出る。
このエッセイを書きながら、またひとつ彼の音楽に支えられてるなあと思った。
たぶん、これからもそうなんだと思う。
