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高野山巡礼①【初高野山】を振り返る──神仏習合の聖地で涙した日

@Ricoです。

今回から新シリーズとして、私の高野山巡礼の記録を綴っていきます。
初回となる本記事では、2019年7月に初めて高野山を訪れた際の体験を、神道仏教両方の視点から深掘りしながらお伝えしていこうと思います。

高野山は、弘法大師空海が弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から勅許を得て開創した真言密教の根本道場です。標高約900メートルの山上に広がる宗教都市は、今もなお弘法大師が御廟で瞑想を続けているという「入定信仰」の聖地として、国内外から多くの参拝者を迎えています。

私がこの聖地に足を踏み入れることになった経緯、そしてそこで体験した不思議な導きと深い感動について、順を追ってお話ししていきます。

第1章 高野山のキッカケ──なぜ私は高野山を目指したのか

1-1. 高野山大学オープンキャンパスとの出会い

2019年7月某日、私は夜行バスで大阪へと向かっていました。
目的地は、真言密教の総本山である高野山。 そして、その旅の大きなきっかけとなったのが、高野山大学のオープンキャンパスでした。

高野山大学は、弘法大師空海の教えを今に伝えるために、この山上の地に根ざしている日本唯一の密教系単科大学です。私はその存在を知り、非常に興味を惹かれました。

実は、高野山大学のOBの方に「川崎大師」の仏教文化講座で出会うことにも繋がっていきます。

真言宗の教学に触れたい、弘法大師の伝えたかったことを直接学びたい、そんな思いが私を高野山へと導いたのです。

1-2. 九度山駅から極楽橋へ

夜行バスを降り、懐かしの観覧車に早朝に再会し、見慣れない電車を乗り継ぎながら、のどかな風景の中を進んでいきます。
途中、九度山駅を通り過ぎる際には「帰りに寄りたい場所やな」と心に留めつつ、山並みを眺めながらグングンと高野山を目指しました。

そして到着したのが極楽橋駅。
「極楽橋」という命名に、最初はツッコミを入れたくなる気持ちもありましたが、到着してみて納得しました。そこには、確かに浄土への入り口を思わせる清浄な空気が漂っていたのです。

写真は、2023年の時

1-3. ケーブルカーで標高867メートルの聖地へ

極楽橋駅からは、ケーブルカーで一気に山上へと登ります。 風鈴につく短冊がキラキラと輝き、急な登りを5分ほど進むと、標高867メートルの高野山駅に到着します。

この標高の高さは、単なる地理的な事実にとどまりません。
真言密教において、高野山は「八葉の峰」に囲まれた蓮華の形をしていると伝えられており、大日如来が座する胎蔵曼荼羅の中台八葉院を象徴しているとされます。 つまり、高野山に登るということは、まさに曼荼羅の世界に入っていくことを意味するのです。

第2章 『阿・吽』の世界と空海さん──オープンキャンパスで学んだこと

2-1. 弘法大師の伝えたかったこと

高野山大学に到着し、オープンキャンパスに参加させていただきました。学長さんや学生募集担当の方からのお話を伺う中で、弘法大師空海の教えの核心に触れることができました。

お話の中で特に印象に残ったのは、以下の点です。

与えられた命を精一杯生きること。
自分で行動し、確認すること。
自分とは何か、人生とは何か、自己の存在を見つめ直すこと。
他人を支える力を自らの中に種として持つこと。

これらの教えは、まさに真言密教の「即身成仏」の思想と深く結びついています。 弘法大師は、人間は生きながらにして仏になれると説きました。
それは、特別な人だけが到達できる境地ではなく、すべての人に開かれた可能性なのです。

2-2. 密教学科教授による特別講座「空海と最澄──『阿・吽』の世界」

オープンキャンパスのハイライトは、密教学科の教授による特別講座でした。
テーマは「空海と最澄──『阿・吽』の世界」。

おかざき真里先生による漫画『阿・吽』は、日本仏教の二大巨頭である最澄と空海を描いた作品です。 比叡山延暦寺の開祖である最澄と、真言宗を開いた空海。 この二人の天才が、どのように出会い、交流し、そして別れていったのか。 それぞれが目指していたものは何だったのか。

教授の講義では、この漫画の世界観を入り口として、以下のような深い内容が解説されました。

2-3. 空海と最澄の密教観の違い

まず、様々な宗派の違いについて。
最澄が開いた天台宗は「法華一乗」を説き、『法華経』を最高の経典として位置づけます。 一方、空海の真言宗は『大日経』『金剛頂経』を根本経典とし、大日如来を本尊とする密教です。

次に、それぞれが目指していたものの違い。
最澄は、一切衆生を救済するという「利他」の精神を強く持ち、国家公認の戒壇を比叡山に設立することを生涯の悲願としました。
空海は、宇宙の真理そのものである大日如来と一体化し、「即身成仏」を実現することを目指しました。

そして、新時代を創り出そうとした二人がどのように関係し合っていったのか。 最初、最澄は空海から密教の奥義を学ぼうとしました。 しかし、密教の根本経典である『理趣釈経』の貸し出しを空海が断ったことで、二人の関係は決定的に変わってしまいます。

空海は「密教は文字で伝えられるものではない。師から弟子へ、直接伝授されるものだ」と説きました。 これが「文字は教義の入り口に過ぎない」という密教の本質的な考え方です。

講義を聴きながら、私は空海と最澄という二人の天才の生き様に深く感銘を受けました。 どちらが正しいとか間違っているとかではなく、それぞれが信じる道を全力で歩んだ。 その姿勢こそが、後世の私たちに多くの示唆を与えてくれるのです。

2-4. 『阿・吽』というタイトルの意味

漫画のタイトルである「阿・吽」について、興味深い解説がありました。

「阿(あ)」と「吽(うん)」は、サンスクリット語のアルファベットで、それぞれ最初と最後の文字です。 「阿」はこの世の始まりを、「吽」はこの世の終わりを表します。

空海は『秘蔵宝鑰』の中で、こう記しています。

「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、
 死に死に死に死んで、死の終わりに冥し」
と。

人は何もわからないまま生まれ、何もわからないまま死んでいく。 しかし、その「わからない」という状態から、真理を求めて歩み続けることこそが、人間の尊さなのです。

第3章 さまざまな体験と縁を深めること──壇上伽藍での体験

3-1. 精進料理と曼荼羅塗り絵

オープンキャンパスの昼食は、高野山大学の学食で精進料理をいただきました。 高野山の精進料理は、殺生を禁じる仏教の教えに基づき、肉や魚を一切使用しません。 しかし、高野豆腐やゴマ豆腐など、工夫を凝らした料理は驚くほど美味しく、心身ともに清められる思いでした。

午後は様々な体験プログラムに参加しました。

▪️宿曜経による占術。
宿曜経は、密教に伝わる占星術の経典で、人の運命や相性を読み解くものです。

▪️曼荼羅塗り絵。
この体験は日経新聞の取材も入っていたほど注目されていました。 曼荼羅は、大日如来を中心とした仏の世界を図像化したもの。 それを自らの手で塗っていく作業は、まさに仏の世界に入っていく瞑想的な体験でした。

3-2. 教授と巡る壇上伽藍

プログラムの最後には、教授や参加者の皆さんと一緒に壇上伽藍まで車で移動しました。 壇上伽藍は、弘法大師が最初に開いた場所であり、高野山の中心的な聖地です。

教授の案内で、以下の場所を巡りました。

▪️根本大塔
高さ約48.5メートルの朱塗りの多宝塔で、真言密教の根本道場のシンボルです。 本尊は胎蔵大日如来が安置され、周りを金剛界の四仏が取り囲んでいます。 16本の柱には十六大菩薩が描かれ、四隅の壁には密教を伝えた八祖像も描かれています。 これは「立体曼荼羅」と呼ばれ、堂内に入ると、まさに曼荼羅の世界に包まれる感覚を味わえます。

▪️金堂
高野山の重要な儀式が行われる総本堂です。 御本尊は薬師如来像(阿閦如来)で、秘仏として安置されています。

金堂

▪️不動堂
建久9年(1198年)に創建された国宝の建物で、鎌倉時代の和様建築の優美さを今に伝えています。

▪️三鈷の松
弘法大師が唐から帰国する際、明州の浜から投げた三鈷杵がこの松に引っかかっていたという伝説があります。 この松は三葉の松で、聖木として現在も祀られています。

3-3. 六角経蔵を回す体験

最後にみんなで一緒に六角経蔵を回してきました。

六角経蔵は、鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、天皇の菩提を祈るために平治元年(1159年)に建立した経蔵です。 紺紙に金泥で浄写された一切経を納めるために建てられました。

この経蔵の特徴は、基壇の把手を持って回転させることができる点です。 一回転すると、一切経を一通り読誦したのと同じ功徳が得られるとされています。 これはチベット仏教のマニ車と同じ考え方です。

前に並んでいた五歳ぐらいの子どもちゃんが、勢いよく三周りぐらいしていて、みんなで「既にさとりの世界に行ったな」と納得しておりました。 この微笑ましい光景は、仏教の教えが決して難解なものではなく、すべての人に開かれていることを象徴しているように感じました。

第4章 御社が初参拝の場所──神仏習合の原点

4-1. えもいわれぬ景色に導かれて

壇上伽藍を巡った後、宿坊に17時までに行かなければならなかったので、駆け足で移動していました。 その途中、えもいわれぬ景色を発見し、引き寄せられるようにふらふらと向かうことになった場所があります。

それが御社(みやしろ)でした。

高野山大学のオープンキャンパス以外で、高野山での初参拝がまさにこちらになったのです。 この「偶然」は、後から考えると深い意味があったように思います。

4-2. 御社の概要と御由緒

御社は、弘仁10年(819年)に弘法大師空海が高野山開創に際し、山麓の天野に鎮座する丹生都比売神社から丹生明神と高野明神を地主神として勧請し、高野山の鎮守として祀ったお社です。

御社には三つの社殿があります。

🔹丹生明神社(一の宮)
御祭神は丹生都比売大神(丹生明神)。
天照大御神の妹神であり、稚日女尊とも称されます。 古来、魔除けとされた赤い顔料「丹」をつかさどり、あらゆる災厄を祓う女神です。 神代に天上から降臨し、紀伊国と大和国一帯を巡幸して、農耕と機織を広めたと伝わります。 のちに神領であった高野山を弘法大師へ授け、高野山の総鎮守、真言密教の守護神となりました。

🔹高野明神社(二の宮)
御祭神は高野御子大神(狩場明神)。
丹生都比売大神の御子神です。 白と黒の犬を連れた狩人の姿に化身し、弘法大師の前に現れたとされます。 この白と黒の犬に案内をさせ、弘法大師を丹生都比売大神の待つ天野の地へと導きました。 そのことにちなんで「導きの神」「みちひらきの神」として信仰されています。

🔹総社
十二王子と百二十伴神が祀られています。
・十二王子とは、丹生明神と高野明神の眷属(けんぞく)とされる12柱の御子神です。「王子」とは神仏習合の中で生まれた神格で、主神から分かれ出た子神が仏教の「童子」と習合したものです。
・百二十伴神(ともがみ)は、主神に仕える護法の神々です。「番神」とは一ヶ月30日を毎日交代で国家や人々を守護する神々のことで、最澄が比叡山に祀ったのが始まりとされます。百二十伴神は、この三十番神を四組合わせた120柱の神々と解されています。

4-3. 弘法大師と神仏習合思想

弘法大師は、神道の神を尊び、これを真言密教の守護神として崇拝する思想を持っていました。 壇上伽藍を開創した際、まずこの御社と、皆が参集して意見交換・学習できる場所として金堂を造営したと伝えられています。

これは、日本に古くから伝わる原始神道を信仰する姿勢の表れであり、のちに「神仏習合思想」が生まれる原動力になったと考えられています。

現在も高野山では、丹生明神と高野明神を「明神さん」として壇上伽藍の御社に篤く祀っています。 御社の拝殿である山王院では、僧侶たちの読経が毎日欠かさず続けられています。
各寺院では「南無大師遍照金剛」と弘法大師を称えるとともに、「南無大明神」と明神さんを称えています。

私が最初に導かれた場所が御社であったこと。 それは、神と仏が融和する高野山の本質を、最初に体験させていただいたということだったのかもしれません。

第5章 奥の院での涙──弘法大師御廟への参拝

5-1. 宿坊での一夜と高野山二日目の始まり

御社への参拝後、時間ギリギリで向かった先は高野山金剛峯寺でした。 そこで和袈裟を授かり、参拝に備えました。 一緒にお香も授かり、翌日からの高野山への一歩に備えます。

宿坊も初めての体験で、テンションが上がります。 しかし、消灯が22時だったにもかかわらず、興奮で眠れず……。

そして翌日、高野山二日目。 宿坊を8時30分に出発して、ようやく一の橋に到着しました。

5-2. 一の橋から弘法大師御廟への参道

一の橋から弘法大師御廟までは、約2キロメートルの参道が続いています。 だいたい歩いて30分から40分ぐらいの道のりです。

参道の両脇には、天高くそびえる老杉の木立があり、その中には20万基を超える墓石と燈籠が建ち並んでいます。 戦国武将から企業家、文化人まで、あらゆる時代のあらゆる人々の供養塔があります。
これは、少しでもお大師様の近くで供養されたいという願いの表れです。

一の橋は、弘法大師御廟に向かう参道入口で最初に渡る橋です。 正式には大渡橋と言われ、昔から「お大師様が人々をここまで送り迎えしてくれる」と言い伝えられています。

高野山宿坊協会


今でも、この橋の前で合掌一礼してお参りします。

見上げた青空には大きな大きな絵のような雲
本当に写真に収まり切らないぐらいの偉大さを感じます。

5-3. 黄色いベストのガイドさんとの出会い

一の橋の入り口で、写真を撮りながらウロウロしていたら、黄色いベストジャケットを着たガイドさんに突如声をかけられました。

「高野山初めてですか?」
「あ、はい……」
「ちょっと来て!」

内心、急がないとヤバいと思っていたのですが、聞いておこうと思い、黄色いベストジャケットの方の手招きする方へ向かいました。

すると、まさかの生身供に間に合うから見たほうがいいよと、わざわざ教えてくれたのです。
「今からなら、10時30分開始に間に合うから、その前に到着したら、脇に御茶所があるからそこで休んでいたらいいよ!」

なんという親切ジャケットのオヤジさん。
この出会いも、不思議な導きの一つでした。

5-4. 汗かき地蔵と姿見の井戸

参道を進み、中の橋を過ぎたあたりに、汗かき地蔵様がいらっしゃいます。

汗かき地蔵は、常に人々の犯した罪に苦しみ、その苦しみを慈悲によって代わりに受けるため、汗を流しておられると伝えられています。


これは『地蔵十輪経』に説かれる「地蔵菩薩は諸地獄に遊戯して、決定の苦を代わりて受く」という教えに基づいた信仰です。

黒っぽい石材に地蔵尊が半肉彫りされており、実際に露が吹いて汗が流れているように見えることがあるそうです。 高野七不思議の一つに数えられています。

今回は御供養がテーマだったので、こちらのお地蔵様にお香を焚きました。 その名も「解脱香」。 御先祖供養に使うために高野山に持参したものでしたが、なぜかこちらにお捧げしたくなりました。

地蔵菩薩様の御真言は「おん かかかび さんまえい そわか」。
地蔵経を調べてみると、お地蔵様=地蔵菩薩様の由縁を感じられると思います。

そして、その脇には「姿見の井戸」があります。
この井戸をのぞき込んで、自分の姿が映らないと三年以内に死んでしまうと言われています。 さすがにのぞき込んで「姿がない!」とびっくりしたくないので、今回はのぞき中止にしました。

5-5. 密厳堂と覚鑁上人

少し歩くと、右手に密厳堂(みつごんどう)が見えます。

こちらの覚鑁上人は真言宗中興の祖であり、新義真言宗の始祖として知られる高僧です。 1132年(長承元年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て高野山に大伝法院と密厳院を建立し、真言宗の建て直しを図りました。 しかし、上下の僧派閥と激しく対立し、1140年(保延6年)には密厳院を焼き払われるという事態に至ります。

覚鑁上人は「密厳浄土」という独自の思想を打ち立て、浄土教と密教の融合を説きました。 司馬遼太郎は「空海以外で唯一の真言宗の哲学者」と評しています。

真言宗に深く関わった方なので、深く御礼を申し上げました。

5-6. 御廟橋を渡って聖域へ

いよいよ、奥の院へ進みます。

御廟橋(ごびょうばし)は、弘法大師御廟へ向かう参道の最後の橋です。
この橋から先は霊域であり、写真撮影は禁止です。 橋の前で服装を正し、深く深く一礼して渡ります。

ここから先は、空気が違います。 この橋がある意味がわかるなぁ、と感じました。

5-7. 燈籠堂の前で涙が止まらなくなった

燈籠堂の前に立ってから、涙が止まらなくなりました。

えーっ!と、別の視点にいる私も驚いてしまったのですが、理由はありません。 流れるものは、流れるのです。

燈籠堂は、弘法大師御廟の拝殿にあたる場所です。
中には、寄進された約16000余りの燈籠が吊り下げられており、幻想的な雰囲気が漂っています。 千年近く燃え続けている「消えずの火」もあり、そのうちの一つは白河上皇が献じた「白河燈」です。

そして、燈籠堂から納骨堂へ。 ここでもお香を捧げてきました。

御挨拶が終わり、右手に回ると「弘法大師様御廟」です。
たくさんの方々がお詣りしています。
お経をあげる方、お香をあげる方、祈りを捧げる方・・・
みな、それぞれがそれぞれの想いでいらっしゃいます。

この場に来れて幸せだなぁ……と、本当に感謝の涙でした。

弘法大師は、835年(承和2年)3月21日、62歳で入定されました。

「入定」とは、真言密教の修行の一つで、精神を統一し、無我の境地に至るために瞑想することを指します。


弘法大師は今もこの御廟で、世界平和と人々の幸福を願い、瞑想を続けていると信じられています。

第6章 先祖供養とは──水向地蔵と生身供

6-1. 水向地蔵での御供養

御廟の前でお経をあげつつ、御先祖様のことをお伝えした後、再び御廟橋を渡って水向地蔵様のところに戻りました。

水向地蔵様は、御廟橋の下を流れる玉川のほとりに、地蔵菩薩をはじめ、不動明王、弥勒菩薩、観音菩薩など諸尊が立ち並んでいます。

参詣者が御廟にお参りする前に、こちらの仏様に水を手向ける(捧げる)風習があります。

水を手向けることで、先祖や亡くなった人の冥福を祈ったり、御廟へお参りする前に自らの心身の穢れを清めるという意味もあります。

かつては橋がなく、履物を脱いで川に入り、禊をして御廟にお参りしていたそうです。

水向地蔵様は、何体もいらっしゃいますが、すべて大日如来様の化身です。 なので、気になったところへ御供養のお札を納めてくださいませ。

先ほどの黄色ジャケットのガイドさんに再会し、水向地蔵での御供養の作法を教えていただきました。

水向地蔵様へ水を手向ける際は、仏像の頭上から水を掛けるのではなく、優しく足元(または水向塔婆)に手向けるのが本来の作法だそうです。
これから高野山に参詣される方々への参考になれば幸いです。

6-2. 生身供──1200年続く弘法大師へのお食事

そして、今回の旅のハイライトとなった生身供(しょうじんぐ)について。

生身供は、弘法大師空海の入定後から現在まで、1200年もの間、一度も欠かすことなく続けられている儀式です。 これは奥の院御廟で瞑想を続ける弘法大師空海にお食事を届ける儀式で、1日2回行われています。
(私がうかがったときの儀式の時間は朝6時と10時30分でした)

御廟橋の手前にある「御供所」で食事が調理され、「嘗試(あじみ)地蔵」様にお供えしてお膳の毒味をした後、出発の儀が行われます。
このとき、御真言が唱えられます。

この儀式の後、二人の僧侶がお膳が入った白木の箱を担ぎ、維那(ゆいな)と呼ばれる「仕侍僧」の先導の元、燈籠堂へ向かいます。
御廟橋を渡り、水向地蔵様の前を通り、燈籠堂へ。
お供えし、お経を上げられます。

私はこの儀式の間、ずっとお祈りしていました。

この儀式を拝見するにあたり、ベストポジションを教えてくれたのは、なんと、またあの黄色いジャケットのガイドさんでした!
10時15分頃、このあたりでウロウロしていたら、「ちゃんとご挨拶できましたー?」と声をかけられて、再会したのです。

ここぞとばかりに質問責めをしました笑。

6-3. 切り絵(宝来)のお祀りの仕方

ガイドさんに教えていただいた、宝来(切り絵)の正式なお祀りの仕方について。

宝来は三種類あって、向かって左手が干支、真ん中が宝珠、右手が寿と並べてお祀りするのが正式なのだそうです。

この宝来は、稲がとれない高野山の地で注連縄の代わりに用いられるもので、床の間に飾っておくのが一般的な使われ方です。

6-4. 先祖供養の本質

高野山での体験を通じて、先祖供養の本質について深く考えさせられました。

真言密教において、先祖供養は単に故人の冥福を祈るだけではありません。 それは、自分自身のルーツを確認し、今ここに生かされている命の尊さを実感する行為です。

弘法大師は『秘蔵宝鑰』の中で、人間の心の発展段階を十住心として説いています。 その中で、「自分だけの幸せ」から「他者の幸せ」へ、そして「すべての存在の幸せ」へと心が開かれていく過程が示されています。

先祖供養とは、まさにこの「心の開き」を実践する行為なのではないでしょうか。 自分を生み出してくれた無数の先祖たちに感謝することで、私たちは「個」としての自分を超え、より大きな存在とつながることができます。

水向地蔵様が大日如来様の化身であるということも、この文脈で理解できます。 大日如来は宇宙そのものであり、すべての存在の根源です。
先祖供養を通じて、私たちは自分のルーツを遡り、究極的には宇宙そのものとつながっていくのです。

結び──高野山で得た気づき

初めての高野山巡礼を振り返ると、そこには数々の不思議な導きがありました。

高野山大学オープンキャンパスという入り口。
『阿・吽』の世界を通じて学んだ空海と最澄の生き様。
壇上伽藍で最初に導かれた御社という神仏習合の原点。
黄色いベストのガイドさんとの出会い。
燈籠堂の前で流した涙。
生身供という1200年続く儀式の拝見。
水向地蔵での先祖供養。

これらすべてが、偶然ではなく、必然であったように感じます。

弘法大師は、高野山について次のように詠んでいます。

「山鳥 時に来りて歌うこと一奏
 山猿 軽く跳って伎は倫に絶えたり
 春華 秋菊 笑って我に向い
 暁月 朝風 情塵を洗う」

『性霊集』巻第一「山中有何楽」

自然と一体となり、心の塵を洗い流す。
それが高野山という聖地の本質なのでしょう。

次回は、高野山で外せない場所について、さらに深く掘り下げていきたいと思います。


では。

いつも、ありがとう^^


@Rico

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