『Baby』オーダー2012 #2(オーダー第2話)
※これはフィクションの小説です。登場人物や事件はすべて架空であり、実在の人物・団体とは関係ありません。
※軽い流血や戦闘描写がありますが、過激な暴力や性的表現は含まれていません。
「はあ」
堪えていたはずの吐息が漏れる。
いい……使えるわ、コイツ。
こうやって男に乗るのが私のスタイル。私の上には誰も乗らせない。
智樹は、歯を食いしばって我慢している。気を抜けばいってしまうから。
先にいくようなことがあれば、私がそれを許さない。激しく怒ると知っている。
「ん!」
体の芯が痺れるような感覚と共に、束の間の幸福感に満たされた。
すぐに智樹が後を追ってくる。情けない声をあげて呆けた表情をさらした。
笑える。その顔は嫌いじゃない。
行為を終えると、ベッドサイドのタバコに手を伸ばした。一本抜いて紙巻タバコを口に咥える。
電子タバコは気に入らない。いまいち吸った気がしない。燃えて尽きるやつがいい。
火を探していると、智樹が床に転がっていたライターを拾い上げてくれた。
「ん」
加えたタバコの先端を差し出す。智樹が苦笑しながら火をつけてくれた。
大きく吸って紫煙を吐き出す。煙があたりに広がっていく。自分が大気に散っていくようだ。
「凛花(りんか)、タバコ体に悪いよ」
心には良いんだよ。
智樹はたびたび禁煙をすすめてくる。彼氏ヅラしてんのが笑える。飽きたらおまえは捨てられるのに。まあ、しばらくは飽きそうにないが。
無視しようと思ったが、
「そうだな」
相槌をうってやった私は相当に良いやつだ。
また煙を吸って吐く。
智樹の部屋には灰皿がない。飲みかけのビールに吸いかけのタバコを押し込む。じゅっと小気味いい音がして、ヤニとアルコールが混ざった不快な匂いが鼻腔をくすぐる。
だが、嫌いじゃない。これは私の人生の匂い。
凛花はさっとベッドから立ち上がると、手早く下着を身に着け、つなぎを着た。
「泊っていけばいいのに」そう言う智樹を部屋に残して、彼のマンションを後にする。
外に出ると、夜風が心地よかった。春から夏へと移りつつある今の時分は凛花のお気に入りだ。巡り回る四季の中でも一番過ごしやすい気がする。まもなく暴力的に暑い夏が訪れるのだろうが、それもまた悪くはない。過酷な季節をひかえる心持ちは、殴り合う前の緊張感にも似ている。
マンションの手すりから、見下ろす夜の町はほどほどに騒がしくほどほどに穏やかだった。地震があったり海外でドンパチしてたり、スマホがやたら増えてきたりと色々ニュースは騒がしいが、自分の周りはこのとおり、おおむね平穏だ。たまに退屈にも感じるが、紛らわす手段はあるし、不満はない。
だが、ときおりむなしさに襲われることがある。今も少しそれが出てきていた。
気に入らない。
誰の力も借りてはいない、自分の足で歩いている、まわりの環境だって悪くない、それでいったい何が不満だっていうんだ。
ふと、ガキでも作れば変わるか。なんて考えが浮かんだ。
誰のガキを作れと?
智樹のヘタレ顔が浮かぶ。
まさか。それはない。
自分で自分がおかしくなって、思わず一人、笑った。
笑うと気持ちも軽くなる。むなしさもどこかへ行った。
軽い足取りでエレベーターへと向かい、乗り込んだ。
三崎凛花は運送業で身を立てている。自営だ。
人に頭を下げるのは気に食わない。だから、一人でやっている。
中学を出てすぐに家を離れて仕事につき、地味なバイトでコツコツ稼ぎ、合間に起業の勉強をしつつ、生活費を削って金を貯めた。そうして一台のワゴン車と幾らかの開業資金を手に、念願の起業を果たしたのが数年前。まったく頭を下げずに済むというわけではないが、下請けとして仕事を回してくれる大手の人間や、配達先の客に挨拶程度の会釈をするだけで済んでいる。希望通りと言える。
夢を叶えた、などと壮語するほどではないにせよ、我ながらよくやったと思っている。
だから、その日も精力的に仕事をこなした。おかげで、陽が傾くころには切り上げることができた。
自宅アパートの近くに借りている月極駐車場にワゴンを止めて、運転席から降りる。
苦労して手に入れた仕事のパートナーであり、少々地味ではあるものの愛車である白いワゴンに労いの目を向けつつ、
さて、夕飯はどうするか。
自分が望む仕事をして、食べたい物を悩むだけの余裕もある……悪くないはずなんだけどな。
そんな疑念を抱いた矢先、またむなしさが、ある日の記憶を伴って襲い掛かってきた。
二年ほど前。開業後やっと仕事が安定してきた、最も充実していた、あの頃――
国道の路上にワゴンを止め、荷物を片手に届け先へ向かおうとしたその時、あたりの騒めく気配に気づいた。
騒ぎの原因はすぐにわかった。自分より五つは歳が下であろう、制服姿の少女が路上に飛び出していたからだ。
ちっ、バカしやがって。
荷物を放り出して、助けに行こうとした、説教の一つでもくれてやろうと思った。だが、それはできなかった。動けなくなっていた。
少女めがけて走るトラックの、運転席の男を視界に捉えてしまったから。異様だった。意識を失っているのかと思うほど、瞳に意思が感じられないくせに、口元だけは大きく歪み。形だけは最大限の笑み。
なんだ、あいつは。
それを見た瞬間、凛花はそれまで味わったことのない初めての衝撃を受けた。後から考えると、あれは怯えだった。
凛花は自分が強いと信じている。心も体もだ。メディアではさも自分を誇ったような人間がたくさん出てくる。政治家やら芸能人やらスポーツ選手やら。彼らの業績を否定する気はないし、敬意を抱く一方で、恐れや妬みを感じたことはない。所詮は、自分でもできるであろうこと、環境が違い、努力の方向性を変えていたら、自分でも到達できたことだと感じる。さらには、もっとシンプルに、今の自分ですら、彼らのような権力者や有名人であっても、喧嘩で勝てる、と断言できる。もちろん、拳と拳のやつだ。サシの喧嘩で直接対峙したなら、優位は確実に自分にある。中には苦戦する相手もいるだろう、格闘家相手などさすがに楽な勝負にはならない。でも、そう簡単には負けやしない。いや、くらいついて、最後には必ず勝つ。今まで売られた喧嘩は全て買ってきた、一度も負けたことはない。男であろうが図体がでかろうが、苦戦することはあっても最後には勝った。相手の人数が多すぎる時は一時撤退を選んだが、その後に個別に襲って勝利した。根拠のない自信ではない、経験からくる確固とした自信だ。
だから怯えなど知らなかった。凛花の人生に怯えなんてものはなかった。
だが、あれを見たとき、はじめて、自分でもわからない感覚に襲われた。運転席でハンドルを握る、あれは全くの自然体だった。路上の少女が見えていないはずはない。どんなに冷淡で残酷な人間でも、他人の命を奪う可能性に直面すれば、必ず一瞬、躊躇する。経験上知っている。本気で凛花を刺そうしてきた、不良相手で幾度かみた。斬られて血を流す凛花を見れば、自制が必ず入った。だが“あれ”にはそんな気配が全くなかった。殺意も何も感じられない。無人の道を鼻歌まじりに走るような調子で、少女に向かっていた。人の形をしているのに、人に見えなかった。
――動けなかった。
そこへ追い打ちのように凛花を驚かせたのが、少女の雄姿だ。
凛花が怯えたそれに、あの子は中指を突き立てていた。
あんた、あれと戦っていたのか?
衝撃だった。自分より弱いはずの者が自分をも怖気づかせるような相手に、屈せず立ち向かっている。
あの子はその後、助けに入った青年ともどもに轢き殺されてしまったが、凛花にはあの子が負けたという気はしなかった。最後まで意地をみせつけ膝を屈しなかった。
あれこそが強さだ。
怯えて動けなかった自分より、はるかに強い。
敬意を抱いた。
一度、話をしてみたかった。
随分性格は違うだろうが、きっと気は合う。
そんな気がした。
だからこそ、動けなかったことが許しがたい。助けられなかったことが、許せない。
このザマでいったいどうして自分を強いと誇れるんだ? バカか、私は。
自分の生き方が間違っていたような気すらしてくる。
この記憶が表に出ないよう意識して忘れようとしていた自分にも腹が立つ。むなしいわけだ。
クソ、智樹に会いたくなってきた。会ってヤって紛らわしたい、この気持ち。
だが、それはそれで格好悪い。
凛花が唇を噛み締めていると背後から「逃げてぇ」と声をかけられた。
「はぁ?」
振り向くとスーツ姿の男がいた。三十前後、痩せ型で頼りない雰囲気。後ろ手に、何かを隠し持っているような素振り。
男を見た瞬間、凛花の中で警報が鳴った。
明確な敵意、いやもっとヤバいな、殺意だこれ。
過去に因縁のある相手、ではなさそうだ。まったく記憶にひっかからない。
「抑えられない、殺す逃げてくれ」
なんだなんだコイツは。ヤクでもキメてんのか?
言ってることが無茶苦茶だし、表情も目茶苦茶だ。目尻に涙を浮かべながら、悲しげな瞳で怒りに歯をむき出しにしている。
困惑のあまり一歩後ずさる。
わざわざ相手してやる必要もねえ、ここは退くか? でも、狙われ続けることになったら面倒くせえし。
男が後ろ手に隠し持っていた包丁を振り上げる。
笑えるぐらいに普通の、日常的な包丁だ。すぐそこで買ってきたかのようなありふれた代物。だが、それでも刃物。
見た瞬間に凛花の闘争心に火がついた。
逃げるのはナシだな。
光り物にびびって逃げたと思われるのは耐え難い。弱みをみせたら付け込まれるのが世の常だ。
まあ、こいつの状態で、そんな思考力が残っているのかは疑問だが。
「死ねやだぁ」男が奇怪な叫び声をあげ、切りかかってくる。
動きが遅い。殺気だけは一人前だが、それだけだ。
これじゃあ、その辺の中坊のほうがまだ……。
凛花は男の刃物を上体をそらして交わすと反動をつけて、左の拳で男の顎先を打ち抜いた。そうして飛びのくように距離をとる。
男は一瞬を動きを停め、怪訝そうな顔をした。が、凛花へ向かって歩を進めようとしたところで、糸が切れたように崩れ落ちた。
顎先への打撃で脳震盪を起こしたようだ。
「はい、おつかれさん」
あの記憶を思い出していたところだったから、無駄に警戒してしまったのかもしれない。
なんのことはない。ただの狂人かヤク中だったのだろう。
この辺、意外に治安わるいのか?
そんなことを考えながら、倒れた男を背に帰路につこうとした凛花の足が止まる。
背筋を氷でなでられたような感覚がした。
嫌な予感に振り向けば、男が何事もなかったかのように立ち上がっている。
こんなにはやく回復できるわけがない。
そんな疑問も吹き飛ぶほどの戦慄がはしる。
男は口元を大きく歪めていた。
目は白目を向いている。完全に意識が飛んでいるように見える。だが、口元だけが別の生き物であるかのように、薄気味悪い笑みを浮かべていた。
それに気配。さっきの男にあった殺気がうそのように消えている。今の男からは何も感じない。存在していないかのように。一日の終わりの始まり、仕事を終えて、自分の時間に戻っていく、夕刻の平穏な空気の中に、易易と溶け込んでいる。 凛花の心の中では、警報がかつてないほどに鳴り響いていた。
見た目はまったく違う、だが、凛花は確信した。これは、あれ、だ。
あの子が立ち向かった相手、凛花がかつて動けなくなるほどに怯んだ相手、トラックのハンドルを握っていたあの男。
あれの同類だ。
逃げるべきだ。確実にヤバい相手だ。
凛花が冷静に判断をくだしたところで、別の考えが大きく浮かんでくる。
ここで逃げたら、私は二度と自分のことを強いなんて信じられなくなる。
あの場で動けず、あの子を助けず、この場を逃げ出す。これでどうやって強い人間だと言えるのか。
あの子の雄姿が脳裏でまばゆく見える。
「いいだろう。あんたの喧嘩、不肖・三崎凛花が継いでやる」
私の強さ、あの世でしっかり見届けてくれ。
凛花が拳を構えた。
「かかってきな、バケモノ」
男の初動は全くの拍子抜けだった。さきほどと全く同じ動作で包丁を振るってくる。
様子見のつもりで、凛花も拳をふるい、顎先を打ち抜く。
男は一瞬動きを止めたが、すぐに何事もなかったように、再び包丁を突きつけてきた。
大きく飛びのいてかわし、距離をとる。
凛花は喧嘩では、必要以上に相手を傷つけないようにしてきた。軽傷で済ませて勝つ。それが最善だと思っていた。
でも、こいつは甘いやり方ではどうしようもないな。
割り切った凛花は、迅速に行動に出る。
懐に飛び込み、急所を連続で打ち抜く。
鳩尾、こめかみ、股間。
確実に効く箇所を選んで叩き込んだ。
急所への容赦のない攻撃の連続。
それでも、止まらない。
何度も繰り返した。
だが――
まったく効いている気がしねえ。
男は見かけは傷だらけだ。顔面は血まみれだし、肋骨も何本かいっているはず。だが、動きが衰えない。
逆に、攻勢を続ける凛花のほうが疲労で動きが鈍ってきていた。
それに、
「ずふぉ」
男が、異様に大きく息を吸う。
「ばふぉ」
大型重機みたいな呼吸。
この異様な呼吸以外は、忘れているかのように息をする気配がない。
おかげで、攻撃のタイミングが計りづらい。普段より無駄な動きも多くなる。
一方的に殴っているように見えるが、その実、追いつめられているのは凛花のほうだった。
この調子でやっていると先に膝をつくのは私のほうだな。
殴り続けたせいで両手に鈍痛がある。特に左の拳は骨にヒビが入っている気がする。
打撃はもうダメだ。となると絞め技か。なんか嫌な予感がするんだけどな。
男が悠々と凛花に向かってくる。
悩む時間はねえ、やってみるか、とりあえず。
男の刃をかわし、背後に回り込んだ凛花は男の頭を抱え込むようにして首筋を締めあげた。
完全に決まった、と思ったせつな、浮遊感に襲われる。
男は前に屈みこむようにして、凛花の体を宙に放り投げていた。
背中から地面に叩きつけられる。なんとか受け身は取れたが、痛みと衝撃で息が詰まる。男が覆いかぶさるように、包丁を振り下ろしてくる。
凛花は地面を転がりそれを避けると、慌てて立ち上がった。背中の痛みがひかないが、気にしてもいられない。
男に向き直った凛花は目を見開いていた。
男が凛花に振り下ろそうとした包丁が根本まで地面に埋まっている。
男は苦も無くそれを引き抜くと、また凛花へと足を進めてくる。
馬鹿げた膂力だ。やっぱり絞め技は不味かった。となると関節技か。組み付くのはリスキーだし、あの力じゃ簡単に振りほどかれるだろうが、無理やりほどこうとすれば関節が逝くはず。
目前にせまった男が刃を振りかざす。
まあ、やってみよう。
刃を避けるのも段々余裕がなくなってきていた。呼吸も荒くなってきたし、体の節々が限界を訴えてくる。
それでもなんとかかわして、包丁を持つ右腕を絡めて捻り上げる。案の定ふりほどかれたが、グギっと関節がイカれる音がした。
男の右腕がぶらりと垂れ下がる。
やっと勝ち筋が見えた。いやほぼ勝ちは決まった。後は残りの関節を油断せずじっくり攻めていけば……凛花の思考が止まる。男の右腕の筋肉が盛り上がるのが見えた。垂れ下がっていた腕が息を吹き返したようにピンと伸びる。
右腕の関節はイカれたままだ。それを周囲の筋肉で無理矢理補助している。多少動きはぎこちなくなってはいたが、凛花の体に刃を突き立てるには十分に見えた。
本当にバケモノだな、デタラメだ。
男が切りかかってくる。以前にも増して単調な動きになっていたが、疲労で動きが鈍くなった凛花にとっては十分な脅威だ。男が振り回す刃をかわしきれず、切り傷が増えていく。深手はないが、痛みはある。痛みが集中力を削ぎ、もらう傷がまた増える。最悪のスパイラル。
勝ち筋どころか負け筋が見えてきた。つなぎは裂かれてボロボロだ。流れる血でべたついて気持ち悪いし動きづらい。
正攻法ではどうにもならない。卑怯なやり方は性に合わない。もう逃げないと決めている。なら、ひたすらねばるだけ。チャンスを待つ。もう、ただの運任せだ。チャンスなど、こないかもしれない。だが、来るまで待つ。そして勝つ。
男がずばふぉとまた異様な呼吸をした。口の歪みがこころなしか大きくなる。
凛花は男を睨みつけながら、拳を構えなおした。
防御に徹しているものの、受ける傷が増えていく。思うように体が動かず、かわせない斬撃も出てくる。受けた傷のいくつかは軽症と呼んでいいのか迷うぐらいだ。特に太ももにもらってしまった傷口は少し不味かった。ますます動きが鈍る要因となっているし、出血の量も危うい。軽く目眩がしてきている。
スウェイバックで男の横薙ぎをかわした拍子に足がもつれた。
思わず尻もちをついてしまい声が出る。
「やばっ」
男が覆いかぶさるように飛びかかってきた。力の差はどうしようもなく、そのまま仰向けに押し倒される。男が凛花の上に馬乗りになった。
屈辱に凛花の顔が歪む。
こいつ、私の上に乗りやがって! まだ智樹も乗せてやったことねえのに。
まだ? 智樹? 自分でもなぜそんな思いがでてきたのか不可解で、窮地にも関わらず凛花は困惑した。
男が左手に凛花の胸元を押し付けたまま、余裕の動きで右手の包丁をくるりと逆手に持ち替える。そして、相変わらず何の躊躇もなく凛花の顔めがけて振り下ろしてきた。
両手でそれを防ごうとしたが、振り下ろされる速度をわずかに減衰させるのが精一杯だった。眼前にせまる刃を首をひねって必死にかわす。顔面に刺さるのは回避できたが、刃は左の肩口に食い込んだ。激痛が走る。痛みの中で、もう間もなく戦う力が尽きると実感した。
抵抗をやめた凛花の上で男が口元を歪めなら何度も包丁を振り下ろす。
そんな光景を幻視した凛花は怒りに身を震わせた。残る力を総動員して右手で男の股間を掴み上げる。一瞬、男が驚いたような錯覚を受けた。
「いつまでも私の上に乗ってんじゃねえ!」
そのまま力任せに頭上へ投げ飛ばした。
男がずずっと地面に顔を擦り付けながら倒れ伏す。その様を目線で追いながら、凛花は身を起こした。嫌になるほど体が重い。目も霞む。拳を構えるのすら辛い。両手をだらりと下げたまま、辛うじて立っている有様だ。
それでも勝利を求めて男を見据える凛花の脳裏に光が射した。
右手を支えに立ち上がろうとする男の伸びた顎、無防備な喉、地面に立てられた包丁の刃の向き、しばらく見せていない異様な呼吸。
やっと来てくれた、これが待ち望んだチャンス。
思うやいなや、凛花は倒れ込むように身を投げ出した。そして、前転から仰向けに倒れ込むような、渾身のかかと落としを男の後頭部へ叩きつけた。
肉を裂く音がした。
仰向けに夕焼けの空を眺めながら、凛花は自分の勝利を確信していた。
プススー。間抜けな音がする。
顔を起こして男を見やる。
喉元に包丁を食い込ませた男は、あの異様な呼吸をしようと足掻いていたが、喉元の傷口からわずかに空気を漏らすばかりで、間抜けな音を立てていた。
やがて男は全身を痙攣させた後、動かなくなった。
「はあ」
凛花は一息つくと再び空に視線を戻す。ツバメが二羽、先を競い合うように横切っていく。
夕空に心で語りかける。
私の強さ見てくれたか。
この勝利は、名もしれないあんたへのはなむけだ。受け取ってくれ。
凛花は満足して目を閉じた。
ほんの一時、気を失っていたようだった。赤い空はそのままで濡れた血も乾いた様子はない。それでも少しは体力も回復した気がする。
立ち上がるとふらついたが帰宅するぐらいは十分できる。
男を見下ろし、通報すべきか悩む。
すぐに手当てをすれば息を吹き返す可能性もある。喧嘩はおわったのだから、恨みっこ無しだ。情けをかけてやるべき。バケモノだが、一応は人間の姿形だし、人間扱いしてやったほうがいい気もする。
だが、こいつが病院などで目覚めたら。暴れ出したりすれば。自分のせいで自分のいない所で誰かが傷つくのは面白くない。
気の毒だが、このまま放置だな。まあ、自業自得だと思ってくれ。
凛花は男に背を向けると、自宅のアパートへと歩き出した。
足は重いが気持ちは軽い。帰宅して傷の応急処置をしたら、智樹のやつに会いに行こう。今まで以上に気持ちよくなれる気がする。思えば、これまではむなしさを紛らすためだけの行為だった。今なら、ひたすら二人の時間を楽しむためにそれができる。
ポケットをまさぐってケータイを取り出す。さっきの喧嘩の巻き添えで無惨な有様だ。液晶画面は割れている。二つ折りの軸が折れてコードが剥き出しになっている。
スマホにするか。チャラチャラした感じがして避けていたが、なんだか許せる気がする。
というか、まだ使えるのか? これ。
折れたケータイを慎重に支えながら、智樹に電話する。きちんとコール音がして凛花は感動した。
強いじゃないか、お前も。
すぐに智樹につながった。
「今晩、おまえんとこ行くから。は? 残業? すぐに切り上げて帰ってこい。気分がいいから上に乗せてやるよ。おまえのペースでやっていい。先にいっても許してやる」
智樹の歓喜の声が耳に心地よかった。
ついでに中に出させてやろうかな?
そうすれば、もっと喜びそうだ。
ガキーー子供を持つのも悪くない。智樹が嫌がれば、私一人で育てよう。私なら、そのぐらいできるはず、強い子に育ててやれる。
いい気分だ。いつもの習慣でポケットのタバコに手を伸ばしかけたが、思い直した。
別に吸いたくねえな。それよか甘い物が食べたい。疲労にはそっちの方がいい。
もうすぐ日が沈む。でも、凛花の中では温かい光が溢れている。
応急処置の包帯だらけで幾度か帰宅途中のサラリーマンにぎょっとされたものの、無事に智樹のマンションにたどり着く。エレベーターに乗って智樹の部屋の七階を押す。エレベーターにはミラーがついていた。白いワンピースに緑のカーディガン、包帯に目をつむれば、なかなか可愛い娘が写っている。
こんな格好は久々だ。智樹に見せるのは初めてだ。喜んでくれるだろうか。ドン引きされるんじゃないか。
きっと喜ぶよ。ミラーの女が笑う。そしてバッグから一口サイズのチョコレートを取り出して口に軽快に放り込むと、幸せそうに親指を立てた。
チン。
と鳴って扉が開く。
智樹はもう帰宅しているよな。できればまだだといいな。合鍵で中に入って、この格好で出迎えてみたい。
そうしてエレベーターを降りた凛花の耳に「ずふぉー」という排気音が届いた。ついで下腹に激痛が走る。白いワンピースが赤く染まっていく。見れば出口付近にうずくまっていた男が包丁を凛花の体に突き入れていた。
「ばふぉー」男の喉から血汁と共に空気が吐き出された。
こいつ、まだ……
「クソが」
身を引いて刃を抜く。ワンピースに赤が広がる。男を前蹴りで遠ざける。
ヒールなんか履いてくるんじゃなかった。蹴りづれえ。ワンピースも動きづれえ。柄にもないことをするんじゃなかった。
そうして距離をとろうとした所で足に力が入らなくなった。ふらふらと後ずさるうちに、廊下に立てかけてあった誰かの折りたたみ自転車にぶつかり、共々にもつれ合うように倒れ込む。自転車が派手な音を立てた。
返り討ちにしてやりたいが、今はもう余力がねえ。
這いずるように後ずさる。男はさすがに動きが鈍いが着実に凛花に近づいてくる。
誰かたすけ……
思いかけた言葉を凛花は慌てて打ち消した。
いやダメだ。誰にも頼るな、自分の力で戦え。最悪、勝てなくてもいい。だが負けてはダメだ。
凛花は男を睨みつける。
逃げるのは無理だ。足が動かない。拳も無理だ。力が入らない。あとできることはーー歯だな。口は動く。噛みついてやる。全力で。
「凛花? 来たのか? すごい音したけど」
言いながら智樹がドアから顔を出した。
凛花は総毛立つ思いがした。
予想だにしなかっただろう光景に智樹が固まっている。
「引っ込んでろ智樹。ドアに鍵かけて閉じこもってろ」
その声に智樹が凛花に視線をむける。その惨状をみとめると、彼の顔からヘタレの要素が抜け落ちていった。
待て智樹、妙な考え起こすな。おまえは弱いんだから。頼むから部屋に引っ込んでてくれ。
凛花の願いも空しく、智樹は雄叫びをあげていた。
「俺の凛花に何やってんだテメー!」
おまえのではない。
思いつつ、そんなに嫌な気もしない。
智樹が猛烈な勢いで男に突っ込んでいく。刃物など知ったことかと言わんばかりのタックルに男も床に倒れ込んだ。
マウントをとった智樹が、男を激しく殴りつける。
けっこうやるじゃないか。実はヘタレじゃなかったのかも。私が智樹のことよく知ろうとしてなかっただけかもな。
でも、それじゃあ私の二の舞だ。そいつは疲労を感じない。痛みもない。負傷しても気にも留めない。やがて智樹が疲れて形勢逆転。やはり私が戦わなくては。喉元を噛みちぎってやる。
二人のもとへ這いずって行こうとしたところで、智樹が蹴り飛ばされてきた。
男がよろよろと立ち上がろうとしている。
「逃げろ智樹、こいつの相手は私がする」
「何言ってんだ。おまえは動くな休んでろ。あいつは俺がなんとかする。すぐに救急車も呼んでやる」
似合わねえセリフだな。智樹。おまえ、まだ生きているだけでも奇跡なんだぜ……ん?
凛花は深手一つない智樹の様子に安堵する一方でひっかかりを覚えた。
智樹はお世辞にも喧嘩が強い方ではない。実際、勢いだけの乱暴な戦いぶりだった。殺そうと思えば殺せるチャンスがあいつにはいくらでもあったはずだ。にも関わらずーーああ、あいつは徹頭徹尾、私だけを殺したいわけか。智樹は眼中にない。さすがに至近距離にいれば警戒はするだろうが。
あ。
脳裏に閃きが走る。
自転車、智樹、廊下の手摺、私。
勝ち筋が見えた。
智樹の顔を引き寄せて耳打ちする。
「智樹、協力しろ」
「は? おまえは休んで……」
「黙って聞け。自転車を抱えて私から離れろ。そして、合図したらそれをあの死に損ないに投げつけろ。思いっきりな。間違っても私に当てんなよ。あいつを叩き落としてやる」
返事を待たずに廊下の手摺の元に這いずっていく。
男は予想通り智樹への警戒をといて凛花の方へと向かってきた。手摺に近づいた所で男の歩みを見ながらさらに這いずって位置を調整する。そうしてここだと思える場所で諦めたように動きを止めてみせた。
智樹の様子を確認したかったが、万一にも気取られたくはない。こいつの知性のほどはわからないが用心に越したことはない。たぶんこれがラストチャンスになるはず。
男が凛花の前に立った。凛花はあえて涙をこらえるフリをして男の顔を見上げてやった。
口の歪みが大きくなる。
こいつにはこういうところがある。命を奪う瞬間でも躊躇しないかわりに、余裕を見せる。自分の優位を楽しむかのように。
喧嘩しているうちに理解した。拳をまじえると相手のことがよくわかる。そしてそれがお前の命取り。
男がことさらにゆっくりと包丁を振り上げる。
「今だ! 智樹!」
男が一瞬驚いたように動きを止めた。
コイツ確かに知性があるな。
ついで飛来した自転車に胸元を強打され、男は手摺を背にのけぞった。
凛花はすかさず男の足を持ち上げる。満足に力が残っていないが振り絞る。
ここが私の生死の分かれ目だ。
駆けつけた智樹が加わって、一気に男の体が持ち上がる。慌てたようにバタつく両足が手摺の向こうの闇夜に消えた。
まもなく何かが潰れる不快な音がした。だがこの場の二人にとっては最高の音に聞こえた。
二人は手摺にもたれて、しばらく呆けた。
智樹が思い出したように抱きついてくる。
「死ぬな凛花」
痛いが悪い気はしない。
「死なねーよ、たぶん。それより痛いから離してくれ」
「ご、ごめん。あ! は、はやく病院。病院よばないと! スマホ、スマホは? 部屋だ! くそ! もう少しだけ待ってろ凛花。死ぬなよ!」
焦って変なことを言いながら、智樹が部屋へ駆け戻っていく。
さすがに疲れた。
静けさが戻った廊下で凛花は目を閉じた。
不思議な光景が目の前に広がる。
海の中のようだ。
赤ん坊が浮いている。
魚はおらず海藻もなく流れもないが、辺りは生命の気配で満ちている。
赤ん坊はサルのようだ。正直あまり可愛くはない。なのに、たまらなく愛しかった。持てる全てを捧げても構わないほどに。
うっとりと赤ん坊に見惚れていると、奥の海水に横線が引かれた。やがてそれが開く。突然現れた亀裂にすべてが吸い込まれていく。赤ん坊が少しずつ遠ざかる。やめろ。叫びたかった。でも、そこに私はいない。赤ん坊が飲み込まれる。生命が飲み込まれる。やがて何もなくなった空間で亀裂の端が吊り上がる。口元だけの歪な笑みが出来上がる。
凛花は慌てて目を開けた。
また気絶していたのか。
頬が濡れている。
泣いていた? この私が?
涙は今も流れているようだ。
エレベーターで見た、ミラーの女の声がする。
子供が欲しかった。強い子にしてやりたかったよ。
作ればいいだろ?
もうできないんだよ。
は? なんでだよ。
下腹の傷が痛む。
ああ……そういうことかよ……
「うえぇん」
情けない泣き声が口から漏れる。こんな泣き方、私はしない。そもそも、私は物心ついて以来泣いたことなどない。泣くような弱い人間ではない。
それでも泣き声がやまない。涙がとまらない。
「凛花! 大丈夫だ。救急車がすぐ来る。頭痛薬もってきたぞ。鎮痛剤がわりになるだろう」
部屋から駆け出してきた智樹に凛花は抱きついた。
智樹が持ってきたビールと頭痛薬が、廊下に転がる。
ビールで飲ませようとするな。
笑いたいのに泣くのをやめられない。
「智樹ごめんな」
「なんだ? なんで謝るんだ」
「私、あんたの子供つくれなくなった気がする」
「は? 子供? 何の話?」
「欲しかったのに、あんたの子供」
智樹は完全には理解していないようだったが、真剣な面持ちになった。
「俺は凛花さえ側にいてくれれば、それでいい。他に望むものはない。凛花だけでいい」
嬉しかったが結局涙が止まらない。強い奴でも泣いたっていい。もう、そう思うことにする。
智樹が抱きしめてきた。傷を労って随分やさしい抱き方だ。凛花は思い切り抱きしめた。智樹はヘタレじゃないとわかったから加減しなくていいと思った。
チン。
エレベーターが止まる音。
「もう来てくれたのか?」
智樹がつぶやく。
扉が開いた。
あり得ないはずだった。あの高さから落ちたのに。
男がいた。
腕や足を歪に曲げて立っていた。
首は九十度に折れ曲がり肩に乗っていた。
首元から骨を覗かせて、
横倒しの顔で口を歪ませて。
唇の端が吊り上がる。
「ずばふぉ」
排気音と共に首元から血煙が噴き出した。
――智樹。
了


