【掌編】『ついてる男』―タスポという素晴らしい制度への追悼作。
男は、深夜の住宅街を、いらいらと歩いていた。
昼休みの一服を最後に、もう半日ちかくもタバコを口にしていない。
今日は、やたらと忙しかったものだから、紫煙をくゆらす暇さえなかったのだ。おかげで大変に疲れてもいた。そのせいか、昼食後の一服で、最後の一本を吸ってしまったことを、すっかり失念していた。
最終バスで帰宅して、スーツを脱いで、ジャージに着替え、ほっと一息、さて一本。
そこでやっと気付いた。タバコがない。
男は舌打ちした。
男が住んでいる郊外のアパートは、家賃が安いだけに不便だった。
近くにコンビニ一つありはしない。駅までいけば、あるにはあるが、歩いて三十分はかかる。バスなら十分弱だが、通勤時間をのぞけば、大した本数は出ていない。そもそも、この時間では走っていない。
駅まで戻るのもバカらしく、タバコの自販機をもとめて徘徊していたものの、全くもってみつからない。そうして、すでに三十分以上は歩いている。これなら、駅まで戻ったほうが早かった。
「ちくしょう」
男は誰はばかることもなく大声でそう言った。あたりを支配する静寂が、男の叫びを飲み込んでいく。男は自分の想いが無視されたようで、なおのこと腹がたった。
ここまでくると意地である。
男は何が何でも自販機を見つけてやろうと、ひたすらに足を進めた。
ついには住宅街を抜けて、国道へと辿り着いた。
辺鄙な場所、深夜であっても、大型トラックが轟々と行き交っている。
賑やかになったことで男の気分が上を向く。一瞬の後、それは、さらに高揚した。
百メートルほど先に、自販機の群れを見つけたからだ。
男は、はやる気持ちのままに、足を急がせた。
行き交うヘッドライトの強烈な光の中に、複数の自販機が放つほのかな明かりが、優しさに溢れて見える。
男の顔がほころぶ。だが同時に、脳裏では一抹の不安がよぎった。
これで、飲み物の自販機しかありませんでした、ときたら、いったいどうしてくれよう。
自販機の仔細が見えてくる。
居並ぶ自販機は、飲み物が多かったが、一つだけ、タバコの自販機が、確かに、あった。
「よし」
男は、小走りに近づくと、タバコの自販機の前で笑った。自販機にキスでもくれてやりたい気分だった。
満面の笑みでジャージのズボンに手を突っ込み、財布をとりだす。そして、タスポを入れている定期入れを、胸ポケットから……。
男は凍りついた。
定期入れは、スーツの中だった。
「ふおおお」
男の悲痛な叫びが、トラックの騒音の中にも、はっきりと響いた。
仕方なく、男は飲み物の自販機で、炭酸飲料を買った。
一休みしてから、今度は大人しく駅前のコンビニまで行こう。もうそれしかない。しかし、一服できるのは、いったい何時間後になるというのだ。
男はいらいらと、缶のプルトップを開けた。
豪快にしぶきがあがる。
冷たい炭酸飲料が、男の渋面を存分に濡らした。
「ふおおお」
男はふたたび絶叫を上げると、怒りのあまり、缶を地面に叩き付けた。
炭酸飲料の缶が、中身をまきちらしながら、車道へと軽快に跳ねていく。ヘッドライトに照らされて空き缶と吹き出す炭酸飲料が派手に輝いた。通りかかった大型トラックが、つんざくようなブレーキ音を響かせ、急ハンドルを切る。そうして中央分離帯を乗り越えて、反対車線へ躍り出ると、折悪しくそこを走っていたバイクと正面から激突した。
爆音が響く。
「ふおおお?」
あまりといえばあまりのことに、男は悲鳴を残して、その場から逃げ出した。
「夢だ。あれは夢だった」
郊外のアパートの一室。タバコどころではなくなり、一人暮らしの侘しい棲家に逃げ帰った男は、じとりとした布団にもぐりこみ、ブツブツと呟いていた。
仄暗い部屋の中、置時計の蛍光塗料の文字盤が、淡い光を放っている。呟く男の合いの手に、秒針がコチコチコチと鳴っている。
男は思う。
もし、あれが現実だとしたら、自分は、罪に問われるのだろうか? 缶を捨てただけなのに、もし、死傷者なんかが出ていて、極刑、なんてことになったら……。
「いやいや、夢だ、あれは夢だった」
「夢じゃねーよ、ハゲ」
若い女の声が突然響いた。男は「うひ」と妙な掛け声をあげて、跳ね起きた。
浮かび上がる女の姿。タイトなライダースーツがメリハリのある体つきをいっそう際立たせている。濡れたようなショートヘアが、しっとりと女の額にへばりつき、そのすぐ下で切れ長の目が冷たく光っている。派手に薔薇があしらわれた耳のピアスがちょっと浮く。
唐突に現れた女は、端正な顔になみなみならぬ憎悪を浮かべ、男を睨みつけていた。
「う、うわわわ、ど、どちら様? ここは僕の部屋です。お部屋を間違えているんじゃ?」
「間抜けなこと言ってんじゃねーよ、おっさん。意趣返しにきてやったぜ」
「い、意趣返しって、ぼ、僕は女性に恨まれることをした憶えなんか、ありません。というか、あまり女性と口を聞いたことがありません」
「なめてんじゃねーぞ、コラ。あんな真似しといて、恨まれる憶えがねー、とはよく言えたな」
「あんな真似って……身に覚えが……」
「人が気分よく単車ころがしてるところを、よくもやってくれたじゃねーか。無事故有違反でならしてきた私の経歴にまで傷つけやがってよぉ。関東爆走連合『那雌瑠那(ナメルナ)』三代目総長、如月瑞希様に喧嘩売るとは、いい度胸だ。覚悟はできてんだろうな?」
「ああ! さっきの空き缶事故の?! ひいぃ、ごめんなさい、ごめんなさい。で、でも随分お元気そうじゃないですか。よかった」
「何がよかった、だ。ふざけてんじゃねーぞ、テメー」
「う、うひぃ、やっぱり元気じゃないですかー。ぼ、僕だって、さっきの事故で死人が出ていたらどうしようって、すごい気に病んでいたんです。だから、生きててよかったな、って、そう思っただけなんですー。本当にすいませんでした」
「生きててよかった? 察しの悪い野郎だ」
そう言った女から、表情が消えた。髪の合間からぬめりとした液体が溢れだし、女の顔を濡らしていく。やがて、額が割れ、端正な顔が無残に崩れていった。ぼろりと落ちた眼球が、視神経にぶら下がって、ぷらりと揺れる。
「ぐひぃえぇ」
男が叫び声をあげると、女は崩れた顔でぎこちなくニヤリと笑った。
「こういうわけだ、気合いれて祟ってやるから覚悟しな。とり憑いて存分に苦しませたうえで、ぶっころしてやるぜ」
「そ、そんなぁ。嫌だー、嫌だー」
「当然のむくいだ、あきらめな」
「い、嫌だー、し、死にたくねー。死にたくねーよー」
「勝手なこと言ってんじゃねぇ、こっちはテメーに殺されかけてんだぞ」
「悪気なんか、これっぽっちもなかったんですぅ。あなたみたいにかわいい人を傷つける気なんて、全くなかったんですぅ」
「か、かわいい人って……そ、そんなこと言っても無駄だからな」
女は、元の端正な顔つきに戻ると、少しばかり、はにかんだ。
「うえーん、死にたくないです。だって、彼女イナイ歴三十九年なんです。もうすぐ四十周年。童貞のまま死ぬのなんて嫌ですー」
「うわ、どんびき」
「許してー。許してー」
男は、涙を流して、鼻水を垂らしながら、女に擦り寄っていった。
「うわ、よるなよ、汚い怖い」
「何でもしますからー、何でもしますからー」
「何でもって、死んだ人間に、いったい何をできるっていうんだよ」
「心残りとかがあると成仏できないっていうじゃないですか。なんか遣り残したことがあったら、言ってください。なんとかします、何でもします、何でもしますからー」
「心残り? だから、そいつはオマエに復讐できていないことだハゲ。何でもするなら、大人しく憑かれろ、そして死ね」
「だから、それは嫌だー。他のことでー、他のことでー」
「他に心残りなんかねー……あ?」
「なんです? なんかあるんですねー、それでいきましょう、それでお願いします」
「あ、ああ。他にも、ある、にはあるな、心残り……いや、でも、ちょっと、これを話すのは、恥ずかしい、かな……」
「絶対秘密にしますから、というか、話したところで誰も信じてくれませんから、大丈夫です。恥ずかしがらずに教えてください」
女は頬を染めながらうつむくと、消え入りそうな声で言った。
春の陽射しもあたたかな、原宿は竹下通り。
道行く人々の表情も明るく、そこには穏やかで、それでいて賑やかな、平和な時間が流れていた。
だが、一人の悪寒、じゃなくて悪漢の出現により、平和は粉々に打ち砕かれた。
モーセの十戒の如く、人波が割れていく。
子供達は泣き、犬は吠えるのをやめ、外国人観光客は無言でカメラを下ろして郷愁にかられる。
花柄ヘアバンドにフリルのブラウス。同じくフリルふりふりのスカートから覗くおみ足には、豪壮たるスネゲが茫茫と。胸よりもグラマラスな胴回りはセクシャルに波打ち、肉感的な巨体を支えるエナメルのピンヒールは、今にも折れそうで、見る者の心が折れる。
ゴスロリファッションに身を固め、禿げた頭部を輝かせ、脂ぎった顔に満面の笑みを浮かべた男が、恐慌をきたす人々の前を、幸せそうにスキップしていった。
とある休日の、春もうららな竹下通り。そこには、隠れロリィタだった女の悔いを晴らすべく、己が身をささげる男(田畑耕作、三十九歳、独身、禿、嘱託社員)の姿があった。
――余談だが、
これを機に男は禁煙した。ついでに新しい趣味を憶えた。
女は病院に担ぎ込まれて後、長く危篤状態にあったが、数日後には意識を取り戻した。全快後は生き方を変えた。
そして、数年後、偶然に再会をはたした二人は、ファッションの話題で意気投合し、それがきっかけで夫婦となり、それなりに幸せになった。
意外に亭主関白になった。
了


【あとがき】
タスポなんて持ったことないけどね
いつ終わったのかも知らなかったよ
おつかれさま
