『Order』オーダー2010 #1(オーダー第1話)
あらすじ
恋慕、母性、責任、家族、友情――人が拠り所とするものに見えない災厄が侵入し、人は笑いながら泣き、愛しながら壊れ、自らの意志ではない何かに押し流されていく。
各話の出来事は、怪異の輪郭を浮かび上がらせ、最後の一人は“自分の中の敵”と向き合うことになる。
怪異そのものよりも、人の内面と意思の攻防、そして外因に抗おうとする個人に重きを置いた連作ホラー。
※これはフィクションです。現実に作中の言動を推奨するものではありません。
何の理由も見出せない。
だが、思ったのだ。
彼を見た瞬間、まったく唐突に、
殺してやりたい、と。
犬神京香は、電車に揺られていた。いつもの時間、いつもの電車、いつもどおりの登校になるはずだった。それなのに、
理由のない殺意が、喉の奥を乾かす。呼吸が浅くて、うまく息が吸えない。
逃げ場を求めて車窓を見る。ビルの群れが流れていく。線路際の外壁には、看板が隙間なく並び、こちらに向かって喚き散らしていた。
不動産のことなら、〇〇興産
天上の着ごこち、〇〇ウェア
あなたの悩み解決します、日本使徒教会。
――うるさい。
そんな車内に、彼はいた。
おだやかそうな、好青年に見える。騒がしい街を背にしても、どこか静かだ。
通学時間に私服。たぶん大学生。
さらりとしたストレートヘアが、揺れに合わせてわずかに動く。触れたら、そのまま指が沈みそうだ。
紺のフレームの眼鏡。淡く茶色がかった瞳が、妙に澄んでいる。
色あせたピーコートを無造作に羽織り、手提げ鞄を提げて、吊り広告を眺めている。
視線の先は、美術館の企画展だった。
芸術には興味がない。
けれど、芸術に興味がある男子には、少しだけ興味がある。
いいな、と思った。
それはたぶん、好意だ。
恋愛経験の乏しい京香には断言できないけれど、一目ぼれ、に近いとさえ思えた。
なのに。
同時に、別のものが湧き上がってくる。
その髪を掴んで、引きずり回したい。
眼鏡を叩き割って、その目を潰したい。
喉に指をかけて、食い込ませて。
ああ、本当に綺麗な瞳。
できるなら、そこに映るのは私だけでいい。
二人きりになりたい。
ずっと、私だけを見てほしい。
そして――潰してあげたい。
自分がどんな目で彼を見ていたのか、わからない。
だが視線が合った瞬間、彼は一瞬だけ困ったような顔をして、すぐに目を逸らした。
胸が、きつく締めつけられる。
立っているのも辛い。
好意と殺意が、同時に、途切れずに押し寄せてくる。
好きだ。
殺したい。
苦しい。
――もう、無理。
そう思った瞬間、ドアが開いた。
彼が降りていく。
人波に紛れて見えなくなった途端、呼吸が戻ってくる。
胸を押さえる。ほっと息を吐いた。
彼の姿を思い出すたび、また同じ波が来る。
好意と殺意が、噛み合わないまま絡みつく。
これは何、この滅茶苦茶な気持ちは。
教室にいても、授業はほとんど頭に入らない。
「えー、子曰、学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずやー」
教壇では古典の教師が何か喋っているが、声が遠い。
聞こえても、理解する気にならない。
何か別のことを考えたい。
彼のこと以外で、頭を埋めたい。
京香は教室を見回した。
誰も授業なんて聞いていない。
隣の悪友は、教科書の陰で携帯をいじっている。指の動きがやたら速い。そういうコンテストがあったら、きっと日本でトップクラス。たぶん男へのメールだ。いつだか自慢げに話していた彼氏(?)が相手だろう。話を聞く限りでは、彼氏と言っていいのか悩みどころだったけど。
彼女は、自称・恋多き女。
実りある恋の話は、あまり聞いたことがないけれど、経験は自分よりはあるはず。今日は妙に頼もしくも見える。
相談、してみる?
好意と殺意が同時にある恋(?)。
そんなもの、あり得るのか。
ねえ、と声をかけかけて、止まる。
……いや、やめた。
内容が内容だ。
この子に話せば、確実に広まる。
「京香ちゃん、どしたん? 気分悪そうだよ」
悪友が覗き込んでくる。
「なんでもない」
短く返して、立ち上がる。
「トイレ行ってきていいですか?」
教師は興味なさげに頷いた。
冷たい水が、顔に刺さる。
静かだった。
授業中の洗面所は、別の場所みたいだ。
京香は濡れた顔のまま、鏡を見た。
気が抜けた瞬間、彼が浮かぶ。
髪に触れる。思った通りの感触。瞳に、自分が映る。笑っている。指が、そっと撫でるように彼の首へと下りていく。
力が入る。
喉が潰れる音。
苦しそうな彼の顔。
自分は、笑っている。
――違う。
京香は、鏡に額を打ちつけた。
鈍い痛みで、頭の中の笑みが散る。
額を押しつけたまま、大きく息を吐いた。
001:みやび 今日、初めて会った人に、
殺意と好意を同時に感じちゃった
んですけど、これって何?
よくあること?
002:泥酔男 殺したいほど好きってやつ?
歪んだ愛情か、ないとは言わん
が、おじさんはない。
003:名無し ねーよ 病院いけ
004:マザー 思春期なのではないかしら?
そういう時期よ。
008:名無し いいぞhttps://www.muchhope.invalid
009:使徒 みやびのそれは、“オーダー”です。
010:名無し オーダーって何だよ(笑)
011:使徒 大いなる意思からくだされる
指示です。
012:名無し やば(笑)
013:マザー それのせいで、相反する感情が
生まれたってこと?
014:使徒 そうです。殺意の部分がオーダーで
す。好意は、あなた自身の感情。
電話でくわしく話してあげます。
015:泥酔男 カルトくさい。電話番号なんか、
絶対に教えてはダメ。スルー推奨。
016:使徒 番号は不要です。あなたが知りたいと
欲すれば、私は求めに応じます。
017:名無し こいつ完全にあぶない(笑)
ケータイばりにデコレートされたノートPC。立体でクリスタルなハートのシールが液晶部分まで侵食している。画面の端が、ところどころ見えない。
見づらいが可愛いほうがいいに決まっている。
帰宅した京香は、その派手なPCに真面目な顔で向かっていた。
相談相手に悩んだ挙句、ネット掲示板に書き込んだ。身近な人間に言えないことほど、ああいう場所は便利だ。役に立つ答えが返ってくることは滅多にない。それでも、吐き出すだけで少しは楽になる。
案の定、毒にも薬にもならないレスが並んだ。
だが京香は、一つの書き込みから目を離せないでいた。
――みやびのそれは、オーダーです。
――あなたが知りたいと欲すれば、私は求めに応じます。
オーダー? 私が「知りたい」と思ったら、向こうから来る? 連絡先も聞かずに?
馬鹿みたい。確かにカルトだ。なのに、気になる。
知りたい。もし本当に“それ”のせいで、この気持ちが揺さぶられているなら。
そう思った瞬間、着信音が鳴った。
賛美歌みたいな澄んだ旋律。けれど荘厳すぎて、どこか冷たい。
こんな着メロ……設定した覚えがない。
不可思議さに気を取られ、ろくに確かめもせずに携帯を耳に当てていた。指先が、わずかに震えている。
「はい」
『掲示板ではどうも。使徒です。あなたの求めに応えて、連絡してあげました』
抑揚のない声。男か女かもわからない。高くもなく低くもなく、ただ鼓膜ばかりを冷たく叩く。
京香は言葉を失った。だが相手は、京香の様子を気にしたそぶりもなく淡々と続けた。
『オーダーとは、大いなる意思から下される指示です』
喉の奥に乾きを覚えた。唾を飲み込んで、問いを投げる。
「……なんで、番号がわかったの」
『それはどうでもいいことです。それよりも、あなた、あれの名前も知らない赤の他人でしょう。無関心で無関係。なのに、なぜか好意が混ざっているのですか。それは誤差です。捨てなさい』
なにを言っているのだろう、この人は。
この人……そう思った時、奇妙な違和感があった。喉に魚の骨が引っ掛かったかのような。魚は好きではないけど。
『従いなさい、オーダーに』
「……従う?」
『そうです。そうです。そうして殺すのです。簡単でしょう』
一瞬、世界の音が遠のいた。
携帯が重く感じる。今すぐ手放してしまいたくなる。
「できるわけない。意味もなく、人殺しなんて……それに、嫌いじゃない」
『意味が欲しいのですね。では意味を与えてあげます。あれは将来、変化をもたらす要因となる。だから今、消す。世界のため』
吐き気がしてくる。
「何で彼なの。彼は何か悪いことをしたの」
『良い悪いの問題ではありません。関係ないでしょう、そんなこと。最適解だからです。あなたの殺意に身を委ねなさい。そうすれば世界は“これまで通り”うまくいく』
“これまで通り”。
その言葉が、急に爪を立ててきた。変えさせない、と言われた気がした。
『だから、従いなさい。そうすれば救われる。悩まなくていい。考えなくていい。あなたも世界の一因でしょう。やらなくては、世界のために。大丈夫。あなたをしつこく応援してあげます』
声の調子は変わらないのに、言葉だけが畳みかけてくる。
京香は息を吸うのを忘れていた。
たまらず通話を切った。指がうまく動かず、切断ボタンを二度押した。
喘ぐように息をつく。
ベッドへ倒れ込む。心臓がうるさい。肩が小さく震える。
――狂ってる。ただの狂人だ。信じるな。
そう言い聞かせるほど、別の疑問が湧く。
どうして、番号がわかった?
着信履歴は、非通知。
オーダー。
もし従えば、このわだかまりが消えて、楽になる?
その誘惑が、最悪に甘くて最悪だ。
脳裏に惣介が浮かぶ。笑っている。
胸が締め付けられる。殺したい。違う。殺したくない。
――好きだ。
認めた瞬間、さらに苦しくなる。
背伸びをして彼の顔へ近づく。瞳を閉じる。柔らかな感触――
そのまま、手にしたナイフを突き出す。胸に。骨の隙間へ。血が噴き――
「う、あ……!」
京香はベッドの上で足をばたつかせた。
喉から変な声が漏れる。涙は出ないのに、目の奥が熱い。
もう、誰か、助けてよ。
通勤ラッシュの人波も穏やかになってきた。
ホームの時計は、もうまもなく午前十時を指すところ。
何をやっているのか、いったいどうしたいのか、自分でも釈然としない。
京香は昨日の彼が降りた駅の、ベンチに腰掛けていた。自分の気持ちに折り合いがつけられないまま、殺したい愛しい人の姿を探す。
今朝は、電車の中で彼の姿を見つけられなかった。先頭車両から、乗客をかきわけ、迷惑そうな人々の視線を浴びながら、探していったが見つからない。そこまでしてやっと、普段の通学電車で昨日初めて出会ったのだから、乗り合わせる可能性の方が低いと、気づいた。
そうして、彼が降りたホームで待ち伏せることにした。でも、もうかれこれ、数時間は経っている。
昨日の彼は、偶然にこの駅で降りる用事があったというだけで、普段はこの路線を使っていないのでは。学校をさぼってまで、彼の姿を求めた時間は、全くの無駄だったのでは。
京香が、意気消沈しつつ、遅ればせながら学校へ向かおうかと、考えていると電車がホームに入ってきた。
これを最後にしよう。
半ば諦めつつ、京香は降りる人々に目を向けた。
途端に動悸が激しくなる。
ホームに降り立った人々の中に、昨日と同じピーコートを羽織った、彼の姿があった。
彼を尾行するのは難しいことではなかった。
彼は、あまり人に注意を払っていないように見えた。人の迷惑顧みずというのではなく、人よりもむしろ風景などに気をとられるタイプのようで、尾行するのは容易だった。
先を行く彼は、改札を出てからの駅ビルでは、床ばかりを見つめて歩いていた。屋外に出てからは、一転、空を眺めながら悠々と足を運び、街の景観を彩る花壇の前で立ち止まったり、街路樹の並びに気をとられたりしていた。
そうして、市立の美術館へたどり着いた彼からは、後姿にも喜びが伝わってきた。歩調が速くなり、弾むような足取りになっていた。
京香はなんだか自分も嬉しくなり、彼に続いて美術館へと踏み込んだ。
意外に高い。
入口の前で、京香は足を止めた。観覧料の案内表記が、妙にくっきり目に入る。
学生 一五〇〇円。
見るだけで? 五百円ぐらいで良くない?
財布の重さが、急に心細くなる。
先に入った彼は、ためらいなく券を買い、展示室へ消えていった。背中が遠ざかる。
追いかけないと。追いかけて殺ろう、違う。
胸の奥が、好きと殺意で引き裂けそうになる。
――殺ろう。
――やらない。
京香は、息を吸い直して窓口へ進んだ。支払いを終え、入場券を受け取ると切なくなった。残った財布の中身は、ほとんど空気だ。
展示室は平日のせいか、静かだった。静かすぎて、足音だけが自分を追いかけてくる。
彼がいた。
人の少ない空間の中で、モダンで無機質な内装の館内で、彼だけを柔らかく感じる。絵の前に立ち、微動だにしない。視線の先へ、まるで祈るみたいに顔を向けている。
京香は、その後ろ姿の一点に、目を縫い付けられた。
――髪を掴みたい。
――抱きつきたい。
――潰したい。
――助けたい。
絵の前に立つ。彼が長いこと見つめていた絵。
風景。レンガの家。干草。土の道。光。朝なのか、夕方なのか判然としない。
プレートには「風景画(一)」とだけ。
わからない。
わからないのに、胸の内側がざわつく。
あれは、明るくも暗くも見える。どちらにも見えるのが、いちばん気持ち悪い。
視線を横に滑らせると、彼が少し離れた展示の前で、目を輝かせていた。子供みたいに、真っ直ぐに。
その目を――潰したい。
いやだ。
潰したい。
いやだ。
「ああ、もう……」
声が漏れた瞬間、気配が近づいた。
「あの……どこか具合でも悪いですか?」
振り向くと、彼がいた。困ったように眉を寄せ、けれど柔らかく笑っている。
胸が締めつけられる。視界が少し滲む。酸欠みたいに息が浅くなる。
「……すみません。大丈夫です」
「よかった。……さっきの絵、気になってたんですか?」
京香は頷いた。言葉を選ぶ余裕がない。選ぶほど、衝動が噴き上がる。
「……よさが、わからなくて」
「そうですか。あ、でも、それも面白いですよね。新しい解釈が生まれる時って大抵そこからだと思うんです……すみません、つい夢中に」
「いえ」
「あの、良かったら、あっちで、少し休憩でもしませんか? 疲れているようですし」
カフェは、展示室よりも明るかった。明るいのに、京香の中は暗い。いや、明るい。どっちもある。
彼は佐伯惣介と名乗った。美大生。口にした瞬間、名前が胸の中で音を立てる。
その人間の名前。
殺したい。
――違う。
「さっきの絵のことなんですけど」
惣介は、指先でカップの縁をなぞりながら言った。
「受け売りですけれど、あれは……希望と絶望、両方を同時に置いていると言われています。見る人の心が、どちらを強く持つかで、日の出にも日の入りにも見えると」
京香は、俯いたまま答えた。
「……どっちも、でした。決められない感じで」
「そうですか。じゃあ……犬神さんは今、ちょうどその間にいるのかも」
間か。
その言葉が、柔らかく刺さる。
私は今、好きと殺意の間にいる。
でも、そのうちどっちかに落ちる。
京香は顔を上げた。
「……あの絵、描いた人は、どっちを描こうとしたんですか」
「それは誰にもわからないです。作者、若くして亡くなっているし」
「じゃあ、佐伯さんは……どっちだと思うんですか」
惣介は少しだけ考えてから、苦笑した。
「僕には、日の入りに見えます」
「え」
「でも、日の出だと信じたいです」
京香は瞬きした。
それは、卑怯な言い方だと思った。弱いのに、強い。
絶望に見えているのに、希望だと信じたいと言い切る。決めてるんだね。ああ、でも好きなのに殺したい。
「……なんで?」
「うまく言えないけれど……僕は、いつか、日の出を描ける人になりたいから。だから、あれは……日の出の絵であってほしいです」
惣介は、照れたみたいに笑った。
「変ですよね。すみません」
変じゃないです。まったく。
京香は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
好きだ。
殺したい。
違う。
好きだ。
言葉が、勝手に口からこぼれる。
「……素敵です。殺したいぐらい」
惣介の表情が固まった。
京香も固まった。血の気が引く。
「あ、ちがっ……その、抱きつきたいぐらい、です」
「え?」
「え、いや……うう……」
惣介が吹き出した。
「あはは……犬神さん、個性的なんですね。おもしろい」
おもしろい。
その単語に、少しだけ傷つく。けれど同時に、救われる。
惣介は慌てて手を振った。
「あ、ごめんなさい。変な意味ではなくて……えっと、可愛い、というか……」
可愛い。
京香の頬が熱くなる。
惣介も、耳まで赤くなって黙り込んだ。
沈黙は、悪くなかった。
悪くないのに、京香の内側では、刃物を研ぐような音が止まらない。
会計の時、京香は財布を開いて固まった。
うん。ほとんど、空。
「あ……」
「……よかったら、僕が出します」
「すみません、今度、返します」
「大丈夫、ご馳走します」
「いえ! 絶対返します! ……だから、また会ってください」
「……はい、喜んで」
彼の言葉が、胸の中に灯る。光る。
また会える。
殺す機会ができる。
――違う。
また会える。
帰宅して、ベッドに倒れ込む。
目を閉じると、惣介の笑顔が浮かんできた。
思わず頬がほころんだが、すぐに殺意もわいてくる。
オーダー。
使徒の声が、記憶の奥で冷たく響く。
――逃れられません。
――殺すのです。簡単でしょう。
――殺意に身を委ねなさい。
簡単なわけがない。
惣介は悪くない。
将来、変化をもたらす? だから消す?
意味が欲しいなら与える?
勝手に決めるな。ふざけるな。
惣介は、いつか人の心を動かす絵を描くと言った。
絶望に見えても、日の出だと信じたいと言った。
その「信じたい」が、いつか世界を変えるのだとしたら――。
世界は“これまで通り”でいたい。
だから、惣介を消したいのか。
京香は、手のひらを握りしめた。爪が食い込む。
殺さない。
殺したくない。
でも、殺せと言われる。
心の中で、命令が繰り返される。拒むほど増える。好きと殺す。
疲れた意識が沈んでいく。
夢の中で、古典の教師が教壇に立っていた。
いつもよりはっきりした声で言う。
人、希望を習へば、生を貪ることを悦び、その数を増す。
人、絶望を習へば、死を甘受するを常とし、その数を減ず。
いずれにも偏ってはいけません。
過ぎたる希望は、世を変ずるの懼れあり。
教師の口が、歪む。
――排除義務。
――服従。
――殺。
そうして終わる? ふざけるな……
春先とはいえ、朝の冷え込みは厳しい。制服の上にコートを羽織っているものの、衿筋に割り入る冷気が肌をさす。
その寒気が、現実を強く感じさせる一方で、京香は夢の中にいるような気分でいた。
自分の意思とは関係なく、足が動いた。
気づけば、いつもとは逆の電車に乗っていた。
気づけば、見知らぬ駅で降りていた。
そうして、京香は、吹きさらしのホームで凍えながら立っている。
私、何をしているんだろ。
惣介を待っているのだ。ここで待っていれば惣介がくる。
ああ、そうか、うん、惣介に会いたいな。
そうだ、そうして会って殺そう。
え? 違う、いやだ。絶対いやだ。
いや、絶対に、殺してやる。
ホームにやってくる惣介の姿が見えた。京香は衿を立てて、顔を伏せた。
惣介が、辺りを見回して、人のいない乗車位置の、先頭に立った。
京香の体が猫のようにしなやかに動く。気配を殺して、惣介の後ろに立つ。
足先が勝手に動いて彼に向かってにじり寄る。
『一番線を急行電車が通過します。白線の内側まで……』
構内アナウンスの語尾をかき消して、轟々と風を纏って電車が迫ってくる。
次の一瞬を待ちわびて、殺意が心で荒れ狂う。
腕が動きだそうとする。京香は必死にそれを押さえ込んだ。
それでも力の限りに惣介の背中を突き飛ばそうとする。
突き飛ばせ。
――やだ。
相反する命令に腕が痙攣しはじめる。
殺せ。
いや!
轟音と共に、電車が通り過ぎていった。
惣介の髪が、風に煽られて踊っている。
京香は、大きく息を吐いた。体が勝手に動いて、惣介の側から離れていく。
車列がひっきりなしに行き交っている。
駅を出た惣介が、路上で信号待ちをしている。
京香は、必死に彼に歩み寄る自分の足を抑えようとしていた。
健闘空しく、少しずつ惣介の後姿に近づいていく。
追え。
いやだ。
殺せ。
いやだ、っつってんでしょうが!
惣介の背後に立つ。両腕が渾身の力で、彼の背を押そうとしたところで、唐突に、惣介が歩き出した。
見れば、忙しなく走っていた車は動きを止め、信号が変わっている。
大きく息をつくと、京香は額に滲んだ冷や汗をぬぐった。
……どうしよう。
かなりの疲労感を覚えている。体の節々も痛い。自分に逆らうため変に力をいれてしまった。
心の一部は、惣介をやる気で満々だ。いや、段々と、一部どころではなくなりつつある。
拒めば拒むほど、衝動が強くなっている。
もう、次は、抑えられないかもしれない。自信がもてない。
仮に抑えられたとしたって、その後どうなる?
今日じゃなくても、明日。
明日じゃなくても、その次。
いつか必ず、私は、あの人を――。
惣介の後姿が遠ざかっていく。
後を追え。
いやだ。
殺さなきゃ。
違う。そんなことしたくない。
葛藤する京香が、立ち竦んでいるうちに、再び信号が変わった。
道路を隔てた、惣介の姿が人混みに紛れる。
距離を置けたせいか、殺意がわずかに静まっていく。
かわりに疲労感が重くのしかかる。
これは、もう。
呆然と、道路を疾走する車を眺める。
京香の苦悩をよそに、生き生きと忙しなく、色とりどりの車列が流れていく。
殺したくない。
絶対に惣介を死なせたくない。
そんな強い思いと同時に腹もたってくる。
大いなる意思? オーダー? なんだか知らないが、私を好き勝手させてたまるか。
「あ、犬神さーん」
惣介の声がした。途端に反応した京香の心が、うれしさのあまり殺意を吹き出す。
はやく、殺せよ!
見れば、道路の向こうで、惣介が笑顔で手をふっていた。
惣介……。
殺せ!
年上のくせに、何て無邪気な笑顔なんだろ。
京香は笑った。
うん、いいよ。好き。これは私の気持ちで間違いない。何が何でも助けてあげる。
京香は、目の前を走る車の群れを眺めた。
忙しなく行き交う鉄の塊に心が惹かれる――もう、いつまで私が私でいられるかわからない、それなら、
京香は路上に飛び出した。
白の乗用車が間一髪で車線を替え、京香をかわしていった。クラクションが鳴り響く。
その背後から、大型トラックがやってくる。
人々の悲鳴が、妙に間延びして聞こえる。
迫るトラックが遅く感じる。それに不思議と恐怖もない。
運転席の男が見える。
顔がなかった。
いや、顔がないと錯覚するほどに、男は無造作にハンドルを握っていた。
京香の姿が見えているはずなのに、動じる気配がない。
いつかの嫌悪感がよみがえる。身の毛がよだつ。
次の瞬間、男の口元だけが、わずかに歪む。
好意と殺意の隙間をぬって、怒りがぐっと湧き上がる。
トラックに向けて、精一杯に中指をつき立ててやった。
「犬神さん!」
惣介の切迫した声が聞こえる。
惣介、私がここまでしてあげたんだから、ばっちり世界を変えてやってよね。
お別れに、最高の笑顔を残してやろうと、振り向いた京香の顔が強張る。
道路に飛び出した惣介が、必死の面持ちで、京香を目指して走ってきていた。
やめてよ、バカ。私は、あなたを助けるために……。
心の中で悪態をつきながらも、京香は嬉しかった。自分を助けようと、飛び出してきた彼の行為が、京香には嬉しかった。でも、馬鹿だ、すごく馬鹿で好きだ。
惣介が走りよってくる。トラックが迫ってくる。たぶん、それらは同時に私の元へ辿り着く、いや確実に、そんな気がする。
運転手の口元が勝ち誇るように、大きく歪むのが見えた。
ちくしょう。あれの思い通りになるわけか……。
京香は空を睨んだ。あれは、そこにいる気がする。
――世界は変わらない。
かもな。でも、
私は負けてない。私は私の気持ちを守ったんだ。
それだけは忘れんな。
くそったれ。
了


