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しあわせ三部作 一『しあわせ地蔵尊』

あらすじ

しあわせを願う人々の前にある地蔵尊。
そこに祈れば本当に願いは届くのか。
救いを求める心と、祈りの裏に潜むものを描く短編ホラーです。


※これはフィクションの小説です。登場人物や事件はすべて架空であり、実在の人物・団体とは関係ありません。
※暴力的・性的なニュアンス、および不快感を伴う描写を含みます。

「ったく、あのくそ野郎が」
 路上に転がっていた空き缶を蹴り飛ばす。あたりが悪くて勢いのない飛び方になった。まったく気に入らない。気分が晴れない。
 もうすぐ桜の季節だというのに、肌寒い日が続いているのも気に入らない。おかげでこんな帰宅の夜道だと上着が欲しくなる。持ってきてないから、寒くてむかつく。給料は上がらないのに物価はあがって、満足に酒すら飲めなくなりつつある今の暮らしも、まったくもって気に入らない。
 当然、立て続けに面倒な仕事を投げてくる上司のことも完璧に気に入らない。禿のくせに身の程知らずに私に誘いをかけてきたのも気に入らないし、冷たく断った結果が現状につながっているのも気に入らない。禿で私に声をかけていいのはジェイソンステイサム様だけだ。それを知っておけ、クソ上司。あ、ヴィンディーゼル様もギリ許す。けっこうかわいい顔してる。
 とにかく、あの二人以外は、すべてが気に入らない。クソみてーな世の中だ。
「くそが」
 空き缶をもう一度ケリに行く。景気よく飛んでくれないと気分が晴れない。
「おらぁ」
 今度は満足の行く飛び方だったが、地面にかかとをひっかけてしまって、右のヒールが折れた。
 これで残りの帰路は右足つま先立ちが確定だ。
「くそがぁ! くそがぁ!」
 恨みをのせて高く夜空を舞った空き缶が、小汚い御堂に落下した。
 思いのほか大きな音が鳴り、それが止んだ後に戻ってきた夜の住宅街の静けさは、一段深まったような錯覚を受けた。
 御堂は地蔵堂だ。近所ではしあわせ地蔵と呼ばれて親しまれているらしい。本来は違う名称だったらしいが、そっちのほうはわからない。このあたりに家庭を持つ男とたわむれに不倫した時、そう聞かされた。あれの具合はいいが、ピロートークはゴミだったことをよく覚えている。ついでに金払いも悪かった。やる前の前座の食事がファーストフードとかありえねえ。そういえば、やつは浮気がばれて一悶着あったらしいが、自業自得というやつだ。いい思いができたんだから、満足して地獄を味わえ、ケチ野郎。
 地蔵堂を覗き込む。
 なるほど、しあわせ地蔵とはよく言ったものだ。
 普通の地蔵とは表情があきらかに違う。柔和な表情が常だと思うが、この地蔵は大げさなぐらいの笑顔だ。体つきもこころなしかふくよかで、恵比寿のような印象だ。
 大事にされているのだろう。お供え物もたくさんある。清酒にビールに清涼飲料。スナックも甘いものと辛いもの、一通りそろっている。
 ご満悦の表情にも納得だ。
 だが、こっちが苦労しているのに、他人が幸せなのは業腹だ。それは、相手が人でも物でも同じだ。
「おすそわけしてもらうぜ、地蔵さんよ」
 ビールを地蔵から奪って手に取る。スーツの裾で缶の口を拭って、プルトップを引き上げて、ぐぃっと一気にあおってやった。肌寒い陽気のせいで、ほどよく冷えている。悪くない。空き缶にして戻してやったあと、カップ酒の清酒をお土産にもらうことにした。こっちはすこし生暖かいのが不思議だったが、封が空いている形跡はないから、問題はない。つまみがわりに辛味のスナックの袋ももらって、一応は手をあわせてやった。
 ごちそうさん。たしかにあんたはしあわせ地蔵だ。ちょっとは気分がマシになったぜ。おかげさまでな。
 つま先立ちで帰るうちに、また、怒りがぶり返してきたが、清酒をなぐさめに帰宅した。
 一杯やれば意外にどうにかなるもんだ。それが世の中の摂理ってやつ。

 翌朝の目覚めは最悪だった。一杯でやめておけばいいのに、ついつい興がのってコンビニで酒を買いこんでしまった。床に散乱する空き缶のせいで、狭いアパートの部屋がいっそう狭く感じる。頭痛もひどい。ベッドから身を起こす。床に足をおろした拍子に、空き缶を踏み抜いた。飲み口に親指をひっかけてしまったらしく、軽い痛みが走る。クソが。問題の空き缶を蹴りとばすと、ビリヤードのようにあちこちで空き缶がぶつかりあって想像以上の騒音になった。頭に響く。最悪の目覚まし時計だ。
 クソがクソがクソが。
 脳裏で連呼しながら、洗面所に立つと、妙なことに気が付いた。
 頬が黒い。
 鏡に写る、自分の右のほほに、痣のような痕ができている。
 寝ている間にどこかへぶつけたか? 酔っぱらってたしな。
 触れてみるが、感触におかしなところはない。痛くもない痒くもない。なんの異変も感じない。だが、見た目はおかしなことになっている。
 まあ、メイクでごまかせないことはないが……なんなんだ、これ? 変な病気じゃないだろうな。
 不可思議な事態に束の間苛立ちを忘れたが、出勤準備をしているうちに、また不機嫌な気持ちがぶり返してきた。
 まったくロクなことがねえ、クソみてーな世の中だ。
 ぴくりと右の頬がうずいた気がした。だが、触れてみても、やはり別段なんの変化も感じなかった。

 この世界はゴミの山だ。そこに暮らす連中はクズの群れだ。
 その証拠に、朝の風景だけでも、どこを切り取ってみせたところで、いいところなど何もない。コンタクトでも落としたのか、女が床をはいつくばっている。ラッシュアワーでは、それはただの障害物。無視して避けていくクズの群れ。親切を装うクズもいくばくか。目線がときおり、屈む女のスカートの裾へ向く。隠せない下心。
 電車に乗れば、若いクズが大音量でゴミ音楽。黙って眉をひそめるクズどもに紛れて、ラッシュに揉まれて息も絶え絶えな老人一人。通勤電車で座れたやつはこの一時だけ勝ち組気分を味わえる。ふだんは負け組みじめな人生。せっかく勝ち得たポジションを人に譲る道理はねえ。席など誰も譲らない、当たり前。
 私はゴミ山のクズの中で生きている。だから、自分も自然とクズとなる。わかっている。私自身もクズだって。
 それでいい。変わる必要なんてない。変わったら、生きづらい。
 ――どこまでもクソだ、世の中ってやつは。
 右の頬がうずく。

 当然のように、職場もクソだ。
「ちっ」
 これみよがしに舌打ちしてやると、禿散らかした課長が顔を顰めた。
 気分を害したか? ハゲ。いいぞ、そのままストレスを抱えこんで死んでくれ。っていうか死ね。
 また山のように仕事が振られた。鼻紙にもならねえ無価値の紙クズの束が、デスクの上に積みあがる。 
 契約上、ここの派遣は残業代が出ない。残業を避け定時に帰宅を、と命じられている。そりゃあ、帰れるなら帰るわ、クソが。
 だが、帰ればデスクのゴミは増えるし、処理が遅れたゴミはあらたなゴミを引き寄せる。結局、毎日残業してでも掃除していくしかない。それが最適解になってしまう。
 つまるところ禿のようなクズのためにゴミを処理する毎日というわけだ。
 クソが。
 右の頬がうずく。

 昼下がり。午前の仕事がおしたせいで大分遅い時間の昼食となった。社員どもと時間がずれたせいで奢らせることができないのが腹立たしい。昨夜の酒代のせいで、現金はもとより電子マネーの残高もこころもとない。カードを使いだすときりがない。仕方なく給湯室でお茶をがぶ飲みする。トイレも近くなる。
 用を足して、鏡の前に立った時、思わず悲鳴をあげそうになった。
 右の頬の痣が、ほとんど顔全体に広がっていた。もはや、多少のメイクでどうにかなる問題じゃない。特殊メイクが必要なぐらい。
 これは、なにかまずい病気じゃないのか。性病の類? 一応セーフでやってるぞ。なにかの伝染病? いや、どっちにしろ。とっとと医者にかからないと不味いだろ。これ。
 禿に早退の許可を求めると、あからさまに渋い顔をされた。
「どこも悪そうにみえないけどねえ」
 いやいや、てめーの目は節穴か。痣があるだろ。クソ美人な私に不似合いなクソ痣がよぉ。
 顔の皮膚がうずく。
 さすがにここまで嫌がらせを受けるとは心外だったが、押し切って早退許可をもらい、オフィスを後にした。

 周りの視線が怖い。顔の痣をハンカチで隠すようにして街中を歩く。背に腹は変えられず、クレジットを切ってタクシーを使い、総合病院へとたどり着く。
 受付で症状を説明すると怪訝な顔をされた。見ればわかるだろうに。幾度か同じ説明をさせられてから、やっと、総合診療科に案内された。
 ったく、段取りがわるい病院だ。
 苛々と案内表示にしたがって院内を歩き、診察室へと向かった。
 室内に入ると、妙に熱っぽい眼差しでこっちを見る医師が着席を促してきた。
「それで、どこか具合がわるいのですか?」
「見ればわかるでしょう?」
 医師が眉をひそめた。
「すみませんが、わかりません」
 こいつ、私の顔がもとからこんなんだとでも思っているのかよ。こっちはクソ美人様なんだよ。痣なんかねーんだ。本来は。
「痣です。ほら、この顔の痣。もとからあったわけじゃないんですよ、これ」
「痣?――」
 医師は目を細めた。
「――目立つような痣は、あなたのお顔にはないですよ」
「はあ?! そんなわけねーだろ」
 思わず、地の声が出た。
 医師は、一瞬、驚いて身を引いたが、気を取り直して診療机の置き鏡に手を伸ばした。鏡をこちらに向けてくる。
「どうぞ、確かめてください」
 覗いてみると、顔全体に痣が広がっていた。以前はなかった痛みまで感じる。
「ほら、あるじゃないですか? 痣。痛みもあります」
 医師が立ち上がって、鏡をのぞき込む。そして、私の顔と見比べた。
「ありませんよ、痣なんて」
「はあ?」
 意味がわからない。こんなにひどい痣がなぜ見えない。
 絶句していると、医師が少し表情を険しくした。
「あなたには痣があるように見えるのですね?」
「当たり前だろ。あるんだから、見えるだろうが」
「なるほど、そして痛みも伴う、ということですね?」
「これだけでかい痣なら当然痛むだろうがヤブかよ、てめーはよ」
「なるほど、わかりました」
 医師はカルテになにやら書き込むと、改めて心療内科での受診を勧めてきた。

 これが幻覚だと? こんなにリアルに見えて痛みもあるのによ。
 結局、その後は心療内科へとまわされ、どこか変人扱いされつつ、ストレス性の症状でどうのこうのとそれっぽい診断結果を聞かされた。抗不安薬だの抗精神病薬だの怪しげな薬も処方された。
 ストレスをため込まないように、なんて助言もされた。アホか。
 そんなことができる人間が世の中にいてたまるか。ストレスなんざたまるいっぽうだ。金はたまんねーのによ。このクソみてーな世の中でストレスフリーで生きれるやつなんかいたら、そいつこそが狂っている。
 顔が痛む。もう疼きは痛みに変わってきていた。
 医者にかかって悪化してりゃあ、世話ねえよ、クソが。
 顔が痛む。さっそくに処方された薬をいくつか口の中に放り込む。
 苛々とかみ砕くと、予想以上に不味くて吐き気をおぼえた。
 クソが。顔がいてえ。

 帰路も面倒でタクシーを使った。カードを切る。今日はもうダメだ。歯止めが効かなかった。どこかで飲んで帰りたいが、顔の痣が気になる。鏡を見ても、もう自分の顔がわからないほどの痣になってしまっている。他人からは見えないのはありがたいが、これではメイクも直せない。痣はなくともまともに自分を飾れない。人前に居るのはおもしろくない。
 結局、また、コンビニで酒を買い込んでアパートに戻るしかなかった。またカードをつかってしまった。酒は人に奢らせるものなのに、二晩連続でこれだ。何をやっているのかと、自分に腹が立つ。クソ。顔が痛む。耐え難い。
 部屋に帰るや、昨晩の名残の空き缶を蹴り飛ばし、スーツのままでビールを煽る。痛みで、味も濁って感じる。クソが。苛立つたびに痛みが増す。
 処方された薬をさらに何粒かビールで流し込む。
 少しは効けや。まったく回復する気配がねえぞ。クソ。いてえ。
 何本か酒の缶を空けて、酔いはまわった。疲労も溜まっている。眠気もある。だが、痛みのせいで寝付けない。ベッドに寝そべっては起き上がって、追加でアルコールをとる。反復作業をいくらか繰り返したところで、諦めた。寝れるわけがない。痛みが耐え難い。痛みはもう首元にまで達している。もう自分の顔が崩れている気すらする。頬にいたっては存在すら感じない。痛みを通り越して無になっている。そのくせ、手で触れると元の顔はそのまま在るような感触だった。
 いったい今、私はどうなってやがるんだ。
 床の空き缶を蹴り分けて、洗面所へと進む。途中でよろめき転び、悪態が口をつく。痛みが増す。無が広がる。
 クソ、クソいてえ。
 這いずるように洗面所へ向かう。すがるように洗面台をささえに立ち上がる。
 鏡をみた。
 なんだよぉぉ。このざまはよぉぉ。
 鏡に映る自分の顔は人間のそれではなかった。
 まぶたは黒くしなびて異様に両目が大きく見える。濁った白眼に死人のようにくすんだ瞳。額は痣が深いしわのようであり、ほほの肉はくずれおちている。唇はどこかへ消えて、歯茎がむき出しに。歯はいずれも黒ずみ、ところどころは抜け落ちている。
 人の顔には見えなかった。少なくとも生きている人間の顔には。
 痣は首も覆いつくし、異様に立った喉ぼとけが辛うじて人の名残を見せている。
 ふざけんなぁ、なんだよ、これはぁ。藪医者がぁ。薬も全然効いてねえじゃねーか。クソがクソがクソがクソが。
 痣が生き物のように蠢き広がる。ぼろぼろと顔がくずれていく。痛みが広がり、消えていく。
 左目がどろりと落ちて、視界が片方ふさがった。
 ざっけんなぁ。なんでこんなことになってんだぁ。私がいったい何をしたってんだぁ。クソがぁ。
 右目もどろりと落ちた。何も見えなくなった。
 ふざけんなぁぁ。なんなんだよ。クソがクソがぁ、クソクソクソクソクソ――。
 ――痛みが消えていく。何も感じなくなった。苛立ちも消えた。何も考えられなくなっ……。

 まぶしい。光が射している。そっと瞼をあける。窓のカーテンの隙間をぬいた朝日が、薄暗い部屋をわって私の元まで届いていた。
 身を起こす。体が軽い。思わず微笑みが浮かぶ。鏡の中の私も微笑んでいる。顔にはなんの異常もみられない。痣などない。綺麗だ。なんだかメイクなどしなくても大丈夫な気がする。薄く口紅をのせるだけでいいのではないかしら。
 鏡の中の私が微笑を浮かべたままに軽く頷いた。
 そうよね。そうするわ。
 すべてが悪い夢だった気がする。痣はない。痛みもない。苛立ちもない。不満はない。世の中は素敵だ。人々は輝いている。私は満たされている。世界は満たされている。
 そう気づいた。
 悪夢は終わった。気分がいい。
 体は快調。たっぷり寝た気がするのに、まだ、朝も早かった。出勤時間前にシャワーを浴びた。いっそう気分が晴れる。全ての汚れとともに全ての悪いもの、その名残を流し落とせた気がした。
 空き缶を片付けて、部屋を出る。
 日差しが心地よい。朝の光景が輝いてみえる。足取りも軽くなる。スキップでもしたい気分だけれども、はしたないので止めておく。道行く人におはようと笑いかけながら駅へと向かう。恥ずかしがり屋が多くて、挨拶を返してこないのが可愛らしい。中には頬を染めて、挨拶を返してくれる人もいて心があたたかくなる。ありがとう。
 駅で泣いている子供がいたので優しく抱きしめて駅員に引き継いだ。通勤電車ではめずらしく席に座れたけれど、体調の悪そうな男性が目の前に立ったから、譲らせてもらった。感謝されたのが嬉しい。けれど、自分が正しいふるまいをしたかっただけだから、感謝されるのは筋が違うと思った。感謝するのは私のほうです。正しい行いをさせてくれて、ありがとう。
 オフィスに入って、「みなさま、おはようございます。今日もよろしくお願いします」と日頃の感謝を込めて深々と頭を下げたら、なぜか恐慌状態になってしまったのが心苦しかった。何人かは卒倒させてしまったのがいつまでも心に残り、私の胸を痛める。理由はわからないけれど、なにか私が粗相をしてしまったのでしょう。せめてのお詫びに真摯に働こうと、自分から課長様へお仕事をおねだりに行った。少し卑しかったのでしょうか。課長様はとても怯えてしまい、「悪かった。もう嫌がらせなんてしないから、殺さないでくれ」と土下座をされました。
 なにが悪かったのでしょう。なにが課長様を怯えさせてしまったのでしょう。わかりませんが、いずれにせよ、涙まで流し始めた課長様を放っておくことはできません。
 課長様の顔をそっと胸に抱いて差し上げました。そうして子供を慰めるように、優しく頭を撫でました。ですが、課長様の涙は止まりませんでした。私は自分の無力さに悲しくなりました。
「ママー」
 課長様が感極まった様子で抱きついてきたので、せめてものお詫びに抱き返して、課長様の頬に口づけをしました。
 けれども、課長様の涙はとどまるところを知らず。私の心は悲しみに沈みました。
 昼には課長様の悲しみは晴れたようで、昼食を共にいたしました。支払いを持とうとされたので、私は辞退し、かわりにごちそういたしました。泣かせてしまったお詫びのつもりでしたが、課長様はかわりに夕食は自分が払うと慈悲深いことをおっしゃり、退社後の夕食も共にいたしました。その席で課長様より交際を申し込まれました。以前はお断りさせていただいた記憶がありますが、その時の自分の気持ちが今は理解できません。課長様は見事に頭皮を禿散らかしておられ、それはヴィンディーゼル様を彷彿とさせます。年配であらせられながらも、可愛さも同時にお持ちであそばれるそのお姿には、胸の高鳴りをおさえることができません。快く承諾し、その夜は寝所を共にいたしました。課長様はまた号泣されてしまい、わたくしはまたその涙をとめることができず、己を深く悔みました。
 夜も更けた家路でのことです。わたくしは地蔵堂の前を通りかかりました。しあわせ地蔵と地元でよばれるお地蔵さまです。わたくしは、いつぞや粗相をしてしまったことを思ひ出しました。すぐに近場のこんびにえんすすとあに参り、清酒の瓶を買い、お堂の前へと戻りました。居並ぶお供え物の中に、清酒の瓶を加え、お手をあわせて、深く謝罪の祈りを捧げました。
 お地蔵さまはたおやかに笑っておられました。許された気がいたしました。ですが、わたくしの気はすみませんでした。わたくしはひととき、お地蔵さまに身を捧げることを決意しました。スーツを脱ぎ、下着を外し、月の無い夜の、人気の絶えた街中で、わが身をさらしました。そうしてお地蔵様に寄り添い、そのお体に舌をはわせました。風雨にさらされ、ついた汚れをわが身をもって拭ってさしあげたいと思ったのです。お体をなめ上げ、お顔に舌をはわせ、笑みをなすお口に唇をあわせました。お地蔵様はお喜びになられていると実感いたしました。わたくしも喜びを感じずにはいられません。なおも激しく石のお肌をなめあげていると、お供えした清酒の瓶が震える様が視界の端に映りました。
 お地蔵様が熱のこもった視線をわたくしに向けた気がいたしました。わたくしは、清酒の瓶を優しくなでました。そこにも舌をはわせ、口に含みました。たしかに清酒の瓶がふるえたのを感じました。さらに激しく嘗め上げ、口に包み、喉の奥まで、むせるほどに咥えました。お地蔵様のお体がふるえ、熱を帯びたのを感じました。さらにわたくしをお求めになられているのを感じて、わたくしは清酒の瓶を、わたくしの中に迎え入れました――。
 お地蔵さまは大いにお悦びになられ、わたくしも大いに悦びました。

 世界はしあわせに満ちております。人々はみな一様に善良であり、その心中は笑顔であふれております。そこで生きるのは幸福以外の何ものでもありません。日々、これ充実し、喜びに溢れ、眩暈がするほどにしあわせでございます。勤めにおいては、率先して同僚の皆様が嫌がられる作業を引き受けました。職場の皆様への感謝を忘れず忠勤に励みました。夜は課長様のお求めに全て応じました。課長様はますます精力的にわたくしをお求めになられますが、愛を受けるものの勤めとして、すべてに従う義務がございます。義務を果たすのは喜びです。しあわせです。精をかけられ、精を飲み干し、求められるままに不浄の穴もさしだしました。日々、疲労が積もっていきますが、それはしあわせの積み重ねでもあるのです。
 日を追うごとに帰宅の時間が遅くなるのは、充実していくしあわせの裏返しというものです。
 今宵の帰宅もずいぶんと遅くなってしまいました。すこしお尻も痛みます。愛の痛みです。心地よいです。課長様と愛を交わしたホテルから、駅へと向かう地下道を歩いていると、しあわせのあまり眩暈におそわれ、わたくしは倒れこんでしまいました。どうにも体が動かせません。体にたまった疲労のせいでしょう。ですが、それはしあわせの証でもあります。動けなくなるほどのしあわせに恍惚としました。倒れたわたくしを無視して行く通行人の皆様には感謝しかございません。わたくしのしあわせを邪魔しない、その心遣いにお礼を申し上げます。ありがとう。
 都会の残飯をあさっていたねずみが倒れたわたくしの足元にやってまいりました。かわいらしいものです。たくましく生きるその姿を拝見できるのはしあわせです。ねずみがわたくしの足を齧りました。痛みが走りましたが、しあわせです。わたくしの血肉が他の生き物の糧となるのは、しあわせ以外のなにものでもないのです。そうして、生き物は命をつなぎ、素敵な世界を担うのですから。群がるねずみが増えてきたのも、しあわせです。どんどん齧られるのは、しあわせです。痛みが増すのも、しあわせですし、そうして意識が遠のいていくのも、間違いなく、しあわせなのです。ああ、わたくしは、しあわせです。しあわせ、で、し、た……。


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