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しあわせ三部作 二『しあわせのおまじない』

あらすじ

ささやかなしあわせを呼ぶはずのおまじない。
だが、願いを叶える言葉は、いつしか人の心を別のものへ変えていく。
幸福を信じることの危うさを描いた短編ホラーです。

 ※後味の悪い展開、および倫理的に重い描写を含みます。読む人を選ぶ描写があります。よーするに「胸糞」です。

 あなたは幸福ですか? 不幸ですか?
 面と向かって聞かれてしまうと、答えに窮する人が多いはず。
 三島加奈子にしてもそうだ。
 加奈子は、自分が幸福である、とは思わない。
 加奈子には父親がいない。加奈子が物心つくかつかないかといった時期に、知らない女の陰だけを残して、姿を消してしまったからだ。加奈子自身は、母子家庭であることをさほど悲嘆してはいない。だが、周囲の人間はそれを理解してくれない。父親がいないせいでいじめの槍玉にあげられたり、逆に過度の同情を寄せられたりする。加奈子は、中傷も同情も、どちらも御免だった。否応なく他人との違いを思い知らされ、自分は「可哀想なのだ」と刷り込まれているような気分になってしまうからだ。そっとしておいてほしい、そう心から願っている。おかげで、母親以外の人間とは距離をおくようになっていた。中学生ともなれば、どんなに孤独な子供でも、気を許せる友人の一人ぐらいはいるのが常だろうが、加奈子にはいない。
 だが、加奈子は、自分が不幸だとも思わない。
 今の生活にそれなりに満足している。母親の和子は、綺麗で優しくて、加奈子の自慢であるし、人間の友達はいないけれど、三毛の子猫のミーシャがいる。ミーシャは、加奈子が拾ってきた愛らしい雌の子猫で、とても人懐っこかった。チロチロとミルクを舐める姿なんかは、見ていると癒される。母娘の住むマンションはペット禁止だが、こっそりと飼っている。さらには、一人の時間に様々な世界を見せてくれる珠玉の物語がたくさんある。加奈子はそんな物語を求めて、近所の古本屋に通うのが日課になっている。お小遣いのほとんどが書籍に化けてしまう。
 つまるところ、幸せというやつの明確な基準がわからないし、幸か不幸か、と聞かれてしまうと答えに詰まってしまうのだが、とりあえず、自分はどちらでもない、と加奈子は思っていた。

 学校の帰り道、加奈子は、いつものように古本屋を訪れた。
 加奈子は、一日に三冊の単行本を読む。最近のお気に入りは推理小説だ。特に旅先で事件が起こるものが望ましい。旅行気分と探偵気分の二つが同時に味わえるので、得した気分になれる。
 夏休みが近づいているが、例年どおり、三島家には旅行の予定はない。日帰りで海かプールぐらいなら、つれていってもらえるかもしれないが、日付を跨いでの外出は、おそらく今年もないだろう。女手ひとつで暮らしを支える母の苦労はわきまえているし、日帰りの外出だけでも満足はできるのだが、少しだけ寂しい気持ちもある。そのせいか、このところの加奈子は旅情を感じさせてくれる本を手にとることが多かった。
 三冊で百円のワゴンセール。好みの本を選び出し、二冊はすぐに決まった。
 でも、最後の一冊が決まらない。あれもいいし、これもいいが、どれもちょっとひっかかる。ワゴンに残った小説の他の候補はそんなものばかり。あとは小説以外、加奈子にとっては少々難解な本、自己啓発本、株売買のノウハウ本などだ。加奈子は、人生うんぬんを深く考えるほどに哲学的な子供ではないし、マネーゲームに興味を覚えるほどに早熟でもない。
 なんとか最後の一冊をと目を皿にして探していると、古い装丁が目に止まった。
 軒先で風にさらされた本の中でも、一際痛みがひどい。というか、これを商品として扱っていいものか、首をかしげたくなるほどに汚らしい本だった。
 手に取ってみれば、カバーはついておらず、むき出しの表紙は染みだらけで、タイトルすら読みとれない。裏表紙をめくると「――秘蹟研究社」と聞いたことのない出版社の名前の一部だけが判別できた。昭和初期の第一版となっていた。重版はない。
 開いてみれば、中身は存外に綺麗で読むのに支障はなさそうだ。だが、不思議な内容だった――

 ふくまねきのおまじない

 ・よういするもの

 すやきのつぼ ひとつ
 どくむし ろくひき
 
 ・やりかた
  
 いち

 まんげつのばん、すやきのつぼに、どくむしをろくひきいれて、くちをふうじる。
 
 に
 
 ろくじゅうろくのよるをへたのち、ふうをとく。いきのこりしどくむしがいちひきのみであれば、さんへとすすむ。いきのこりしどくむしがいない、もしくは、にひきいじょういきのこりしときは、ふたたび、いちをおこなうこと。
 
 さん

 いきのこりしどくむしを、いぶしてころす。しかるのち、そのむくろをすりて、こなじょうにする。そうして、きたるまんげつのばんに、それがこなを、にわにまく。

 ――こんな調子で、さまざまなおまじないが、全てひらがなで書かれている。しかも、ところどころに古風な言葉づかいが出てくることもあって、とても読みづらい。くわえて、肝心のところの、それが何のための〈まじない〉なのか、については書いていない。
 まったく奇妙な本だった。
 だが、その年季の入った外観と、不可思議な内容には、なんともいえない凄みを感じる。
 間違いなく、読んで楽しい本ではなさそうだが、加奈子は、三冊目に、その奇妙な本を選んでいた。

「おかえり、加奈子ちゃん」
 加奈子がマンションのエントランスを通ると、野太い声が響いた。
 見れば、管理人の矢崎さんが、奇妙な笑みを浮かべている。
 本人はそれでも、精一杯の愛想笑いをしているつもりなのかもしれないが、加奈子には薄気味の悪い顔にしかみえない。浅黒い顔に無精ひげを生やし、口元から覗く歯はヤニで黄色く染まっている。
 生理的嫌悪感を抱く笑顔だ。
「加奈子ちゃん、今日もお母さんは帰りが遅いのだろう? よかったら、管理人室で、お茶でもしていかないかい? 実はケーキの差し入れがあってね。おじさん、甘い物は苦手だから、食べていってくれないかな?」
 加奈子が小学生の頃、管理人のおじさんは人攫いだという噂が広まったことがある。それは単なる噂だったが、以来、加奈子は、悪い印象が拭えずにいる。母と一緒の時には、短い挨拶を投げかけてくるだけなのに、一人でいる時には妙に親しげに言葉を重ねてくるところも、なんだか薄気味悪い。
 加奈子は、無言で首をふると、エレベーターの中に逃げ込んだ。

 エレベーターが三階につくと、加奈子は自宅に駆け込み、慌しく施錠をしてチェーンをかけた。
 ほっと一息つくと「みゃん」と鳴き声がして、足元にくすぐったい感触。
 加奈子は笑いながら、出迎えてくれた子猫のミーシャを抱き上げた。
「みゃん」
 ミーシャは、嬉しそうにもう一声鳴いて、加奈子の顔を舐めてきた。
 ミーシャは、鳴くのが下手だ。彼女の鳴き声は舌足らずで、なんだか可笑しな響きになる。だがそれも無性に愛らしい。
「はいはい、ただいま、ただいま」
 笑いながら、ミーシャの熱烈なキスから逃れると、加奈子は自室に入った。
 鞄から、買ってきた本をとりだして、ベッドの上に寝転がる。
 加奈子を真似て、ミーシャも傍らで丸くなった。本を読んでいる時のミーシャは心得たもので、邪魔をせずに静かにしてくれる。
 そんなところも、可愛くてたまらない。加奈子は、ミーシャの小さな頭を指先でくしゃくしゃとしてやった。
 そうして、幸せな気持ちで文庫本を開くと、インターフォンがなった。
 せっかくの至福の時間を邪魔されて、多少不愉快になりつつ、加奈子は玄関に向かう。
「どちら様ですか?」
「どうも、加奈子ちゃん。管理人の矢崎です。さっき話したケーキなんだけど、おすそ分けしようと思って」
 背伸びをして覗き窓を見れば、矢崎さんの笑顔が大きく写っている。
 加奈子は思わず体をのけぞらせた。
「すみません、せっかくですけど、今はいらないです。おなかの調子がよくないので」
 咄嗟にウソが口をつく。
「え? 本当かい? それは大変だ。おじさんが見てあげようか?」
「いえ、大丈夫です。薬を飲みましたから、少し休めばよくなると思います」
「……そうかい。お大事にね。なにかあったら、管理人室へ電話してね。おじさん、飛んでくるから」
「あ、はい。ありがとうございます」
 ドアの前から矢崎さんの気配が遠のいていく。
 胸をなでおろした瞬間、加奈子の後を追いかけてきたミーシャが「みゃん」と大きく鳴いた。
 加奈子の心臓が跳ね上がる。
「ミーシャ、しっ」
 慌てて唇に人差し指をあて、小声で叱りつけた。
 矢崎さんに聞かれはしなかっただろうか?
 加奈子が、息をひそめていると、けたたましくインターフォンが鳴った。
「は、はい」 
「どうも矢崎です。今、猫の鳴き声が聞こえた気がしたのだけれど」
「あ、テ、テレビだと思います」
「ふーん、本当かな? わかっていると思うけれど、うちのマンションはペット禁止だからね」
「は、はい、わかってます」
「ところで、最近、猫の鳴き声がするって、加奈子ちゃんのお隣から、苦情が出ているのだけれど……何か心当たりはないかな?」
「あ、ありません」
「ふーん、本当に?」
「はい」
「そうかい……なら、いいけれど、もし、心当たりがあるのなら、おじさんに相談してね。加奈子ちゃんの、力になれると思うから」
「はい、ありがとうございます」
「そうだ。明日さ、具合がよくなったら、お茶をご馳走させてよ、ケーキも明日までならもつから……さもないと、おじさん、管理人として、厳しく、働かなくてはいけないかも、しれないからさ」
 ……これは、脅迫だ。
 加奈子は、答えに詰まってしまった。
「それじゃあ、明日ね。楽しみにしているよ、必ず、良くなってね」

 自分の部屋に戻った加奈子は、ぐったりとベッドにうつぶせになった。
 本を読む気力もなくなった。
 ミーシャが慰めるように頬を舐めてくれたが、その愛らしさにかえって焦燥感が募ってしまう。
 おわかれしなくちゃいけなくなるかも。
 どうしよう。明日は、矢崎さんに付き合うしかないのだろうか。
 矢崎さんと二人きりになるなんて、ぞっとする。いや、明日だけで済むなら、なんとか我慢もできるけど、もし、これから毎日、母親の帰宅まで、一緒に過ごすことを強要されでもしたら――。
 嫌な考えをふりきるように寝返りをうつと、はずみで本がベッドから転がり落ちた。
 床に目をやれば、落ちた拍子に、古ぼけた装丁の本が、だらしなくページを開いている。

 すれちがいのおまじない

 ・よういするもの

 かがみ ふたつ
 じぶんのしゃしん いちまい
 あいたくないひとのしゃしん いちまい
 なわ いっぽん

 ・やりかた
 
 いち

 かがみのちゅうしんに、じぶんのしゃしんをふせるように、はりつける。どうように、もうひとつのかがみに、あいたくないひとのしゃしんをふせて、はりつける。

 に

 きょうめんをかさねて、ふたつのかがみを、なわでしばる。

 さん

 だれにもみつからないばしょに、しばったかがみをかくす。 

 加奈子は飛び起きると、本を手に取った。
「すれちがいのおまじない」ということは、会わずにすむおまじない、ということだろう。「よういするもの」の中に「あいたくないひと」とあるから、おそらく間違いない。
 試しにやってみようか。
 そんな考えが脳裏をよぎる。
 加奈子は占いとかまじないとか、理屈の通らないものを信じるほうではない。朝のニュースで、血液型やら星座やらで、その日の良し悪しを語るコーナーを見ると、鼻で笑ってしまうぐらいだ。だが、嫌いでもない。良い占いであれば、それだけでどことなくハッピーな気分になれるし、悪い占いであれば、いつもどおりの一日が過ごせただけで、なんとなくラッキーな気分になれる。ハッピーラッキーいい感じ。いずれの場合でも、悪い結果にはならないことが多いからだ。占いも、まじないも、似たようなものだろう。
 なら、やってみたって損はない。
 加奈子は、さっそく自分の手鏡をひっぱりだしてきた。ついで、母親の手鏡を拝借してくる。
 母親と二人きりの家族写真を切り裂いて、自分の写真を用意する。矢崎さんの写真には苦労したが、マンションのホームページに写っているのをみつけてプリントアウトした。
 縄は具合のいいものが見つからなくて、ガムテープで代用したが、他は本のとおりにして、加奈子は合せた鏡を押入れの奥に納めた。
 

「どうしたの? 加奈子。どこか具合でも悪いの?」
 テーブルの上で、クリームシチューが湯気を立てている。
 湯気の向こうでは、母が心配そうな顔を浮かべていた。
 加奈子は、母のことを敬愛している。アラフォーだとは信じられないほど若々しいし、忙しい合間をぬっての家事も惚れ惚れするほど手際がいい。今日も、帰宅してからの小一時間で、夕食を作ってしまった。
 母は帰ってくるやいなや、お米をといで炊飯器のスイッチを入れると、人参とじゃがいもとたまねぎとブロッコリーを大きめに切ってレンジへいれていた。深めの鍋で、こま切れの鶏肉をサラダ油でさっと炒めたところに、レンジで加熱した野菜を入れて油をからめる。水を加えて一煮立ちさせて灰汁をとり、シチュールウを入れて弱火で五分。ご飯が炊き上がると同時にシチューを完成させて食卓に並べてみせたのだ。
 仕事で疲れているだろうに、テキパキと動いて夕食を整えたあげく、加奈子の体の心配までしてくれる。
 お母さんって本当すごい。
 お母さんに余計な心配をかけたくない。普段の母は活力に満ちているが、ふとした瞬間、とても疲れた表情を見せることがある。特に最近は、そんな表情を浮かべる頻度が高くなっているような気がする。
 ミーシャのことは、自分でなんとかすべき問題だろう。
「ううん、なんでもない」
 加奈子はそう言うと、食欲がふるわなかったが努めて軽快に、スプーンを口へと運んでみせた。
 

 翌日は、古本屋に寄ることもなく、久しぶりに、まっすぐマンション前へと帰り着いた。そこで加奈子の足が止まってしまう。
 結局、おまじない以外には、なす術もなく時間が過ぎていた。
 今更、ミーシャのことが管理人にばれてしまったことを、母に相談すべきだったかも、なんて後悔の念も浮かんでくる。
 いくら好かない相手でも、ちょっとティータイムに付き合うぐらい、どうってことないんじゃない? と、自分を励まそうとしてみたが、子供の頃に聞いた矢崎さんの噂が脳裏をよぎって、怖気づいてしまう。
 だが、いつまでもそうしているわけにもいかない。
 加奈子は意を決してエントランスに入った。
 顔をふせ、足音を忍ばせて、あわよくば見つからずに管理人室の前を通ろうとすると、「おかえりなさい」と愛想のよい声がした。
 普段とは随分違う声音だった。驚いて顔をあげると、見慣れないおばさんが、管理人室の受付に座っていた。
「あ、あの」
 加奈子がまごついていると、おばさんは人懐っこい笑みを見せた。
「どうも、はじめまして、今日からここでお世話になります。美川と申します」
 温かい笑顔だ。どことなく、母と似た雰囲気を感じる。少し年上には見えるが、母は若く見える人だから、実際の年齢は同じくらいではないだろうか。
「あ、はい。はじめまして、三島、加奈子です」
「よろしくね、加奈子ちゃん」
「あ、あの、矢崎さんは?」
「ああ、矢崎さんはね。なんだか身内に不幸があったらしくて、郷里に帰ることにしたの。でね、しばらく戻ってこれないことにしたから、急な話なんだけれど、代わりに私が、ここの管理人として働かせてもらうことになったのよ。だから、これからよろしくね、加奈子ちゃん」
 加奈子は自分で顔がほころんでくるのがわかった。矢崎さんには悪いけれど、喜びがおさえられない。
 嫌な人がいなくなったばかりか、その代わりに、こんなに親しみのもてる人がきてくれるなんて。
「こちらこそ、よろしく」
 加奈子は軽い足取りでエレベーターへと足を踏み入れた。
 すごい。偶然にしては出来すぎてる。あのおまじない、本当に利いたんだ。
 胸が高鳴る。
 すごい本を手に入れてしまった。
 他にも、たくさんのおまじないがあった。
 読みづらいが、書いてある内容は確かだ。それは証明された。もしかしたら、動物と喋れるようになるおまじないなんかも、あるかもしれない、ミーシャとお喋りなんか、できちゃったりして。いや、旅行にいけるおまじないだってあるかもしれない。いやいや、そんなことはどうでもいい。お母さんに楽をさせてあげられるような、そんなおまじないを探してみよう。たとえば、掃除機がひとりでに部屋を綺麗にしてくれたりとか、そんな魔法みたいなおまじないだって、みつかるかもしれない。
 加奈子が息せき切って自宅へ飛び込むと、それを待っていたように電話が鳴り響いた。
 んもう。はやく、あの本を読みたいのに。
 加奈子は、やきもきしながら、受話器をとった。
「はい、三島です」
「もしもし、わたくし、縦浜中央病院の○○ともうしますが、そちら様は、三島和子様のお宅でお間違いないでしょうか?」
「はい」
「ご家族の方ですか?」
「はい。私、和子の娘です」
「そうですか、どうか落ち着いて聞いてください。先刻、お母様が路上で倒れられ、当院に急患で運ばれてきました。意識不明の状態が続いています。これから、当院の住所を申し上げますので、お母様の保険証をご持参のうえ、至急、お越し願えますでしょうか――」
 事態がつかめないながらも、機械的に住所を書きとめていると、受話器の声が淡々と続けた。
「――それと、万一の時の、心構えも……」
 受話器をおいた加奈子は、呆然とした。
 万一? 万一って、どういうこと?
「みゃん」
 加奈子を気遣うようにミーシャが鳴いたが、構う余裕もない。
 万一って、なんなの。なんなんだ。
 加奈子は、壁を力いっぱい蹴り飛ばした。
 マンションの壁はびくともしなかったが、加奈子の足には激痛が走った。爪が割れたのか、靴下に血が滲む。
 矢崎さんがいなくなった喜びは跡形もなく消え去り、足の痛みと、えたいのしれない恐怖ばかりが、加奈子の中で渦巻く。
 加奈子は、片足をひきずりながらも自室へ駆け込むと、ベッドの上に身を投げた。
 いやだ、こんなのいやだ。
 涙が溢れてくる。
 一人になるのはいや。
「みゃん」
「うるさい」
 ミーシャの慰めも、今は聞きたくない。ミーシャだけじゃダメ。お母さんがいないとダメ、お母さんのほうが大事、お母さん。
 枕を投げつけてやろうとふりかぶると、机の上の本が目についた。
 そ、そうだ、私にはあの本がある。おまじないで、なんとかしてやればいい。
 すがりつくように机について、乱暴にページをめくる。
 なにか、なにか、いいおまじないはないか。
 あいがみのるおまじない――今はそんな場合じゃない。
 いつくしみのおまじない――今はそんな余裕はない。
 うしろがみひくおまじない――そんなの意味がわからない。
 何か、何か、良いものはないか。
 息をするのも忘れて、ページをめくっていると、ふと手が止まった。

 しあわせのおまじない

 ・よういするもの

  しお てきりょう 
  ふじょうのみず てきりょう
  おとめのち てきりょう
  あいされたいけにえ ひとつ

 ・やりかた

 いち

 じめんに、じゅうぶんなおおきさの、へきさぐらむをかく。むっつのかどに、しおをもり、そのうえに、ふじょうのみずをかける。

 に

 へきさぐらむの、ちゅうおうに、うつわをよういし、ふじょうのみずで、みたす。しかるのち、おとめのちで、あかくそめる。

 さん

 いけにえを、うつわにおしこみ、しあわせにしたいひとを、つよくおもいながら、すいしせしめる。

 加奈子は、目を見開いた。
 しあわせのおまじない……お母さんが、幸せになれば、きっと元気になって帰ってくるはずだ。お母さんの幸せは、私と一緒にいることに違いないのだから。
 これだ、このおまじないをやればいい。
 用意する物――塩は台所にある。
 ふじょうのみず、ってなんだ?
 加奈子は、スマホを持っていない。こういう時は本当に不便だ。慌ただしく母親のパソコンを立ち上げて、インターネットで検索してみた。
 不浄という言葉は古語では便所という意味もあるらしい。トイレの水ということでいいのか? なら、これも手に入る。おとめのち、乙女には処女という意味がある。なら、私の血で大丈夫。
 あいされたいけにえ……愛された生贄……
 加奈子は、ミーシャに目をやった。
 ミーシャが「みぃ」と、か細く鳴いた。

 リビングのテーブルを押しのけて、フローリングの床に、マジックで幅一メートルほどのヘキサグラム(六芒星)を書いた。
 本の通りに、六つの角に盛り塩をし、トイレの水をかける。
 じゅくじゅくと塩の山が崩れた。
 バケツにトイレの水を汲んで、ヘキサグラムの中央におく。
 少しためらったものの、意を決してカッターで指先を切った。
 赤い線がはしり、玉のような血が滲む。それを、二、三滴、バケツに落してみた。だが、少しも赤く染まらない。
 もっと深く切らないと駄目か。
 刃を見ながら、逡巡していると、ふと思いついた。
 靴下をぬぐ。さきほど壁を蹴ったときに割れた親指の爪が、皮膚に食い込んで、どす黒い血を生み出している。
 加奈子は、足をバケツに突っ込んだ。
 傷口が染みる。汚い印象のトイレの水が、体の中に入ってくるようで気持ちが悪い。だが、バケツの中は良い具合に赤くなっていく。
 思わず笑みがこぼれた。
 いいね、黒い、どす黒い。
「みゃん、みゃん、みゃん」
 ミーシャが、何か言いたげに鳴いた。
 加奈子は、笑みをひっこめると、ミーシャを両手で抱き上げた。
 柔らかい体毛が掌をくすぐり、温もりが伝わってくる。
 トクントクンと小さな心臓の鼓動が伝わってくる。
「みゃん、みゃん、みゃん」
 加奈子を見上げるミーシャの綺麗な緑の瞳は、どことなく悲しげに見えた。
「ミーシャ、ごめんね。私、どうしてもお母さんに、元気になってほしいの、帰ってきてほしいの。だから、ごめんね。ごめんね。わたしのためになってね」
「みゃ」
 ミーシャは、短く鳴くと、諦めたように、瞳を伏せた。
 加奈子は、勢いよく、ミーシャをバケツの中へ押し込んだ。
 赤い水がはねて、制服を濡らす。
 ミーシャが、けふけふと足をばたつかせる。
 黒い水しぶきが、加奈子の顔にも飛び散った。
 手の中で、ミーシャの心臓が迫りくる死に抗うように、一生懸命に脈打っている。それにつられたように、加奈子の動悸も激しくなっていく。
 加奈子は、母親の顔を必死に思い浮かべた。
(お母さん、どうか、死なないで、無事に帰ってきて)
 冷たい水の中では、子猫の温もりは、いっそう際立って感じられた。加奈子の体まで熱くなってくる。
 上気した顔に、自然と笑みが浮かぶ。
(お母さん、お母さん)
 手の中でもがき苦しむ小さな命に、断末魔の命の灯火に、魅せられたように意識が集中していく。
(お母さん)
 ミーシャが動きを止めても、加奈子は恍惚として、バケツの中に両手を突っ込んだままでいた。
 見える。お母さんが見える。

 やがて、母親の悲報を伝える電話が鳴り響いたが、加奈子は微動だにしなかった。ミーシャが逝った血の池を、そこに浮かんで見える母の顔を、うっとりとひたすらに眺めていた。

 机の上に、本が置いてある。
 古めかしい本だ。カバーはついておらず、むき出しの表紙は染みだらけでタイトルすら読みとれない。
 風もないのに、ページが独りでにめくれはじめる。
 そうして、本は、楽しそうにパタパタとページを送っていたが、やがてページがつきかけると、ぴたりと動きをとめた。

 ――ふくまねきのおまじない……きんうんをまねき、ふこうをよせる――すれちがいのおまじない……えんをきり、ふこうをよせる――しあわせのおまじない……ししゃにあえる、ふこうをよせる ※ししゃでないばあい、ししゃにする――

 開きっぱなしとなったページには、おまじないの簡単で要領を得ない、短すぎる解説が雑多に書かれていた。
 そして最後に一文が添えてある。

 「これ」を見た全ての人に、得難いふこうがおとずれますように

 

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