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確率論的安心感

よくあるたとえ話がある。
例えば、旅客機が事故で墜落したとしよう。たいていは悲惨な結末を迎え、乗員乗客ほぼ全員死亡なんてこともザラにある。では、旅客機は危険だから規制すべきだろうか?いやそうはならない。
旅客機が致命的な事故を起こす確率は奇跡的なレベルで低い。これは過去の統計データが示してくれている。従って、確率論で言えば旅行中に飛行機で遭難する可能性は考慮する必要が無い。
確率論的に言えばそういうことになる。だが、奇跡的な確率でしか事故は起きないということと、次にあなたが乗る旅客機で奇跡的な事故が起きるということは両立しうる。確率は未来を予測してくれるが、次に起こることを予言してくれはしない。

こういうケースは、程度の大小はあれ日常生活ではままある。地震の発生確率なんかがそうだろう。統計データは大地震がいずれ起きてもおかしくないことは教えてくれるが、いつ起きるかまでは教えてくれないことが多い。
それゆえ、日常生活の大部分において、天文学的に低い確率で起こる致命的な事象から一旦目をそらして生きていくことになる。これはおかしな話ではない。ごく自然で合理的な話だ。交通事故に遭う可能性を恐れていては車に乗れないし、感電死の可能性に震えあがっていては現代生活を送る事すらままならないだろう。
だから、現代社会においては「そこにあるかもしれない不安」というものは軽視されがちだ。

繰り返しになるが、超低確率の事象を恐れて生きよと主張しているわけではないし、ましてやその危険性を誰かが隠しているという類の陰謀論を騙りたいわけではない。少なくとも、俺という人間はその逆のスタンスで生きてきた。だから例のワクチンだって恐れる人達を横目にさっさと打ちに行ったし、いずれ来るかもしれない地震に備えてポータブル電源だって準備してある。超低確率の事象を恐れるのと、その事象の前で震えて縮こまるのは全く違う行為だ。
その上で、超低確率の事象を合理的に無視するのと、超低確率の事象におびえる恐怖心というものは、単に両立しうるのだということを言いたい。
旅客機の乗客が、旅客機の墜落におびえるのはごく自然なことだ。その感情は、例えそれが奇跡的な確率であって現実的には起こりえないと合理的に認識するのと両立する。そして、現代人は合理的な世の中を生きているがゆえに、素朴で個人的な恐怖心というものを非合理的とみなし、嫌う傾向がある。これが本当にまずい。
確率論上の安心と、経験上の不安は両立する。そして、一方が他方を完全に駆逐することはそうそうない。だから、こういう事例について語るときはそのことを念頭に置いておかないといけない。さもないと、ある時は単に不安感を抱えた人を非科学的な陰謀論者と決めつけてしまうことになるし、またある時には確率論上の安全を説く人のことを非倫理的な陰謀論者とみなしてしまうことになる。バランスが大事なのだ。
……と書いた辺りで、ChatGPTに頼んでいた「ガチャの行動計画表」が完成したらしい。俺は心の弱い人間だから、以前より薄くなった天井が不安で仕方ない。確率論上は以前よりも有利になっているらしいがそんなことは俺には一切関係ない。常に最悪に備えて行動計画を立てる。
ガチャも防災もその点では同じだろう。

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