合理性と人間性
人間らしさって何なのだろうか、とふと考えた。
昨今、俺のXのタイムラインではガチャの利得についての話で戦いが繰り広げられている。期待値が改善しているのだから良しとすべきという立場もあれば、ゲーム体験として不愉快だから改悪だと主張する人もいる。
こういう記事を書くにあたって一応自分の立ち位置を明確にしておくと、俺は後者の意見に賛同する。以前書いた気もするが、確率論的的正しさと感情論的正しさは異なる場合が多いし、両立しうる。とはいえ、今回の件で言えば感情面での負の利得を補いうるほど、確率面での正の利得は大きくないと俺は感じているので、立ち位置としては間違いなく後者の側である。
ただ、少なくとも俺自身は、前者の主張にも合理性はあると理解している。それは改めて主張しておきたい。
さて、予防線を張り終えたところで本題に入りたい。
俺が一番「理解できない」と感じているのは、肯定派であれ否定派であれ、相手の意見を理解できないと切り捨てる姿勢だ。
分かりにくいので抽象的な例を挙げる。
ここ数日のXには、例のガチャで惨敗し嘆きの声を上げるプレイヤー達が大勢いる。こればっかりはどうしようもない。確率論上一定割合で発生しうるし、彼らの「個人的」な体験は否定されるものではない。改変前のガチャの方が良かったと嘆く事自体を否定するわけにはいかないだろう。
だがここで、実に「合理的」な人たちが現れる。
嘆く彼らに対して、「それは単に下振れしただけであって、期待値的には有利なのだから嘆く理由がわからない」と合理的に主張する。
これが本当に理解ができない。
こういうケースは別にガチャに限った話ではない。「科学的」な話であればどのケースでもよくあることだ。もし、自分がそんな偏狭な人間ではないと主張するのであれば、「個人的」な経験をもとにワクチン接種に二の足を踏む人たちに対して「合理的」な観点から非難したり悪感情を抱いたりしたことが本当に無いか、見直してみた方がいいだろう。
念のため繰り返しておくが、俺自身はあのワクチンはさっさと接種しに行ったし、アレについての陰謀論には一切組しない。度々ですまないと思うが、個人的な経験と合理的な観点というのは常に両立する、と主張したいだけだ。そのうえで、「合理的」に人を見下した経験はないだろうか、と聞いているに過ぎない。
合理性というのは人間性を支える柱の一つである、という言説は多い。かみ砕いて言うのなら、人間と動物を隔てるものの一つが合理性だ、という主張だ。この観点で行けば、合理的な人間というのは人間らしい人間ということになりそうだ。
一方で、反合理的な、つまり自分自身の経験や直観に従うあり方こそが人間性だという主張も多い。合理性というものをいわば人間らしい判断力の喪失に繋がるものとみなし、機械的なあり方から遠ざかり生命としてのあり方を自ら選ぶことこそ人間性の本質だ、という主張だ。
ここまで書いておいてなんだが、これらの主張は排他的、つまりどちらか一方が正しくもう一方が誤り、というものではなく多分両方正しいのだろう。社会生活を営む以上、不合理な存在ではいられない。一方で、合理的なあり方だけ追求し続けることもまた人間にはできない。それゆえどこかでバランスを取らねばならないのだが、不幸なことにネット空間にはそのバランスを欠いた存在というものが生息している。抽象的な例で挙げた「合理的」な人間なんかがそうだろう。当然、その逆の「非合理的」な人間もネット空間にはいる。では、彼らは人間らしいと言っていいのだろうか?
わからない。
ある面では彼らは非常に人間らしいし、ある面では実に非人間的だ。
そもそも人間性を一つのファクターで考えようとすること自体が不毛なのかもしれない。こういう話題を無限に話し続けられるタイプの人たちもいるだろう。そういう対話は、きっと古来からなされ続けてきたしこれからもされていくだろう。
だが、現代インターネットにはブロックという魔法がある。
めんどくさい人たちからは自発的に距離を置く。
これこそが現代人類の人間性の証なのかもしれない。
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