【読切短編】こととひ庵の小さな奇跡⑦オーブが見えた日
写真に丸い光が写ることがある。オーブと呼ばれる。
「光の反射やろ。」
「水蒸気やろ。」
「精霊や。」
さまざまに言われる。
浅井真由が見たオーブは、こんな風だった。
ちりん。
占いこととひ庵の入口で、鉄の三日月を吊るした風鈴が、澄んだ音を立てた。
今年三十五歳になる浅井真由が、少し緊張した面持ちで暖簾をくぐった。
彼女は京都に本社のある、老舗和菓子会社のお客様相談室で働いている。
「早く、正確に、丁寧に。」
それが職場で教えられたモットーだった。
困っている人の話を聞く仕事なのに、いつの間にか相手の気持ちより、正しい対応をすることばかり考えるようになっていた。仕事を終える頃には、心まで杓子定規になっている気がした。
だから休日になると、一人で近所の京都の町を歩く。
八坂神社、円山公園、産寧坂、祇園の路地・・・。
町並みをデジカメやスマホを持って、撮影しながら歩いている時間だけは、心が静かになった。
そんなある日、錦の天神さんで撮った写真を見返していて息をのんだ。一枚だけではない。五枚、十枚・・・。淡い金色や白い丸い光が、あちこちに写っている。
レンズを拭いても、カメラをスマホに替えても写る。
「もしかして・・・心霊写真?」
不安になった真由は、知人から聞いていたこととひ庵を訪ねた。
「いらっしゃい。」
奥のブースの女性占い師が、穏やかに迎えてくれた。
「ちょっと写真を見てほしいんですが。」
真由はスマホを差し出した。
占い師はゆっくり画面を動かしながら眺め、やがてふっと笑った。
「怖かった?」
「はい・・・。」
「怖がらんでもええよ。」
「え?」
「この光は、悪いもんには見えへん。」
そう言ってスマホを返した。
真由は少し肩の力が抜けた。
「オーブって、本当にあるんですか。」
占い師は少し考えてから答えた。
「あるとも言えるし、ないとも言える。精霊いう人も、スピリットいう人もいる。」
「本当はどうなんですか。」
「見える世界は、人それぞれやからね。」
そのときだった。
店の前を、透明な白いキツネが静かに横切った。身体の向こうには先斗町の石畳が淡く透けている。尻尾だけが、風に揺れるようにゆっくり上下していた。
気がついた真由は慌ててスマホを向けた。シャッターを押す。画面には誰も写っていなかった。
「また・・・。」
占い師が微笑む。
「あの子は写りたがらへんから。」
「先生・・・。」
真由はためらいながら尋ねた。
「今のキツネ、見えたんですか。」
占い師は静かにうなずく。
「昔は見えてへんかった。」
「そうなんですか。」
「右目を悪うしてね。」
初めて話すように、ゆっくり続けた。
「十年ほど前、黄斑上膜いう網膜の病気になったんよ。」
「右目でものがゆがんで見えるようになってしもた。」
真由は黙って聞いていた。
「その頃は、この仕事を続けられるんやろかって毎日泣いてた。目が悪うなったら占い師は終わりやと思ってた。」
「そんな・・・。」
「でも、恩師に言われたん。」
「『見えへんもんを嘆くより、見えるもんを育ててみなさい』って。」
「それから毎日、瞑想したの。」
「心を静かにして、額の真ん中、第三の眼を意識する訓練を続けた。」
真由は思わず額に手を当てる。
「何か月も続けているうちに、不思議なことが起こった。」
「目では見えへんもんが、分かるようになったん。」
「オーラとかですか。」
「オーラが見えるようになる人もいるね。」
占い師は優しく微笑んだ。
「今も右目は悪いまま。」
そう言って額を指さす。
「でもね。こっちで見ることが増えた。」
真由は鳥肌が立った。
「だから、人の雰囲気や心の状態が、前よりよう分かるようになった。」
「目の病気がきっかけで……。」
「そう。」
「人生は不思議やね。」
「失った思たもんが、新しい贈りもんになることもあるし。」
帰り道。真由は鴨川の土手を歩いていた。夕焼けが水面を赤く染めている。
ふと立ち止まる。少し先に、あの透明な白いキツネがいた。
身体の向こうに川面が透けて見える。尻尾が静かに揺れている。
その周りには、小さな金色の光がいくつも浮かんでいた。
写真ではない。オーブが自分の目で見えている。
真由は慌ててスマホを向けた。
キツネは写らなかった。
けれど、金色の丸い光だけはいくつも写真に残っていた。
翌朝。真由はいつものように会社へ向かった。
いつも笑顔で元気な先輩の麻美が、給湯室でほんの一瞬、表情を曇らせた。
以前の真由なら見過ごしていただろう。
「麻美さん、大丈夫ですか?」
その一言で、麻美の目に涙があふれた。
「誰にも気づかれてへんと思ってたのに。」
母親の介護と仕事を両立しながら、限界まで頑張っていたのだった。
真由は何も解決できなかった。
ただ隣に座り、話を聞いた。
帰り際、麻美は笑顔で言った。
「聞いてもらえただけで、また頑張れるわ。」
その後ろ姿を見送りながら、真由はふと思った。
あの日、鴨川で見た金色の光。写真に写ったオーブ。
あれは、精霊だったのだろうか。
それとも、光の反射だったのだろうか。
もう、どうでもよかった。
人は誰でも、心の奥に小さなオーブを持っている。疲れているときも。悲しみを抱えているときも。
誰にも言えない孤独の中にいるときも。
その光は決して消えてはいない。ただ、自分でも見失ってしまうことがあるだけなのだ。
そして、その光に気づいてくれる人が一人いるだけで、人はもう一度前を向いて歩き出せる。
オーブが見えるようになったから、人が変わったのではない。
人の心の小さな光に気づけるようになったから、世界が違って見えるようになったのだと思った。
閉店後のこととひ庵では、占い師が窓を閉めていた。
透明な白いキツネが路地を静かに歩いていく。
向こうの町家が淡く透けて見える。足音はない。風もない。尻尾だけが、やさしく揺れていた。
占い師は小さく微笑んだ。
「今日も、姿を見せてくれてありがとう。」
キツネは月明かりに溶けていく。
その周りには、小さな金色の光が静かに舞っていた。
光の反射なのか。精霊なのか。
それとも、誰かを見守る優しい心なのか。その答えは分からない。
ただ一つ、分かることがある。
本当に大切なものは、目だけでは見えない。
心が静かになったとき、初めて見えてくるものがある。感じられるものがある。
ちりん。
鉄の三日月をぶら下げた風鈴が、小さく鳴った。
