『キャンディぽっぷスーパータイフーン』|ショートショート集 86
母が逝った。凄い人だった。夫を早くに亡くし、女手一つで子供を三人育て、事業を起こし、一代で財を築いた。
私は本当に、この人の血を継いでいるのだろうか。
そんな疑念が湧くぐらいに立派な人だった。
でも、幸せだったかどうかは、わからない。
晩年は認知症で、介護頼みだった。介護も金で雇った外部の人間だ。子供も親戚も彼女の力になんてならなかった。
私は助ける気がなかったわけじゃない。みんなそうだったかもしれない。余裕がなかっただけだ。住まいが離れていたし、夫も子供もいる身だ。年老いた母のためにできることはほとんどなかった。
そう言い訳をしている。言い訳だ。わかっている。
母は、自分が築いた屋敷で、一人きりで旅立った。晩年は一人だったのに、死後は賑やかだった。屋敷には親族が集い、葬儀が終わってからも、相続の話で延々と揉めている。
見るに堪えなかったので、長女の私は母の位牌だけを受け継いで屋敷を後にした。
外は大地を焦がすような日差しが降り注いでいた。暦の上ではそろそろ夏も終わりなのに、そんな気配は微塵もなかった。
駅へと向かってアスファルトの道を歩いていく。久しぶりに着た喪服はサイズが少し小さく感じた。汗を吸った布地がぴたりと張り付いて気持ちが悪い。
帰ったら、夫に文句を言われるのだろう。あの人は母の遺産を当てにしている節がある。ろくに話もせずに位牌だけ持ち帰る私は、どれほど叱られることか。自分は仕事を盾に面倒ごとを避けてばかりなのに。
溜息をつくと、頭にコツンと何か当たった。私の頭で跳ねて、地面へ落ちかけたそれを反射的に掴んでいた。
飴だった。子供の頃に、よく食べた。私がぐずると母がよくくれたものだ。バター風味の飴。
空を見上げた。日差しがぎらつくばかりで、雲すらない。青々と広がるさまに吸い込まれそうな気がする。でも、吸い込んではくれない。
飴の包装をといて、口の中に放り込む。懐かしい味だ。でも、昔のほうが美味しかった気がする。
駅前でスーパーに寄った。夕飯の食材を買わないと。なるべく旬のものがいい。イサキの切り身があった。一番、鮮度がよさそうなものを探す。これと思って手を伸ばそうとしたら、割って入ってきた年配の女性に持っていかれた。気が変わって鶏の胸肉を買って帰る。こまぎりにして、冷蔵庫のあり合わせの野菜で酢豚風味の炒め物にした。鶏だけど。
高校生の息子と中学生の娘、そして夫と私の四人分を拵えて食卓に並べる。たたき胡瓜を副菜に、汁物を中華風のわかめスープ。
一通り整えたところで、スマホが揺れた。夫から夕飯はいらないとメッセージがきていた。コツンと屋根に小石があたったような音がした。
二階の自室にこもりきりの息子に、夕飯ができたと声をかける。登校拒否の息子は部屋にこもっていることが多いが、日によっては居間まで下りてきてくれる。だが、返事はなかった。今日はダメなようだ。お盆にのせて息子の部屋の前においた。
「夕飯、おいておくからね」
そうして、閉ざされたドアの向こうに呼びかける。返事はないが、気配はした。生きている。良かった。コツン。
娘は何をしているのか、いつまで待っても帰ってこなかった。メッセージを入れても既読もつかない。今日も外泊する気なのかもしれない。コツン。
一人で食事を始める。コツン。
静かすぎるのでテレビをつける。ニュースが流れる。海の向こうの紛争を現実感もなく眺めながら、酢豚風味の鶏を食べる。「うん、うまくできたね」と自分を褒めた。コツン。
ニュースが天気予報にかわった。生中継で都内の映像が流れる。羨ましいほど綺麗で若い女性の気象予報士が滔々と喋りだす。コツン。
スマホが揺れた。夫からメッセージが来た。
で、相続のほうはどうなった? 億はいくか? 資産家だし、楽しみだよな。コツン。
気象予報士の頭に何かがあたる。言葉が途切れる。彼女が不思議そうな顔をしている。コツンコツン。屋根で音が鳴る。ニュースで飴が降っている。
母は凄い人だった。それでも幸せにはなれなかった。コツンコツンコツン。
私は母に遠く及ばない。それで幸せになれるわけがない。コツンコツンコツンコツン。
屋根で激しく音が鳴る。テレビで気象予報士が悲鳴をあげて画面の外へ逃げていく。音はどんどん激しくなり、無人となったテレビ画面では横殴りの飴が激しく降り始めた。
何かが砕ける音が響く。自宅かテレビかわからない。窓ガラスが割れた。これは自宅のことだった。飴が室内にまで入ってくる。足元にいくつか転がってきた。
箸を置いて、それを一つ摘み上げた。包みをといて口に放る。
バターの香りがする。母の匂い。甘味の中にほのかな酸味がある。甘味だけでいいのに。
実のところ、私はこの飴があまり好きではなかった。
飴が止まない。止みそうにない。
了



Images by AI. Text by a human running on tears and caffeine.
