増上寺 御忌大会から読み解く──徳川家康公が願った「安らかな国づくり」とは
@Ricoです。
前回の記事でご紹介した「4月の寺院行事」。
そのなかに記載した「御忌法会」。
今回、この御忌大会(ぎょきだいえ)の期間中に、大本山増上寺にうかがってまいりました。
増上寺には、これまでにも七夕のタイミングで何度か参拝しており、さらに三解脱門の特別公開の折にもご縁をいただいておりました。
(4月の寺院行事のnote記事はこちら▼)

(三解脱門 参拝時のameblo記事はこちら▼)
御忌大会の法会期間中ということもあり、ポイントを絞って参拝させていただきました。
今回の記事では、参拝の流れに沿いながら、増上寺と御忌大会の背景、そして徳川家康公がこの地に託した願いについて深掘りしていきます。
御忌大会とは何か|「御忌」が法然上人の忌日法要を指すようになった経緯
まず「御忌(ぎょき)」という言葉について押さえておきましょう。
「御忌」とは本来、天皇や高僧の忌日法要を指す言葉として広く使われていました。
しかし現在、「御忌」といえば浄土宗の元祖・法然上人の忌日法要を指す言葉として定着しており、俳句の春の季語にもなっています。
この定着のきっかけは、大永4年(1524年)に遡ります。
後柏原天皇が知恩院に対して「毎年正月に京畿の浄土宗僧侶を集め、一七(いちしち)昼夜にわたって法然上人御忌を勤めよ」との詔勅を下されました。これにより「御忌」は勅会(ちょくえ)として定められ、法然上人の忌日法要として特別な尊称を得ることになったのです。
法然上人(法然房源空)は、長承2年(1133年)、美作国(現在の岡山県久米郡)に生まれました。幼名を勢至丸といい、9歳で父を失った後、比叡山に登って修行を重ねます。
承安5年(1175年)、43歳のとき、中国・唐代の善導大師の著した『観無量寿経疏(観経疏)』のなかの一節に出会い、「ただ一心に阿弥陀仏の名を称えれば、いつでも、どこでも、誰でも救われる」という専修念仏の教えを確信されました。
これこそが浄土宗の開宗であり、法然上人は比叡山を下り、京都・吉水の地で念仏の教えを広めていきます。しかし旧仏教勢力との摩擦は避けられず、晩年には流罪の苦難も経験されました。建暦2年(1212年)1月25日、80歳で浄土に帰られています。
その際に遺された御遺誡が「一枚起請文」です。
かつては命日にあたる1月に営まれていた御忌ですが、明治10年(1877年)に知恩院が時候のよい4月に変更して以降、多くの大本山がそれに倣いました。増上寺でも現在は毎年4月2日から7日までの6日間にわたって御忌大会が盛大に営まれています。
令和8年(2026年)の増上寺御忌大会の日程は、4月2日(木)から7日(火)まで。期間中は唱導師による日中法要をはじめ、吉水講による詠唱大会、舞楽奉納、双盤念仏、そして練行列といった行事が執り行われます。
とりわけ練行列は見どころのひとつとされます。

なお「圓光大師」は、法然上人に贈られた最初の大師号です。
元禄10年(1697年)、東山天皇より勅諡されました。法然上人が九条兼実の邸で頭に円光を頂き蓮台に乗っていた姿にちなんで命名されたと伝わります。以降50年ごとに歴代の天皇より大師号が加えられ、現在までに8つの大師号が贈られています。これは日本史上最多の数です。
増上寺の歴史|徳川家康公と存応上人の邂逅
増上寺参拝にあたり、まずはこの寺の成り立ちを整理しておきます。
▶︎正式名称は「三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)」。
▶︎浄土宗七大本山のひとつ
明徳4年(1393年)、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって武蔵国豊島郷貝塚(現在の千代田区平河町付近)に「浄土宗正統根本念仏道場」として創建されました。
増上寺の運命を大きく変えたのが、天正18年(1590年)の出来事です。
豊臣秀吉の命により関東の地を治めることとなった徳川家康公が江戸に入府した折、増上寺の門前を通りかかりました。このとき、当時の住職である第十二世・源誉存応(げんよぞんのう)上人と出会います。
『大本山増上寺史』の伝えるところによれば、家康公の馬が増上寺門前で止まり、門前に立っていた存応上人に引き合わされたのがはじまりでした。
翌朝、家康公はたった一人で増上寺を訪ね、こう語ったといいます。
「大将の身分で菩提寺のないのは死を忘れるのと同じである。
先祖代々の菩提所は三河の大樹寺であるが、江戸にはないので増上寺を菩提所としたい」
このとき存応上人は涙を流し、家康公もまた感じ入って「入檀の契約にお十念を授けてほしい」と請うたと記録されています。
こうして増上寺は徳川家の菩提寺となりました。

背景には、三河の松平家(徳川の旧姓)が代々浄土宗を篤く信奉していたことがあります。松平家菩提寺の大樹寺(愛知県岡崎市)を開山したのは、増上寺を創建した聖聰の孫弟子にあたる愚底で、両寺はもともと同系統にあったのです。
慶長3年(1598年)、増上寺は家康公の命により現在の芝の地に移転。
風水学的には、上野の寛永寺が江戸城の鬼門(北東)を、増上寺が裏鬼門(南西)を護る配置とされています。
幕府成立後、増上寺は急速に発展しました。寺領一万余石、境内二十五万坪。坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、常時三千人もの修行僧が修学していたといわれ、「寺格百万石」と称されます。朝廷からは存応上人に「普光観智国師」号が贈られました。
元和2年(1616年)、家康公は「増上寺にて葬儀を行うように」との遺言を残し、75歳で歿しました。
増上寺には二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の六人の将軍が眠り、静寛院和宮さまも葬られています。
増上寺諸堂参拝|ポイントのみ
参拝ポイント①|大殿(本堂)
ここからは、今回の参拝の流れに沿ってご紹介します。
まず向かったのは大殿(本堂)です。

現在の大殿は昭和49年(1974年)に再建されたもので、戦災で焼失した旧大殿に代わる鉄筋コンクリート造の堂宇です。
ご本尊は室町時代の作とされる阿弥陀如来坐像。
明治42年に旧大殿が火災に遭った際、京都・知恩院から寄贈された尊像と伝えられています。
御忌大会期間中は、大殿を中心に日中法要が厳修されます。
大殿前の舞台では、御忌大会の期間中毎日、正午過ぎから舞楽が奉納されます。増上寺雅楽会の舞楽奉納は80年の歴史を持ち、その優美な舞は御忌大会の彩りとなっています。
参拝ポイント②|圓光大師堂
御忌大会の期間中ということで、次に向かったのが圓光大師堂(えんこうだいしどう)です。

この御堂は、法然上人八百年御忌を記念して建立されました。その経緯には、知恩院と増上寺の深い法縁が刻まれています。
平成18年(2006年)11月25日、総本山知恩院門跡第八十六世・中村康隆猊下と増上寺第八十七世法主・成田有恒台下との結縁が実を結び、知恩院から法然上人御廟の御浄砂が増上寺に拝領されました。
成田台下はこの御浄砂を「御身柄」と命名。その奉安のための御堂建立を発願し、平成21年(2009年)9月に竣工したのが圓光大師堂です。
御身柄は内陣奥の特別な厨子に、経筒型の五輪塔に納められて奉安されています。
建築様式は木造平屋建、妻入入母屋造、軒唐破風付吹放し向拝の意匠を施した和様の伝統建築。身体と心を養う念仏道場として開放されています。
「圓光大師」の名を冠したこの御堂は、まさに法然上人の念仏の教えが、知恩院と増上寺という浄土宗の二大本山を結び続けていることの証です。
御忌大会のこの時期にこそ、手を合わせたい場所といえるでしょう。

参拝ポイント③|安国殿と黒本尊
続いて向かったのが安国殿です。
「安国殿」の名は、徳川家康公の法号「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」に由来します。もともと「安国殿」とは、増上寺境内において家康公の尊像を祀る御霊屋(おたまや)を意味する呼称でした。
現在の安国殿は、戦後の変遷を経て生まれたものです。
戦災で大殿が焼失した後、仮本堂として使われていた建物を、昭和49年(1974年)の新大殿完成時に境内北側に移転し「安国殿」としました。その後、老朽化に伴い、平成23年(2011年)に法然上人八百年御忌を記念して新たに建立されたのが現在の安国殿です。
ここで注目したいのが、新安国殿建立に込められた願いです。
増上寺公式サイトには
「念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い」建立された
と記されています。
つまり「安国殿」とは、単に家康公を追慕する場というだけではなく、家康公が生涯をかけて追い求めた「安らかな国」という理想そのものを体現する場でもあるのです。

安国殿の本堂中央には、秘仏「黒本尊阿弥陀如来」が安置されています。
恵心僧都(源信)の作と伝えられる阿弥陀如来像で、もとは金箔の仏像でしたが、長年にわたる香煙によって黒ずみ、家康公が「黒本尊」と名づけたと伝わります。
家康公はこの黒本尊を念持仏として深く尊崇し、戦場にも必ず携えたといいます。幾多の危難を逃れ勝利を得てきたことから、「勝運の仏さま」として江戸時代以来、広く人々の信仰を集めてきました。秘仏である黒本尊は、正月・5月・9月の各15日の年3回行われる「正五九黒本尊祈願会」でのみ御開帳されます。

脇陣には家康公の肖像画、徳川家御歴代ならびに御一門の御位牌、そして皇女和宮さまの等身大の御像なども祀られています。
今回、安国殿で家康公に手を合わせたとき、めっちゃスーーっと何かが通る感じがしたのです。
法然上人が説いた「いつでも、どこでも、誰でも救われる」念仏の教え。
家康公が追い求めた「安らかな国づくり」。
この二つの願いは、安国殿という場所で重なっているのだと感じます。
戦の勝利だけではなく、その先にある「もう二度と戦のない世」。
家康公が黒本尊に日々捧げたとされる念仏は、勝つための祈りであると同時に、勝った先の太平を願う祈りでもあったのではないでしょうか。
晩年の家康公は、1日6万遍もの念仏を唱えていたと伝わります。
この数字が示すのは、天下人となった後もなお、法然上人の念仏の教えに自らの魂の拠り所を求め続けていたということに他なりません。

参拝ポイント④|熊野(ゆや)神社
最後に向かったのが、増上寺境内の鎮守社である熊野神社です。

正式名称は「熊野三所大権現宮」。
元和10年(1624年)に、増上寺第十三世・正誉廓山上人が熊野権現を増上寺の鎮守として、境内の東北(鬼門)の方角に勧請したものです。
御祭神は以下の三柱です。
熊野本宮大社 家津御子大神(ケツミコノオオカミ)
熊野那智大社 大己貴命(オオナムチノミコト)
熊野速玉神社 伊弉諾尊(イザナギノミコト)
「熊野」には「クマノ」と「ユヤ」の二通りの読みがありますが、増上寺では「ユヤ」権現として親しまれています。

増上寺そのものが江戸城の裏鬼門(南西)を護る位置に置かれ、さらにその増上寺の鬼門(東北)を熊野権現が守護する。
いわば「鬼門の中の鬼門鎮護」という二重の結界構造が敷かれているわけです。ここにも、家康公をはじめとする為政者たちが、都市全体を霊的に守護しようとした意志の重層性が見て取れます。
手水舎には八咫烏(やたがらす)が描かれています。
八咫烏は熊野大神の神使であり、神武天皇の東征の折に道案内をしたと『日本書紀』に記される神鳥です。「導きの象徴」としての八咫烏が、増上寺の鬼門鎮守の地に在ること。ここにも一つの「結び」を感じます。

三解脱門をくぐって右手、ザ・プリンスパークタワー東京との境あたりに、静かに、しかし確かに鎮座しています。
増上寺参拝の際には、ぜひ足を運んでいただきたい場所です。
手を合わせ、感謝を捧げました。

法然上人と家康公|「念仏」と「天下泰平」が交差する場所
増上寺で御忌大会の時期に参拝して感じたのは、この寺が「法然上人の念仏の教え」と「徳川家康公の天下泰平の願い」という、二つの大きな祈りの交差点であるということでした。
法然上人は「いつでも、どこでも、誰でも」と説きました。
身分も学識も修行の有無も問わない。ただ念仏を唱えれば救われる。この普遍的な教えは、平安末期から鎌倉初期という戦乱の世に生きる人々にとって、計り知れない希望であったはずです。
一方、家康公は三河の松平家の時代から浄土宗を篤く信じてきた家系に生まれました。戦国の世を生き抜き、天下を統一した後もなお、念仏を日課とし続けます。
それは「勝つこと」そのものが目的ではなく、「安らかな国をつくる」というその先の願いがあったからこそでしょう。
法号「安国院殿」が象徴するように、家康公にとっての最大の願いは「安国」すなわち「安らかな国」の実現でした。

増上寺が江戸城の裏鬼門に配されたのも、単なる地理的条件ではなく、法然上人の念仏の教えをもって都の霊的な守護とする、という家康公の意志の表れであったとも読み取れます。
御忌大会期間中、大殿の内部に響く念仏の声。
圓光大師堂に納められた知恩院からの御浄砂。
安国殿に祀られた黒本尊。
そして熊野権現が守る鬼門。
それらすべてが、「念仏によって人も国も安らかであれ」という一つの願いに集約されている。
私はそう受け止めました。

おわりに
増上寺の御忌大会は、毎年4月2日から7日まで行われています。
法然上人の遺徳を偲ぶとともに、家康公がこの地に託した「安国」の願いに思いを馳せる。 そんな参拝のかたちがあってもよいのではないでしょうか。
御忌大会の時期は桜とも重なります。
大殿前に舞い散る散華と桜の花びらが混じり合うその景色は、この世の浄土のようでもありました。

では。
いつも、ありがとう^^
@Rico
幸せは自分のために
世界が平和であるために
