InsideReport _001 【メメントモリ(死を想え。)】
きっかけは「ぶっ殺す」の一言
奥さんが何気ない会話の中でこんな事を言った。
「中学生が大きな声でコンビニのなかで
「ぶっ殺すぞ」という言葉を言ってるのを聞いたの。」
驚いた。
普段はまず、聞くことのない言葉だったからだ。
通りすがりだったから、引き留めるか迷っている間に遠くに消えていってしまったらしい。
「おれなら呼び止めてブツブツ言っちゃいそう。」
とはいったものの、すごく引っかかる。
何だかとてもとても
遠い記憶が蘇る。
人はいつか死ぬ。
それは、間違いのないこと。
むしろ、俺も。
今この文章を読んでいるかもしらないあなたも 。
その、周りの人達も。
もしかしたら明日死ぬかもしれない。
産まれてきたからには死は平等に訪れる。
そう、思わぬタイミングで人は死ぬんだ。
なぜか、何の因果なのか
これまでの人生の中で多くの死を身近に感じてきた経験がある。
だからこそ、お盆の阿波踊りは
特別なパワーを感じるし、血が湧き肉が躍るのだろう。
もしかしたら、どこかで一緒に、踊ってるかもしれない。
今はもうこの世には居ない友人達。先輩。師匠達。
もし、生きてたら。。
どんな話をして、どんなふうに話をしたんだろう。
正反対な友人
何をするにも正反対なやつがいた。
だからよく喧嘩もした。
父親がお巡りさんなそいつ。
とにかくいつも勉強を怠らない。
絵に描いたようなマジメなヒトで、スポーツもとにかく努力をするヒト。
根がマジメだから少しフザケてもスグに怒る。
かく言う俺は
勉強はしない、スポーツも苦手。
とにかく努力からできるだけ逃げる。
根が弱いからすぐに面白い方向に走る。
コミュ力だけで生きて来たような
嫌な子供だった(笑)
(あまり今も変わらないかも)
正反対な2人はとにかくいつも喧嘩になった。
ディベートの時間になると絶対に反対側にすわっていた。
もう「てめぇ真正面に、座ってんじゃねえよ」
な感じだ。
だけど、子供の頃はよく遊んだんだ。
人数が少ない学校であったからかもしれないが
喧嘩しながらそいつの家でマリオカートをしていたのを覚えてる。
お母さんは絶対にジュースをくれる(笑)
不思議と居心地の良いやつだった。
赤鬼
そいつの親父さんは街の駐在さん。
駐在さんではあるが、おそらく元はマル暴さん。
要するに交通機動隊だ。白い単車にライダーマンのような出で立ちで町内を警邏しているのを
よく見かけた。
PTA活動にも積極的に参加し。
ママさんバレーやスポ少バレーもコーチをしていた。
いやいやよく怒られた。
ほんとによく怒られた。
だからすごく嫌いだった。
見かけたら隠れるほどに(笑)
コンビニで立ち読みをしてたら怒られ。
(これは他の保護者にもよく怒られてた。)
夜に出歩いてるのがバレて怒られ。
田んぼの水を勝手に操作しては大目玉をくらい。
線路の上を「スタンドバイミー」を歌いながら歩いてたらすごい剣幕で走ってきて怒られた。
でも絶対に親や学校に言いつけたりはしなかった。
中学に入り少しグチャグチャになってた時も
「敬太!」と絶対に名前を呼んでくれて、とにかく真正面に立ち、仁王立ちでコンコンと怒ってくる。
夏は日焼けで真っ赤だったから子供ながらにつけたあだ名は
「赤鬼」だった。
疎遠になっていった中学生
中学に上がると小学校が3つ交わる。
とはいったものの、一学年2クラス。
人数の少ない学校であったから不思議と部活は絶対に加入だ。
中の良いやつは大体サッカー部か、野球部に所属した。
密かに一つしかない文化部を狙っていたのだが
「声がでかい」という理由だけで野球部に入る事になった。
そして、やはりそいつもそこに居た。
野球部は人数も少く弱かったのだけど。
俺達の代で随分と体力もパワーも強いメンバーが揃った様に思う。
ただ残念だったのが
素行の悪いやつが揃ってしまったことだった。
何故か別れていくグループ
時代的に今はもうそんな事無いかもだけど
マジメなグループ。
イケてる子達のグループ。
少ないヤンチャなグループ。
ある種のコミュニティ形成が急に起きてくる。
人数の少ない学校の中、さらにコミュニティが分かれるのだからまあ肩身のせまいこと。
もともと コミュニティ横断型の性格ではあったはずなのに
家庭の環境もあったせいか
中学1年、2年と随分とギラギラしてしまっていた。暗黒時代だったと思う。
家庭や周りの環境のせいにしたくなる。
穴があったら入りたい。。。
カバンに落書きをし、
カラーギャングのステッカーを貼りまくり、
眉毛を半分落とし、昼休みになると部室の裏にすぐにタバコを吸いにいく。
(女子からはタバコ臭いと嫌われていた)
学ランのボタンはすべて違う学校のボタンになっていき
ズボンは少しずつ太くなっていく。
隣の愛媛県に従兄弟がいてそこの先輩達や友達と良く行動を共にした。
程よく暴走族もカラーギャングもいて
スリル満点な日々に溺れていった。
かたや正反対の彼は、
守れる校則は全てをもれなく守る。
学ランのホックは外した事もなかったんじゃないだろうか。
ズボンの織はキチッと付いていて裾の丈はズレたところをみたことがない
中学に入りついたあだ名は「裾」と呼ばれていた。
そ
部活は仕方なく出た。顧問が怖かった事もあるが
気になってた子とバスの時間が被るからだ。
ただそれだけのために行ってた。
3キロの外周コースのショートカットを
すぐに思いつき10分で終わらせることができるから
途中の畔道で昼寝をして1時間掛かってしまった事がある。
あいつは全力で日々参加し、
2年の後半では副キャプテンになっていた。
部活の前に絶対に
「敬太、今日は頑張ろうな!」とか言ってくる。
思春期だったからかなぁ。
大嫌いだった。
言ってはいけなかった一言。
中学前半は
とにかくイライラしてた。
ずっと貧乏ゆすりをしていた。
部室の裏でタバコを吸ったり
落書きをしたりが、ばれて問題になった。
そして、日々の不真面目さを見かねて
文句を言ってきた3年の先輩を水筒で殴ってしまった事があった。
大きな問題にはならなかったが、
「いいかげんにしろよ」と注意してきたアイツに凄んで
あの一言を言ってしまった。
内心「あっやべっ。」
と、思ったが引くに引けず。
その時はケンカにすらならなかった。
気まずさだけがそこにはあって。
ツラそうな顔をしたそいつの表情は、今でもほんとにたまに脳裏に蘇る。
それから気まずくなって
お互いあまり話をしなくなった。
家の状況もあり、俺は部活をやめた。
別々の道へ
中3頃から落ち着きを取り戻した俺は
不真面目ながらも、友達や先生にもあまり噛み付く事はなくなった。
きっかけは、あの一言だったように今となっては思う。
高校は近くの農業高校へ。
あいつは徳島の真反対にある寮のある学校へ。
最後まで深く話をする間もなく卒業していった。
それから高校に入っていくつもの転機が訪れる。
一つは家庭のこと。
2つ目は将来のこと。
テキトーに生きてしまった中学時代の、ツケが回ってきたかのように。
将来設計も含めて
何もかもが崩れ落ちたことがあった。
俺にとっては「頑張るしかない」状況に立たされた。
いや。
「頑張ることを知るための舞台」にようやく立つことが出来たのかもしれない。
不真面目なのはあまり変わらなかったが
生活の状況も相まって「アルバイト」に精を出しまくるしか無くなったのだ。
そこでは本当にいい大人に出会えた。
というより
「これまでずっといい大人に出会えていたこと」
にようやく気付く事が出来た。
一度見失った目標。
新しく旗が見えた時、走ろうとする道は
自分で決める事ができる。
不真面目に上手いこと遊びながら
将来を意識して学校では生徒会に入った。
「上手いこと遊び、学校でも、バイトでも本気でぶつかれる。」
そう思った矢先に
ある知らせが飛び込んで来た。
「人は死ぬ。」
母親から泣きながら電話がかかってきた。
「落ち着いて聞きなさい。〇〇がバイクでトラックと接触して事故にあった。明日お葬式がある。」
息が止まった。過呼吸になった。
そんな様子を見かねたスタッフに
バイトを上がらせてもらい早めに寝た。
学校には、呼吸が落ち着いたタイミングで休む旨を連絡した。
そんなこと、あるはずがないと思っていた。
その日は1日眠れなかった。
なのに何でか、涙がでない。
全然実感が湧かなかったからだ。
次の日は、多分親に式場まで送ってもらった。
何かいっぱい声をかけられていたけど
その時のことは何一つ憶えてはない。
ただ憶えていたのは
言いしれぬ感情。なぜだか沸く行き先のない怒り。
ただただ「ブチギレそう」だったことと、
イライラも、極限だったのに何でか
「タバコが吸えなかったこと」だけ覚えてる。
式場についた。足取りが重い。
同級生達がいる。
みんな、泣いてる。
手がふるえる。
顔が上げられない。
列の先には赤鬼とそいつのお母さんと妹と弟がいた。
赤鬼が俺を見た途端泣き崩れた。
お母さんもハンカチで顔を、押さえて言葉が出なくなっていた。
「敬太の話をずっとしてた。」
「あいつ、めっちゃ頑張ってるらしい。だから俺も頑張るって。」
溢れてきた。言葉が出なかった。
俺は勝手にすねていただけだったのだ。
ずっと許してくれていた。
ずっと応援してくれていた。
俺は忘れようとしていた。
吐き捨てた言葉を。
俺は忘れようとしていた。
言葉の持つ重みを
赤鬼は肩を抱きしめてくれた。
「頑張れよ。」だって。
涙は止まらなくなった。久しぶりにいっぱい泣いた気がした。
もうこの言葉しか、出てこなかったんだ。
「ごめんなさい」「ほんとにごめん。」
もちろん遅すぎたけど。
ちゃんと謝らないといけないと本当に思ったんだ。
そこからは、バイトも学校も本気で何かを掴もうとしに行った。
「ノリが悪くなった」と言われ始めたけど
関係無かった。
俺が23くらいになり
引っ越してしまうまで、なるべく年に1回は、手を合わせに行った。
今でもたまに、飲んでる時にふと思い出して
もう一つ杯にお酒を注ぐ。
たまに、ふと思い出す。
「俺は頑張れてるか。」
「メメントモリ」
仕事が変わり、西阿波を出て。
思いを持って専門学校に入り、バンドを始めた。
たくさんの出会いを経て、俺は親になった。
学生時代のたくさんの失敗や罪を今。
少しずつ返している。
初めて書いた歌は「メメント・モリ」という言葉にした。
死を想えというラテン語の言葉だ。
メメントモリ 終わりと共に
メメントモリ 今を感じて
メメントモリ 命を愛し
メメントモリ 夜空に溶け込もう。
今、生きている
みんなへ。
俺や君が生きている今日は。
昨日生きれなかった 「あいつ」が
生きるはずだった今日だ。
今日会えた人に
ありがとうって言え。
今日目覚めたことに心をふるわせろ。
ちいさな幸せの一つ一つが、全部奇跡なんだ。
今日も、1日の終わりに「生きててよかった」って想え。
それだけでいい。
それさえ出来たら
後は全部上手くいくのだから。
