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墨田の「おむすびの神社」は、かつて魔王を祀っていた?──第六天社の三つの類型と神仏分離の真実

@Ricoです。

本日は25日──天神菅原道真公のご縁日ですね!
ということで、それにちなんだ話を・・・と思っていたのですが、少しテーマが広がり過ぎてしまったので、今回はシリーズ3部作の第1回目をお届けしようと思います。

シリーズ3部作のテーマは、
「第六天神社と高木神から深める──大和 vs 出雲の構造と「むすび」の神学」です。

墨田の「おむすびの神社」は、かつて魔王を祀っていた?

東京スカイツリーのほど近く、墨田区押上に鎮座する高木神社。
「おむすびの神社」として親しまれ、御祭神・高皇産霊神(タカミムスビノカミ)の「むすび」にちなんだ可愛らしい御朱印やお守りが人気を集めています。

けれども、この神社の旧名を知ったとき、思わず息を呑みました。

旧社名──第六天社。

応仁二年(1468年)の創建以来、この地は第六天魔王(他化自在天)を祀る社として、天台宗正圓寺を別当に戴いていたのです。明治の神仏分離によって「高木神社」と改称し、御祭神も高皇産霊神へと改められました。
「高木」の名は、高皇産霊神の別名「高木の神(タカギノカミ)」に由来します。

✔️「おむすび」と「魔王」──これほどかけ離れた二つの顔を持つ神社が、なぜ生まれたのか。
✔️ そもそも「第六天」とは何か。
✔️ そして全国に散らばっていたはずの第六天信仰は、神仏分離の嵐のなかで、どのような道をたどったのか。

その問いを深めていくと、日本の信仰史の最も根源的な構造が浮かび上がってきました。
これから三回のシリーズで、「第六天」という入口から、造化三神、大和と出雲の対立、そして「むすび」の神学へとたどり着く旅を、皆さんとご一緒したいと思います。

第六天魔王とは何か──欲界の頂点に座する者

「第六天魔王」とは、仏教の宇宙論において欲界(欲望に支配された世界)の最上位・第六天(他化自在天)に君臨する魔王のことです。
──サンスクリットでは「パラニルミタ・ヴァシャヴァルティン」、すなわち「他者の創造物を自在に支配する者」を意味します。

仏道修行者が悟りに近づくとき、第六天魔王はあらゆる誘惑を用いてそれを妨げようとする──仏教ではそのように説かれてきました。しかし日本においては、この存在は単なる「悪」ではありませんでした。
欲望の頂点に立つがゆえに、現世利益をもたらす強大な力を持つ存在として、庶民の間で広く信仰されるようになったのです。

日本史において「第六天魔王」の名をもっとも有名にしたのは、戦国の覇者・織田信長でしょう。

元亀四年(1573年)、武田信玄が「天台座主沙門信玄」と署名した書状を送ってきたのに対し、信長は「第六天魔王信長」と返書に署名したと、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが記録しています。

延暦寺を焼き討ちにした自分こそが、仏法を妨げる魔王である──信玄の仏教的権威に対する、痛烈な皮肉であり宣言でした。

「第六天魔王」と「天満大自在天神」──大自在天を介した深い結節点

ここで一つ、重要な接点を押さえておきましょう。
(ここが、ご縁日で思いついた点の一つでもあります)

菅原道真公は、死後に強大な怨霊となり、やがて最高峰の神格「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」として祀られました。
この「大自在天(マヘーシュヴァラ)」は、仏教において色界の最上位に座す天部の神であり、ヒンドゥー教のシヴァ神と同一視される存在です。

一方、第六天魔王が座す「他化自在天」もまた「自在天」の名を持ちます。

「大自在天」と「他化自在天」は、厳密には仏教教理上は異なる階層の存在ですが、日本の神仏習合の現場では「自在天」という共通の「音」と「語感」を通じて、しばしば混同・重層化されてきました。

つまり、道真公の神格名に含まれる「大自在天」を介して、天神信仰と第六天信仰の間には、思想史的な地下水脈がつながっていたのです。

では、「第六天」という名前を持つ神社は、すべて道真公の天神信仰と結びつけて理解すればよいのでしょうか。

答えは、「否」です。

第六天神社の三つの類型──神仏分離が生んだ三つの道

調査を深めていくと、第六天の背景を持つ神社には、大きく三つの類型があることが分かりました。

🔹パターン① 音の響きから天満宮・天神社へ転換した神社

神仏分離の過程で、「第六天神」の「天神」と、菅原道真公を指す「天神さま」の音が響き合い、御祭神を道真公に置き換えたり、天満宮へ合祀されたりすることで生き残った神社です。
前述の「大自在天」を介した教理上の接点が、現場の神職や氏子の意識のなかで「天神さまならば道真公だろう」という連想を生んだと考えられます。

しかし、このパターンが全国的に広がらなかった理由は明快です。

第六天神社の圧倒的多数は関東地方に集中していました。『新編武蔵国風土記稿』に320余社、『新編相模国風土記稿』に140余社、『増訂・豆州志稿』に40余社が記録されています。
そして関東では、「天神」といえばまず天津神(あまつかみ)の総称であり、菅原道真公を指す「天満天神」との混同が起きにくい土壌がありました。実際に、大多数の関東の第六天社は「天神」ではなく「面足尊・惶根尊」へと祭神を変更する道を選んでいます(パターン②)。

一方、天満宮への転換が起こりやすい条件──すなわち「天神=道真公」という等式が強く浸透している文化圏──は、太宰府天満宮・北野天満宮を擁する西日本にこそありました。ところが西日本には、そもそも第六天神社がほぼ存在しません。その理由は後述しますが、豊臣秀吉による廃社政策が大きく関わっています。

つまり、「天満宮への転換」が起こるための条件(道真公への親和性が高い地域に第六天社がある)は、歴史のいたずらによって成立しにくかったのです。それゆえこのパターンは限定的な事例にとどまり、全国的な現象にはなりませんでした。

🔹パターン② 面足尊・惶根尊への改祭と高皇産霊神の据え直し(関東地方特有)

圧倒的多数を占めるのが、このパターンです。

明治政府の神仏分離令により、仏教色の強い「第六天魔王(他化自在天)」をそのまま祀り続けることはできなくなりました。そこで多くの神社が採った方策は、神道の世界における神世七代(かみのよななよ)の第六代の神──面足尊(オモダルノミコト)と惶根尊(カシコネノミコト)──へと祭神を改めるというものでした。

さらに、一部の神社ではこの二柱を中心に据えるだけでなく、日本神話の造化三神の一柱である高皇産霊神(タカミムスビノカミ)を主祭神として迎え入れました。冒頭に記載した「墨田区の高木神社」や千葉県香取市の「山倉大神」がその代表です。

一見すると、「第六天」の「六」と神世七代の「第六代」の数字合わせに過ぎないように見えるかもしれません。しかし、ここには数字の偶然をはるかに超えた、神格(キャラクター)の本質的な一致が横たわっています。

<面足尊・惶根尊のご神名が語る意味>

「面足(おもだる)」──「面(おも)」は顔、容貌。
「足(たる)」は満ち足りるの意。すなわち「容貌が完全に整った存在」

「惶根(あやかしこね)」──「あや」は感嘆、「かしこ」は畏れ多い、「ね」は女性を表す語尾。すなわち「畏れ多いほどに美しい女性」

この二柱は、神世七代の最後に現れた男女一対の神であり、人間の肉体が完全な姿に「成り整った」こと──男女の身体の完成、性愛や魅力を意識する段階への到達──を象徴しています。

<第六天魔王(他化自在天)が司る領域>

仏教において、この魔王は欲界──すなわち欲望の世界──のトップに君臨します。彼が司るのは、人間の愛欲・性欲・快楽です。
人が恋をし、性的な快楽に引かれ、生命を繋ごうとするエネルギーそのものが、この魔王の力の源泉とされます。

「男女の身体が完成し、性愛や魅力を意識する神(面足・惶根)」と、「愛欲・快楽を司り、コントロールする神(他化自在天)」

この二者は、宗教的な意味において完全に同じ引き出しに入ります。
「第六天」の「六」が神世七代の第六代と一致したのは、数字の意味合いだけではなく、その神格が指し示す領域──「生命の根源にある欲と魅力の力」──が本質的に重なっていたからこそ、中世の修験者たちによって自然に習合されたのです。

そして、この面足尊・惶根尊のさらに上位に据えられた高皇産霊神(タカミムスビ)は、「欲と魅力」を包括するもっと根源的な力──万物を生み出し、結びつける宇宙的な創造エネルギー(産霊=ムスビ)──を体現しています。

面足尊・惶根尊が「生命の欲」を肯定する神であるなら、高皇産霊神はその欲をも含めたすべてを生成する「宇宙の創造の力」そのもの。

第六天社から高木神社への変遷は、信仰の「格上げ」であると同時に、もともとそこにあった本質への回帰でもあったと言えるでしょう。

🔹パターン③ 後醍醐天皇にまつわる神社(関西を中心に)

三つ目のパターンは、前二者とは性質が大きく異なります。

このパターンは、現代の神社名や公式の御祭神に「第六天」という文字が直接現れることはほぼありません。しかし、その信仰の動機と精神性の深層において、第六天魔王──すなわち「既存の秩序を打ち破り、すべてを自らの手で作り変えようとする、圧倒的な破壊と創造のエネルギー」──が色濃く息づいています。

その中心に立つのが、第九十六代・後醍醐天皇です。

詳しくは次回(シリーズ②)で掘り下げますが、後醍醐天皇と第六天魔王の結びつきは、密教への深い傾倒、側近・文観房弘真(もんかんぼうこうしん)を通じた真言立川流との関わり、そして笠置の変での捕縛時に自ら「天魔の所為(てんまのしわざ)」と述べた記録など、歴史的な背景に根ざしています。

なぜ西日本に第六天神社がないのか──秀吉の恐れ

ここで、三類型の背景にある決定的な地理的偏りについて触れておきたいと思います。

第六天神社は、江戸時代末期の記録で500社以上が確認されていますが、そのすべてが東日本──とりわけ旧武蔵国・旧相模国・旧伊豆国──に集中しており、西日本にはほぼ皆無です。

神奈川県神社庁の『かながわの神社ガイドブック』(1997年)は、その理由として、豊臣秀吉の政策を挙げています。

天下統一を遂げた秀吉にとって、前主・織田信長が「第六天魔王」を自称し篤く信奉していたとされる第六天の信仰が西日本で根を張り続けることは、自身の権威にとって脅威でした。
(※戦国時代、織田信長が自らを「第六天魔王」と称して比叡山などを焼き討ちしたため、仏教界にとって第六天魔王は「最大の敵」となりました)
そこで秀吉は、自らの本拠である大阪を中心に、西日本の「第六天」と名のつく祠や寺院を徹底的に取り壊す、あるいは改名させる政策を行ったのです。

関東にまでは手が及ばなかったため、東日本の第六天社は江戸時代を通じて存続し、やがて明治の神仏分離で前述の三パターンへと分岐していくことになります。

三つのパターン──代表的な神社

それぞれのパターンに属する代表的な神社を、具体的に確認しましょう。

✔️ パターン① 天満宮・天神社への転換・合祀型

天神大六天神社(静岡県沼津市)──東海地方に見られる貴重な例。「大六天神」と呼ばれていた社が「天神(道真公)」と混同・習合され、両方の属性を持って現在に至っています。社名そのものに「天神」と「大六天」が同居した、過渡期の信仰の姿を今に伝える神社です。

北野神社(牛天神)・境内高木神社(東京都文京区春日)──もとは「小日向第六天社」として知られた独立社が、明治期に牛天神(北野神社)の境内へと遷座し、天神信仰の傘下に入りました。天満宮の「傘」のもとで第六天の記憶が存続した好例です。

戸塚栗原天満宮(神奈川県横浜市戸塚区)──相模国に非常に多かった第六天社の一つが、明治の改革により「天満宮」へと社名を変更した例。現在は学問の神・道真公を前面に出して祀っています。

菅原神社・旧第六天社(東京都町田市)──村の第六天社が、明治以降に菅原道真公を主祭神とする「菅原神社」の境内へと統合・合祀された典型例です。

北野天満宮(京都府京都市)──天神信仰の総本山。直接的な第六天社の転換ではありませんが、神仏習合期に「天満大自在天神」の威力を表現するため、他化自在天(第六天魔王)の思想を深く取り込んだ歴史を持ちます。パターン①の思想的な源泉と言える存在です。

✔️ パターン② 面足尊・惶根尊(+高皇産霊神)維持型

第六天榊神社(東京都台東区蔵前)──関東に点在する第六天系神社の「総本宮」とされる格式高い神社。明治六年に正式社号を「榊神社」と改めましたが、今も「第六天」の名で親しまれています。御祭神は天神第六代坐榊皇大御神(面足尊・惶根尊)。

武蔵第六天神社(埼玉県さいたま市岩槻区)──社名に「第六天」を今も堂々と残す貴重な神社。御祭神は面足尊・惶根尊。「面足」の名から「足の神さま」としての信仰も持ち、近年は足病消除や交通安全の守護としても崇敬を集めています。

胡録神社(東京都荒川区南千住)──永禄四年(1561年)、上杉謙信の家臣・高田嘉左衛門が川中島の合戦に敗れ当地に落ち延び、守護神として面足尊・惶根尊を祀ったのが始まり。古くは「大六天」と称し、明治の神仏分離の際、武具の「胡簶(やなぐい)」と胡粉作りの「胡」、第六天の「六(ろく)」にちなんで「胡録神社」と改称しました。

穏田神社(東京都渋谷区神宮前)──原宿・キャットストリートの裏手に鎮座する、江戸時代から続く神社。面足尊・惶根尊を祀り、「面足(おもだる)」=容貌が満ち足りた神であることから、美容・縁結びのパワースポットとして現代の若者にも人気です。第六天信仰の「男女の魅力と欲の肯定」が、現代の美容祈願へと自然に受け継がれている生きた事例です。

高木神社(東京都墨田区押上)──本シリーズの出発点。旧称「第六天社」。神仏分離に際し、面足尊・惶根尊ではなく高皇産霊神を御祭神に据え、別名「高木の神」から現社名としました。第六天信仰の本質を「むすび(産霊)」へと昇華させた、象徴的な存在です。

山倉大神(千葉県香取市)──弘仁二年(811年)創建。大六天王社の総社として広く信仰を集めていましたが、明治の神仏分離令により大六天王を近隣の真言宗・観福寺に遷座し、高皇産霊大神・建速須佐男大神・大国主大神を御祭神としました。現在も本殿の額には「第六天神宮」の文字が残り、往時の信仰を伝えています。

✔️ パターン③ 後醍醐天皇・南朝ゆかりの神社と聖地(「第六天」の精神が伏流する場所)

吉水神社(奈良県吉野郡吉野町)──南朝の絶対的本拠地(行宮)。もとは金峯山寺の僧坊「吉水院」でしたが、明治の神仏分離で「後醍醐天皇社」となり、のちに吉水神社と改められました。後醍醐天皇が京都を脱出し、ここに南朝の朝廷を構えた場所そのものです。天皇の崩御時の「身は吉野の苔の下に朽ちるとも、魂は常に北(京都)を望む」という凄絶な執念が宿る地であり、パターン③の核心と呼ぶべき聖地です。

吉野神宮(奈良県吉野郡吉野町)──明治天皇の御願により、建武の中興に命をかけた後醍醐天皇の偉業を称え、その御霊を永久に鎮めるために創立された官幣大社。後醍醐天皇を単独の主祭神とする、建武中興十五社の筆頭です。

如意輪寺・後醍醐天皇陵(奈良県吉野山)──後醍醐天皇の御陵(お墓)が置かれた寺院。歴代天皇の陵墓は南面するのが通例ですが、天皇が「我が魂は北(京都)の空を望む」と遺言されたため、全国唯一の北向きの御陵として築かれました。京都奪還への執念を死後にまで刻みつけた、強烈な怨霊封じの聖地です。

湊川神社(兵庫県神戸市中央区)──「大楠公」こと楠木正成公を祀る別格官幣社。文観の密教ネットワークによって後醍醐天皇と結ばれた正成は、湊川の戦いで足利方に敗れ、「七生報国」の言葉を遺して壮絶な最期を遂げました。後醍醐天皇(第六天魔王を自称する絶対君主)のために命を賭した忠臣の魂を鎮める、南朝の武威の象徴です。

鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)──後醍醐天皇の皇子・護良親王を祀る。明治天皇の勅命により、親王が足利直義に幽閉・殺害された鎌倉二階堂の地に創建されました。父のために激しい戦いを繰り広げ非業の死を遂げた親王の、強烈な怨霊と武徳の力を鎮めるための宮です。

金峯山寺・蔵王堂(奈良県吉野山)──神社ではありませんが、後醍醐天皇が実質的な本陣とした修験道の総本山。ここに祀られる金剛蔵王権現は、衆生を救うために「怒り」の姿で現れた仏の化身であり、その「既存の悪を激しく打ち砕く」苛烈なイメージは、後醍醐天皇が自ら重ね合わせた「第六天魔王」の精神性と深く響き合うものでした。

※パターン③の神社・聖地には、「第六天」という名称は一切表出しません。あくまでも「既存秩序を打ち破る魔王的エネルギー」という精神性の底流において、第六天信仰と通底している──という歴史的・思想的な読み解きです。

次回(シリーズ②)で、後醍醐天皇と第六天魔王の結びつき、そしてその破壊のドラマとは一線を画す純粋な高皇産霊神の信仰について、さらに深く掘り下げます。

むすびに──一社の名の奥に眠る、信仰史の地層

墨田区押上の高木神社。スカイツリーの足元で「おむすび」の御朱印を頒布するこの愛らしい神社の地層を掘り下げると、そこには第六天魔王という欲界の王が眠り、その下にはさらに面足尊・惶根尊という古層の神々が息づき、そしてその根底には高皇産霊神──宇宙の生成力そのもの──が静かに脈打っています。

第六天魔王(欲の力)
→ 面足尊・惶根尊(肉体と魅力の完成)
→ 高皇産霊神(すべてを生み出し結ぶ力)

この三層は、同じ「生命のエネルギー」の異なるレイヤーであり、原宿の穏田神社で「美容」を祈ることも、高木神社で「おむすび」を愛でることも、その根を同じくしています。

次回・シリーズ②では、パターン③(後醍醐天皇・南朝ゆかりの場)の核心へと踏み込みます。
なぜ後醍醐天皇が「第六天魔王」の精神と結びつくのか。そしてその破壊と怨霊のドラマとは一線を画す、純粋な高皇産霊神の信仰とは何か。

一つの神社の気づきから、日本の信仰の最深部へ
──旅はまだ始まったばかりです。


では。

いつも、ありがとう^^


@Rico

幸せは自分のために
世界が平和であるために

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