配達人 雪野(ゆきの)の道標
物語は、ひんやりとした冬の朝に始まった。
白雪町(しらゆきちょう)。その名の通り、冬になると豪雪に見舞われる、山あいの小さな町だ。人々は、その寒さよりも、もっと古い、奇妙な噂を気にかけていた。
「今年も、無事に冬を越せるかのう」
老舗の書店「雪見堂」の店主、啓介は、古書のページを操りながら小さくつぶやいた。彼の言う「無事」とは、単に雪の被害がないことだけを指すのではない。
啓介の店に、ひとりの青年が入ってきた。地元の郵便局で働く、配達人の上田だ。彼は、いつも頬を赤くして、手袋から覗く指先をこすっている。
「啓介さん、おはようございます!いつもの、ひとつお願いします」
「おう、上田さん。今、煎れてやっからな。温かい番茶でも飲んでけ」
上田は、配達ルートで啓介の店に寄るのを日課にしていた。雪見堂の奥にある小さな茶室の温かいお茶と、古書の独特な紙の匂いが、凍える体を芯から温めてくれるからだ。
「しかし、上田さんよ」啓介は茶を差し出しながら、声をひそめた。「あんたは、最近、白雪様のお印を見たという噂は聞いたか?」
上田は、お茶を飲む手が止まった。「お印、ですか?もしかして、あの『道標(みちしるべ)』のことですか?」
白雪町には、古くから伝わる言い伝えがある。町に最大の災いが迫る冬、町の守り神である「白雪様」が、雪に特別なお印を残すというのだ。それは、獣の足跡や風紋ではない、まるで誰かが指で描いたかのような、奇妙な螺旋(らせん)の文様だとされている。
「ああ、そうだ。あの印だ。雪野原の真ん中に、ぽつんと一つだけ現れるらしい。見た者は、決して口外してはならん、ともな」啓介は震える声で言った。「わしはもう年じゃが、上田さんはまだ若い。気をつけて通りなさいよ」
上田は黙って、差し出された番茶を一気に飲み干した。温かさが、なぜか苦く感じられた。
上田の配達ルートは、町の外れにある「氷室(ひむろ)の森」の近くまで及ぶ。午後の配達を終え、日が傾き始めた頃、彼は凍った林道を歩いていた。足元には深々と積もった新雪が、彼のブーツの音だけを吸い込んでいく。
次の目的地は、森の近くに立つ一軒家。雪道の足跡は、上田のものしかなかった。
そのとき、彼は足を止めた。
道の脇の、誰一人踏み入れていない真新しい雪の上に、それはあった。
螺旋。
細かく、たおやかで、まるで筆で描かれたかのような、完璧な渦巻きの文様。
上田は、心臓が激しく脈打つのを感じながら、そのお印にそっと手を伸ばした。
そして、その指先が、雪に触れるーー寸前。
「あら、配達の人?」
背後から、透き通るような声が聞こえた。
上田は弾かれたように振り返った。そこには、氷室の森の一軒家に住む、雪子という名の女性が立っていた。彼女は、いつも白い服を着て、長い黒髪を風に遊ばせていた。
「あ、あ…はい、郵便です」上田は、慌てて郵便物を差し出した。
「ありがとう。あなた、寒いのに大変ね」雪子は微笑んだ。その笑みは、雪解けの水のように冷たく、そして美しかった。
雪子は受け取った手紙をちらっと見ると、すぐに家の中へ入っていった。
上田は、もう一度、螺旋のお印に目を向けた。
それは、もう消えていた。
ただ、彼の目の錯覚だったかのように、その場所に何も残っていなかった。
上田は、その晩、啓介の店を再訪した。
「啓介さん、あの、お印のことで…」
啓介は不安げな上田の顔を見て、静かに言った。
「上田さん。あんたが何も見なかったことにしておきなさい」
上田は、雪子の冷たい微笑みを思い出した。そして、消えた螺旋のお印を。
「啓介さん。もし、お印を見たのが…白雪様自身だったら?」
啓介は、目を見開いた。
上田は、配達カバンを強く握りしめた。彼は、この冬、白雪町を去らないことを決めていた。もし、そのお印が、白雪様からの道標だというなら、この寒く美しい町で、自分に何ができるのか知りたいと思ったからだ。
物語は、まだ始まったばかりだ。白雪町は、深い夜の雪の中に、静かに息を潜めていた。
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