hsp71歳 チャンスの神様の髪を離さなかった47歳の春
ようこそおいでくださいました🙇
支援員は、夏休み中のGreenSailです
今日は、
アメリカ研修ご招待切符を手にしたものの・・
の、続きを書こうと思います。
最後まで読んでいただけるとうれしいです💕
「私、行きます!」アメリカへ
と言ったものの、家族に了承を得ていないことを思い出し
落ち着かない気持ちで夕方帰宅。
たまたまこの日は幸か不幸か?家族四人揃っての夕食だった。(私、夫、娘、私の母の4人家族)
食べている間も、いつ言い出そうかと気が気じゃない。味がよく分からない😅
でも、この難関を突破しなければアメリカ研修に行けない。
食べ終わった頃を見計らって切り出す。
「うちの学校に、毎年アメリカから先生たち来てるやろ。
こっちからも1人行けるんやけど、
今年が最終回で。
(深呼吸)
行ってもいい?」
行ってもいい?じゃないんだけど。
もう、「行きます」って言っちゃったんだけど。
母「え〜〜!行けるの?行っておいでよ。チャンスやん。」
あれ? 1つ目の難関クリア。
アッサリと。
◯◯さん(夫の名前)さえ良ければ。」
あ〜、そっちか。
そうだよね。
夫 「行ったらアカンて言うても行くんやろ?」
こわいよ~、その言い方。
もう決めました、とも言えないし。
なんて言おう。
その時、黙って聞いていた娘が食器をシンクに運びながら言った。
「お母さん、行ってきて。」
キッパリとしたその声に、私は驚いた。
「お婆ちゃんとお父さんのことは任しといて。家のことは気にせんでいいから。」
その一言で、それまで張り詰めていた空気がふっとゆるんだ。部屋の中にもホッとした雰囲気が流れる。
ああ、やれやれ。
私は椅子に座り直して気がついた。
握りしめた手の中に、まだチャンスの神様の髪が残っていたことに。
一人娘は、その時21歳。大学生だった。娘が5歳の時に、結婚前の約束通り私の母と同居生活に踏み切った。
そうでなければ、私がフルタイムで働くことはもう心身ともに無理だったし、シングルマザーで二人の娘を育て上げた母もそれ以上働き続けることは無理で(パソコンが導入されて、母の算盤と手書きの計算票が不要になってきたのも理由だった)、夫の両親も了解の上での同居だった。
しかし、愛着障害気味で私を離そうとしない母と、真面目だけど無口で気難しいところにある夫との生活は、なんとなくの緊張感も高かったと思う。
学校の仕事も家も、波風立てることなく順調にやりたいと願うあまり、どうしても無理を重ねてしまっていたのか
私は37歳の冬と、44歳の夏に、二度の入院と手術を経験していた。
2回目の手術の後、婦人科の看護婦長さん(当時は、そう呼んでいた)が私に言った。
「女性が働くことは、まだまだ大変ですね。入院されるたいていの女性を診ていると、本当に疲れ切るまで働いてこられたんだなあと思います。だから、入院している間、皆さんとてもよく寝られます。
あなたも今回の入院は休養の機会と思って、これからは自分を労りながら働いてくださいね。
自分が人生を楽しむことも必要ですしね。」
と。
ベッドで点滴しながらその話を聞いて、涙が溢れて止まらなかったことを思い出す。
それから、退院してしばらくした時に、職場の大先輩に英会話を勧められた。
そして、子育てもボチボチ終わりかけの同僚たちと、少しずつ楽しむことを始めたのだった。
それがゴルフやグァム島への旅行だった。
娘は、娘で
「お母さんてさ、いつも天然で元気そうに見えるけど、あのお婆ちゃんと、あのお父さんの間でけっこう苦労してるんと違う?」と高校生の頃に聞いてきたことがあった。
だから、英会話を始めるときも、そしてアメリカ研修も、私を応援してくれたんだと思う。
16日間の研修は、知らない土地への憧れと同時に、結婚以来、夫と母の間で必要以上に気を使ってきた自分を解放できる!という思いもあって
どうしても叶えたかったのかも知れなかった。
「あなたがいらっしゃい。」
「お母さん、行ってきて。」
これらの言葉に励まされた。
行かせてもらいます。
私は、神様の髪をもう一度握りしめた。
その日から何日かして、
大学教授からメールが届いた。
「研修のテーマを考えておいてください。帰国後、A410枚程度のレポートを書いてもらうのが条件です。」
メールを読み終えた私は、ほとんど迷わなかった。
すぐに決めた。
「47歳の旅立ち
一私自身の総合学習として一」
あれから、もう24年。
それでも、あの日のことは昨日のことのように思い出します。
アメリカで見たもの、出会った人たち、そして帰国後に私の中で起こった変化。
この続きは、またゆっくり書いていこうと思います。
最後まで読んで下さってありがとうございました💖
