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武辺無常譚1『非業剣 虎落笛』

シリーズ概略

秘剣に魅入られた者、武芸に取り憑かれた者、死に場所を求める者。
本作は、己の業と妄執を抱えた武芸者たちを描く、一話完結型の連作時代剣戟譚です。
剣士たちは、それぞれの因縁に導かれ、山道へ、道場へ、関所へ、死地へと向かいます。刃が交わる一瞬に浮かび上がるのは、勝敗だけではなく、人が武芸にすがり、武芸に呑まれていく姿です。



 春先のお宮参りで目にした、境内の御池の鯉みたい。
 お幸はそんなことを考えた。
 調理場の血だまりで仰向けに倒れた、夫の佐吉の姿をみとめた時に。
 あんぐりと口を開け、焦点の合わぬ目をお幸に向けるその様は、まさに天神様の鯉だった。違うのは動かないことと、餌を食べることもないということだけだ。
 竈にかけられた鍋が吹いた。山づたいに来る猟師からたまさか手に入る鹿肉は、この宿では薬喰いの鍋として供している。寒の戻りのきつい春先には、ことに客受けのよい一品だが、少し火勢が強いようだった。
 竈の火を眺める。お幸はゆらりと土間の隅に山積みされた薪へと歩み寄ると、抱えられるだけ抱え上げ、竈にくべた。もっと燃えたほうがいいと思った。
 焔に食われた薪がぱちぱちと軽快な悲鳴をあげて、火の粉を散らす。そうして勢いを増していく炎をお幸はじっと見続けた。
 お幸が八丁堀での実家の用を済ませ、夫と営む八王子宿の旅籠に戻ってみれば、出迎えたのはそんな光景だった。

「こいつぁ、江戸から落ちてきた野郎の仕業かもしれねえな。手配の人相書きに似た男が、この宿場へ流れてきたって話は聞いちゃいたが。なんでも江戸表で派手な押し込みをやらかしたらしいや」
 佐吉の遺体の検分に来た御用聞きの男は、そう言った。
 言いぶりでわかった、この男は自分で下手人を追う気がない。江戸表に渡すつもりだろう。
 体の芯が燃えあがるのを抑えつつ、
「どのような方なので」
 と、お幸がたずねると、御用聞きの男は眉をひそめた。
「妙な考えをおこしなさんな」
 どんな考えを妙だと言っているのだろう。お幸は頭を悩ませる。
 このまま泣き寝入りをすること? それとも何事もなかったかのように、今まで二人だった暮らしを一人で営むこと? あるいは毎日、夫を思って泣き暮らすことか?
 さて、どれが妙な考えにあたるだろう。全てが、妙に思えるのだけれど。
 妙でない考えは一つしか浮かばない。
 お幸の脳裏で、竈で燃え上がる炎が、音をたてる。
 押し黙ったお幸の顔をしばらく覗き込んできた御用聞きは、ため息を一つ付くと、懐から人相書きの束を出して、一枚手渡してきた。
「宿場じゅうに配って回っていたとこだ。佐吉の旦那にも渡してあったはずだが、佐吉の旦那は勘づいちまったのかもしれねえな。あるいはそのせいで……」
 受け取ると、覚えのある顔が、そこにあった。
 お幸と佐吉の旅籠で、先頃一夜の宿をとった男だ。商売柄、客の顔はよく覚えている。それでなくても印象的な男だった。左の目元に刀傷があり、殺伐とした雰囲気をただよわせていたし、眼の光も獣のそれに似ていた。
 気に入らない。血ぬきをした鹿の目を思い出す。あれこそがこの男にはふさわしい。
 パチパチと火の粉がはぜる音がする。
「妙な考えをおこしなさんな」
 御用聞きはまたそんなことを言うと、逃げるように宿から出て行った。
 お幸はその背中を上目づかいに見送ると、帳場に足を急がせた。
「おかみさん、このたびはとんだことで。どうかお気をたしかに。あたしにできることがあればなんでも言ってください」
 帳場をまかせている男はやもめの子持ちだ。健気に働くよい男と思っていたが、殊勝なことを言うその口とは裏腹に、その視線には、獣じみた雰囲気があった。
 視線は、お幸の体を這うように嘗め回し、胸の膨らみで止まる。怖気がはしった。
 お幸は、男の言葉をぞんざいに受け流すと、宿帳を改めた。
 こいつだ。波瀬市之助。偽名か本名か、いずれ、今しばらくの間は、忘れずにいよう。滞在は一夜の予定となっていた。江戸から逃れてきたのなら、向かうは小仏関だろう。どのように関所を破るつもりかはしらないが、すぐに追えば関の前で捕まえられるかもしれない。
 自室へ急ぎ、長持を漁る。実家から持たされた小刀を見つけると、抜いて刃先を確かめた。心もとなかった。刀が欲しい。下級とはいえ武家である実家へ戻れば、一本ぐらいは持ち出せようが、その時間が今は惜しい。もたついて足取りを追えなくなれば、内に燃える炎はいつまでもきえなくなる。波瀬が縄につくのもおもしろくはない。
 まあ、やってやれないことはない。
 お幸は、小刀を胸に収めると、簡単に旅装を整え、旅籠を出た。
「おかみさん、どちらへおいでで」帳場から声がかかったがお幸は答えず、足を急がせた。
 人通りにまぎれ西へと通りを進む。
 しばらくは旅人も荷も絶えず、活気があったが、八王子宿を出るとまもなく、まばらな人影が道を行くだけとなった。人の声も馬の匂いも遠のきうすれ、道端の家の数も目に見えて減っていき、甲州道中はだんだんと山のほうへ、身を細めてゆく。
 道端に群れる菫が目に楽しいが、お幸はそれには顔をむけず、ただじっと少し前を行く浪人風の男を眺めていた。その男が腰に差した刀に目を奪われていた。
 おかげで視線に気づいたものか、男がお幸を振り返ったが、気づくのが遅れた。
「刀が珍しいか?」
 声をかけられ、火がゆれる。
「いえ……」
 押し黙ったお幸に、浪人が目をほそめた。
「お主の目、獣のごとくぞ。何故、かように殺気をまとわせておる?」
 何故? 何故もなにもあるものか。
 言葉にできず、なおも黙るお幸を素浪人はじっと見つめてくる。
 街道沿いの林でシジュウカラが鳴いた。
「いずれにせよ、心を鎮めるとよかろう。その気は破滅を招くぞ。特に女人の身の上ではな」
 女の身で、剣など覚えても仕方あるまい。ろくなことにならん。かつて、道場主の実父に言われた言葉。それが脳裏で蘇る。弟は気兼ねなく袋竹刀をふるえたのに、お幸は隠れてふるうしかなかった。剣の才は、誰よりも秀でていたというのに。
 胸の内の炎に油が注がれ、火勢を強める。
 お幸はふところに手を差し入れ、小刀の柄を握りしめた。
「その刀、お譲りくださいまし」
「なにを戯言を」
 お幸は夫に抱きつくかのように、浪人の胸に飛び込んだ。
 面食らう浪人に身をよせた、次の瞬間、浪人は目を見開き、お幸を突き飛ばした。
 後ろへとび下がり、その勢いを殺しつつ、血に濡れた小刀を構え、浪人の様子を伺う。
 浪人の開けた胸元から零れる血潮が、薄汚れた着流しをさらに汚していく。
 浪人は刀の柄に手をかけたが、それを見たお幸は咄嗟に踏みこむと、小刀を浪人の手の甲に突き立てた。
「ぐぬぅ」
 呻きつつも刀を抜こうした浪人の胸元へ、乱暴に引き戻した小刀を再び突き入れる。
 浪人は刀をあきらめ、お幸を押しのけようとする。お幸は思い人に身をゆだねるかのように、小刀を抱いたまま、すがりつく。
 逢瀬のような揉み合いの果て、浪人の体から力が抜けていくのを、お幸は感じた。そっと身を離す。小刀を抜く、骨を噛んだか刃先がこぼれていて、お幸は少し残念に思った。
 お幸から逃れた浪人は、よろよろと数歩あとずさった。そうして「あわれな」とつぶやくと、仰向けにどうと倒れた。
 気分が晴れる。今日の空のようだった。寒の戻りで空気は冷たくとも、胸は熱く心地良い。
 浪人は震える手で懐から土人形を取り出した。それを愛おしげに眺めると、押し抱くように息絶えた。
 お幸は悠々と浪人の元へ歩み寄ると、腰の刀を掴みあげた。
 幾度か、握りを確かめる。そして、手慣れた所作で抜き放ち、刀身を日差しにかざして見定める。波紋がうつくしく、手入れも行き届いている。悪くない。
 この男、身なりは卑しいが、剣士としてはそれなりだったのかもしれない。どうでもいいが。
 男の胸で血を浴びた土人形に目が止まる。子供の玩具。火の粉がとび、火勢があがる。いずれ佐吉さんとの間には、かわいい子ができたであろうに。胸の内の炎が燃え上がる。
 浪人の遺体を打ち捨てて、お幸は街道を西へと歩みをすすめた。
 しばらくして、背後から悲鳴があがり、手近の林から驚いた燕どもが飛び立つ様など目にしたが、どうでもよかった。
 春先の宮参りを思い出す。小石につまずきかけたお幸を、思いの外に力強い腕がささえる。見上げれば佐吉がいる。優しく微笑んでいる。お幸は佐吉と寄り添い歩いた道のりを脳裏に描いて足をすすめる。幸せな時間をくべるとよく燃える。お幸は奥歯を噛み鳴らし、火花を散らした。不思議なことに、火勢が増すほど焼き払ったときの心地が偲ばれ、口元が緩む。

 さて、いかにして仕留めてやろうか。それを思えば心はずみ、足取りも軽い。街道は先細り、上り下り曲がり別れていくが、目指すは小仏の関、迷いもない。
 そうして駒木野宿を越えると、川のせせらぎが聞こえてきた。小仏の関もほど近い。少しばかり開けた場所に出た。こじんまりとした茶屋がある。
 茶屋を見たお幸は、笑みをうかべて、足を止めた。
 お幸の視線の先には、茶屋の縁台に一人こしかけ、暢気に茶をすする男がいた。
 左の目元に刀傷があり、人相書きのままの姿。雰囲気こそ和らぎ、目には獣の光がない。穏やかだ。だが、それはお幸の夫の命を喰らい、くちているからだろう。波瀬市之助で間違いなかった。
 波瀬は茶を膝に置くと、遠くをみるように空を見上げた。春の日差しが降り注いでいる。
 なにを満喫しているのか。焔が燃え上がる。
 お幸は、刀の柄に手をかけると、粛々と波瀬に歩み寄る。
 波瀬がお幸に気づいたようだ。だが、刀をたずさえつつも女人。うすく笑いながら、気安く近づいてくる、お幸の意図がつかみかねるようで、間抜けな面をみせている。無害に見えるその面にさらに胸が熱くなる。
 波瀬をどう仕留めてやるか、思案は定まった。
 実家の道場、心形刀流に伝わる秘剣、虎落笛。
 これがもっともふさわしい。
 技の無残さに、父はこれを邪剣と呼び封じた。弟は使えぬ。だが、お幸は違う。お幸は息をするように容易く、この技を放てる。剣の才はこの日のために授かったとすら思えてくる。パチパチと火の粉が舞う音がする。
 波瀬が対応を決めかねているうちに、お幸は技の間合いに入れた。瞬間、お幸の体が躍動する。波瀬の元へ疾風のように詰め寄ると、毛躓いたように前のめりに体を沈めた。呆気にとられる波瀬の顔を見納めて、全身のばねを使い地を這う駒のように体をまわすと、その勢いのまま抜き打ちに切り上げの斬撃を放った。奇妙で大げさな残身を解くと、お幸は波瀬を見つめた。
 喉仏を斜めに裂かれた波瀬は、束の間何をされたかわかっていないようだった。童子のような眼差しがお幸に向けられていたので、やさしく微笑んでやった。
 徐々に波瀬の顔が赤く染まる。苦し気にのど元を掻きむしる。こひゅう、こひゅう、と波瀬の喉から空気が漏れるが、吸うも吐くもままならない。
 波瀬の体が縁台に倒れ、茶碗が落ちて割れて、零れて散った。
 波瀬はなおももがき苦しみ、下手な血ぬきをされた鹿のようにのたうち回る。小気味よさに胸の焔が静まっていく。
 お幸がおもしろくその様を見守っていると、「あんたぁ、しっかりしておくれ」と茶屋の中から旅装の女が飛び出してきた。
 もがく波瀬にすがりつき、首元の刀傷を塞ごうと手を差し伸べる。
 そんなことをしてももう無駄だ。そう言ってやろうとしたが、言葉は出なかった。
 胸の火が尽き、疲れが滲む。心地よくも空しく、しばらくは、何もする気になれない。
 やがて、波瀬が動かなくなり、女が泣き崩れるのをお幸はただ眺めていた。
 パチパチと火の粉が舞う音がする。
 火はもう消えたのに、なぜ。
 お幸が首をかしげると、波瀬の遺体に寄り添う女がこちらを見ていた。
 憎しみの炎がその瞳のなかに見える。
 女が波瀬の懐をあさり、匕首をつかみあげた。鞘を投げ捨て、刃を光らせる。
 パチパチと火の粉が舞う音がする。
 ああ、そうか。私は私を作ったのか。お幸の胸の中にもう火はなかった。
 女が匕首を構えて走り寄る。
 避ける気になれなかった。
 佐吉の顔を思い浮かべる。佐吉は悲しげなまなざしをお幸に向けていた。
 笑ってはくれないのね、佐吉さん。

 了


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