心のゆとりは、スマホの中にはなかった
最近、「心のゆとり」という言葉を聞くたびに、
僕は少し立ち止まってしまう。
時間の余裕なのか。
お金の余裕なのか。
それとも、他人に振り回されない強さのことなのか。
答えは人それぞれだろう。
けれど今の世の中を見ていると、
その「ゆとり」が、
どこか遠くに置かれてしまっている気がしてならない。
新NISAが始まって、もう3年目になる。
空前の投資ブームと言ってもいいのかもしれない。
これが文化として根づくのか、
それとも一過性の熱狂で終わるのかは、
正直、政府の方針次第にも見える。
当然、その流れは僕の身の回りにもある。
もっとも僕自身は、
次女の専門学校の学費にヒーヒー言っている状況で、
とても「余裕がある」とは言えない。
それでも、いつかは少額でもいいから、
勉強のために投資に挑戦してみたいとは思っている。
先日、職場の休憩時間のことだった。
運動不足を補おうと外で体を動かしていると、
ベンチに座った若手のA君が、
難しい顔でスマートフォンを見つめていた。
「どうかしたの?
神妙な顔して。彼女と喧嘩でもした?」
冗談交じりにそう声をかけると、
彼は少し困ったように笑って言った。
「違うんです。投資信託をしてるんですけど、
積立額を今より増やすべきか、
このままにするべきか悩んでて。
今、日本も海外も経済が安定してるじゃないですか」
若いのに、ちゃんと考えているな、と感心した。
将来、何か明確な目標があるのだろう。
そう思って聞いてみた。
すると返ってきた言葉は、
僕の想像とは少し違っていた。
「僕、40歳になったら、
もう仕事をしたくないんです。
人間関係で心をすり減らすのが嫌で。
投資でFIREして、自由に生きたいんです」
テレビで耳にする
「投資で自由になる」という考え方が、
こんなにも身近にあるのかと、
僕は少し驚いた。
同時に、胸の奥に、
小さな不安のようなものが生まれた。
彼の言葉をそのまま受け取れば、
ある程度の成果さえ出せれば、
あとは働かず、
自分のためだけに生きたい、ということになる。
自分を振り返ってみる。
僕はこれまで、
家族を路頭に迷わせたくない、
その一心で働いてきた。
今は体調を崩し、
働き方を見直している最中だけれど、
苦しい時間の中で、
人としての幅を少しは築けたのではないかと、
勝手ながら思っている。
今の日本を見渡すと、
介護、サービス業、建設、製造業。
社会を支える多くの現場で、
若者の担い手は、日本人だけではない。
インドネシア、フィリピン、ネパールetc。
働きながら技能を学ぶ実習生たちが、
現場の原動力になっている。
新聞では、日本に住む海外の方の人口が
増えていることが報じられている。
それは、誰かが悪いから起きている話ではない。
給与が低く、重労働になりやすい仕事を、
日本人が敬遠する。
割に合わないと感じるからだ。
その穴を、海外の人たちが埋めてくれている。
僕はそれを、ありがたいことだと思っている。
ただ、10年後を想像したとき、
日本の屋台骨となる産業に、
日本人がほとんどいない未来が、
ふと頭をよぎることがある。
投資は悪いことではない。
未来への備えでもある。
けれど政治は、
「賃金を上げるから働け」だけでなく、
働くことの尊さや、
誰かの生活を支える誇りを、
もっと若者に示すべきではないだろうか。
海外の人たちと共に働き、
共に社会を支えていく未来を、
本気で描く必要があると思う。
ベンチでスマートフォンを操作していたA君の目には、
今を楽しんでいる余裕は感じられなかった。
自由のために、
今を我慢し続ける、
どこか苦しそうな表情だった。
心のゆとりは、
スマホの中や、
何年後かの数字の先に、
きれいに用意されているものじゃない気がしている。
心のゆとりは、何かを早く終わらせた先じゃなく、
誰かと関わり続ける途中で、
ふと生まれるものなんじゃないだろうか。
