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【明治神宮の参拝が変わる?】創建100年の謎と神宮の森の秘密|知られざる本当の姿

@Ricoです。

実は、明日27日の夜に明治神宮の夜間特別参拝に参加させていただきます。その流れで、長い間、節目のタイミングに参拝させていただいている「明治神宮」について、改めてまとめてみたいと思います。

明治神宮がどのような歴史を持ち、どのような想いで建てられたのか。言うまでもなく、明治神宮は、日本の近代史そのものと深く結びついた、他に類を見ない特別な存在です。
その創建の背景から、境内に広がる広大な森の秘密まで、一つ一つを知ることで、われわれ日本人の精神性の根幹にも触れることになります。

明治神宮が日本においてどのような位置付けにあるのかを、5つの重要なポイントから考察していきますね。



1:創建の背景 - 国民の熱意が生んだ祈りの場

明治神宮の物語は、一人の偉大な君主と、その后の崩御から始まります。

明治天皇と昭憲皇太后の崩御

1912年(明治45年)7月30日、近代日本の礎を築いた明治天皇が崩御されました。続いて1914年(大正3年)4月11日には、その生涯を常に寄り添い、支え続けた昭憲皇太后が崩御されます。

明治天皇は、幕末の動乱期に即位し、西洋列強がアジアに迫る激動の時代の中で、日本の近代化と独立を力強く牽引した存在でした。五箇条の御誓文を渙発し、新しい国づくりの方針を示し、大日本帝国憲法を制定して立憲君主制の礎を築くなど、その御事蹟は枚挙にいとまがありません。

一方、昭憲皇太后は、女子教育の重要性を説き、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立を助け、日本赤十字社の活動を支援するなど、社会福祉や教育の分野で大きな役割を果たされました。その慈愛に満ちた姿は、国民から深く敬愛されていました。

この二柱の崩御は、日本国民に深い悲しみと喪失感をもたらします。そしてその悲しみは、やがて一つの巨大なうねりへと変わっていくのです。

「御霊をお慰めしたい」── 国民からの熱願

明治天皇と昭憲皇太后の御霊を永遠にお祀りし、その御聖徳を後世に伝えたい。この想いは、政府主導で起こったものではなく、ごく自然に、日本全国の国民の間から湧き上がってきたものでした。

東京市長であった阪谷芳郎(さかたによしろう)のもとには、市民から「天皇をお慕いするわれわれの気持ちを形にしたい」という請願が殺到します。実業家の渋沢栄一らも、この国民的な運動の中心となり、明治天皇をお祀りする神宮の創建を政府に強く働きかけました。

この国民の熱意に動かされ、1915年(大正4年)、ついに明治神宮の創建が決定されます。この決定は、単に一つの神社が建てられるという以上の意味を持っていました。それは、国民自らの手で、敬愛する君主を神としてお祀りするという、日本の歴史上でも特筆すべき出来事の始まりだったのです。

国民総出の創建事業

明治神宮の創建が他の多くの神社と一線を画す最大の理由は、その造営過程にあります。

まず、建設資金です。政府の予算も計上されましたが、その多くは全国の国民からの寄付金によって賄われました。その額は、当時の金額で約680万円。現在の価値に換算すると数百億円にも上ると言われています。財界人から一般市民、さらには海外の日本人からも、心のこもった寄付が寄せられました。

さらに驚くべきは、その労働力です。神宮の森を造成するための植樹や、社殿建設の土木作業などには、日本全国から集まった「青年団」を中心とする無数の人々が、無償の勤労奉仕で参加しました。その数は、延べ11万人に達したと言われています。彼らは、自らの汗を流すことで、神宮創建という国家的プロジェクトに直接参加できることを誇りとし、喜んで作業にあたりました。

このように、明治神宮は国家の威信をかけた事業でありながら、その実態は、国民一人ひとりの「真心」と「熱意」によって作り上げられた「国民の神社」なのです。この創建の背景こそが、明治神宮の日本における特別な位置付けを理解する上で、最も重要な原点と言えるでしょう。

2:御祭神と御神徳──明治天皇と昭憲皇太后という「人にして神」

神社の核心は、その御祭神にあります。明治神宮にお祀りされているのは、どのような神様で、どのような御神徳をいただけるのでしょうか。

本殿の御祭神:明治天皇と昭憲皇太后

明治神宮の御祭神は、言うまでもなく明治天皇(めいじてんのう)と、その皇后である昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の二柱です。日本の長い歴史の中でも、天皇と皇后がご一緒に主祭神としてお祀りされている例は非常に珍しく、このこと自体が明治神宮の大きな特徴となっています。

▪️明治天皇(第122代天皇)
御事蹟: 幕末の混乱を収め、明治維新を成し遂げ、近代日本の基礎を築かれました。主な御事蹟には以下のようなものがあります。
五箇条の御誓文(1868年): 新政府の基本方針を示し、公議世論の尊重や開国和親を宣言。
東京奠都(1869年): 江戸を東京と改称し、日本の首都と定める。
大日本帝国憲法発布(1889年): アジアで最初の近代憲法を制定し、立憲国家としての体裁を整える。
和歌をこよなく愛され、生涯で約10万首もの御製(ぎょせい:天皇の詠まれた和歌)を残されました。その和歌は「大御心(おおみごころ)」と呼ばれ、境内の各所で目にすることができます。
▪️昭憲皇太后
御事蹟: 明治天皇の良き相談相手として、また近代日本の国母として、多岐にわたる分野で活躍されました。
女子教育の振興: 華族女学校(後の学習院女子部)や東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立に深く関わり、女性の地位向上に貢献。
社会福祉事業: 日本赤十字社の活動を熱心に支援。その功績から、国際赤十字からは「フローレンス・ナイチンゲール記章」が贈られています。
伝統文化の継承と国際親善: 西洋の優れた文化を取り入れつつも、日本の伝統文化を重んじ、洋装の際にも日本の美意識を取り入れるなど、和魂洋才を体現されました。

二柱の神がもたらす御神徳

明治天皇と昭憲皇太后は、生涯を通じて非常に仲睦まじいご夫婦であったと伝えられています。そのため、二柱をお祀りする明治神宮は、特に以下の御神徳で知られています。

  • 夫婦円満・家内安全: ご祭神の御姿から、家庭の和やかさや家族の幸せを願う人々の信仰を集めています。本殿前にある二本の楠は「夫婦楠」と呼ばれ、この御神徳の象徴とされています。

  • 国家安寧・世界平和: 日本の近代化を導き、世界の国々と対等な関係を築こうとされた御事蹟から、日本の平和と繁栄、ひいては世界の平和を祈る場とされています。

  • 開運招福・厄除: 国難を乗り越え、新しい時代を切り拓かれた御神威から、人々の人生における様々な困難を取り除き、幸福を招くという信仰があります。

摂社・末社について

一般的な神社には、主祭神と縁の深い神様をお祀りする「摂社」や「末社」がありますが、明治神宮の境内には、他の神様をお祀りする摂社・末社は存在しません。これは、あくまで御祭神である明治天皇と昭憲皇太后への崇敬に特化した神社であることが分かります。

しかし、境内には御祭神にゆかりの深い場所が点在しており、それらは以下の通り。

隔雲亭(かくうんてい)
明治天皇が、昭憲皇太后の保養のために建てられた御茶室です。現在は再建されたものですが、天皇の皇后への深い愛情を今に伝えています。
清正井
御苑の中にあり、江戸時代にこの地が加藤清正の下屋敷であったことからこの名がついたとされます。年間を通じて水温が一定で、清らかな水が絶えず湧き出ていることから、生命力の象徴として多くの人々に親しまれています。
亀石
北池の近くにある亀の形をした大きな岩です。その姿から長寿や健康の象徴とされています。

3:教育勅語と明治の精神──今に伝わる日本のこころ

明治神宮を語る上で避けて通れないのが、「教育ニ関スル勅語」、すなわち教育勅語の存在です。現代ではその名前を聞く機会は少なくなりましたが、これは明治天皇が国民に下賜したものであり、明治神宮が伝えるべき「明治の精神」の根幹をなすものとされています。

教育勅語とは何か?
教育勅語は、1890年(明治23年)10月30日に、明治天皇のお言葉として発布された、教育に関する指針です。当時の日本は、急速な西洋化の中で、古くからの道徳観が揺らぎ、社会に混乱が生じていました。この状況を憂慮した明治政府は、国民が拠り所とすべき道徳の基本を明示する必要があると考え、この教育勅語が作られました。

その内容は、決して難しいものではありません。大きく分けて、以下の二つの要素から成り立っています。

  1. 普遍的な徳目:

    • 親に孝行しなさい(孝行)

    • 兄弟は仲良くしなさい(友愛)

    • 夫婦は互いに和やかに暮らしなさい(夫婦ノ和)

    • 友達は互いに信じ合いなさい(朋友ノ信)

    • 自分の言動を慎みなさい(謙遜)

    • すべての人々に博愛の手を差し伸べなさい(博愛)

    • 学問を修め、技能を習得しなさい(修学習業)

    • 人格の向上に努めなさい(知能啓発、徳器成就)

  2. 国民としての徳目:

    • 広く公共の利益を追求し、社会のためになる仕事に励みなさい(公益世務)

    • 常に憲法を重んじ、国の法律に従いなさい(遵法)

    • 国に危機が迫ったときには、勇気を持って公のために尽くしなさい(義勇奉公)

このように、前半部分では人として守るべき普遍的な道徳が、後半部分では近代国家の国民としての心構えが説かれています。これらの徳目は、特定の宗教や思想に偏るものではなく、人間社会の基礎となるべき考え方が凝縮されていると言えるでしょう。

戦後の教育勅語と現代的意義

太平洋戦争後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、教育勅語が軍国主義教育の根源であったとみなし、1948年(昭和23年)に衆議院と参議院がその「失効」を決議しました。これにより、教育勅語は公の場から姿を消すことになります。

確かに、戦時中、教育勅語の「義勇奉公」の部分が拡大解釈され、国民を戦争に動員するための精神的支柱として利用された側面は否定できません。しかし、それは本来の教育勅語が持つ徳目の一部を、時代が歪めてしまった結果とも言えます。

現代のわれわれが教育勅語を読むとき、その歴史的背景を理解した上で、そこに示されている普遍的な徳目に目を向けることが重要です。親を敬い、友を信じ、学びを怠らず、社会に貢献する。これらの価値観は、時代や国境を超えて、われわれがより良い人生を送り、より良い社会を築く上で、今なお重要な指針となりうるのではないでしょうか。

明治神宮は、この教育勅語に込められた明治天皇の「国民一人ひとりが徳を高め、立派な人間になってほしい」という願いを、現代に伝え続ける役割を担っているのです。

4:神宮の森の秘密──100年先を見据えた壮大なプロジェクト

明治神宮を訪れた人がまず驚くのは、その広大で深い森でしょう。東京の都心、渋谷区と新宿区にまたがる約70万平方メートルの敷地は、まるで都会のオアシスです。しかし、この森が、実は人の手によって造られた「人工林」であるという事実を知る人は、意外と少ないかもしれません。

「永遠の森」を目指した科学的計画

神宮創建が決定された当時、この場所はほとんど木のない荒れ地でした。ここに、御祭神を永遠にお守りするにふさわしい、荘厳な森を造る。この壮大なプロジェクトの中心となったのが、当時の林学の権威であった本多静六、上原敬二らの学者たちです。

彼らが目指したのは、単なる見栄えの良い庭園ではありませんでした。人の手を加えなくとも、自然の力で世代交代を繰り返し、永遠に続いていく「自然の森(天然林)」を、人の手で創り出すことでした。

その計画は、非常に科学的かつ長期的な視点に基づいています。

1.徹底した植生調査
まず、関東地方の自然林を徹底的に調査し、この土地の気候や土壌に最も適した樹木は何かを分析しました。その結果、最終的にこの地を支配する木(極相林)は、カシ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹であると結論付けました。

2.未来を見据えた植栽計画
しかし、創建当時にカシやシイの苗木をいきなり植えても、荒れ地の厳しい環境ではうまく育ちません。そこで、まず成長が早く、日差しや乾燥に強いアカマツやクロマツなどの針葉樹を植えました。

3.自然の遷移を利用
針葉樹が成長して森の基礎ができると、その下に日陰を好むカシやシイ、クスノキなどの常緑広葉樹を植えました。やがて、先に植えた針葉樹の寿命が尽きる頃には、その下で育った広葉樹が森の主役となり、安定した自然林へと遷移していくのです。

この計画は、50年後、100年後、150年後の森の姿までを予測した、まさに「永遠」を見据えた壮大な実験だったのです。

国民の献木と現在の森の姿

森を造るための木々は、日本全国、さらには当時の領土であった台湾や樺太、満州などからも献納されました。その種類は約365種、本数は約10万本にものぼります。これもまた、国民の「真心」が形となったものです。

そして創建から100年以上が経過した現在、明治神宮の森は、計画を立案した学者たちの予測通り、あるいはそれを超える形で成長を遂げています。

  • 豊かな生物多様性
    当初は人の手で植えられた森ですが、今では多くの鳥や昆虫が生息する、生物多様性の宝庫となっています。都心部では珍しいオオタカが繁殖したことも確認されており、この森が一個の独立した生態系として機能していることを示しています。

  • 自然淘汰による森の進化
    創建当時に植えられた木々の中には、この土地の環境に合わずに枯れてしまったものもあります。しかしそれも、森がより強く、安定した姿へと進化していく自然のプロセスの一部なのです。

明治神宮の森は、単なる鎮守の森ではありません。それは、日本の近代科学の粋を集め、未来への明確なビジョンを持って造られた、生きた文化遺産です。われわれはこの森を歩くとき、100年前の人々が未来のわれわれのために描いた壮大な夢と、自然の持つ偉大な力に、思いを馳せるべきでしょう。

5:例祭の特殊性と皇室との絆

神社の祭祀の中でも、最も重要とされるのが**例祭(れいさい)**です。明治神宮の例祭は、その日取りと形式において、皇室との深い結びつきを示す特殊なものとなっています。

11月3日という特別な日

明治神宮の例祭は、毎年11月3日に行われます。この日は、御祭神である明治天皇のお誕生日にあたります。

戦前、この11月3日は「明治節(めいじせつ)」という国民の祝日でした。これは、明治天皇の偉大な御事蹟を称え、明治という時代を記憶するための日でした。

戦後、日本国憲法が公布されたことを記念し、この日は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨とする「文化の日」と改められました。

明治天皇が、和歌を愛し、学問を奨励し、西洋の優れた文化を積極的に取り入れるなど、日本の文化の発展に大きく貢献された御事蹟を忘れないように、という想いがそこにはあったのかもしれません。

勅祭社としての格式

明治神宮は、伊勢の神宮や他のいくつかの重要な神社とともに、「勅祭社(ちょくさいしゃ)」に列せられています。

勅祭社とは、例祭に際して、天皇陛下のお言葉を伝える使いである「勅使」が派遣される、極めて格式の高い神社のことです。例祭当日、勅使は天皇陛下からの供物である御幣物を神前にお供えし、御祭文を奏上します。

これは、天皇陛下ご自身が、御祭神である明治天皇と昭憲皇太后を深く敬い、その祭祀を大切にされていることの証です。明治神宮が、皇室にとって、そして日本国家にとって、いかに重要な存在であるかが、この勅使の派遣という儀式によって示されているのです。

秋の大祭で行われる諸行事

11月3日の例祭を中心とする数日間は「秋の大祭」として、様々な奉祝行事が行われます。

  • 流鏑馬(やぶさめ)
    疾走する馬上から的を射る、日本の伝統的な馬術です。勇壮な武士の姿は、明治天皇が武徳を重んじられたことを偲ばせます。

  • 舞楽・能・狂言
    日本の古典芸能が神前に奉納されます。

  • 全国農産物奉納大会
    全国の農家から、丹精込めて作られた農産物が奉納され、五穀豊穣への感謝と祈りが捧げられます。

これらの行事は、明治神宮が単なる祈りの場であるだけでなく、日本の伝統文化を継承し、発信する中心地としての役割も担っていることを示しています。

例祭は、明治の御代を偲び、皇室との絆を確認し、日本の文化の豊かさを再認識する、年に一度の特別な機会なのです。



【参拝ストーリー】明治神宮、心の探訪

これまでに見てきた5つのポイントを踏まえ、実際に明治神宮を参拝する際の具体的なルートと、その中で心に留めておきたいポイントをご紹介しますね。

はじめに:原宿の喧騒から神域へ - 二つの大鳥居

JR原宿駅の表参道口を出て神宮橋を渡ると、俗世と聖域を分ける結界、南参道がわれわれを迎えます。玉砂利を踏みしめる音が心を鎮める中、まず目の前に現れるのが、2022年(令和4年)に建て替えられたばかりの「一の鳥居(第一鳥居)」です。

  • 一の鳥居(第一鳥居) 創建100年を記念する事業の一環として、約100年ぶりに建て替えられました。長年の風雨による老朽化がその理由です。この新しい鳥居には、従来の台湾産檜ではなく、奈良県の吉野杉が使われています。これは、日本の林業技術の粋を集めたものであり、森と共に生きる神社の新たな時代の象徴と言えるでしょう。

この清々しい杉の香りがする一の鳥居をくぐり、さらに参道を進むと、やがて目の前に、より巨大な木造の鳥居が姿を現します。これが「大鳥居(第二鳥居)」です。

  • 大鳥居(第二鳥居) 高さ12メートル、柱の直径1.2メートルを誇る、木造の明神鳥居としては日本最大級のものです。現在の鳥居は二代目で、初代の鳥居は1966年(昭和41年)に落雷によって損傷してしまいました。その後、台湾の実業家・蔡介雄(さいかいゆう)氏らの尽力により、台湾の丹大山(たんだいさん)で発見された樹齢1500年を超える見事な檜が献木され、1975年(昭和50年)に再建されたのが現在の姿です。

このように、明治神宮には二つの大きな鳥居があり、それぞれが異なる歴史と物語を持っています。一つ目の鳥居では日本の林業の未来への想いを、二つ目の鳥居では国境を越えた崇敬の念の深さを感じ取ることができます。

献納された真心 - 御苑へと続く道

大鳥居をくぐり、さらに参道を進むと、右手にずらりと並んだ酒樽が見えてきます。これは全国の酒造家から毎年奉納されるもので、神様へのお供え物であると同時に、日本の伝統産業の繁栄を示す象徴でもあります。

そしてその向かい、左手には葡萄酒の樽が積まれています。これは、明治天皇が西洋の文化を積極的に取り入れ、特に葡萄酒を好まれたことにちなみ、フランスのブルゴーニュ地方の醸造元から献納されているものです。日本の伝統的な酒樽と、西洋の葡萄酒樽が並んで置かれている光景は、まさに「和魂洋才」を掲げた明治という時代そのものを象生していると言えるでしょう。

身と心を清める - 大御心と手水舎

参道が直角に曲がる「枡形(ますがた)」を過ぎると、手水舎(てみずしゃ、ちょうずや)が見えてきます。神前に進む前に、ここで手と口を漱ぎ、心身を清めます。これは「禊(みそぎ)」という日本の古くからの習慣を簡略化したものです。

手水舎の近くには、しばしば「大御心(おおみごころ)」と書かれた木の立て札があります。ここには、明治天皇と昭憲皇太后が詠まれた和歌が記されています。例えば、このような御製があります。

「あさみどり すみわたりたる 大空の ひろきをおのが こころともがな」(明治天皇御製)

(意訳:澄み渡った大空のように、広く澄んだ心でありたいものだ)

参拝の前にこの大御心に触れることで、自らの心を省み、清らかな気持ちで神様と向き合う準備が整います。

祈りの中心へ - 御社殿での参拝

手水舎を過ぎ、最後の鳥居と南神門をくぐると、目の前に広大な内庭と、荘厳な御社殿が姿を現します。創建当時の社殿は空襲で焼失しましたが、1958年(昭和33年)に国民からの浄財によって再建されました。銅板葺きの屋根と、素木(しらき)造りの社殿は、華美な装飾を排した、シンプルで力強い美しさを湛えています。建築様式は、日本の伝統的な神社建築である「流造(ながれづくり)」です。

社殿の前には、二本の大きな楠が寄り添うように立っています。
これが「夫婦楠」です。仲睦まじかった御祭神を象徴するように、注連縄で結ばれたこの楠は、夫婦円満や家内安全の御神徳のシンボルとして、多くの参拝者が手を合わせる場所となっています。

いよいよ、拝殿の前で神様にご挨拶をします。

神楽殿での祈りと神域の奥へ

御社殿での参拝を終えたら、西側にある神楽殿にも足を運んでみましょう。ここでは、厄祓いや初宮詣、七五三などのご祈祷が行われています。ガラス張りのモダンな建物ですが、御神前では毎日、世界平和や国家安泰を祈るお祭りが厳粛に執り行われています。

時間に余裕があれば、ご祈祷を申し込むのも良いでしょう。神職を通じて、より丁寧に神様へ祈りを届けることができます。また、御朱印やお守り、お札などは別の場所でも受けることができます。

御苑を散策し、自然との対話を深める

  • 参拝の締めくくりとして、南参道脇にある御苑(ぎょえん)を訪れることをお勧めします(別途、御苑維持協力金が必要です)。

  • ここは江戸時代には大名の下屋敷があった場所で、明治時代には皇室の御料地となりました。苑内には、昭憲皇太后のために建てられた隔雲亭や、武将・加藤清正が掘ったと伝わる清正井など、見どころが多くあります。

  • 都会の喧騒を忘れさせる静かな苑内を散策することで、神宮の森が持つ生命力や、この土地が重ねてきた歴史を肌で感じることができます。これまでの参拝で高まった清らかな気持ちを、さらに深く心に刻むことができるでしょう。

まとめ:明治神宮の日本における位置付け──伝統と革新の結節点

これまで、①創建の背景、②御祭神、③教育勅語、④神宮の森、⑤例祭の特殊性という5つのポイントから、明治神宮を考察してきました。

これらの要素を総合すると、明治神宮の日本における位置付けは、単なる一神社に留まらない、極めて重層的で特別なものであることが明らかになります。

明治神宮は、過去(明治の御代)への追慕と感謝、現在(国民の祈り)の安寧、そして未来(永遠の森)への希望が交差する、伝統と革新の結節点として捉えてみてはいかがでしょうか。

われわれがこの場所を訪れるとき、それは単に手を合わせる行為以上の意味を持ちます。日本の近代がどのように形作られ、われわれがどのような精神を受け継いできたのかを学び、そしてこれからの未来をどう生きるべきかを自問する、貴重な機会となるはずです。

明治神宮とは、日本という国のアイデンティティそのものを映し出す、静かで、しかし雄大な鏡のような存在とも言うことが出来るのです。


では。

いつも、ありがとう^^


@Rico

幸せは自分のために

世界が平和であるために


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