【掌編】『のらりくらり』
私はいつもそそっかしい。いくら年を重ねてみても、こういうところは直らない。
おみやげ物屋で、寄木細工の小熊のキーホルダーに見とれていたら、バッグがひっかかったものか、陳列されていた売り物を崩してしまった。
大きな音を立てて、クッキーの箱が床に散らばる。店員のおじさんが眉をひそめるのを見るにつけ、おろおろとしてしまう。
お父さんがそんな私に近寄ってきたので、思わず体が強張った。
それを察したらしいお父さんが歩みをとめた。店員に向き直る。
「お宅の商品は生きがいいですね」
お父さんはそう言うとクッキーの箱を片付け、ついでに一つをレジに持っていった。
お父さんと呼んでいるけれど、彼は私の夫。
店員は途端に愛想のよい笑顔を見せる。
「あ、あの……お父さん、これもいいかしら」
私がおそるおそる小熊のキーホルダーを差し出すとお父さんはにっこり笑って受け取ってくれた。
「これもください」
「毎度」
店員は私にも笑顔を向けてくれる。
小熊は丁寧に仕上げられていた。滑らかな手触りで気をぬくと手のひらから滑りおちそうだった。手放さないように握りしめる。
金婚式を迎え、私達は旅路にいた。結婚記念のお祝いに、毎年行く先は決まっていて、節目といえどもそれは変わらない。変えたいとも思わない。
「春の海、終日のらりくらりかな」
「春の海、終日のたりのたりかな、でしょ? お父さん」
伊豆の高原から海原を見下ろして、お父さんと私は寄り添っていた。天気がよくて伊豆七島がしっかりと見通せる。
正面を見つめる彼の横顔には、深い皺が刻まれている。
もうおじいちゃんよね、本当に。そう思うと、少しおかしかった。
穏やかな表情でお父さんは遠くを眺めている。
私はその視線を辿って、同じ物を見ようとする。
あなたをお父さんと、ややこしい呼び方をするようになったのはいつの頃からだったか。
もう随分と昔のことであるはず。
たしかあの子が幼稚園に入った頃からだ。自分の枯れ木のような手を見れば、過ぎた歳月を自覚させられる。けれど、私にはそれがつい先日のことであるようにも思えてくる。
「ねえ、あなた。悪いんだけどなんだか私、調子悪くて、今日の陽一のお迎え、お願いできないかしら」
電話の向こうで彼は不機嫌そうな声を出す。
「無理だよ。託児所のお迎えって八時までだったよな? そんなに早く帰れるわけないじゃないか」
「そう……よね、ごめんなさい」
「あまり会社へ電話してくるなよ。忙しいんだよ、こっちは。疲れているんだ、家のことはそっちでやってくれよ。それと、俺のことはお父さんって呼ぶようにしてくれって頼んだじゃないか」
陽一が私を真似て、「あーた」と呼ぶのを彼は気にしていた。彼はどうしても息子からお父さんと呼ばれたいらしい。私がそう呼べば、たぶん、陽一もそう呼ぶ。だから、私も、お父さんと呼ぶようにと言いつけられている。だが、どうにもしっくりこない。どうしても、私も陽一もあなたと彼を呼ぶことが多かった。
私にしたって、彼を真似た陽一から、久恵と名前で呼ばれているが、彼ほどは気にしていない。
その日は、朝から熱っぽかった。薬でごまかしてパートには出たものの、帰る頃には立っているだけでつらかった。帰宅しても体が重く、陽一を迎えに行かなくてはならない時間が迫ると、眩暈を覚えるほどになっていた。
すぐにでも床につきたい気分だった。だが、頼みの綱の夫に断られてしまうとどうしようもない。陽一を預けている託児所までは、車で五分、徒歩だと三十分弱といったところ。私は一瞬悩んだが車のキーを持つと自宅を出た。
家へと向かう車の中で、陽一はご機嫌だった。助手席で高い声を弾ませて、今日一日がいかに楽しかったかを話している。私は、適当な相槌を打ちながら、ハンドルにしがみついていた。
「ねえねえ、久恵。今日さ、あーたは早く帰ってくる?」
この調子だと、また彼の機嫌が悪くなるな。
そう思いながら、右折しようとハンドルを切るとフロントガラスに強い光が飛び込んできた。
ぼやけた視界の中、誰かに車から引きずり出される。赤いランプが煌いて、ひどい喧騒の中にいる気がしたけど、何も聞こえてはこない。
最後に見たのは、ぐったりとした小さな体と、その胸につけた熊の顔を象った、託児所の子供に配られるバッジ。
よういち。
赤く染まった熊の上に、拙く愛らしい字が乗っていた。
――手を伸ばす。硬く冷たいプラスチックの感触だけが指先に残った。
病院で目覚めたら、陽一との別離を知らされた。
額を何針か縫ったものの、軽症ですんだ自分がうらめしい。逆なら良かったと心底思った。
意識を回復した私を待っていたのはあらゆる見知った顔からの非難の声だった。彼は、涙ながらに私を罵り、その場に居合わせた私の両親もそれを咎めはしなかった。そして私も彼の気持ちと同じだった。私は自分で自分を罵っていた。
なぜ、対向車に気付かなかったのか。いや、そもそも、なぜあの時、車を使ったのか。
バスを使っても良かったし、タクシーを使うという手もあったではないか。
なにより、どうして私はひとり生き残ったりしたのだ。
「お父さん、いってらっしゃい」
そう言った途端、彼の平手打ちを浴び、玄関に倒れた。
彼は肩を震わせながら、出て行く。
おかしな話だ。以前はどんなに意識していても、つい、あなたと呼んでしまっていたのに、今は気を抜くとすぐにお父さんと言ってしまう。
私は頬をさすりながら、居間のソファに座り込んだ。
テーブルの上には、離婚届が置いてある。
彼のサインは既に入っているが、私は躊躇していた。
事故以来、彼は頻繁に手を上げるようになった。私は常にあちこち痣を作っていて、そのせいでパートも続けられなくなった。
事故直後は、なんとかごまかせもしたが、その後も直るどころか増え続ける私の痣を見て、店長は申し訳なさそうに言ったものだ。
「うちも客商売だから、本当に気の毒ではあるのだけれど」
彼の暴力は目に余るのかもしれないが、悪いことではない気がした。痣に触れると痛みで心が安らぐ。
離婚届に判を押すことが躊躇われた。でも、これは自分勝手なことなのだろう。離婚届を眺めているとそう思った。そこに力強い字で書かれた彼の名前を見るとそう思えた。
急かされるように、そこに自分の名前を書いた。手が震えて、陽一みたいに拙く、でも少しも可愛くない字になった。
判を押したら、上下が逆様になっていて、ひどく気が沈んだ。
丹精込めて、彼が好きな肉じゃがを夕飯にこしらえると、包丁を持って風呂場に向かった。
このところ、掃除をしていなかったせいで、ところどころにカビが目立つ。
気になってしまったので、念入りにお風呂掃除をしていたら、西日も傾いてきた。
新しく湯を張ったお風呂に入った。薬剤の匂いの残った浴槽は、なんだか気分を癒してくれる。傍らに包丁が置かれている様子はなんだか滑稽だ。
湯船の中で体をさすると、お腹の傷に指先が触れる。難産だった陽一の帝王切開の時の傷。
綺麗にした体を風呂場の鏡に写して見ると、眼を背けたくなった。あちこち痣だらけで、額とお腹には縫合痕。でも、なんとなく満足した。がんばって生きたんだという気がした。もう十分だなとも思った。もう意味もない。もういない。
包丁を手に取り、左手首に思いっきり押し付ける。
これは、がんばった私の最後の傷。
きちんと赤い血が溢れるのを確認すると、浴槽の中に戻って目を閉じる。
夜の海に沈んでいくような気分。体が少しずつ重くなり、心がだんだん溶けていく。息苦しくないのが救い。
彼の声が聞こえた。ずいぶん沈んだ気がするのに。
何と言っているのかよくわからない。
すごい力で腕をつかまれた。ぐいっと体があがっていく。深い海から力づくで引きずり出される。
目を開けると壮絶な顔の彼がいた。あまり見たことのない表情だった。泣いているのか、怒っているのか、よくわからない。彼の表情は全て見たと思っていたけれど、自分の知らない顔が、まだあったんだと驚いた。
それから彼は、熱心に勤めていた会社を辞めた。給料が安くても、自分の時間を多く持てる職場を選んで再就職した。そして、仕事以外のほとんどの時間を、私と過ごすようになった。
彼は二人の判の押された離婚届を引き裂いた。そして、
「なあ……」
何か言いたげに、口を開いては黙り込む。そんなことが多くなった。
言いたいことをはっきり言う人だったのに、どこかへ言葉を置き忘れたみたいになっていた。
好物も変わったようだった。肉じゃがに手をつけなくなった。なのに、作るなとは言ってこない。少しだけ顔をほころばせる。そうして食べずに見ている。
彼はあの夜以来、私に二度と手を上げなかった。陽一の名を口にすることもほとんどなかった。ただ、私が座れば隣に座り、黙って湯のみを差し出し、夜中にうなされれば背をさすった。
「なあ……」
都度、何かを言いかけるが何も言わなかった。
ある日、会話のない時間を二人で過ごしているとき、テレビの落語番組が流れた。
思わずくすりとしたら、彼がいつか見たような壮絶な顔で私を見ていた。
彼は言葉を唐突に取り戻したみたいで、ひどくおどけた滑稽な人柄に変わってしまった。
出会った頃とはだいぶ違ってしまったけれど、彼とこうして生きてきた日々は、そんなに悪くなかったのかもしれない。
そうして、陽一の弟が生まれ、いつしか孫までできた私達は、そんなに悪くないのかもしれない。
そうは思うのだけれど、おみやげ物屋で買ってもらった小熊のキーホルダーを握り締める。小さくて滑らかで手に馴染む。目頭が熱くなってくる。
風が頬をなでていった。高原の春の息吹は清く冷たい。
お父さんはちらと横目で私を見ると、私の肩を叩いた。思わずびくりとしてしまった私に、大丈夫とほほ笑みかけてきた。
あらためてそっと肩に手を添えると、誘うように、海の向こうへ視線を戻す。
そして、ぽつりと同じ言葉を口にした。
「春の海、終日……のらりくらりかな」
了


