雪見堂、凍らない願い
鍋の具は、たっぷりの白菜と豚バラ肉、椎茸と豆腐。湯気が立ち上がり、柚子の香りがふわりと漂う。
舞台は、雪国の小さな町、白雪町(しらゆきちょう)。
午後七時。白雪町は深く雪に閉ざされていた。町営バスの最終便は通り過ぎ、静寂が降り積もった雪に吸い込まれる。
「お父さん、そろそろ食べ頃じゃない?」
高校生の娘、美月(みつき)が、湯気の立つ土鍋を覗き込む。父の啓介(けいすけ)は、この街で唯一の書店「雪見堂」を営んでいる。雪が多く客足が途絶えるこの冬、この鍋は二人の温かい儀式だった。
「今日ね、美雪先生が言ってたよ。この冬は、昔この町を通り過ぎた『雪を纏う旅人』の物語を思い出すような寒さだって」
啓介は箸を止めた。その伝承は、冬に現れる旅人が、町の誰か一人にだけ凍らない「何か」を置いていき、それを持っていた家は春に大きな幸せに恵まれる、という古い話だ。
「まあ、ただの昔話さ。それより、早く食べなさい」
啓介は笑い、一番大きな椎茸を美月の小皿に乗せてやった。
次の日の朝。美月は遠征で町を出ており、啓介は一人で店番をしていた。店のストーブを点け、お茶を飲んでいると、レジ横の棚に一冊の古びた本があるのに気づいた。昨日まではなかったものだ。
表紙は和紙のような質感で、題名はないが、手に取ると驚くほど温かかった。そっと開くと、墨でたった一言だけ書かれていた。
『凍るな、熱い想い』
その文字を見た瞬間、啓介の胸に十年前に亡くなった妻の言葉が蘇った。「この町の雪は、時に人の心を凍らせるけど、美月の夢を、あなたの想いを凍らせないでね…」
啓介は、書店を守ることに必死で、妻の願い、そして自分の熱い想いを雪の下に埋もれさせていたことに気づいた。
その時、「こんにちは」という鈴のような声と共に、深い藍色の着物を着た見知らぬ老婆が店に入ってきた。
老婆は啓介の前に立ち、優しく微笑んだ。
「おや、ご立派な本屋だね。あなた様の家には凍らない『何か』がちゃんと残っていたようだ」
そして、温かい本をちらっと見た。
「それは、あの旅人が置き忘れた、心の本さ。熱い想いを綴る場所だよ」
老婆はそれだけを言うと、何も買わずに静かに雪の中へ消えていった。
その夜。美月が帰宅し、いつもの土鍋に火がかけられた。啓介は普段使わない贅沢な鶏だんごを加える。
「これからは、もっと色々なものを試してみようと思ってな。色々なものをこの鍋に入れてみよう」
啓介はあの温かい本を美月に見せ、妻の願いと老婆の話を打ち明けた。
美月は本に書かれた文字をなぞりながら、微笑んだ。
「大丈夫だよ、お父さん。私、母さんの想い、ちゃんと知ってるから。だから、私、美術大学に行く夢、絶対叶えるね」
二人は湯気の立つ鍋を囲み、心ゆくまで笑いあった。
春が来て、白雪町の雪が溶ける頃。美月は美術大学に合格し、旅立つことが決まった。啓介は、心の本に記された熱い想いを見つめ、美月の旅立ちを心から祝福する」。
今年の白雪町の春は、例年以上に温かく、新たな始まりの予感がした。
鍋の具は、土鍋に残った白菜の最後の欠片。その熱を、二人は優しく見つめていた。
同じ舞台の短編小説はコチラ
こちらの企画にも参加しています。
