『Sweet Memory』オーダー2020 #3(オーダー第3話)
※これはフィクションの小説です。登場人物や事件はすべて架空であり、実在の人物・団体とは関係ありません。
僕は悪い人間です。
見た目が醜いです。運動が苦手です。頭も良くありません。
学校ではいじめられていました。
悪い人間なので当然です。いじめた人たちは悪くありません。悪いのは僕です。
父と母は離婚しました。
今は母と住んでいます。
母は別れたのは僕のせいではないと言います。
僕は違うと思います。
悪い僕がいたから、僕のせいで二人は離婚したのだと思います。
僕がいるから全てが悪くなります。
僕が悪いのです。
幸村道夫が家から出なくなったのは、高校1年の夏の終わりからだ。いじめが原因だと思われている。たしかにそれが原因ではあるのだが、まわりの人間が思うそれとは大分実情が異なる。
道夫が辛かったのはいじめそのものではない。クラスメートをそうした行動に駆り立ててしまう自分自身のことが恨めしく、彼らを加害者のような立場にしてしまったことが辛かった。だから道夫は引きこもる。もう誰にも罪を負わせないように。
そうして十畳程度のアパートの一室が、道夫の世界の全てとなった。
「もう何も信じられない……消えたい」
PC画面のチャットルームで入室者のメッセージが瞬く。
道夫はNPO法人の運営するサイト、そこに併設された悩み相談室というチャットルームのカウンセラーとして働いている。割り当てられた自分専用のチャットルームに可能な限り常駐し、入室者が来たら一対一で悩みを聞いてやるというのが道夫の仕事だ。と言っても雇用契約は結んでいないし、給料というよりは礼金というべきで、時間給にすれば時給五百円程度にしかならない。そんな少ない稼ぎの大半を母親に納めている。ほとんど自分の懐には残らない。でも、道夫は辞めるつもりは毛頭ない。
道夫は入室者の言葉の向こうに見えた絶望に、初夏の時分にも関わらず、寒気を覚えていた。
これは気を引き締めて対応しないと、いや普段は気を抜いているというわけではないけれど。
道夫は考える。どう対応すべきか。丁寧な言葉遣いで専門家然とした信頼感を与えるべきか、親しげな口調で安心感を与えるべきか。
後者だな。
「どうしたの? 事情を詳しく話してくれないかな?」
しばらく返信が途絶える。
悩みを抱いた経緯を整理しているのだろう。その過程である程度は自分の気持ちも整理できるはず。悩みを人に打ち明けるというのは、それだけでも心の回復に効果がある。もちろん、スパっと解決策があったほうがいいのだけれど、それは容易ではないことのほうが多い。
やがて入室者が悩みを抱いた経緯を明かしてきたが、道夫はその内容に得も言われぬ恐怖を感じた。室温が数度下がった気がする。
また、この類の問題だ……。
幸い入室者は話を打ち明けただけで少し気分が晴れたらしく満足して退室したが、一人残された道夫は彼女が残していった厄介な謎に頭を抱える羽目になった。
話を簡単にまとめるとこうだ。
中学生の彼女には親友が二人いた。彼女を含めた三人は大の仲良しだった。ところが何の前触れもなく一人が殺意を剥き出しにして、シャーペンでもう片方の親友の喉元を突き刺したのだという。被害者は病院へ搬送されたがその後死亡。加害者は警察管下の精神病院へ隔離され、相談者は突然一人取り残されてしまった。それまで三人は喧嘩などしたこともなく、凶行を予兆するものは何もなかった。
道夫は天井を見上げて考える。
前触れなく突然降って湧いたように現れる殺意。その原因はわからないが、似た事例ならいくつか思い当たる。
会ったこともない人間の姿が強烈な殺意と共に脳裏に浮かぶようになった。殺せと自分が自分に囁いてくる。
まともに話したこともない別クラスの男子を殺したくて堪らなくなった。殺そう、と自分の中の別の自分に後押しされる。
道夫は実際そんな相談も受けた事がある。今回は幸いにも例外だったが、そうした問題を抱えた相談者相手にはなす術がないことがほとんどで、自分の無力さへの憤りと共に、強く記憶に残っている。彼らが悲惨な結末を迎えてしまった可能性も高い。それと状況が酷似した事件のニュースを目にしたことも、一度や二度ではないのだから。
いずれにせよ、共通するのは因果関係のない殺意。それを後押しする自分の声。
道夫は天井から視線を下ろし、部屋の本棚へと目を向けた。心理学や精神病理学などの書籍が並んでいる。
統合失調症の命令幻聴。これなら比較的近いことが起こりうる。だが意味のない強烈な殺意、というのは難しい。
間欠性爆発性障害。殺意についてはこれで説明できなくもない。だが、後押しする声というのがそぐわない。
いくつも症例を脳裏に浮かべては今回の一連の事象に当てはまるか検討する。
だが、それらは全て、違うパズルのピースであるかのように、どれも微妙に形が合わず、ピタリとはまることがない。
納得のいく答えが見出せない。
となると、催眠? しかし、他者の生命を奪うのを強要するほどに強力な催眠術なんてフィクションの世界でしか聞いたことがないぞ。
道夫は救いを求めるように壁のポスターに目を向けた。
早世した画家が描いた農村の風景画のアートポスター。淡い朝日がやがて訪れる眩い一日を思わせる。
道夫はそれを眺めながら、心を慰めるしかなかった。
チャットルームに来訪者がないことを確認してから、気分転換に居間へと向かう。時刻は昼を少し回ったところ。母が仕事に出る前に用意してくれた昼食がテーブルに用意してある。おにぎりとお新香。そばのメモ書きに鍋の味噌汁も温めて一緒にどうぞとしたためてあった。いつも綺麗な字を書く人なのに、少し字体が乱れている。きっと疲れているのだろう。にも関わらずいつも通りに昼食を……。
ありがとう母さん。
道夫はほとんど母と顔を会わせない。気をつけてそうしている。母は自分を愛してくれていると感じてはいるが、それが続くかどうかは不安だから。
自分は醜く、頭も悪い、出来損ない。みんなが悪い僕を嫌うのだ。いずれ母からも嫌われる。そうして、母を加害者にしたくはない。なるべく会わないほうがいい。すぐには実行できないが、いつかはこの家を出て、誰もいないどこか遠くで、誰にも迷惑をかけずに一人で生きていくつもりだ。それが一番よいはずだ。
そう思いつつ、母のおにぎりを口に含むと、孤独に生きていく未来が怖くなる。今の温かさが胸にくる。
視界が滲んでいることに気づいた道夫は、あわてて袖口で目元を拭った。
スマホが震える。相談室に来室があったことを告げてきた。
「お願い助けて」
いきなりの切迫したメッセージに道夫は緊張した。たまにイタズラ目的で来訪する者がいるが、そのほうが幾分気が楽だ。悩みを抱えて辛い思いをする人がいるよりは、よほどいい。
「落ち着いて、事情を話してください」
「殺したくてたまらないんです――」
背筋が寒くなる。イタズラではない。と経験が告げてくる。
またこれだ。説明できない殺意。いったい何なんだ。
「――知らない人の姿が目に浮かんで、離れてくれない。殺したい。殺したくない。そんな恐ろしいことできない。でも殺したい。もう限界なんです。助けて、おかしくなりそう。すでにおかしくなっちゃったの? 怖いの。お願い」
なんて応えればいいんだ。
道夫のモットーは真摯な対応だ。心理学の知識はあるが専門家ではない。話すよりも聞くことに重点を置いている。それだけで解決することも多い。だが、この殺意絡みの相談に対しては道夫のやり方はまったくの無力だ。しかも今回の相手はこの種の悩みを抱える者たちの中でも特に切迫した状態にみえる。
これは、もう僕の手に負えない。専門の……
自分ができないことを他人に委ねて、
それで解決すると、本当に思っているのか?
かつて自分がプロのカウンセラーにかかった時の対応が記憶に蘇る――既存の病名に強引に当てはめられて、得体のしれない薬を処方され、これで解決と断じられた――カウンセラーの全てがそうだとは言わないが、そういう者もいるのは確かだ。なら……
「大丈夫です、僕が力になります」
数年ぶりに出た屋外は、いろいろ変わったようでいて、何も変わってはいなかった。自宅アパート近くのコンビニは名称が変わっていたが結局はコンビニで、駅へと続く商店街はいくつか店舗が変わった形跡もあるのにシャッター街、駅前の大型スーパーばかりに人が集まるのも変わらない。マスク姿の人が増えても人の流れは変わらない。青いマスクで醜い顔を隠していても、不自然ではなくなったが、彼らの中に自分は溶け込めない。
道夫は駅へと急ぐ。
望まれるままに相談者に会うと決めたが、これといった方策は浮かんでこない。何ができるかはわからない。だが、直接会って話を聞けば道が開けるような気がしている。いずれ、相談者にはもう余裕がなさそうだった。
とにかく急がないと。
最寄り駅から電車を乗り継ぎ、相談者の指定してきた駅へと急ぐ。駅前の広場が待ち合わせ場所だ。赤いパーカーが向こうの目印。こちらの目印は青いマスク。普段は避ける人混みに踏み込んで相談者を探す。
広場の角でうずくまるようにしている。赤いパーカーの女性がいた。私服だが、年の頃は高校生ぐらいに見えた。近づいていくとすっと顔を上げてこちらに目を向ける。
怪訝そうな表情。目を剥くようにして道夫を見やる。マスクの下の道夫の顔を見極めるかのように。そうして徐々に憎しみに溢れたような顔つきになっていった。
かつて道夫のせいで加害者にしてしまった人々の顔にも似ていた。だが、それよりもさらに酷い、害意の現れ。
一瞬、道夫はまた僕のせいで、と思いかけたが、相談者の彼女が直面していた問題に思考がたどり着く。
彼女の殺意の矛先は、僕、なのか?
飛び跳ねるように立ち上がった彼女が鬼気迫る表情で駆け寄ってくる。
逃げなきゃ。
思いはしたが、動けない。大概、道夫の体は言うことを聞いてくれない。
両手を突き出すようにして襲いかかってきた彼女の指が道夫の首にかかる。熱烈な抱擁のようだったが、そこに込められているのは恋でも愛でもなく純粋な殺意だ。
突然喉元を締められ、声も出ない。息もできない。
異変に気付いた周りの人々の中で、悲鳴があがる。すかさずスマホを向ける者もいる。
引き剥がそうとすると、彼女は宙に飛び上がって両足を道夫の腰に絡めてきた。全体重が道夫にのしかかってくる。重くはないが軽くもない。
スカートから荒々しく覗く太ももが、こんな時にも眩しくみえる。そんな自分を恥じる。
意識が遠のく。
「何をしているんだ。やめなさい!」
怒声に意識が引き戻される。制服姿の警察官が彼女を引き剥がそうとしていたが、苦戦している。
応援のもう一人が駆け付けて、やっと首から指が離れてくれた。
だが、彼女は完全に発狂したように、激しく身を捩っては警察官の静止を振りほどき、再び襲いかかろうとしていた。二人がかりでも完全には抑えきれていない。
「君、この場から離れて」
警察官の悲鳴のような叫びに促され、今度は頭より先に体が動いた。駅へと全力で引き返す。
背後で彼女が獣のような雄叫びをあげた。
帰り道のことをほとんど憶えていない。頭の中が真っ白だ。気づけばアパートの前にいた。鉄錆の浮いた階段を上り、玄関のドアを開け、放心したまま自室に向かう。自分の世界へ帰り着いてもなお、うまく頭が働かない。
なぜ僕に殺意が向けられた?
壁のポスターがなぜか朝日に見えない。
やっぱり僕が悪いから?
まさか他の悩んでいる人の殺意も、対象は僕、いや、僕のような悪い人間のために芽生える殺意なのか?
ポスターが夕日に見える。窓からも夕日が射している。
世界の自浄作用……。
ふと思いついた考えに、背筋が冷える。
暑くて汗も滲む陽気なのに体が凍える。
玄関で物音がする。一足違いで母が帰宅したようだ。物音が台所へと移動する。着替えもせずに夕飯の支度にかかるつもりらしい。
久しぶりに母さんの顔がみたい……。でも、怖い。
道夫の気持ちに応えるように、足音が近づいてくる。少し覚束ない足取りにも聞こえた。疲れているのかもしれない。部屋のドアのすぐ向こうで足音が止まる。一瞬だけ掃除機を動かしたような排気音が聞こえた。
なんだ? 今の?
コンコン。
ノックの音に疑問が消える。
母さん!
胸が熱くなる。体が温まった気がする。
道夫はすがりつくようにドアを開けた。
途端に、お腹が熱くなった。熱が喉へとせり上がってくる。
「ちが、なんで、こんな」
母が赤くなった手を震わせる。ふっと、糸が切れたように廊下に倒れた。
母さん、大丈夫?!
言おうとしたが、口から出たのは喉まで来ていた熱だけだった。安物の絵の具のような、冗談のような赤色が倒れた母に降りかかる。
お腹に目をやると、キッチンナイフの柄が生えていた。
なんだ、これ?
あの女の子に殺されかけてから、頭がうまく回っていない。代わりに目が回りそうだ。
しばらく辺りに赤を撒いてから、やっと道夫は状況を理解した。
ああ、そうか僕は刺されたのか、母さんに。
先の母の言葉が腑に落ちる。
――ちがう。なんで、こんな悪い人間が私の息子なの。
そう言いたかったのでしょう? そうだよね、母さん。
目まで熱くなる。
ごめんなさい。母さん。こんな醜くて、頭が悪くて、どんくさい、悪い人間でごめんなさい。母さんの息子がこんな僕でごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。僕は生きていてはいけないのですね。世界も母さんもそう思ったのですね。納得です。
そのまま意識を閉じようとして、はっと気付く。
このまま行くのは構わないが、これでは母さんが僕を殺したことになる。悪いのは僕なのに。
お腹を見る。母の犯した罪が痛々しい。
本来、僕が背負うべき罪なのに。
僕が悪い。傷口が悪い。監察医は傷口を見れば自傷か他傷か判ると聞いたことがある。これをこのままにして行くのはまずい。
半ば機能を失いつつある頭を、無理矢理に働かせる。いくら頭が悪くても今使わなければ意味がない。
傷を傷で隠してしまおう。
思い付いた。
時間はもうあまり無い。
道夫はただちに行動を起こした。
お腹からナイフを引き抜く。
「うぼぉぉぉ」
遠のきかけた意識を、雄叫びを上げて引き戻す。
これが人の出す声か? なんて醜い声だろう。まったく僕は最低だ。
「うごぉあああ」
怖気ずきそうな自分を鼓舞し、ナイフを自らお腹へ突き入れる。
「ぐごぉぉ」
痛い。でも、
足りない。叫ぶ。突き入れる。
足りない。叫ぶ。突き入れる。
遠のく意識を叫んで戻し、
怖気づく自分を叫んで励まし、
つくつくつくつく、つきいれる。
ポスター夕焼け、窓も夕焼け、世界の全てが真っ赤っ赤。
こんなに暑い夏なのに、どんどん寒くなっていく。
世界が暗くなっていく。
脳裏で今まで出会った人たちが、口々に道夫を罵り消えていく。母も罵り消えていく。
本当にごめんなさい。僕は悪い人でした。
悪い人にふさわしい最低の人生でした。それで許してください。ごめんなさい。
夜の帷が落ちるその瞬間、かつて自分がカウンセリングで救った、どこかの誰かの笑顔が浮かんでみえた。
優しく微笑んでくれている。
――ありがとう。

了

