惜しみなく、すべてを与える----嘱累品が明かした、久遠の仏の大盤振る舞い
霊鷲山の法座が、クライマックスを迎えようとしていました。
久遠の釈尊が、法座からすっと立ち上がった。
そして右の手で、無量の菩薩たちの頭を、一人ひとり、三度にわたって撫でられた。その瞬間、法華経・嘱累品第二十二に、こんな言葉が記されています。
如来は大慈悲有って、諸の慳悋(けんりん)無く、亦畏るる所無くして、能く衆生に、仏の智慧、如来の智慧、自然の智慧を与う。如来は是れ一切衆生の大施主なり。汝等亦応に、随って如来の法を学すべし。慳悋(けんりん)を生ずること勿れ。
如来には大いなる慈悲があり、いかなる出し惜しみもなく、また何も恐れるところなく、衆生に対して、仏の智慧、如来の智慧、自然の智慧を、惜しみなく与え続けてくださる。如来はまさに、一切衆生の偉大な施し主である。あなたたちもまた、如来の法にならって学ぶべきである。
決して、出し惜しみする心を起こしてはならない。
「慳悋(けんりん)無し」という言葉に、深く打たれます。
慳悋とは、惜しんでケチをすること。
出し惜しみすること。
久遠実成の釈尊には、それが一切ない、と経典は断言しているのです。
私たちは時に、自分の持っているものを出し惜しみします。
知識も、時間も、愛情も。
もったいない、減るかもしれない、と。
しかし久遠の仏は違います。
一切の智慧を、如来の智慧を、自然の智慧を——そのすべてを、惜しみなく、恐れることなく、衆生に与え続けている。
与えても与えても、尽きることのない智慧の泉が、そこにあるのです。
これほど明るく、これほど太っ腹な存在が、この宇宙のどこにあるでしょうか。久遠実成の釈尊は、今この瞬間も、私たちに向かって、すべてを差し出し続けています。
そしてふと思うのです。
この「与えることを惜しまない」という在り方は、私たちが日々の生活の中で、目指すべき人間の姿そのものではないかと。
レオナルド・ダ・ヴィンチは手記の中に、こんな言葉を遺しています。
「充実した一日が幸せな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす」
充実した一日とは何か。
それは、自分の中にあるものを、惜しまず、恐れず、誠実に差し出した一日ではないかと思うのです。久遠の仏が智慧を惜しまないように、私たちもまた、今日という一日を、持てるものをすべて出し切る一日にしたい。そう思えたとき、久遠の仏の大慈悲と、私たちの小さな一日が、同じ光の中でつながるのではないでしょうか。
考え、歩みを進めてまいりましょう。
諸仏の智慧が、甚深無量であるように。

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