ボストンの古着屋で買った背広 「ISOROKU 〜The Voice in the Mirror〜第䋖話」
本作は史実に基づいておりますが、作者独自の創作や解釈を反映させたフィクションです。実在の人物の言動や心情には、物語としての脚色を含みます。歴史の息吹を感じながら、一篇の小説としてお楽しみください。
最初に気づいたのは、六月に入った朝だった。
長官室の姿見の前で軍服を整えていた。いつもと同じ朝。いつもと同じ顔。深くなった眉間の皺も、左手の欠けた指も、昨日と同じだ。
ただ、鏡の中の男が、少しだけ遅れた。
襟元を正したとき、向こうの男はまだ手を上げていなかった。ほんの一瞬——波が引くような遅れ。気のせいだと思った。疲れているのだ。最近、眠れていない。眠れる道理もなかった。
真珠湾から半年。あの朝、電信室に「トラ・トラ・トラ」の報が入ったとき、周囲は沸いた。男は黙っていた。勝ったのではない。蓋を開けたのだ。二度と閉じられない蓋を。
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男は、かつてアメリカにいた。
ハーバードの空気を吸い、デトロイトの工場を見た。テキサスの油田を見た。鉄の大地だった。あの国が本気で怒ったとき、どうなるか。知っていたのは、この艦隊の中で男だけだった。
開戦に反対した。何度も。何度も。
「アメリカと戦えば、一年やそこらは存分に暴れてご覧に入れる。しかし二年、三年となれば、まったく確信が持てぬ」
誰も聞かなかった。いや、聞いた上で、聞かなかったことにした。空気というものが、この国にはある。理屈ではなく、空気が戦争を決めた。
そして男は、その空気の先頭に立たされた。反対した男が、最も鮮やかな奇襲を設計する——これほどの皮肉があるだろうか。
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水曜の夜、大和の私室で洗面に立ったとき、また起きた。
鏡の中の男が、笑っていなかった。
男は笑っていた。少なくとも、口元を緩めていた。長年の癖だ。部下の前では、将棋を指しているときのような、余裕のある顔を作る。この男についていけば勝てる、と思わせる顔。連合艦隊司令長官の顔。
だが向こうの男は、ただ立っていた。軍服を着ていなかった。詰襟の学生服——いや、背広だった。ハーバード時代の、あの安い背広。ボストンの古着屋で買った、少し袖の長い背広だった。
目を閉じて、もう一度開けた。鏡の中の男は軍服を着ていた。いつも通りだった。
