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黄昏に飛び立つ智慧----ヘーゲルと法華経

ドイツの哲学者ヘーゲルは、『法の哲学』序文の結びで、
 
「ミネルヴァの梟は、黄昏の訪れとともに、はじめて飛び立つ」
 
と語りました。
 
智慧の女神ミネルヴァに仕える梟は、哲学の象徴です。
この言葉は、単に「物事は後になれば分かる」という意味ではありません。
 
現実や歴史は、さまざまな矛盾や対立を抱えながら動き続けています。
その渦中にいる私たちには、何が失われ、何が生まれようとしているのか、その全体像はなかなか見えません。一つの時代がある形を取り終え、昼の喧騒が黄昏の静けさへと移るころ、哲学はようやく、その歩みの意味を理解し始める――ヘーゲルは、智慧とは現実の外から答えを与えることではなく、現実がたどった道を深く見つめ、その内に働いていた意味を読み解くことだと示したのです。
 
人生もまた同じです。
苦しみのただ中にいるとき、「なぜ、このようなことが起きたのか」という問いに、すぐ答えが見つかるとは限りません。失敗や別離、理不尽な出来事を、安易に「すべて意味があった」と美化する必要もないでしょう。しかし、時間を経て別の角度から振り返ったとき、かつては絶望としか思えなかった経験が、他者の痛みを知る心や、新しい一歩を踏み出す力へと変わっていたことに気づく場合があります。
 
だからこそ、私たちは焦って「これは良い出来事だった」「これは無意味だった」と結論を下さなくてもよいのです。ただし、時間が自動的に苦しみを智慧へ変えてくれるわけではありません。憎しみに心を奪われず、「この出来事は何を問いかけているのか」と見つめ続ける、その静かな営みが必要なのです。
 
ここで法華経は、ヘーゲルとは異なる角度から、現実を見る眼を示します。
ヘーゲルが、黄昏に過去の歩みを振り返り、その意味を理解しようとしたのに対し、法華経は、今この瞬間に現れている一つ一つの存在と出来事の中に、すでに「諸法の実相」が貫かれていると説きます。
 
未来にならなければ真理が生まれないのではなく、真理はすでに現実の中にありながら、私たちにはまだ、その全体を見通すことができないのです。黄昏を待って振り返ることと、黄昏を待たず今日の現実を見つめること――この二つを同時に生きるところに、人間の智慧は育っていくのでしょう。
 
苦しみの意味を急いで決めつけず、それでも、その中に智慧と慈悲へ至る道があると信じて問い続ける。その心にこそ、黄昏を越えて飛び立つ梟の翼が、すでに静かに宿っているのかもしれません。
 
「唯だ仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」
妙法蓮華経』方便品第二

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