御岩神社|神仏習合の祈りと5億年の大地に触れる登拝──常陸国風土記の聖地をゆく
@Ricoです。
ずっとうかがいたかった場所がある。
茨城県日立市の山深くに鎮座する御岩神社。
「神仏を祀る唯一の社」として、御岩山の全域に188柱もの神仏を奉斎するこの聖地に、ご縁をいただいて参拝に上がることができました。
そしてその感動が深すぎて、春季回向祭のタイミングで再びの登拝へ。
この後の複数回の参拝を経て、からだの奥底から湧いてくるように感じたこと、調べれば調べるほど重層的に広がっていく信仰の歴史、そして約5億年という途方もないスケールの大地の記憶。
今回は、その体験と考察を綴っていきたいと思います。
そして、4月第3週の土日には「春季回向祭」が執り行われます。
(2026年は4月18日19日→今週末ですね!)
タイミングで参拝される方への事前情報になれば幸いです。


御岩神社とは
御岩神社は、日立市入四間町の御岩山(標高約530m)の西麓に鎮座する神社です。
創建年代は不詳。ただし、奈良時代に編纂された『常陸国風土記』(養老5年・721年成立)の久慈郡薩都の里の条に、
浄らかな山かびれの高峰に天つ神鎮まる
と記されていることから、少なくとも1300年以上前からこの地が「神が鎮まる聖域」として認識されていたことがうかがえます。
さらに、御岩山の山中からは縄文時代晩期の祭祀遺跡が発掘されており、信仰の起源は約3000年前にまで遡りうるとされています。
御祭神
国之常立神、大国主神、伊邪那岐神、伊邪那美神、大山祗神ほか22柱(御岩神社拝殿)
御岩山全体では188柱の神仏を祀る。
この「188柱」という数がすでに尋常ではないわけですが、さらに特筆すべきは、神社でありながら大日如来像(茨城県指定有形文化財)や阿弥陀如来像(日立市指定文化財)が現在も祀られているという事実。
まさに「神仏を祀る唯一の社」。

この重層性を体感するために、いざ参拝へ。
白の鳥居から三本杉へ──森に迎えられる感覚
関東とはいえ、御岩神社は意外と大遠征です。
朝イチの始発で出ても、到着までざっくり4時間ほどかかります。
まさかの、関西遠征よりも時間がかかるとは思いもよらず。が、しかし、「いつかね」と言ってたら永遠にその日は来ないので、タイミングでうかがうことにしました。
白の鳥居をくぐった瞬間、すっきりとした清々しさが全身を包みます。

まず祓戸神社で初めましてのご挨拶と祓い清めをお願いし、参道を進み、愛宕神社へ。新しいお社のようで、新たなはじまりを感じます。


愛宕さんの総本宮への登拝を思い出しつつ、御岩山にも愛宕の火伏の信仰が息づいていることに山岳信仰のネットワークの広がりを感じます。

そして、見えてきました。
三本杉。
推定樹齢600年以上。樹高約50m(一説には約61.3m)、幹周8.48m。
地上約3mのところから幹が三本に分かれるその姿は、圧倒的な生命力そのもの。

〈考察① 三本杉と天狗伝説──修験道の山としての御岩山〉
この三本杉には「天狗杉」という異名があります。
伝説によれば、昔むかし、木の三叉のところに天狗が棲んでいて、罪多き人々を境内へ通さないようにし、村人たちから畏れられていたと。
天狗といえば修験道。御岩山は中世から修験者の行場として知られており、この天狗伝説は修行中の山伏たちの存在が伝説化したものと考えられています。
さらに江戸時代、水戸藩初代藩主・徳川頼房が出羽三山をこの地に勧請し、御岩山を水戸藩の「国峰」と定めています。
境内内御神木に出羽三山の注連縄の札がかけられているのはその名残であり、御岩山が羽黒・月山・湯殿の三山信仰を包含する霊場として位置づけられていたことを今に伝えるもの。この注連縄の札を目にしたとき、後述する「御岩大権現」の歴史と一本の線でつながっていく感覚がありました。

天狗伝説、出羽三山勧請、修験の行場──これらを重ね合わせると、御岩山は孤立した聖地ではなく、日光山や筑波山、さらには出羽三山へと連なる広域的な山岳修験ネットワークの結節点として機能していた可能性が浮かび上がります。
三本杉が「三幹」であることにも注目したい点です。
根元から一株が分かれたのか、三本の株が成長に伴い根元で癒着したのかは判然としないそうですが、いずれにせよ「分かれて、なお一つ」というその在り方そのものが、この山の信仰の本質──神も仏も、分かれてなお一つの根で繋がっている──を象徴しているように思えてなりません。
楼門をくぐる──日天と月天、陰陽の結界
三本杉の先に見えてくるのが楼門です。
正式には大仁王門とも称され、左右に阿吽の金剛力士像が安置されています。

この仁王門は明治の廃仏毀釈で一度は取り壊されましたが、平成3年(1991年)に再建。金剛力士像は当時のものがそのまま安置されているとのこと。時を越えて現代を見守るお姿をじっくり拝しました。
扁額には「萬世泰國」の文字。徳川斉正公(第10代水戸藩主)の筆と伝わり、徳川紋もちろっと見えます。

そして楼門で特に心を打たれたのが、天井に描かれた日天月天図。
入り口側には日天。
裏側には月天。


〈考察② 楼門の日天月天図に映る陰陽の宇宙観〉
日天(Sūrya)と月天(Candra)は、仏教における十二天の一つであり、それぞれ太陽と月を神格化した護法善神です。
密教の胎蔵界曼荼羅にも配される存在で、本来は仏教の世界観に属するもの。
ところがこの日天月天図が安置されているのは、神社の楼門の天井。
ここに御岩神社の神仏習合のありようが端的に表れています。
太陽と月、昼と夜、陽と陰。
この対の構造は、陰陽思想とも直接的に呼応します。そして密教的な宇宙観における日天月天は、単なる天体崇拝ではなく、「宇宙そのものの運行秩序」を象徴するものです。

この日天月天図を拝見して感じたのは、「自然との一体感」を超えた宇宙的な視座です。
この世界を構成する陰と陽の要素は、すべての枠──神と仏、聖と俗、生と死──を超えたところで一つに調和している。光も影もまたすべてが在るを映しているような、そんな感じがします。
まさに、宇宙の調べ。
楼門をくぐった先に広がる杉並木は、一気に空気が変わります。
どことなく戸隠神社の奧社参道を思い起こさせる凛とした深さ。結界の内側に入った、という感覚が身体の底から湧き上がりました。
御岩山におられる188柱の神仏が描かれた「御岩山霊場図」を公式HPで確認することができます。
参道脇には各時代で御岩山について詠まれた名句が石に刻まれていたり、苔むした景色とともに歴史の厚みを感じるエリアです。

常陸國風土記の碑を拝し、江戸時代の絵図を確認すると、かつての御岩山の堂宇配置が見えてきます。「御岩神社」「賀毗禮神宮」という表記とともに、昔むかしのお堂群が記されているのが非常に興味深い。

さらに進むと、不動明王さまと小さな滝のある場所。
混んでなかったらこの場所でゆっくりしたかった。。。

八大龍王さまと不動明王さまが並ぶこのエリアには、水と火、護法と調伏の力が凝縮されている感覚があります。
斎神社回向殿、大日堂へ──神仏混淆の核心
参拝道を進み、その先の階段を上がります。


斎神社 回向殿──神仏混淆の社
階段の先には、境内社の斎神社回向殿。
ここは、まさに御岩神社が「神仏を祀る唯一の社」であることを最も端的に体感できる場所です。
「神仏混淆の社」という表示がなされているこの回向殿には、神と仏が文字通り同じ屋根の下に祀られています。

御祭神:
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
八衢比古神(やちまたひこのかみ)
八衢比賣神(やちまたひめのかみ)
御本尊:
大日如来(茨城県指定有形文化財)
阿弥陀如来(日立市指定文化財)
造化三神と道祖神が祀られるとともに、密教の最高仏である大日如来と、死者の菩提を祈る本尊としての阿弥陀如来が併せ祀られています。
御簾の先に阿弥陀如来さまがいらっしゃるこの空間は、神道と仏教の境界そのものが溶解している場です。

天井には御岩山龍雲図。
御岩神社の龍神信仰に基づき、水を司る龍神が雨を降らせるがごとく仏の教え・神の道を広く行き渡らせ、また御岩山の神域全体を火の災いから護る意味を持つと伝えられています。
回向殿の脇には四国霊場諸仏が祀られています。
四国八十八箇所のお寺を巡る遍路の功徳を、この地でも積むことができるように祀られたものですが、神仏分離令で一度は取り払われ土に埋もれていたものを、先々代の宮司が掘り起こし改めて祀り直したと伝わります。

すべてが揃ってはいないけれど、この地で再び陽の目を見ている。苦境にも負けない静かな力が宿っているように思えます。
また、回向殿にも大日堂にも、三つ葉葵の紋。
水戸徳川家との深い結びつきを今に伝えています。


大日堂──胎蔵界大日如来と天井画「宇宙」
大日堂には、江戸期において「御岩大権現」の御本尊として篤く信仰された胎蔵界大日如来さまがいらっしゃいます。鎌倉時代の作とされるこの像は、通常は扉が閉ざされ、正月期間と春秋の回向祭の折にのみ御開帳されます。
堂内には「日本の四季」の障壁画、さらには天井画「宇宙」が奉納されています。
胎蔵界大日如来の前に「宇宙」が描かれているということの意味──大日如来そのものが密教においては宇宙の根源仏であり、その存在の象徴が天井から見下ろしているのです。楼門の日天月天図と響き合うように、この一山全体が宇宙の縮図として構想されていることを感じます。

〈考察③ 水戸藩の神仏分離と「なお残る仏」──大日如来御開帳と回向祭の意味〉
御岩神社の歴史を語るうえで避けて通れないのが、水戸藩との関係、そして二度の神仏分離です。
まず、御岩山と水戸藩の関わりを時系列で整理しておきます。
寛永7年(1630年)、初代藩主・徳川頼房が出羽三山をこの地に勧請し、水戸藩の国峰と定めました。その後、第2代藩主・徳川光圀の尊慮により、大日如来を本地とする「御岩大権現」に改称。御岩大権現と奥宮かびれ大神宮は水戸藩の祈願所として定められ、歴代藩主は参拝するのを常例としました。社殿の維持管理から、参拝者より徴収する「山役銭」(一種の税金)の管理まで、すべて水戸藩によって行われたと伝わります。
また光圀は、明暦3年(1657年)2月11日、奥宮かびれ大神宮にて『大日本史』編纂の祈願「筆初めの儀」を執り行いました。風土記に記された太古の聖地で、歴史書の筆を起こすこと。
光圀のこの選択に、かびれの高峰が持つ根源的な力への信頼を見る思いがします。
さて、その水戸藩のもとで最初の神仏分離が起こります。
第9代藩主・徳川斉昭が敬神廃仏の方針のもと、御岩神社を唯一神道に改め、僧侶・修験の神社奉仕を禁じました。これは明治の神仏判然令(慶応4年・1868年)に先立つこと約30年、全国でも極めて早い神仏分離の実行でした。
二度目が、その明治の廃仏毀釈。
大日堂、仁王門、観音堂、念仏堂などが取り壊されました。
ところがそれでもなお、大日如来像も阿弥陀如来像も残ったのです。
そして四国霊場諸仏は土中から掘り起こされて再び祀られます。
二度にわたる分離の嵐を越えて、なお仏が残り、なお掘り起こされて祀り直される。これは政策の不徹底で片づけられる話ではないでしょう。
回向祭は、春と秋の年2回行われる宗教宗派を超えた鎮魂の祭礼であり、御岩神社特有の祭事です。
「回向」とは仏教用語で、自らの功徳を他者(特に亡き人)に振り向ける行為を指します。
神社の祭事に「回向」の名が冠されていること自体が、この場所の信仰が「分離以前」の在り方をいまも内側から保ち続けていることの証にほかなりません。
個人的に感じた部分となりますが、御岩山という霊山そのものが持つ求心力が、時の政策をも超えて神仏を再び一つにまとめ上げた──そういう「場の力」が、ここにはあるのだと感じます。
朱の御神橋を渡り、注連縄の狛犬に迎えられて、拝殿へ。

拝殿
御祭神は以下のとおり。
国之常立神
大国主神
伊邪那岐神
伊邪那美神
大山祗神
ほか22柱(御岩山総祭神188柱)

装飾的なものは最小限で、ただそこに在る。
なのに力強さが満ちている。
拝殿の近くには姥神さま。「元御岩山結界石像」とあり、この山域の結界を守ってきた存在であることがうかがえます。

稲荷神社は「稲荷総社」として祀られています。

また、裏手には「八大龍王神」の社。
有り難く手を合わせます。


表参道を登拝──結界の先、太古の地層を踏みしめて
そして、いよいよ御岩山への登拝が始まります。


表参道から登り、裏参道で降りるのが基本ルート。
拝殿からかびれ神宮まで約25分、さらに山頂の賀毗礼之高峯まで約15分。
片道40分弱の道のりです。
結界を経て山道に入ると、地層の表示が現れます。
白亜紀の地層。そしてさらに──カンブリア紀の地層。
「日本最古」と記されています。


この深い深い緑と太古の水と大地が重なり合うなかで、人はいったいどんな進化をしたのだろう。


地球をしっかりと抱きしめて、生命をつなぐこと。
大切なことは、目の前にある。
なぜ、気づかないのか。磨いたら、きっと光る。
大地に根ざすは、岩盤のように固く強いこころざし。
信じて、時間をかけているものは、忘れてはならないもの。

一歩一歩進む。
光が差し込んでいないのに、なぜかほのかな眩さを感じる。

そして岩肌が見えてくる。
その上に根が深く支えられていて、まさにお互いが誰かの存在を必要としているかのように。

どんな存在も「その意味」ではなく、その「在り方」「存在そのもの」が素晴らしいと思えてくる。
そのみんなの力が合わさったら、さらにスゴいことになる。
意識せずとも、足は向かう先を知っている。

そして──
視界がひらけた先に、柔らかな空気を含んでいるかのようなお社が見えてきます。
かびれ神宮──祈りの原点
空から抜けるように切り拓かれた空間に鎮座する
かびれ神宮(賀毗禮神宮)。

御祭神:
天照大神
邇邇藝命
立速日男命
ここはまさに、時を超え、時代を見守りながら、われわれのすべてをみている場所。
手前には「今上石」──祭祀が行われていたであろう磐座です。
祈りの原点を感じます。
神と仏と。天神地祇と。


この場所に着いたとき、ちょうど雨がやってきました。
すべてが新たな息とともに生まれ変わっていくかのようで、祓い清められるは人のおこない。ただ、祈りの先に光はある。
素晴らしい、ということばでは言い表せないぐらいの「意」を感じる瞬間でした。

〈考察④ 常陸国風土記と立速日男命──「賀毗礼の高峰」の原初祭祀と東国の神々〉
かびれ神宮の祭神に名を連ねる立速日男命(たちはやひをのみこと)は、きわめて謎の多い神です。
『常陸国風土記』と『百家系図稿』以外に記載が見られず、別名を速経和気命(はやふわけのみこと)といいます。この名は「速く光るもの」を意味し、雷神と考えられています。
常陸国風土記の久慈郡の条には、以下のような説話が記されています。
薩都(現在の常陸太田市里野宮)からみて東の大きな山を「賀毘礼の高峰」と呼んでいる。この地に立速日男命が降り立ったが、村人が大小便をしたことにお怒りになり、災いや病をもたらした。
天皇は片岡の大連を遣わし、大連はこの神を敬い祀って「高い山の清浄なところにお鎮まりください」と祈った。
すると神は聞き入れ、賀毘礼の峰に登った──。
この説話の構造は、在地の荒ぶる神を中央から派遣された人物が丁重に鎮め祀るという、古代日本における国家と在地信仰の交渉パターンの典型です。
注目すべきは、立速日男命が「追い払われた」のではなく、「より高く清浄な場所に自ら昇った」と語られている点。
これは弾圧ではなく昇格であり、在地神への畏敬がこの説話の根底に流れていることを示しています。
この立速日男命の性格をさらに深掘りしてみると、風土記の記述からいくつかのことが読み取れます。
まず、立速日男命は天津神(おそらく太陽神的性格を持つ)であり、非常に気性の荒い神であること。
「ハヤフ」の「フ」は刀に通じるとも解され、武神的性格が想起されます。
さらに、天より降って松の木に宿ったという伝承は落雷を象徴するものとも読め、雷神としての性格が浮かび上がります。
ここで、考察ですが、ここで気になるのは東国三社──鹿島神宮(タケミカヅチ命)、香取神宮(フツヌシ命)、息栖神社──との関連です。
雷神としてのタケミカヅチ命、刀剣に通じるフツヌシ命。
立速日男命の神格には、東国三社の神々を彷彿させるものがあります。
常陸国という土地において、立速日男命がかびれ神宮(表参道の奧宮)と薩都神社中宮(裏参道の奧宮)の双方に祀られているのは、この神が東国の信仰体系において極めて重要な位置にあることを示しているように感じます。
なお「薩都の里」の語源についても触れてきます。
常陸国風土記によれば、いにしえにこの地には「国栖(くず)」と呼ばれる民がおり、「土雲」と称されていたとあります。
その土雲が滅ぼされたのち「幸いかな(さつ)」と言ったことばが「佐都」の語源になったとされています。
征服と鎮魂、荒ぶる力とそれを受け入れる大地──この土地の信仰には、そうした古層が幾重にも堆積しているのです。
第2代水戸藩主・徳川光圀は、このかびれ神宮で『大日本史』の「筆初めの儀」を執り行いました。風土記に記された太古の聖地で歴史書の筆を起こすという選択。それは、祈願というものを超えた、東国の信仰の原点に自らを刻む行為だったのではないでしょうか。
賀毗礼之高峯──山頂の磐座と5億年の大地
かびれ神宮からさらに登ると、賀毗礼之高峯(御岩山山頂)に到達します。


御岩山山頂、賀毗礼之高峯。
ここからの景色に、山や地球の息吹を感じます。
立ち昇る白の空気は、「生きることが素晴らしいよ」と語りかけてくるかのよう。

そして目の前にそびえる巨大な磐座。光を放つかのように感じられるから不思議です。
ちなみにこの山頂に立つと、どちらを向いて参拝すればよいのか分からなくなる、という感覚があります。
それもそのはずで、この場所全体が巨大な岩山であり、いわば御神体の上に載っているような状態なのです。

〈考察⑤ 5億年のカンブリア紀地層と磐座──大地の記憶に触れるということ〉
登拝の途中で実際に「白亜紀の地層」「カンブリア紀の地層──日本最古」という表示に出会いました。これは比喩ではなく、文字通りの事実です。
御岩山を含む日立市周辺の多賀山地には、約5億年前のカンブリア紀の地層(日立変成岩)が広がっています。
2008年、茨城大学の田切美智雄教授(当時)の研究チームにより、日立市の山に広く連なる赤沢層全体が約5億年前のカンブリア紀のものであることが確認されました。
2014年にはさらに古い5億3300万年前の銅鉱石が発見され、日本最古の地層の年代値が更新されています。
カンブリア紀の地層が60㎢以上にわたって広がっているのは、日本ではこの日立市から常陸太田市にかけての地域だけです。かつて存在したゴンドワナ超大陸の東端に位置していた岩の連なりが、長い時間をかけて現在の日立へとたどり着いたと考えられており、5億年分の変形を受けた岩石の表面にはシワのような痕跡が残されています。

5億年前──カンブリア爆発と呼ばれる生物の爆発的多様化が起きた時代。
恐竜どころか、脊椎動物すらまだ本格的には登場していない。海の中で三葉虫たちが繁栄していた頃の地層を、わたしたちはいま踏みしめている。
古代の人々がカンブリア紀を知っていたわけではありません。
けれど、明らかに他とは異なる岩質、岩肌、そして山容を、彼らは身体で感受していたはずです。
山頂の巨大な磐座に手を合わせるとき、
ふれているのは「石」ではなく、5億年という時間そのもの。
なぜこの山が選ばれたのか。
なぜここに「天つ神が鎮まる」と感じられたのか。
縄文の人々が御岩山の岩に触れたとき、言語化できない「この大地は何か違う」という身体感覚があったのではないでしょうか。
5億年分の変成を重ねた岩石が発する気配のようなもの。それは科学的な用語では「地質学的特異性」と呼ばれるものかもしれません。けれど、祈る人の身体にとっては、それこそが聖なるものの根拠として受け取ることとなったのかもしれません。
ここで、個人的に感じたのは、御岩山は「信仰が大地を聖地にした」のではなく、「大地の異質さが信仰を生んだ」──その順序が逆である可能性を示唆する、きわめて稀有な場所だと感じています。
登拝中にふと振り返って思い出したのが、関東三十六不動巡礼の途中に参拝した栃木県の大岩山毘沙門天でした。
当時の北限、都から北はまだまだ未開の地であった時代。Oiwa(御岩)とOoiwa(大岩)──なぜか韻を踏んでいる。
そして地図で確認すると、御岩神社のほうがさらに「北」にあり、東国の霊場が北へ北へと連なっていく、その最前線にこの山があった可能性を考えると、5億年の地層の上に立つ意味がさらに重く感じられます。
裏参道の奧宮へ──薩都神社中宮と三宝荒神

山頂から裏参道を下ります。

薩都神社中宮──風土記の説話が今に生きる場所
薩都神社中宮は、常陸太田市里野宮町の薩都神社(延喜式内社)の奥宮にあたります。

御祭神:
立速日男命(たちはやひをのみこと)
里宮の情報によれば、「佐都の里における開拓の祖神」とあり、つまるところ地主の土地神さまなのだと思います。
表参道の奧宮であるかびれ神宮にも立速日男命は祀られており、表と裏、両方の奧宮にこの神が鎮座しているという構造は、御岩山全体が立速日男命の神域であることを示しています。
風土記に語られた「賀毗礼の峰に登った」立速日男命が、まさにここに鎮まっている。1300年前の説話がそのまま地形と信仰に刻まれていることを体感させる場所です。

三宝荒神──火と水の交差点
薩都神社中宮の先には、三宝荒神の御社があります。
火の神であり、竈の神。

その背後には、清らかな水の流れが心地よく響きます。
火を司る荒神と、水の音。
対極にあるものが同じ場所に在る。
御岩山という霊場の構造が、ここでもまた「対のものを包み込む」という一貫した原理を見せてくれています。
裏参道を下山していくと、恵みの水が湛えられ、御岩山の森の生命エネルギーがどこまでも輝いていることを実感します。

再びの登拝──春季回向祭にて
初回の参拝から半年ほどのち、春季回向祭のタイミングで再び御岩神社を訪れました。
今回の目的は三つ。
先祖供養、大日如来さまの御開帳、そして奧宮への登拝。
春季回向祭・秋季回向祭(年2回)では大日如来像の御開帳あり。
日程は公式サイトでご確認を。

大日堂で拝した大日如来さまの存在感は、言葉にするのがためらわれるほどでした。
鎌倉時代の作とされるこの像が、二度の神仏分離を超えて今ここに在る。
その事実の重みを、御開帳の空間で全身に浴びるような体験でした。
先祖供養の塔婆のようなものがめっちゃ独特で、「これはしっかりとお願いしよう」と心から思いました。
この日は地元で御岩神社通の方にご一緒いただき、前回ご挨拶できていなかった場所にもご案内いただきました。
御嶽神社、そして御岩山からさらに足を伸ばして神峰神社、神峰山山頂。



三本杉に一番近くで拝するポイントもあらためて知り、生きるエネルギーの輝きを間近で受け取りました。
最後の最後には、弁天社と阿夫利神社にもご挨拶。
境内を後にするとき、ふと目に入ったのは「神徳」の二文字でした。

神仏さまの広大なる意を、われわれはどう受け止めるのか。
それは、どんなふうに生かされていくのか。
惟神霊幸倍坐世 かむながらたまちはへませ
遥か、いにしえの想いを違わずに感じられる在り方でいたいものです。
おわりに──「在る」ということの途方もなさ
御岩山を2度歩いて、わたしのなかに残ったのは「在る」ということの途方もなさでした。
5億年前の地層が在る。
縄文の祭祀遺跡が在る。
風土記に記された神話が、いまも地形として在る。
天狗が棲んだ杉が在る。
二度の神仏分離を超えて仏像が在る。
神と仏が同じ屋根の下に在る。
土に埋もれた諸仏が掘り起こされて、再び在る。
そしてなにより、それらのすべてを抱く御岩山という霊山が、いま、在る。
初回参拝の翌日、不思議な夢を見ました。
いつもは見ないのに、しかも細かい動作まで覚えている。
大きく切り替わった感じのする夢だったのです。
山頂の磐座に手を合わせたとき、あの巨大な岩が放っていた光のようなものは、もしかしたら5億年分の「在り続けた力」そのものだったのかもしれません。
わたしたちもまた、在る。
ただ在ることが、どれほど途方もないことか。
御岩山は、そのシンプルな事実をからだごと教えてくれる場所なのです。

では。
いつも、ありがとう^^
@Rico
幸せは自分のために
世界が平和であるために
