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【ひとつの種】原点回帰を感じるとき

@Ricoです。

最近、あり得ないようなことが、立て続けに起こっている。

偶然と呼ぶには出来すぎていて、必然と言い切るには少し戸惑いもある。
そういう出来事が、まるで示し合わせたかのように重なるとき、人はふと立ち止まる。
──「これは、何かが動いている」と。

そして、重なるとき気づくこと。
これはもしかすると、原点回帰なのかもしれない、と。


原点。

長いあいだ、それは目には見えず、忘れられたように感じていた。しかしそれは、実は奥底に潜んでいたのだと気づく。忘れていたというより、日々の手触りのなかに紛れ込んで見えなくなっていた、という方が近いだろう。

歩き続けているうちに、いつのまにか「歩くこと」そのものが目的になっていたように。

最初に、なぜここを歩き始めたのか。
何を求めて、何に手を合わせ、何を感じたかったのか。
その最初の一歩の感触を、知らず知らず置いてきてしまっていたように。

それが今、思いがけないかたちで、目の前に戻ってきた。
まるで久しぶりに再会した友のように。懐かしく、そして少し気まずく。「ずいぶん遠くまで来てしまったね」と、その原点が静かに微笑んでいるような気がする。

再会してみて、あらためて思う。

「生きる時間」というのは、本当にかけがえのないものだ。

当たり前のことのようでいて、これほど忘れやすい真実もない。私たちは時間を「持っている」と錯覚しがちだけれど、本当は、ただ通り過ぎていく時間のなかに、束の間お邪魔させてもらっているだけなのかもしれない。

だからこそ、問いが立ち上がる。

その時間を、何に使うのか。
どう使うのか。
そして、何を感じるのか。

同じひとときの中でも、上の空で過ごせば消えて見えなくなり、心を込めて過ごせば一生の記憶になる。

長さではなく、密度。
量ではなく、質。
原点が私に思い出させてくれたのは、おそらく、そういうことだろう。

そして、これも確かなことだと思う。

素晴らしいタイミングというものは、必ずある。

早すぎず、遅すぎず。その人が受け取れるちょうどよい時に、ちょうどよいものが訪れる。あり得ないことが重なるのは、もしかすると、そのタイミングの訪れを知らせる合図なのかもしれない。

そういう意識でいると、不思議なもので、すべてが「🟡」になっていく。
引っかかっていたことがほどけ、迷っていた心に光が差し、滞っていたものが流れ出す。
世界の側が変わるのではなく、こちら側の眼差しが変わるということ。
原点に立ち返った眼差しは、同じ景色をまるで違うかのように映し出す。


ところで。

本日、6月2日。 こんな言葉に振り返って出会った。

時は一瞬たりとも止まることはない。
時は流れてやまず、そして、すべての時は今この瞬間に織り込まれている。この相反する二つの感覚を掌握したとき、魂の旅の全貌を思い出すだろう。

──辻麻里子『数字のメソッド』

流れてやまない時。そのすべてが、今この一瞬に織り込まれている。

過去の最初の一歩も、これからの一歩も、すべて、たった今ここに畳み込まれている。原点は、どこか遠い過去に置き忘れてきたものではない。
それは、いつでもこの「今」のなかに、織り込まれていたのだ。

魂の旅の全貌を思い出す
──原点回帰とは、きっと、そういうことなのだろう。


そんな「いま」にヒントがある。



では。

いつも、ありがとう^^


@Rico

幸せは自分のために
世界が平和であるために


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